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さもゆ
2024-11-18 09:08:00
14396文字
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BF
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【A英】情緒な左脚
ふぁんたじーパロのA英です。原作程度のモブA描写注意。左脚注意。
2020.5.5 たまごのお粥pixiv投稿作品
1
2
左脚を拾った。
誰のかは分からない。たぶん、筋肉のつき方からして男、それもかなり絞ってあるからもしかしたら運動量の多い人間
――
たとえばスポーツマンとか
――
かもしれない。左脚は腿から足先までのもので、裸足の足裏を地につけて自立する。それは屋敷の庭園に落っこちていた。
拾った理由は、自分でもちょっとよく分からなかったが、たぶん特にないんだろう。ただ目についてしまったから。脚は鳴かないし害もない、自分の部屋に持ち帰っても誰も咎めない、そんな気分でなんとなく拾って持ち帰った。
左脚は肌が温かく、濡れたタオルで汚れを落としてあげるとくすぐったそうに指をもぞつかせた。丸い爪は平べったくて短く整えられていて、薄っすら生えている毛は黒っぽい。肌も黄色いから、ひょっとすると自分たち白人の脚ではなく、黄色人種の脚なのかもしれなかった。
ひとりでに自立してぴょんぴょん跳ね回って動いたり、ぱたりと倒れて動かなくなったり、膝を曲げて床を這ったり、左脚は部屋内を好きに移動することのできる気楽なやつのようで、ひとしきり部屋内を散策すると俺のそばに寄ってきてぴょんと跳ねてみせた。
毛足の長い絨毯の上じゃ、足音もしない。毛糸の感覚も気に入ったようで、裸足の足裏を擦りつけてはごろりと転がっている。そして俺の足にもすり寄ってくる。
どうやら左脚はこの部屋と俺を気に入ってくれたらしかった。
少年と左脚
ところでこの屋敷の主人は毎晩のように俺を抱く。
肥え太った豚のような指で、本人が用意させた俺の服を一枚一枚丁寧に剥ぎ取っては暴いていく。もちろん合意ではないが、俺は我慢して合意のふりをしている。
抵抗は無駄だ。
何せ自分の歩く脚はあっても、逃げ道が用意されていない。
兄が人質に取られている。
それが本当かは、分からないけれど。
俺は人形だから。余計なことは考えず、主人の好きにさせてやらなければならないのだ。
拾った左脚との生活は存外快適だった。
昼間、人目に触れられそうになったらベッドの下やクローゼットの中に隠れてくれるから、こいつは随分と賢い。俺が主人に呼ばれて仕事や趣味につき合わされている間は、窓のそばでひなたぼっこをしているらしく、そういう時は戻ってから黄色い肌を撫でてやると太陽の温かさを宿している。誰かの体に触ったり触られたりするのはここに来てから不快でしかなかったが、なぜか左脚だけは平気だった。
ものは食べないし、喋らないし、そこいらのペットよりよほど可愛がりがいがある、と思う。
主人が俺を可愛がるのとは違う、純粋でまっさらなその感覚に、俺は左脚の指の間をくすぐってやりながら、自分もくすっぐたくなる思いだった。
それから、左脚はひどく優しい。
明け方、俺が部屋に戻って隅の暗闇に身を置いていると、ベッドの上で膝を曲げて寝そべっていたくせに、わざわざ起き上がってベッドからずり落ちる。そして窺うように、そっと静かに跳ね飛びながら俺のそばに来て、何をするでもなく、そこに立っている。
初めてそれをされた時は苛立ちが先に来て同情かと八つ当たりをしてしまったけれど、それからもめげずに左脚は、そういう時、必ず俺のそばに来てじっとしている。そういう時、とは、つまり死にたくなる時だ。
左脚はじっとそこにいてくれる。
それがあんまり、縋りたくなる救いのようだった。
その晩はとくに最低だった。
最近何かあったのか、とベッドの上、主人に訊かれた。
嬲られ、痛めつけられ、執拗な儀式じみた行為を続けられながら、最近、お前、妙に楽しそうではないか、と歯を突き立てられた。
俺はにっこり、鳴き笑ってやった。
ミスタ、あなた、ご主人のおかげです。
まさか僕の笑顔のわけが、ほかにあるわけがないでしょう。
ぼくの感情は、すべて、ご主人にもたらされるものですよ。
そう苦しい呼気とともに言って、笑ってやった。
部屋に戻ると、すぐさま部屋の隅、本棚の裏に隠れて蹲った。
震えがとまらない。皮膚の下で、虫が蠢いて這い回っている感覚がする。
気持ち悪くて掻きむしる。手首には拘束の痕が這いずり、そこにもがりがりと爪を立てる。嫌だ、イヤだ、いやだ
……
。何が、と思う。
何が、僕の笑顔のわけが、ほかにあるわけがないでしょう、だ。
ベッドの中で自分が吐いた言葉が耳にこびりついて消えてくれない。吐いたものが、全身を縛りつけてすえた悪臭をまとわりつかせている。そういう感覚に、ううと呻いて自分の喉に手を当てる。手のひらはぬるりと濡れている。ぎりりと力をこめる、ぎゅうと締めつけた。
目の前には、暗い中、黄色く突っ立っている左脚がいた。
「お前さ
……
」
自分で絞めている喉からは、ほとんど声になっていなかったが、それでもやめずに声をかけた。
「お前の、せいで、おれ」
にんぎょうだったのに、と言う。
人形だった。
人形のはずだったのだ、抵抗もせず、従順で、相手が都合の良いふうに扱う、感情のない。
それなのに。
「おれ
……
」そういえば、と。そういえば、人間だった。
嗚咽とともにそう漏らし、瞬きで涙袋に溜まった水滴を流しやる。
喉から手を離す。咳き込み、喘鳴し、ははと笑って突っ立ている左脚にその手を伸ばした。届かない指先に、左脚はちょっと迷うように膝を曲げると、そのまま俺のもとへ一足飛びで飛び込んできた。
抱き留め、力任せに腕を回してもじっとしている太腿に、涙に暮れる頬を押しつけ瞼を閉じる。
あたたかい。
そうだ俺は生きている。
そして、この左脚のように動く脚を、それも両足揃ってついている。思考もあるし、感情もある。今まで諦めていたことを強く思った。
このままここに居てなるものか。
その日俺は、人形に徹することをやめた。
まず屋敷に関する情報を集めた。
今まで無関心だった使用人同士の会話や、本棚の書物、ベッドでの主人とのやり取りでさえ、理解と知恵を求めて接しあげた。
意識ひとつでここまで変わるのか、それとももともと、もしかしたら地頭が良かったのか、人形から人間に戻った俺は瞬く間に情報を得ていった。
屋敷の構造、使用人の巡回率、主人の動向、そして何より大事な、俺の兄のこと。
生きている、らしい。
グリフィン・カーレンリース。俺のたった一人の家族、生き別れ、幼い頃より顔も見ていない、それでも彼のためにと考えて耐えてきた、耐えられる存在になっている、夢の中の人。
主人に媚を売って訊いた話では、無事であると。
岬のある田舎に暮らしている。お前が私の人形でいる限り、それは覆らないよ。そんなことも言われたが、俺は微笑んでそうですかと返す裏腹、もしそれが嘘だったらお前をぶっ殺してやると強く誓った。
左脚には、よく話しかける。
今更だが、左脚は俺の話す言葉、つまり英語を理解しているらしい。と思ったが、たぶんそれは完璧ではなく、時折分からなそうに足指で絨毯をいじったり思案するように動きを止めたりするので、左脚はやはり、黄色人種の脚なのだろう。
屋敷のことを分かってはいっても、左脚に対する分からないことは、相変わらず、分からないままだ。
誰の脚なのか。
なぜ左脚だけでいるのか。
左脚の持ち主は、左脚を探してはいないのか。
ひょっとすると。
実はこいつも、どこからか逃げてきたのかもしれない。
「お前は自由でいいな」
自由な代わりに、体がないけれど。
言うと、左脚は不服を申し立てるように、すりすりとふくらはぎを擦りつけてきた。かわいい。
人形をやめて知識をつけて意思を持ち直しても、と思う。
逃げ出したら、兄がただじゃ済まないだろう。
結局、俺の両足は、この屋敷から出ることを許されない。
主人はつまり、悪人の親玉だ。
悪人の親玉というのは、よく悪趣味なパーティーを催す。
今日はまさにその日で、左脚にはくれぐれも俺の部屋から出ないよう言い渡して、落ち着かなげにしている膝を撫でてから、俺は主人の待つ屋敷内の広間へ向かった。
こういう時、俺はただのお飾りだ。
金の髪と、緑の瞳を持つ、人間大の宝石として。
こういうのが、俺から思考と感情を諦めさせたんだろう。
でも今日は、部屋へ戻れば左脚がいる。何があっても、どんな目で見られても、触られても、部屋にあいつがいると思うと耐えられる。いつの間にか兄貴の次に、俺の安らぎになっていた。
あいつは俺をおかしな目で見ない。嫌なことはしてこないし、腹立つことも悲しいことも言わない。
早く。
早く戻りたい。
表面上だけはにこやかに、主人に従順な宝石として振る舞っていると、ふと視界に、目立つ色を見つけた。
黒髪だ。
白人ではない。
会場の背の高い周りの中で、小人のようにひょこひょこ動いている。上等なスーツを着ているようだったが、その後ろ姿は何か子どもじみていた。
隣にいる主人が、どうかしたかと訊いてくる。
いえ何も、ただ。俺はそう答えて、主人に囁いた。少し、ほかを歩いても? 難しい話はつまらないんです。
主人は馬鹿が好きだ。だから俺のわがままっぽい言い方に、上機嫌、気持ち悪く相好を崩し、あまり遠くへ行ってはいけないよと俺のこめかみに唇を落とした。
分かりました、俺は言って踵を返した。
こめかみはさり気なく拭った。
あの黒髪の小人を探していると、広間を抜け、庭園へと続くバルコニーに出た。
ちらほらと談笑している客人たちに視線だけで挨拶(色目とも言う)をし、手すりに掴まって庭を見ているらしいその後ろ姿を見つけ、そっと近づいてみる。
固められた黒髪に、細身のネイビーのスーツ。男だが、やはり身長は低めで、なんだか物理的に軽そうだった。毎日脂ぎった丸まるしている主人を見ているから、余計にそう思うのかもしれない。
声をかけようか迷う。このパーティーに呼ばれたからには、もちろんただの子どもじゃないだろうが、それでも彼はこの場所に合っていないように見える。
……
そう見えたから、気になったんだろうか。
庭園を見ている彼が首を巡らし、その際黒髪のかかった耳が覗いて、そしてその黄色を認めた途端、俺の口は勝手に動いていた。
「どこの国の人?」
存外近くから声がしたからだろう、彼はびくりと肩を跳ねさせ、振り向いた。
黒く丸い瞳をしていた。
それが、大きく見開いて、俺を映している。
大きな瞳はそこだけ見れば女みたいだが、髪と同じ色の眉は太めで凛々しく、妙におかしい。変だ、という意味のおかしいではなく、たとえば一口齧られたクッキーとか、左右で色の違う靴紐とか、
……
部屋でひなたぼっこをしている左脚とか、そういうものに対するアンバランスなかわいさ、という意味でのおかしいだ。
そしてやはり子どものような顔つきだった。
十四、五歳。
「
……
親とはぐれたのか?」
半ば心配と不安を混ぜて訊くと、子どもはまた目をぱちくりとさせたあと、むっと眉間に皺を寄せた。
「成人してる。十九だよ」
尖った唇から落とされた声はまろく、発音が危うげ。だが耳に優しい初めて聞く声に、俺はそうかと反射で答えて、答えてから驚いた。この小人、俺より二つ年上だ。
「それから、生まれは日本」
「
……
日本」
「極東の、海に沈みかけてる小さな島国さ」
「へえ」
小人はひょこりと跳ねるように動き、全身で俺に向き合った。手摺りに背を預け、照れたように黄色い小さな鼻を人差し指で擦る。「やっぱり、似合わないかな。場違い?」またなんだか、おかしな言い方だった。そして自分の感覚が、人間寄りになっていることに気づく。
というのも、この男、俺をそういう目で見ていない。
言葉も、打算や嫌味が一切含まれていない。
嫌なことがひとつもない。
……
左脚に体があったら、こんな感じだろうか。と思った。
思ってしまった。
「いや
……
」
なぜかひっつく唇を、なんとかこじ開け答える。
「すごく、似合ってると、思う。ボーイみたい」
「うわあ」彼は声を上げた。「褒められてるのか微妙なとこだな、すごく困るけど、うん、ありがとう」
「あ、」そこでようやく自分が随分と失礼なことを言ったと気がつき、これが主人相手ならおぞましい事態になると思い至って身を竦めてしまう。「その、」途端に喉がつかえて言葉が出なくなる。
彼はそれを咎めるでもなく、いいんだよ、と言い、それを言われた俺は何も分かっていない彼のただの肯定に、またなぜか心底ほっとして胸を撫でおろした。あのさ、彼が明るい声で言う。
「僕、今日初めてこのパーティーに招待されたんだけど、ここってかなり
……
ワルだよね」
ワル。悪。
俺はおかしくなって口の端を上げた。
「かなりね」
「やっぱり?」
「アンタ、なんにも知らないの?」
「まあ、あんまり」
「ふうん」
彼の隣に移動し、バルコニーの柵に身を預ける。「俺のことも?」
流し目をくれると、彼はやはり、純粋に真摯な黒目でもって俺を見ていた。
その目がふと下を向き、革靴を履いた左脚で床を擦る仕草をすると、再び俺に上目を向ける。
「あんまり、知らない。でも、知りたいと思う」
「
……
なに、」
「きみ、好きでここにいる?」
「いや」
即答していた。
「逃げ出せるなら、逃げ出したい」
自分の部屋の逃げ場所である、暗がりのような瞳と、俺の目がかち合う。
口が開く。しかし彼が何事かを言う前に、後ろから名を呼ばれた。開け放たれている窓のそばに、主人が立っている。ぐつぐつと下卑た目で俺を見ている。
足は勝手にそちらへ向かっていた。俺は黒目の彼に挨拶の目も向けなかった。きっとそれが、正解だからだ。彼も何も言わなかった。
ただ、主人のそばに寄る間、背中にじりじりと、あの誠実な視線が焦げついて離れなかった。
部屋に戻れたのは明け方だった。
あれから手酷く抱かれた俺は、手足をひどく震わせながら部屋隅の暗闇に身を置く。
閉じたカーテンから射し込む朝焼けがあんまり憎かった。その窓のそばで膝を曲げて寝そべっていた左脚が、ひょこひょこと飛んでくる。必ず俺の前で立ち止まる。窺うように。
力なく笑って、手を差し伸べた。
「おいで」
掌に、膝を擦りつけてくる。すりすり、ぐりぐり。大丈夫か、と訊かれている。大丈夫じゃないよ。
「だいじょうぶ」
そっと左脚を抱きしめる。自分の肌にじんわり温かさが滲んでくる。黄色い左脚。
パーティーで会った黄色と黒の彼を思い出し、ひどすぎる気分だったのに、自然と柔らかな笑みが唇から零れる。
「お前が、立って、歩いて、喋って、俺を見たら、あんな感じなのかな」
左脚は、左脚のままでいいと、左脚だけだからかわいいと思っていたけれど。
そうでも、ないのかもしれない、なんて。
「
……
お前が、」
ひどいことを言っている心地だった。
「人間の姿だったら、良かったのに」
膝裏をくすぐりながら言うと、左脚は腕の中でぴたりと動かなくなる。
……
ごめん。眉を下げて謝り、剥き出しの太腿にキスをおくった。
最近、主人が妙に苛々している。
使用人の噂や主人の言動を探ると、どうやら屋敷の外にいる政府の連中に目をつけられたらしいことを知った。
ざまあみろ、と思った。
助けてほしい、助けてくれるかも、とは思わなかった。
政府のことは、屋敷のことよりずっと、よく知らないでいる。
何せ俺は小さい時からここでしか過ごしていない。
だから、まあ。
屋敷の外に思いを馳せることくらいが、希望になっている。
その日、屋敷の中は風でさざめく池のようにざわついていた。
肌に感じる空気がいつもと違う。
俺だけでなく、左脚もそれを感じ取っているようだった。
いつもは日中、窓際でひなたぼっこをしているのに、今日は部屋の隅で真っ直ぐ立っている。
裸足の指は絨毯を掴んでいる。
ともすれば不安そうに見えるその佇まいに、何か慰めをと思うのだが、そもそも何をどう思っているかは完全に俺の想像なので、慰めようにもうまく言葉が出てこない。
何か言おうと口を開いては閉じ、閉じては開いてを繰り返していると、部屋の外から硬質な足音が近づいてきて、びくりと身を強張らせた。
硬質で、重低音。主人の足音。
俺はすぐさま左脚をすくいあげてクローゼットの中に押し込んだ。左脚は突然のことに細い足首をばたつかせたが、俺がシィと黙るよう促すと大人しくクローゼットに仕舞われた。
と、部屋の扉が慌ただしく開かれる。
息をふうふうと荒く吐き、ぐつぐつ壊れた笑みを浮かべる主人がいた。
あ、と思った。
殺される。
ベッドが軋みを上げる。
真昼に近い陽射しが部屋の影を濃くしている。
明るいうちに抱かれるのは初めてで、明るいから、地獄がよく見える。
すえたにおいが鼻をつく。誤魔化すようなきつい香水と、脂汗と、血と、生死の悪臭。
いやだと泣いた。泣いてしまった。この自分の部屋で、逃げ場所がある暗がりが眩む行為をするのが、耐えられなかった。泣いて、喚いて、そしてクローゼットの中に押し込んだ左脚を思った。どうか静かにしていてくれと祈った。
主人は笑っている。笑いながら、お前のせいだ、と言う。お前のせいだ、お前が狂わせたんだ、もう、おしまいだよ、何もかも。
おしまいで結構! 俺は泣きながら主人の腕に噛みついた。打たれる。打、打。打。唇が切れ、口の中に鉄錆の味が充満する。シーツに血液混じりの涎を吐き、わけも分からず、ハハと笑いあげた。
じゅうぶんだ、と思った。
なんだか満たされている気がした。
人形だった俺が、最後に憐れな人間としてたてつき、そして終わる。
諦めと言われればそれまでだが、だって、そうした方が、遥かに楽なんだ。
ただ。
俺がいなくなったら、あの左脚は、どこに行くんだろう。それだけを思った。
首を絞められる。
世界が霞む。逃げ場所だった暗闇が、視界を端から埋めていく。
ようやく、逃げられるんだろう。
安堵していいはずなのに、悲しい気持ちで、俺は瞼を閉じた。
「
――
ここはすごく
……
、」
なのに、瞼を開けさせる清廉な声が響いた。
「すごく、足場の落ち着かない場所だ!!」
刹那窓が割れる音が響き渡り、俺に覆い被さっていた主人が傾き倒れた。ベッド下へと巨躯が落ち、幾分息がしやすくなったことで、呆然と天井を見上げていた俺は、遅れてそれに気がつく。
傍らには、跳ねるベッドの上をひょこひょこ膝行してくる、左脚がいた。伏している俺の顔まで近づき、血に塗れた口許に、労わるように膝を擦りつけてくる。
「
……
痛い、」
ものすごく、痛かった。痛みを感じているのが不思議だった。
何がなんだか、分からない。
主人は床から起き上がってこない。
割れた硝子を踏み締める、じゃりじゃりとした音が鳴っている。
伏したまま、目だけをそちらへ向けた。
暗がり、が。
救いのようなそれが、ひょこひょこと危なげな足取りで近づいてきている。
パーティーで出会ったあの男だった。
「足場が、悪かった。すごく。数メートルも飛べないくらい」
どこか発音が怪しい、そして言葉自体がよく分からない、それでも気分を悪くはさせないまろい言い方をする黒と黄色の小人が、ベッド脇まで来て膝を折り、俺と目線を合わせる。
「こんなところ、さっさと出るべきだと思う。きみを連れ出したい」
「
……
何を、」掠れてひどい声が喉から搾り出た。「何を、言ってるのか、分からない」
「
……
僕いま日本語喋ってた?」
「英語、だったけど、」そーいうことじゃ、なく。
小人は困ったふうに太めの眉を下げると、着ていた上着
――
まるで階級職の人間が着るような制服だ
――
を脱いで俺にかけた。俺はかろうじて衣服はまとわりついていたが、どこもかしこも破け、一目でそういうことをされていたと分かる恰好だった。そんな俺に無言で上着をかけた彼が、俺の頬にぴったりくっついて離れない左脚を、打って変わって眉を跳ね上げ睨み見下ろす。
「こんなところにいた」
「
……
は?」
「なくても構わないと思ってたけど、なかったらなかったらで、やっぱり不便だった。でも、きみを少しでも守ってくれていたなら、切り離した意味があったかも」
「は?」
「僕の左脚がお世話になりました」
そう言って黒いつむじが見えるほど頭を下げた。
……
、は? 俺は三度目のそれを漏らし、次いで温かさを頬に分けてくれている左脚を見やる。じっとして、動かない。男に目を戻す。
「こいつが、アンタの左脚だって? でもお前、」
痛む体をベッドから起こし、床に膝をついている男を見下ろす。
「両脚、揃ってるだろ」
俺の足より小さな革靴には、きらきらと硝子の破片が付着している。窓を蹴破ったのか、と思わされた。あの特殊防弾硝子を?
男はまた困った顔つきをすると、自分の左脚、腿の部分を撫で擦る。「これは偽物」それを聞いて、ひょこひょこと擬音が似合う男の歩き方を思い出す。そうだとして。その左脚が何か特殊な義足だとして。
「待って。わけが分からない。アンタなんなんだ、俺をどうするつもり」
彼は立ち上がり、そして右脚をベッドに上げた。ズボンの裾を捲り上げ、「触って」と言う。俺は意味の分からなさに彼を睨んだ。そばにいる左脚は、じっと、俺に寄り添っている。それに促される気持ちになりながら、血のついた膝頭を撫で、左脚と同じ色、同じ形をした彼の右脚に、警戒露わに手を伸ばしてみた。
ふくらはぎに触れる。
黄色い肌、黒く薄い毛。指で押す。細身だが、筋肉質。そして、とても、軽そう。
温かい。
手に馴染んだ感触、温かさ。
警戒が溶けてなくなる。
俺が拾い、かわいがっていた左脚の右脚は、この男のものだと、触れたところから心臓まで告げにきているようだった。
立てた右脚の膝に顎を置き、彼はうっそりと口を開く。
「本当に、ありがとう。もうずっといらないと思っていたんだけど、きみのおかげで、拾い直せる」僕の自分勝手で、たぶん、そいつ、素直に戻ってはくれないだろうけど。言って、右脚に触れていた俺の手に、彼の手が重なる。小さく、黄色く、爪は整っている。触れられても、嫌だと思わなかった。むしろ握り返していた。「
……
この手の温かさ、僕は知ってるよ。この手で撫でてくれたことも、少し悪戯してきたことも、膝の裏をくすぐる感触だって、
……
涙の冷たさだって」僕は知ってるよ、と続ける。
黒目と、目が、合う。
「
……
でも、きみの肌がこんなに白いのも、声がこんなにハスキーなのも、瞳が緑色なのも、髪が金色なのも、
……
人を褒めるのが下手なのも、知らなかった。知れて良かった。逃げ出そう」
「何を、」
ぐっと手を握り込まれる。熱が生まれる。
暗闇を閉じ込めた瞳が、きらきら星を宿す。
「きみは逃げ出せる。僕はそのために来た。きみの兄さんは無事だ。
……
一緒に確かめに行ってもいい、その脚で」
屋敷内が騒がしい。
きっと、異常事態が起こっている。
俺の部屋の窓は割れ、陽射しが部屋内を明るく染め上げている。ちらと部屋隅、いつも蹲って逃げていた暗がりを探すも、そんなものはどこにもなかった。
ただ目の前に、優しく温かな暗闇の色をした目と、髪の男が、立っている。
あ、と一音、不随意に声を漏らす。それきり、何を言えばいいか分からなくなる。
その時、じっと寄り添っていた左脚が跳ね、俺の背中を蹴り上げた。
「な、」
存外強い力のそれに体が前に倒れ、そして握り込まれていた手を引っ張られ、ベッドから転がるように床に足をつける。立ち上がる。俺を支えた男は、やっぱり小人だった。黒目を見下ろし、引いていた涙が戻ってくるのを感じながら、それでも瞬きせずに見つめて言った。
「俺、自由に、どこへでも行ける?」
「行けるよ」
うんと頷かれる。
そう、と俺も頷いた。頷いた拍子に涙がぼろりと零れた。
「やっぱり手があった方がいいな」
彼が笑って言う。「いつも、涙をちゃんと拭えてやれたらって思ってたんだ」黄色い指の甲が俺の頬を撫でてくる。後ろで、抗議か賛同か、ベッドの上をぴょんぴょん跳ねる左脚の気配がした。「うるさい。悔しかったら戻ってこればいいんだ」彼が不満げに俺の後ろへ声かけた。
なんだか、彼ばかり、こちらのことを知っているなと思う。
「
……
アンタの名前も、知らないんだけど」
俺がそう呟くと、左脚の持ち主、黒目の小人は俺の手を引き、にかりと幼く笑った。
「英二。エイジ・オクムラ。きみは?」
「あ、
……
アスラン。アスラン・ジェイド・カーレンリース」
「アスラン、あすらん、
……
アスラン」口に馴染ませるように唱え、そしてやっぱり笑った。左脚が俺と彼のそばを跳ね飛び、一足先に割れた硝子を飛び越え外に出た。
英二が言う。
「お喋りできるのっていいな。手だけじゃちょっと寂しいぜやっぱり。よろしく、アスラン!」
それは俺も、と。
せっかく話せる口があるのに、思ったことはもだもだと単語にはなってくれなかった。それでも察したのか、英二は笑って手を引いてくれる。陽の光は全然怖くなかった。温かく、優しく、泣きたくなるくらいのものが、隣にいた。
俺も思うよ、と、小さく零した。
目が合って、話せて、手を握ってくれて、一緒に歩いてくれる。
こんなにいいことって、ない。
俺は屋敷の外へと、一歩足を踏み出した。
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