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さもゆ
2024-11-15 19:56:24
17565文字
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BF
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【BF】転生話1
「僕はきみを殴る権利があるはずだ!」アッシュに馬乗りになる英二と「お前になら頬くらい差し出してやるよ!」腹括るアッシュと「えっ、じゃあ俺は二人殴っても許されるんじゃねえか」と拳を構えるショーターに潔く顔を差し出す英二とアッシュの転生話を書きたかった。
2019.3.22 たまごのお粥pixiv投稿作品
1
2
記憶の天使というものがいる。
実際に名乗り出られたわけではなく、名称も姿形もあやふやなそれに、勝手に名付けただけだ。記憶の天使。記憶を保管し、守り、そして呼び起こす。全員にじゃない。たぶん、必要のある者にだけ。
俺はその必要ある方の人間だったらしい。
十八の時だ。
それまでそれなりに平和に育ちそれなりに非行をして、それなりに高校を卒業しようという時期に、突如どうしようもない不安にかられた。自分で作った夕飯を食べている時だった。
あれ、俺の飯って、こんなにうまかったっけ。
噛んでいる炒飯は味付けがしっかりしていて、目の前の姉もおいしいと言って食べてくれている。しかしそれに違和感を覚えた途端、口の中のものが砂のように感じて、堪らず吐き出した。姉が驚いて背中を擦ってくれる。ちょっと、大丈夫なの。訊かれて俺は首を振った。大丈夫じゃなかった。なんだこれは。なんだこの感じ。
料理をするのは、子どもの頃からわりと好きだった。両親はもっと幼い頃に死んだから、女手一つで育ててくれた姉を見習って、それで。
これに間違いはない。この記憶に間違いはない。けれど、何かがおかしい。
「姉さん」
俺は一人混乱したまま隣のたった一人の家族に縋った。「姉さん、俺、」「どうしたの」「店は、」「え?」「店は、どうした?」口内に残っている砂利味の米粒で噎せながら、訊いたことの意味が自分でも分からなかった。「店?」姉が心底困っている。店ってなんだ。誰の店だ。姉は、このアメリカで中国人にも優しい小さな会社で働いている。店じゃない。「
……
ごめん、なんでもねえ」どう解釈しても、なんでもなくなかったのだが、その時の俺はそう返すので精一杯だった。
それをきっかけに、日に日に漠然とした不安は大きくなっていく。
ふとした瞬間、足元の影が広がり町中の暗がりと繋がって俺に何か気づかせようとしてくる。高校を終えることへの不安とか、そういうものじゃなく、そもそも自分が高校生をしているのが嘘のようにも思えてきていた。
全てが満たされているはずなのに、どこか自分でも気づかないところに大穴が空いていて、その大穴にぴったり当て嵌るものがあるのに、それにさえ気づいていない。心臓の形に近い穴を、煙のような風が吹き抜けていく不快感。
そうしたまま日々を過ごし、飯の味や周囲の環境やテレビのニュースや交友関係、俺を取り囲む世界に疑いを抱え、ピークを迎えたのが、クリスマスのことである。
クリスマス。十二月二十五日。どこもかしこも浮かれた気分になって、大きなモミの木が飾られ、表立って人々が騒ぎ警察が介入する一大イベント。でも俺と姉は毎年好きに過ごし、夕飯だけは一緒に食べる。ケーキを買ってくるのが俺の役目で、そんなささやかな祝日が好きだった。
バイトを終え、ケーキを買い、まだ夕飯まで時間があるなと、気紛れに、本当に気紛れに教会にでも行こうと思った。今考えると、その気紛れ自体、記憶の天使に仕組まれていたことなのだろう。
帰路を少し外れたところに、年老いた神父が仕えているくたびれた教会がある。
何回か行ったことはあったが、クリスマスには行ったことがなく、だから誰もいない灯火明るい礼拝堂に入っても、こんなもんかと気落ちした。
一応祈りでも捧げていこうと、祭壇の前まで歩いて行く。ケーキの箱を持ったまま、しかし何に対して祈ろうかと(もちろん神になのだが、なんだか違うような気がして)ただ祭壇前で棒立ちになった。適当に祈っとけばいいのだ。キリストに? 何を?
視線をうろつかせ、目に留まったのが壁のステンドグラスだった。磔にされたキリストや、彼の仲間(信徒)や、幼い彼を抱き抱える聖母マリアの硝子模様がある中、一枚のアーチに釘付けになる。
緑と金と赤を基調にした、天使だった。翼を畳んで横を向き、跪いて槍のようなものを握っているステンドグラスの天使。
俺の、どこかにある心臓の形をした大穴に隙間風が吹いた。断面から生温かい液体が溢れ出ていく感覚がする。ぱち、瞬きをする。ぱち、もう一度。
横を向いていた天使の目玉がこっちを凝視していた。
「は、」
ゾッとして後退る。神聖な場所なのに背筋を悪寒が駆けのぼった。
灯火に照らされる緑と金と赤をゆらゆら煌めかせ、硝子の境目を融合しながら、天使が緩慢な仕草で立ち上がった。
精神がおかしいとか視覚が狂ったとか、この非現実的なことを否定するのは頭が許さなかった。享受しろと全身が訴えかけていた。
冷えた硬質なはずの硝子が、熱で溶けたように渦を巻き、平面だった天使を浮き上がらせ、本物の像にしていく。油が広がるかの如くみるみるうちに膨れ上がり、不格好な翼が羽搏いた。
そして天井を覆いながら、遠くの星のように透明な輝きを放つ天使像が俺に迫った。
ぼとりとケーキ箱を取り落とす。天使によって俺の身の丈はある槍が、身体をあっけなく貫いた。
血が盛大に溢れた。
刺さった槍は、心臓の形をしたなんだかよく分からない大穴を通り抜けている。そしてそれが鍵だった。鍵と鍵穴。必ずそうあるべき、ぴったり嵌るもの。
槍が引き抜かれる。鍵が開いた。記憶の鍵だった。心臓の形をした穴には隙間など一つもない確かな心臓が埋まり、もとからそこにあったような顔をして鼓動を打ち始めた。その度に血潮が巡り勢い余って血管をぶち破り、鮮血が零れ落ちていく。
床に膝をつく。左胸を押さえた。
身体を生かしている臓器はこの十八年間健康的に動いていたが、今は尋常じゃない速さで生を主張していた。
血が垂れている。重力に従い床を濡らしている。
天使は輝きを潜めぐにゃぐにゃ曲がりながら窓に戻り、硝子の境目を描くと硬く冷たい元通りのステンドグラスになっていった。翼を折り畳み、槍を握り、跪いて表情のない横顔を向ける緑と金と赤の天使の模様は、もう動く気配がない。
「
…………
」
こんな荒治療が、あるだろうか。
最初から静寂で包まれていた礼拝堂内、俺の呼吸する音だけが響く。
たぶん、恐らく、業を煮やしたのだ。
名前も国も家族も前と似たように誰かがしていたのに、俺があんまりに何も思い出さず、穴を空けたまま生きていこうとしていたから、仕方なく力技に及んだのだ。無理やり嵌め込んできやがったんだ。なんだかよく分からない、記憶を管理していると思われる何かに。
俺は昔っからショーター・ウォンだった。
前世か別次元か、ずっとずっと昔から。
昔も、今も、中国系アメリカ人の、ショーター・ウォン。
「マジかー
……
」
液体が溢れている。
血だと思っていたそれは、赤い色を抜いたもので、そして両目から滂沱として流れていたのだった。
ケーキを持ち帰ることができなかったクリスマスは、その日が初めてだった。
記憶の天使。
そう名付けた不可思議な存在が、特別に俺に接触してきた理由は分からない。以前
――
前世と仮定するが、真相はなんでもいい
――
の俺を憐れんだのか、人間より高位の立場を楽しんだのか、暇だったのか優しさからか、とんと察せないが、理由は俺がつけるものだと感じた。
探せというわけだ。
チャイニーズギャングのボスだったショーター・ウォンが、死ぬ間際に後悔した相手を。後悔させたかもしれない相手を。
一度死んだ記憶というものは色濃く戻って来ていて、今の自分がそこから地続きだと、手を叩いたら音が鳴る以上に自分の中では分かりきっている。なぜ、と考えるのは馬鹿らしい。
アッシュ・リンクスと奥村英二。
この二人を探さなければならない。俺と同じ世界で同じ時間を生きていることは、天使に刺された瞬間にこれもまた説明できない自信としてあった。そうでなければ俺が俺である意味がない。それにしてもあの天使。くそ。天使ってのはなんでみんなああも綺麗な見た目して物理的に強いやつばっかなんだ。
とにかく完全無欠な人間となった俺は、自分が他にとったらおかしいことを充分理解していたので、ひとまず何も知らない姉(マーディア。おかしなことに、幸いなことに、あのマーディアと一緒だと感じた)に今世こそは心配させまいと、卒業後は既に決まっていた就職先で一生懸命働くことにした。金がいる。アメリカ中と日本中を探しに行ける金が。
死に物狂いで働き、髪を染めていいと分かればすぐに髪を紫に染めモヒカンにし(姉さんは「いいんじゃない」と一言笑った。俺には勿体ない姉だ、本当に)、時間があればニューヨークの街から虱潰しに探索していった。
アッシュ・リンクス。俺が親友だと思っていた、今も思っている、年下の生意気で可愛げのないギャングのボスだった男。
どうしているだろう。あれからどうしたのだろう。劇薬で自我を失った俺を解放してくれた奴は、俺を撃ったあと、どうなって。
ひどく罪悪感があった。致し方なかったとはいえ、あの短期間で命に代えても守ろうと思わしてくれた日本人を傷つけ、その始末を親友につけさせてしまったことが。
謝りたい。
あいつはああ見えて優しい奴だから、あれから、今も、もし暗い影を落としていたら。
謝って、お互い受け入れて、できればこの平和な世界で笑い合いたい。
長くなると覚悟していた探索は、しかし、三か月と続かなかった。
ニューヨークの人々にアッシュ・リンクスの名と彼の容姿を訪ね回っていた時である。(自分の顔も名前も前と変わらないのであいつもだろうと思ってのことだった。ちなみに、この世界にギャングのボスであったアッシュがいたという歴史的な痕跡はない。惑星と人類の誕生・発展の経緯は前と大して変わらないのにそうということは、パラレルワールド的なあれなのかもしれない。頭がいいわけではないので凄いとかさすがとかしか感想はないが、オカルト研究者なんかが一生かかっても欲しい事実だろう。この世界は不思議でできている)俺はまた不可思議な現象に陥れられた。
ストリートキッズたちに訊き込みをし終え、今日も駄目かと薄汚れた路地を歩いていたら、かさかさ擦れる音がついてきていた。
振り返ってみれば、何日も放置されていたような皺くちゃな新聞紙がわきで風に吹かれていた。気にせず踵を返す。かさかさ。構わず歩く。ごそごそ。
バッと再度振り返る。がさり。新聞紙が紙の四隅を巧みに蠢かし、ふらふら俺のもとまで歩いて来ていた。「えっ」ぴたっと両方の動きが止まる。政治家の白黒写真と目が合った。「は」新聞紙が転がるようにして俺の足元を吹き抜けていった。
「
……
なんだありゃ」
決まってる。
記憶の天使だ。
また仕方ないわねと強引に助けをくれているのだ。
路地を抜けかけたところで、新聞紙の歪んだ白黒写真がちらりとこちらを振り向いた。
がしがしモヒカン頭をかく。俺はわざとでっかい溜め息を吐いてやった。
ああ分かってる。
天使様の仰せのままに、というやつだ。
一見風に吹かれているように動いていく新聞紙を追うと、路地の出口に差し掛かり、そこでそいつはくしゃりと音を立てて丸まった。人の手にポイと捨てられた形相をして、動かなくなる。
「おい」
新聞紙に話しかける人生は、中々面白いかもしれない。マヌケがすぎる。どうしたもんかと腰を屈めると、視界の端で何かが揺れた。
人通りのまるでない寂れた通りの、扉も窓も割れている潰れたケンタッキー店。カーネルサンダース人形が穏やかな笑みの裏で、回収されない悲しみか怒りを背負って俺を見ていた。歓迎のために広げている両手の手首が、ぷらぷら揺れている。
ぎしぎし軋みながら、手首が百八十度回転した。「げっ」お、折れた。あれは折れた。
折られたといった方が正しい憐れな白いおっさんは、それでも子供たちにチキンを配る優しい顔つき(逆に不気味に見える)で、かろうじてくっついている両手首の人差し指を、あらぬ方向に向けた。髭のついた物言わぬ口が、あっちに行けと伝えたげだった。
あんたの犠牲は無駄にしねえ。
俺は正真正銘生まれて初めて、カーネルサンダースに同情しながらそこをあとにする。
道なりに進んでいくと表通りに到達し、一気に街の喧騒が広がった。道端に避け、今度はどれがその存在を示しているのか視線を巡らし探す。ビルに、食べ物屋、自動車に自転車、大人に子供──ニューヨークの街並みは前と似たようなもんだ──真上を見上げた時、ちょうど一羽の鳩が飛び立っていくところだった。
なんとはなしに見送る。そしたら四方八方から、近場にいた鳩がみんな集ったくらいの数が、一斉に青空を飛んでいった。
ぎょっとして通りに躍り出る。通行人に迷惑そうに眉を顰められるも、心中で謝ることさえ忘れていた。大量の鳩が、飛行しながら、矢印を形作っていた。
記憶の天使って。いや俺が勝手に呼んでいるだけだけど。一体どこまで力を及ぼせるんだ。
恐る恐る周囲を確認する。頭上に気をやっているのは俺だけのように見えたが、親に手を引かれている子供が口と目をあんぐり開けて空を指差し、母親に胡乱気な対応をされていた。お嬢ちゃん、強く生きろ。大丈夫だ。きみはおかしくないぜ。けどあの異常現象は俺のためのもんなんだ。悪いな。
鳩の群れに導かれるまま、俺は駆け出した。
不思議の国のアリスは、白兎を追っていた時点で夢を見ていたのだろうが、俺のこのなんだかよく分からないものを頼りに追っている状況が夢だとしたら、どこからが目覚めなのだろう。
などとちょっとでも疑うと、許さないとばかりにぶん殴られた。風や、排気ガスや、バイクのエンジン音が現実だと感覚を揺さぶってきた。つくづくヘンテコだ。こんなにヘンテコなのに銃は携帯できるし同性婚は難しいし麻薬はあるしどこかで戦争が起きている。なんて素晴らしい現実ですこと!
「ああくそ、次はなんだよッ」
鳩の群れの次はビルの広告、次に犬が吠える方向と、あらゆるものを媒介にしている案内役を追ってきたが、ここに来てそれがぷつりと途絶えた。
青かった空は橙に染まりかけ、気温が下がってきている。姉に帰りが遅くなると連絡した方がいいかとポケットから端末を取り出した。
『Lion wants to sleep』(ライオンは眠りたいんだって)
暗い画面に打ち込まれた文字にびくりとする。なんだ? ライオン?
目を上げる。行き交う人と視線が合ったりするが、すぐに逸らし、各々したいように動いていく。ライオン、ライオン
……
「あっ」あった。そういえば、すぐ後ろに。
ニューヨーク市立図書館の、正面玄関前に設置されている、ライオン像。
二つあるうちの片方が、俺の真後ろで遠くを見ている。見上げていると、くあ、と欠伸を漏らした気がした。
…………
。え、え。えっ、そんだけ?
「おいおいおいもっとなんかねえの、こう、こうさあ」
大理石のライオン像に突っかかるモヒカン男という珍光景を生み出したくはなかったが、手掛かりを切望していた俺のガッカリ具合を察してほしい。まさか遊ばれてたとかないよなっ?
足踏みしながら他にアクションはないかと待ち、そして。
そして、もういい加減眠らせてくれとばかりに、石の尻尾が揺らめいたかと思えば、非常に面倒くさそうに尻尾の先が視線を誘導させた。
辿っていく。図書館の外階段。利用者が上ったり下りたりしている石段を下から順に見ていき──。
一人の人間と目が合った。
ちょうど図書館から出てきたところで、華奢な身体の灰がかった金髪が風になびいている。距離があるせいで、目の色までは確認できないし、周りから見れば目が合っているとも思われていない。ああ、でも。
夕陽に照らされたその両目は、絶対に、緑色だ。そして、恐ろしく綺麗な顔をしている。分かるんだ。
傍のライオン像が眠りに落ちた。記憶の天使が今日の役目は終わりだと告げている。俺は震える唇を開いた。
「アッシュ」
探すために何度も口にしたその名が、随分久しぶりに感じて、それ以上に馴染んでいた。見つけた。
見つけた、本当にいた。本当にいた、あいつだ!
階段上で突っ立っていた奴は、俺の呟きなど聞こえていないだろうし、口が動いたのも見えていなかっただろうが、俺が確かに名前を呼んだその瞬間、身を強ばらせた。
「アッ──」
そして今しがた出てきたばかりの図書館に、野良猫もかくやという速さで引き返した。
逃げられたのである。
早とちりでもなんでもなく逃げられたのだ。避けられた。
……
何から? 記憶の天使は活動している気配がない。俺からだ。俺を、俺だと気づいて、あのアッシュが後退していった。
もしかして、記憶が、あるのか。
あいつが生きていることは確信していても、俺と同じようにして記憶があるのかないのかまでは深く考えていなくて、ただ会ってからどうとでもしようと思っていて、だから、つまり。
記憶があるなら手っ取り早い!
逃げ出された瞬間から勝手に動いていた身体は既に二段飛ばしで階段を駆け上がり、館内に突入しようとしていた。扉の隙間から滑り込み、大理石のだだっ広いロビーを駆け抜けようとし、けれど眼前しか見ていなかった俺は横からの衝撃に骨を軋ませた。「ンだよ、離せ!」腕を振り被り、そこでようやく相手を認め、喉奥で呻いた。警備員だった。大変怒り心頭な顔で俺を捕まえている。
「きみね、困るよ。一階とはいえ、ばたばた騒がしい」
なんでこういう時に限って記憶の天使は助けてくれねえんだ!
「すんません、俺が悪かったです」
抵抗も静寂を破る意思もないのだと両手を挙げる。
「久しぶりの図書館で、テンション上がっちゃって」
もう少しマシな言い訳は浮かばなかったのか。紫色のモヒカン頭の男が図書館でテンション上がって疾走なんて、それテロだろ。サングラスをしていないだけマシかもしれないが、言ったところでどうにもならない。「静かに回ります
……
」たまに目つきが悪いと評される切れ長の目を精一杯垂れさせ、申し訳なさそうに頭を下げれば、拘束を解かれた。恰幅の良い警備員が、「あと一時間で閉館だからな、はしゃぎすぎるなよ。それと、」人差し指を下に向けた。
「児童書は地下だ」
「ははん、ありがとうございますー」
胸の内で中指を突き立てておいた。
図書館内に逃げたのは、お前と話すことなど何もないという拒絶だったりして。
知るか。そっちにはなくてもこっちにはあるんだ。
走っているふうには見えない走りをするという器用なことをしつつ、利用者に金髪緑目少年の目撃証言を小声で訊いて回る。
辿り着いたのは、天井に青空の絵がある三階の読書室だった。人はまばらで、大声を上げようものなら即摘まみだされる静寂な空気。落ち着けよ。落ち着け、俺。心臓うるせえ。
並ぶ椅子の中、一人、ぽつりと、綺麗な金髪頭が覗いている。
天井近くの窓から夕暮れ迫る空を眺めているようだった。駆け寄りたいのを我慢して近づいていく。金色の髪。白い肌。横顔。長い前髪のせいで表情は窺えない。
かたん。前の椅子を引き、佇む。そいつは反応を示さなかった。俺は構わず座った。はは、と水気が多い笑いが自分の鼻から出た。
「昔も今も、天使みたいなやつだな、お前」
金色が揺れた。
横顔がこちらを向く。真向から捉えた瞳は思った通りの翡翠だった。初めて会った時より年相応の少年らしい、十四、五歳の、でもやっぱり恐ろしく綺麗な顔をしている記憶と一緒の顔。
夜明けの星のように、翡翠色が煌めいて滲んでいく。視界が水中になった。
「バカじゃねーの」
罵りは、しかし、俺に負けず劣らずの涙声だった。
「よくそういう、恥ずかしげもなく言えるな。昔っから
……
」
「ハハ」
「
……
ショーター」
「ハ
……
」
もう駄目だった。俺はテーブルに突っ伏した。なんでサングラスをかけてこなかったんだと心底悔やんだ。
こいつは覚えてるんだ。あのアッシュから続いている、俺と同じような人間なのだ。お前が呼んだ名前は、お前の知ってるショーターで、本当なら二度と呼ばれることのないもので、なのに俺たちときたら!
自分と向かいから鼻を啜る音が響いている。図書館で本も読まずに泣いている男二人。片方は少年だ。なんて奇妙なのだろう。本当に奇妙なことに、俺たちは久しぶりに会う親友同士だった。元チャイニーズギャングのボスで、なんでもないショーター・ウォンと、元ストリートキッズのボスで、なんでもないアッシュ・リンクス。また名前を呼び合えるなんて。
「くっそ、アッシュおめえなんで図書館なんかに逃げ込んだんだよ。満足に喜ぶこともできねえじゃねーか」
「じゃああのままお前にハグしに行きゃ良かったのか? とんだ地獄絵図だぜ」
「いいじゃねえか」
「俺は天使様だぞ」
ぶはっ、両方の呼吸器官が小爆発を起こした。「お、おま、ふざけんなよ」「お前だろ」ひい、堪え切れない笑い声が漏れ出る。笑みも涙も止まらない。一つに纏められない毛糸玉のような感情がぐるぐるぐちゃぐちゃ身体中を転がって、不快じゃないのがどうしようもなかった。
ごほん、後ろから咳払いが降ってきた。涙と鼻水をぐいと拭って振り返る。
司書らしいお姉さんが、笑い泣きしている俺たちを気味悪そうに見ながら、本の管理者らしく言った。
「静かにできないなら、出て行ってちょうだいね」
目を見合わせる。アッシュが人好きのする笑みで首を振った。
「すみません。静かにしてます」
どうやら、閉館ぎりぎりまでここを出ないつもりらしい。
ぽつぽつ、ひそひそ。
ひとしきり各々涙を流し終えると、冷めやらぬ興奮を押し隠し、図書館のどこかで生まれている小声会話協定を、戦略を練るかの如く視線だけで結んだ。
適当に持ってきた本に目を通すふりをして、当人たちにしか聞こえない声量の会話が始まる。
――
なんでまたその髪型なんだよ。
――
分かりやすいだろ。
誰に対して。
お前と、英二に。
ふうん。
……
ま、遠目で見てもショーター・ウォンだってすぐ分かったよ。
逃げ出すくらいにな。
るっせえ。
おめえだって見た目変わんねえじゃねーか。分かりやすいぜ。金髪緑目。
俺は生まれつきだ。
……
生まれつきだった。
何?
生まれつき、全部、覚えてたんだ。
アッシュ、
だから、今、お前が想像してる以上にびっくりしてんだよ。なあ、ショーター、また会えるなんてな。
信じてたからな。
俺もそうだ
……
いつか、来ると、思ってたんだ。
ご感想は。
ショーター。
ん?
俺を殺さないのか?
生物化学がどうたらこうたら書かれている分厚い本(学生用の資料ともいう)から目を上げると、真っ直ぐアッシュが俺を見つめていた。少年刑務所の図書室の記憶がダブって見えたが、あの頃の奴にそっくりだったが、俺はそれほど昔を引きずるつもりはなかった。全てひっくるめて、また三人、平和に今を生きてみたいと思っている。
興味が欠片も湧いてこない手元に視線を戻した。
「殺さねーよ」
……
なんで?
理由なんざいっぱいある。
全部教えろ。
はあ。まず一つ、俺はもうギャングじゃない。よっぽどのことがなきゃ人を殺さない。
……
よっぽどだろ。
二つ、初対面のガキを前世か何かの因縁つけて殺すほど、俺は狂人じゃない。
…………
。
三つ、そもそも俺はお前を殺す動機が何一つない。
そ、
四つ、俺はまたお前と友だちになりたい。五つ、もしお前が俺に対して後ろめたさとか懺悔とか抱えてんなら、それは俺も一緒だ。お前も俺を殺す権利がある。お前俺を殺したいか?
っ、馬鹿言うなよ。
だよな。お前も馬鹿言うな。六つ。最後に。
…………
なんだよ。
英二を探すの手伝え。
がたん、真向かいの椅子が鳴った。今度はこっちが真っ直ぐ見つめる番だった。アッシュは立ち上がりかけた腰を下ろし、大人しく座り直す。俺を半ば睨みながら本(こちらも分厚く、何かの資料だろうが、こいつなら本当に読んでいそうだ)のページをめくった。お互い泣いたばかりの腫れぼったい目を合わせ続け、アッシュが先に逸らした。
ショーター、お前、俺を探してたんだな。
ああ。つっても、俺が思い出したんはつい最近よ。思い出したっつーか強引に呼び起こされたっつーか
……
。
お前の、記憶は、あそこで途切れてる。俺が殺した、暗い地下の部屋で。
……
お前は俺を解放してくれたんだ。
謝ることもできない。それで済む、問題じゃない。
謝る必要がないんだって。むしろ謝りたいのは俺の方で、だから何か悔やんでんなら俺のために一緒に英二を
――
。
「俺は、あいつを置き去りにして、死んだ」
それはもう静かに。
俺にしか気づかれることなく静かに落ちた言葉は、鼓膜を通り、脳を揺さぶった。
「すごく、満足して、死んだんだ。幸せな、これ以上ないほどの、穏やかで安らかな、死だった」
アッシュは俺を見ていない。どこか遠く、生まれながらに持っていたと言ういつかも分からない記憶を思い起こしている。ふと瞳が陰った。胸を押さえ、泣きたいような笑いたいような怒りたいような顔をして言う。
「あいつ、たぶん、何も覚えてない。分かるんだ。分かるんだよ。あいつは、俺とずっと一緒にいてくれようとしたんだ。でも、それは、もう、今じゃない。あいつは何も覚えてない。俺は、」
そこでぐっと押し黙り、俺は催促することなく待つ。奥村英二もこの世界のどこかにいるという確信は共通認識だった。そしてひそひそ話が続く。
ショーター。ぜんぶ覚えてる俺が、なんで自分から探しに行かなかったと思う。
そりゃお前、まだ十五歳くらいのガキが、
俺のIQは200超なんだそうだ。
ひゅう、
……
親は。
いる。金も持ってる。情報だってなんだって、探そうと思えばまずお前を探した。
じゃあなんで、
怖いんだよ。
こわい?
何もかもが。俺とお前は、二年間くらいの親友だったけどな、お前のことくらい分かる。いい奴だから、覚えてたって何も引きずらずに接してくるだろうって、はは、ほんとこの通りだった。お節介で、お人好し、だから
……
あいつを探そうなんて言うに違いないって。怖いこと、言うなよ。お前も、俺も、あいつより先に死んだ。あとがどうなったかは知らない。前も、今も、俺の世界の全てがあいつでも、あいつの世界の全ては俺じゃない。覚えてないってのはそういうことなんだ。わざわざ探し出して、もし思い出させたら、それが、良くないことだったら、
……
怖いんだ。
アッシュ、お前、
……
。
「聞き捨てならねえ」
がたん。
俺の椅子が鳴った。完全に立ち上がっていた。小声会話協定を一方的に決裂させた。
ふつふつと胸の内が煮えている。八つ当たりと言っても過言ではなかったが、言わずにはいられなかった。拳を握り締め、どうにかこのぐちゃぐちゃな激情が理解できるよう言語を捻り出す。
「二年間くらいの、親友だった?
……
ああ、そうだろーな」
不安でないわけではなかったのだ。
あの日、あのクリスマス、ステンドグラスの天使に刺されて、あるべき場所の動くべき心臓が脈打ちだした。その瞬間、俺が怖がらなかったとでも? アッシュと英二がどこかで生きていることを察せても、記憶があるかどうかは分からなかった。探し出して会ってからどうとでもすればいい、また友人になればいい、なりたい、その思いに突き動かされている間、俺だって。だって俺は、英二を殺そうとし、それをアッシュに止めさせて、そこで終わっているんだぞ。俺にとっての全てがそこまでなんだ。
ひどいことを言おうとしている。我慢ならなかった。何せ、ようやくアッシュと出会えて、それでこんな図書館で静かにしていられる方がおかしかったのだ。
「お前は俺が死んでから、暫く生きてたから
……
そんなことが言えるんだ。お前もさっき言った通り、俺の記憶はあそこで途切れてる。俺の、あの人生の中でお前と出会って続いた二年間は、決して短くなかった。代えの効かねえ、大事な、時間だった。そんな俺が今でもお前のこと親友だと思ってちゃ悪いのか? 親友“だった”? んだそれ、それに英二と出会ってからのあの時間を、今でも鮮明に覚えてたらいけねえのかよ」
「ショーター」
「お前にはお前の時間があった、俺には俺の時間があった。これは今でも同じことが言える。俺の知らねえ時間を過ごして死んで、ガキの頃から全部覚えてて、そんなお前が何をどう思おうが勝手だよ。俺の勝手でもある。くそ、いつだか分からねえ昔のこと引き出したくなんかないが、なあアッシュ。言わせて貰うぜ」
テーブルに乗り上げ、思い切り少年の胸倉を掴んだ。
「俺に英二を頼んだのは、お前だぞ」
呪いの言葉だ。
別に、俺の世界の全ては奥村英二だというわけじゃない。大切なものはたくさんあった。その中で、最後の最後に、最期に、多大な心残りがあるのが、あいつなのだ。そしてその存在は、こいつの全てなのだという。
覚えてなかったらなんだ。思い出させて辛い事態になったらなんだ。なんでそんな起こるかどうかも分からないことに怯えて、この生を悲しんでなくちゃいけないんだ。お前がそんなに前のことに囚われているなら、俺だって呪いを吐かざるを得ない。
英二を頼んだのはお前だ。そしてそれを守れず、お互いどれほど苦しい思いをしたか。今言ったって、考えたって、どうしようもないだろう。
「俺はあいつに会いに行く。へったくそな日本語で、あいつに話しかけてやるんだ」
後ろから肩を掴まれた。弾くと、羽交い絞めにされテーブルから引き剥がされる。静かな図書館に、俺の喚きが木霊した。
「いいかアッシュ、俺は英二に会いに行くからな! 難しいことなんか知るかッ、俺は会いたいんだ!」
口を塞ごうと半ば絞めにかかってくる腕に噛みつき、距離が開いていく中、金髪で、翡翠の瞳をじっとこちらへ向け口を引き結んでいる親友に、これだけはと吠えた。
「お前、自分のために跳ぼうとか思わねえのかよ
……
! 跳べるくせに! いやこの場合飛ぶってのが正しい表現
――
」
閉館間際の空間から追い出され、その日俺は今生で初めて。
警察のご厄介になった。
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