さもゆ
2024-11-15 00:12:28
32883文字
Public BF
 

【BF】アレックス+英二

アニメ映画みたいに本編とは繋がってない事件性のある話が読みてえって方向け。

2019.2.18 たまごのお粥pixiv投稿作品


 犯罪を好んで繰り返す人間というものは総じて思考か精神かがおかしく、英二を車に乗らせた男も疑いようもなくそういう類の人間だった。
 鼻歌でも口ずさみそうな雰囲気で車を走らせたかと思えば、「あっ」思いついたように停車させ、「目隠しとかさ、した方がいいと思う?」あろうことか英二に訊いてくるようなトチ狂い加減。ひとしきり唸ったあと「した方がいいか」自身のネクタイを外すとぽいと投げて寄越してくる。「目隠ししといてよ」こんな誘拐犯がいるのか。いるのだ。目の前に。よっぽどドアを開け「この人連続女児誘拐犯なんです!」と叫ぼうかと思ったが、銃を突きつけられてもいないのに生殺与奪の権利を握られている恐ろしさがあり、英二は自分で自分の目を覆い隠した。
 ふざけた状況の中、車が発進していく。

 どれぐらい走っていただろう。
 瞼の裏側でうるさく飛び散る不可思議な模様がすっかり黒く塗り潰され、なだらかな震動がゴトゴト歪になった頃、車が再び止まった。エンジンも止み、男がドアを開け出て行く音がする。それから英二の体の真横にあるドアも開けられ、「怪我しないようにね」手を取られてぞわりと鳥肌が立った。「……」頬の内側を噛んであらゆる感情を我慢し、促されるまま足を下ろした。じゃり、と小石を踏み締めた感覚がし、鼻は土と木と冷たい空気のにおいを感知した。鳥の囀りもする。都心を抜けた田舎かもしれないと思った。
「さて、抵抗されんの嫌だから、これ付けさせて貰うね」
 両手首を後ろに回され、ひやりと硬質なものが肌に触れた。かちり。手首を左右に引っ張るも、がしゃがしゃと離れられない。――手錠だ。「あんた、ほんとに子供たちを攫ったのか」なんだかこの男の手際はあまりにもちぐはぐではないか。
「きみにとっては、それが重要なんだね」肩を抱き込まれた。身を捩って距離を取りたかったが、更にぐっと密着される。耳元で和やかに囁かれた。「すぐに会える。優しいんだねきみは。だから俺も酷くしたくない」口の中に僅かに鉄の味が広がる。いくら噛み締めても不快や嫌悪を押さえるには足りなかった。

 ぎしり、と英二が腰を下した場所が軋んだ。ベッドかソファか、とにかく布がかけられた家具だということが分かり、ここが男のアジトなのだと再認識する。連れられてきてしまった。まんまと丸め込まれてしまった。
 馬鹿だ。馬鹿で、愚か。アレックスは早々に英二が彼との約束を破ったことに気づくだろう。今頃怒っているかもしれない。怒っているに決まっている。アレックスは決して英二を殴ったりしないが自分は頬を差し出してもいいくらいだ。……アッシュに対しても。ああもう本当に。僕は迷惑をかけないことを誓ったんじゃなかったのか?
 後頭部を手が撫で、目隠しが外された。視界は薄暗く、目の前に男の顔がありぎょっとして身を引く。どんと背中が壁に当たった。
「少しここで待っていてほしい。準備がいるからね」
 英二の頬を撫でると、男は離れ、部屋の扉から出て行った。
 そこで初めて、英二は深く息を吐いた。
 深呼吸をし、ともすれば激しく動き出した心臓と熱く巡り出した血潮の流れを感じつつ、念入りに部屋内を見回す。
 窓はなく、天井にぽつんと蛍光灯が白く光っている。ここに至るまでに階段を下りたため、地下室の印象を受けた。木の壁に、コンクリートの床、自分が座るベッドに、男が出て行った木製の扉。立ち上がり扉のドアノブを後ろ手に回してみるが、当然の如く鍵がかけられている。また一つ息を吐き、吸った。自分は馬鹿で愚かだが、そこで諦めるほど従順じゃない。
 万全な体制でアッシュとアレックスたちにド叱られてもいいよう、なんとか無事でいてみせる。そして何より優先すべきなのは攫われた子供たちだ。同じような部屋で監禁されている可能性がある。
「誰かいないのか!?」
 試しに叫んでみるが、声は反響もせず虚しく消えた。「マージ! キャロライナ、アマンダ! いたら返事をしてほしい!」あの男は、一言でも、三人の少女たちが無傷であると言っていただろうか。最悪の事態が頭を過る。日本にいた頃より、ちょっとばかしは、不穏な予想を立てるのが得意になったと思う。得意になんかなりたくなかったが、もしかして、もう、あの子たちは――
 その時、本当に微かに、自分の願望のせいで届いた幻聴かと勘繰ったが、声が聞こえた気がした。「……マージっ?」近くにいるのか? 部屋内に視線を走らせ、耳を澄ます。
――だれ?」声がした。「だれかいるの?」幼い子供の声だった。
 薄暗いせいで気づかなかった濃く落ちる影を壁に発見し、駆け寄って跪いた。そこには膝の高さに、亀裂から指も入らないような穴が開いており、「聞こえる?」英二が訊くと答えが返ってきた。「聞こえる、聞こえるよ。誰なの?」ハッキリとした少女の声だ!
 英二は背後の扉を振り返り、まだ男が戻ってこないことを祈りながら、壁に顔を近づけた。
「僕は英二。日本人だけど、下手でも英語が話せる。きみは?」
「マージ……アメリカ人で、英語しか喋れないよ。エージ? 英語じょうずだと思う」 
「ありがとう」 
 壁向こうじゃなく、囚われていなければ抱き締めていたかもしれない。
「マージ、何もされなかった? 怪我はない?」
「うん、怪我はないよ」 
 四歳児の声とはなんと幼気なことだろう。「そうか、良かった」心の底から安堵し、壁に額を預けた。「きみは、どうしてここにいるか、分かるかい?」「えっとね、連れてこられたの。知らない人だったわ」「そうだね、きみの他に、小さい子はいない?」「ううん、いるよ。今は眠ってるの」「キャロライナと、アマンダ?」「そうよ、あたしより一つ下なの」決まりだ。隣の部屋に連続女児誘拐事件の、被害者全員が揃っている。「エイジ?」マージが壁の向こうで途方に暮れたように言った。「あたし、……お家に帰りたい」
 なんのために攫ったのかとかこの際どうでも良かった。「マージ」この子たちを家に帰すんだ。「大丈夫。お家に帰ろう。僕が助ける」 
「やっぱり優しいんだね」
 ぞっとする穏やかさだった。
 戻ってきた男が、開けた扉の前で笑っている。

……逃げられないんだから、もっとゆっくりしてきて良かったのに」
 皮肉でも言わないとやってられなかった。子供たちを助けたい。助けてあげたい。ただそれだけなのに、それをするにはどうしたらいいかが分からない。かちゃかちゃと手首の錠が煩わしく鳴った。
「俺はきみのことが好きなんだよ」
 そういう話になるのか。
 思いつかないわけではなかったが、できれば思いたくないことだった。男が一歩一歩近づいてくる。
「びっくりだよね、一目惚れなんて。あいつのこと馬鹿にできないよなあ。赤毛好きには共感し兼ねるけど」
 その手には液体の入ったボトルが握られていた。ドラッグストアで見る、潤滑剤。
 男が眼前に立つ。
 緩慢な仕草で手が伸ばされ、逸らした英二の顎を掴み指が唇に触れた。
「黒髪黒目の方が綺麗なのにね」
 英二は思い切り口を開け指を噛んだ。
 瞬間、頬を打たれ脳みそが揺れ、床に倒れ伏す。「……っ、」ちかちか視界に星が散らばり、冷たい床に頬を擦りつけ痛みに耐えた。好きなら丁重に扱えよ! これはアッシュに執着し彼を傷つけた全ての人間にいつも思っていることだった。「ああ、ごめん、ごめんね」殴ったくせに男が狼狽えて英二の丸めた背を撫でてくる。狂ってる。「エイジ、どうしたのッ? 何かあったの?」壁の向こうからマージが心配していた。
「痛いことはしたくないんだ。嫌だろ? 俺は嫌だ、ねえ、大人しくしてくれたら、酷いことはしないから」
 お前の思う酷いことに、手に持っているそれは含まれないんだろうな。
 いつも、いつもそうなのだ。酷いことだと微塵も思わず、英二が大切に思うアッシュを組み敷いて、抵抗すれば殴り、抵抗しなければ彼が誘ったと嘯くのだ。その現場を実際に目にしたわけではない。彼が幼い頃から生きてきた地獄を知ったのだってつい最近だ。彼の地獄を極楽に変えることはきっともう誰にもできないのだ。それほどまでに深く傷ついて、なのに英二はただ傍にいることしか。……こんなとこで這いつくばっているわけにはいかない。
……分かった」
 英二はぽつりと言った。
 あるアイデアが浮かぶ。上手くできるとは思わなかったし、金髪緑目の綺麗な彼が敵にわざと見せつける妖艶さを真似できるとは到底思えない。しかしこの男は、認めたくはないが、どうやら英二を好いて抱きたいらしい。「本当?」男が顔を覗き込んでくる。英二は僅かに笑って見せ、壁に向かって声を張り上げた。「マージ! 聞こえるかい?」「なあにっ? どうしたの?」「耳を塞いで。手でぎゅっと両耳を押さえるんだ。できる?」「できる、できるけど、なんで?」「いい子だから、塞いでごらん。ね?」「わ、分かったわ」数秒待ってから、もう一度少女の名前を呼んだ。返事はない。
 いい子だね。英二は微笑んだ。
 男に向き直る。手錠をかちゃりと鳴らした。
「大人しくする。だから、痛いのは嫌だ……やさしくして」
 同性にそういう目で見られたことがなく、彼らには庇護欲を持たれるか苛つきを持たれるかのどっちかで、おぼこく野暮ったく愚鈍な自分じゃこれがどれほどの効果を発するか正直怯えがあった。
 つまるところその計算され尽くしていない態度が、誰かの性癖に刺さるとはあまり思えなかったし、だがそれが英二の精一杯な足掻きであったし、こういうのがアッシュのように誰かの胸の真ん中を故意に射止められるとは思わなかった。ヤケクソだった。
……おねがい、します」
 痛みか怒りか羞恥かよく分からない涙で滲む視界、ブラウンの瞳がへにゃりと弧を描いた。
「もちろん、そのつもり」
 砂糖を煮詰めたような声に今日一番の悪寒が走る。まじか、マジなのか。やったよアッシュ! こいつ頭おかしい! どくどく速まる鼓動とは反対に、ゆっくりと手錠が外された。男が覆い被さってくる。服の裾から手が入り込み、英二の腹をぺたりと這った。「緊張してるの? 安心して、優しくする……」ああそうさ、緊張してるよ。
 人にスタンガン当てるの初めてなんだ!
 男の背に腕を回し、持っていたスタンガンのスイッチを押した。悲鳴と、電流の弾ける音と、「安心して、死にはしない!」アレックスが説明してくれた使い方の通りにしようとそのまま押しつけ続ける。
 やがて悲鳴が途切れ、糸の切れた人形のように男がどさりと英二の上に倒れた。
 荒い呼吸を繰り返す。起き上がり、男をどけ、その瞼が閉じきっていることを確認し、触れられた腹をごしごし拭いながら壁にもたれかかった。
 アレックス。
 手の中にある小さなスタンガンを見た。ごめん使っちゃった。……ありがとう。
……エージ?」 
 マージの小さな声がした。
「まだ塞いでなきゃだめ? ねえ、さっき、悲鳴みたいなの、……だいじょうぶなの?」
 大きく深呼吸し、唾を飲みこむと、英二は壁をこんこんとノックする。「マージ、もういいよ」英二がまだ幼く、そんな自分より小さな妹を漠然と守ってあげなきゃと思っていた昔をふと懐かしみ、怖いことが何もないように力強く声をかけた。
「あとちょっとで、お家に帰れるから。待っててね」

 部屋を出れば上に続く階段があり、最上にはまた扉があって、そこからそろりと顔を出すとなんてことはない、どこかの家の廊下が広がっている。右に視線を移すと子供部屋にでも繋がっていそうな小洒落た装飾の扉があって、位置的にあれが英二の連れ込まれた地下室の隣だろうと察した。廊下の突き当りにある窓からは木々が見え、空はまだ明るかった。家中を観察している暇はない。英二はすぐに隣のドアノブに手をかけた。
 あっけなく回り、ドアを引く。陽の光が差し込む廊下とは違い、ひんやり暗い下に続く階段。同じ造りだ。
 英二はなるべく音立てないよう階段を下り、また現れた木製の扉の前で暫し立ち尽くした。
 これ、鍵が開いてなかったり、するもんじゃないだろうか。失念していた。全く正常に頭が働いていない。攫われた幼い女の子たちのために、慎重に正しいことをしなければ。ええと、ええっと。
 そっとドアノブを握り、ドアに耳を当て、空いた手で控えめにノックをしてみた。こん、一回。こんこん、二回。三回目は、少し力を入れて。「……マージ?」呼びかけに応えはない。「マージ、英二だ。この部屋にいる?」強めにドアを叩いた時、中からようやく声が返ってきた。「エイジ!」ここにいる! 感極まってドアノブを捻った。
 開いた。
「はっ?」鍵を探すからごめんね、もうほんの少し待っていてほしいんだと言うつもりだった口から間抜けな一音が漏れ、「えっ、あい、なん、」困惑したまま素直な体はドアを引き開け、中に足を踏み入れていた。
 仄暗く、一つだけ天井にくっついている照明の頼りない白い光の外にいる少女が、何より先に視界に飛び込んできた。「マージ!」ニュースで何度も見た、明るい茶髪に丸い目の形、四歳のマージ・エリオットその子が、部屋の隅で佇んでいる。英二は更に歩み寄り、「良かった、ほんとに、大丈夫? 他の子は?」反対方向の隅で毛布を被って寝転がり、胸を上下させている子供二人を認めて、「無事なんだね」ぴたっと足を止めた。
 ちょうど証明の真下、部屋の真ん中ら辺で動きを止めた。止めざるを得なかった。冷たい汗がぶわりと滲み出る。
……マージ」
 裸足の少女は、傍らで床に膝を立てている人間を、気遣わし気に小さな手で撫でていた。少女と身を寄せ合うようにして座っているその人間は、ブラウンの長い前髪から覗く目で、英二を見ている。
 青い目だった。
 青い目の男だった。 
「マージ、そいつから、離れて」
 あの日、マージの足をトランクに押し込めていた男だ。

 誘拐犯が複数だと思わなかったのかとか、あの男は自分が攫ったとは一言も明言していなかったとか「あいつは赤毛好き」と意味ありげなことを発していたではないかとか、自分は確かに疑いを持っていたはずなのに、馬鹿みたいにここまで深く考えていなかった。みたいじゃない、今日はもう自分を馬鹿だと改めて思い直す日だ。不穏な予想を立てるのが得意になったなんて、それは結局気づかない振りをしていたら無意味に成り下がる。結果がこれだ。
 手足の末端から冷え込んでいく感覚に襲われながら、少女の目線に少しでも合うよう膝を屈めた。
「そいつから、離れて。おいで」
 こう言ったのは、男がなんのリアクションも示さなかったからだ。だって、明らかに、少女は自分から男に身を寄せ、労わるようにシャツを握っている。ちらちらと英二と男に目をやり、困り果てている。こういうのを、なんて言うんだっけ。そう、確か、ストックホルム症候群──。
「この人もなの」
 マージが拙く言った。「この人もよ、一緒なの、あたしたちと」「ああ、いや、よく聞いてほしい、その男は」「男?」不思議そうに眉根を寄せられた。「この人、女でしょ」何を言ってる? こちらの戸惑いを不安に思ったのか、シャツを握る手に力がこもったのを英二はどこか非現実的だと見つめ、そこで、初めて、最低最悪な現実に気づいた。
 男が壁に預けている右半身に目がいく。そこから視線を下ろしていくと、手指に何かが引っ掛かっていた。
「おい、」
 冷え切っていたはずの体とは裏腹に、頭に急激に血が集まるのを感じた。「その子に、何をした?」男は注射器を持っていた。小さく、細く、中身によって薬にも毒にもなる医療器具。
「子供たちに何したんだ、お前」
 自分が、今、飛び道具でも持っていたならば、どれほど良かっただろう。傍に人質がいるしこの距離でも拳銃など扱えやしないだろうが、いやこの際撃たなくてもいい、ぶん殴ってボコボコにしてやりたい。なんで、どうして、こんなことが起こり得てしまうんだ。
 少女には男が女に見えているのだ。同じく囚われたかしている、一緒に助け出されるべき存在として認識されている。幻覚剤か、精神操作か、そういうことに詳しくない自分では分からないが、二度目だ。人の頭の中を破壊し操作し生きる屍とする劇薬がある世界にいて、自分の手の届く範囲にどんなものがあったってもうおかしくない。手が届く範囲。届かせないと駄目だ。マージを男から引き離さないと。
 持っているのは注射器だけか、素早く視認しようとしたところで、それまでずっと英二を見ていた男が不意に目を伏せた。
「潮時かなァとは、思ってた」
 ぼやかれた。
「あいつの趣味は理解できねえ……めんどくさいことしやがって」
 不平不満を漏らしている。
「まあ、いいけどね。幸福追求は仕方ないし」
 やれやれというふうに肩を竦めていた。「はあ?」人間の形をしているだけで中は全くの別物ではないかという相容れなさに心底腹が立ち、軽蔑し、大きく一歩踏み出して形振り構わずマージを連れ戻そうとした。
「マージ」 
 しかし男が少女を引き寄せたために、英二は突っかかろうとしていた足を止め、歯軋りする。「やめろ、何するんだ」ぼんやりしているマージの耳に男の唇が近づく。随分昔のように感じて、その実まだ一年と経っていない辛く悲しく悪夢の光景がフラッシュバックした。やめてくれ。「やめろ!」
 男が囁いた。
「マージ。――キャロライナとアマンダのとこで寝ておいで」
…………は?」
 少女が、分かったわ、と頷いた。

 どこか焦点の合っていない目に涙を湛えながら欠伸をし、マージが英二の横をすり抜けて、奥で丸まっている二つの塊を覆う毛布に身を捻じ込んだ。三人分の小さな足がはみ出ている。呼吸に合わせ、毛布が正しく上下していた。
 英二は人知れず息を吐き、警戒を解くまいと男を睨みつけると「そんな怖い顔するなよ」無愛想な顔の眉をひょいとあげられる。「まさかとは思うが、俺が子供を使ってお前をどうにかするとでも思ったのか? 誰がんな非人道的なことするかよ」「子供を攫うのは非人道的じゃないのかっ?」男が鼻で笑った。「違法なだけだよ」
 英二は地団駄を踏みたくなった。独自の倫理観と屁理屈を唱える人間しかいないのかここは。だがまださっきの男よりは会話ができている(ような気がするだけだ。この短時間で英二の意思疎通力の基準値は通常より下がっている)。男は面倒くさそうに壁を支えに立ち上がった。「動くな」男の視界から子供たちが映らないように体をずらし、右手にあるスタンガンをぎゅっと握り締めた。
「俺は、あの子たちを、痛めつける気はないよ」
 男が腰に手をやる。
「好みのものなら、大事にできると思って、わざわざ選んだんだからさ。モルモットとは思ってない。被験者にだって自由と意思がある」
「黙れよ」
「そんな子たちに、後始末なんか頼むわけないだろ? ……潮時だとは思ってたが、あの野郎のヘマでお縄になんのは癪だ」
 服の下から銃を取り出し、撃鉄を起こされた。
「殺すなら自分の手でだ。じゃあな」
 間髪入れず、銃声が轟く。

 ぼたぼたと鮮血が床に滴っている。
 英二の目の前で、銃を落とした男の右腕は、瞬く間に袖を赤く染め上げている。
「くそ、」男が憎々し気にこっちを見る。そこから二発、また音が響き、左腕と右足を跳ねさせた男が床に倒れた。呻き、もがいていたが、静かになった。息はしているようだった。
 英二は後ろを振り返る。「……あれっくす」かさかさと声が出た。「あ、アレ、アレックス」リンクスのナンバー2、英二のお守り、秘密の共有者で約束を破ってしまった友人が、銃を下ろしつかつかとこちらに歩み寄ってきていた。「アレックス!」万感こもごも到って名前を叫ぶしかなく、駆け寄ろうとするも、先に大股で距離を縮めたアレックスにがっしりと肩を掴まれた。「え、あ、えっ」大して広くない部屋の壁際まで引きずられ、なぜか追い詰められる。「……アレックス?」
……よう奥村英二くん、日本人は反省する時どうするんだっけか」
 それは、初対面以来の眼光の鋭さと、不良加減だった。「せ、正座、正座します」「へェ」英二は目を白黒させながら、床を指差した彼の指示に従う。怒涛の展開にわけも分からず正座するしかなかった。



 ああおめえは全くどうしようもねえ奴だな何かあったら言えっつったよな、約束する絶対だ! って断言したのはどの口だ? この口じゃなかったか? 俺がどんだけ色んな意味で肝を冷やしたと思ってんだいやいや分かってるさお前が無鉄砲にもガキを助けるために行動したのは、無謀にも、馬鹿なことに、銃も撃てねえくせに一人で突っ走って行きやがってこうして無事にいることは分かってるさ、さて、なあ、英二、俺がなんで怒ってるかちゃんと理解してるか?
「あの、」
 両足を折り畳んで縮こまり、正座という反省の姿勢を取っている英二は、見下ろしているアレックスをおずおずと見上げ、大人しく黙っていた口を開いた。「あの、ごめん、アレックス、きみがとても怒ってるのは分かるんだけど、早口すぎて何言ってるかあんまり聞き取れなかった……
 そうだろうな。アレックスは頷いた。わざとだった。自分の八つ当たり気味の説教をゆっくり噛み砕いて言い渡したら、彼は全て受け入れる必要はないのに飲み込んでしまいそうな危うさがある。説教された内容を改めるかどうかは別として、その瞬間は確かに「うん」「分かった」「気をつける」を本心として口にするに違いない。自分は既にそうされている。
「あのな、英二」
 仁王立ち腕組みしたまま、しかしこれだけは頭に叩き込んで貰わねばならないと顎をしゃくった。「お前の国の住人と違って、ここじゃみんな銃を持ってる。犯罪者はそれを躊躇わず使う。それをいい加減、当たり前にしとけ」大きな黒目を見開き、ショックを受けたような顔をされるが、訂正するつもりはない。
 だからもっと慎重に行動しろとか、守られる側に甘んじろというわけではないが慣れねえ無茶をするなとか、俺が来なかったらお前は撃たれてたとか、そうなったら本当に本気でアッシュがどうなるか分かんねえぞとか、諸々の意味がある言葉をそっくりそのまま理解してくれるとは思わないが、「うん」英二は一度瞼を伏せ、真摯に見上げてきた。
「うん、信用がないかもしれないけど、分かった。ちゃんと、本当に」
 きっとその肯定にも様々な意味があるのだろう。
 アレックスとて全てを考察するのは無理であるし、しようとは思わない。なぜなら英二には英二の考えがあって、それは自分たちに危害を加えようとするものでは絶対ないということを、アレックスは知っているからだ。今回のようなことは二度と御免だが、こいつは二度も三度も他人のために同じことをしでかしそうではあるが、アレックスは「よし」とすることにした。二度目三度目があった場合も自分はアッシュの命令に駆けずり回ることになると、半ば仕方ない気持ちにさせられる辺り、益々英二のことをとやかく言えない。馬鹿である。揃いも揃って。
 とにもかくにも、もしもの何かは予感通り起こったが、一等最悪なことには陥っていない。自分の喉から深々と溜め息が溢れた。「ごめん、アレックス……」気の毒なほどしょぼくれている英二から視線を外す。
「いや、いい。無事で良かった」 
「助けてくれて、ありがとう」
「ああ、礼を言うなら、……
……よくここが分かったね」
「まあな」
「あとね、きみがくれたスタンガン、結局使うことになってしまったのは誠に申し訳ないと思ってるけど、それでも助かった。きみのおかげだ、……あって良かった」
「そうか。……あ?」
 聞き捨てならない台詞に、照明が充分じゃない中で彼の顔をまじまじ見つめる。英二が俯いた。
「それでもう一回訊きたいんだけど、なんでここが分かったの? もしかして、というか確定事項だろうけど、アッ」「ほんとに訊きたいのか?」「え?」「俺も訊きたいね。なあおい英二、今気づいた」アレックスは正座している英二の前に跪き、顔の右側の壁に手をついた。
「殴られたのか?」
 目に見えて申し訳なさそうにしていた英二の表情が引きつる。普段つるりとしている頬の右が、赤く腫れていた。派手ではないが、唇の端も切れているように思う。「殴られたんだな?」黒目が泳ぎまくった。「あの、アレックス、なんだか怖いよ。ギャングみたいだよ」生憎とギャングだ。
「誰にやられた? 後ろで伸びてる奴なら、俺はトドメを刺さねえといかなくなる」 
「そん、そんなことしなくていい」
「勘違いすんなよ、アッシュのためだ」
「してないよ、駄目だよ、それにそいつじゃない」「他にもいるんだなっ?」「だ、大丈夫、気絶してる。気絶させたっ、きみに貰ったこれで!」ばっと翳されたのは使う機会がないよう願っていたスタンガンだった。「……よく使えたな」スタンガンも使えないような十九歳だと侮っていたわけではないが、少々意外だった。たとえば連れ去られる時とか、相手が不用意に近づいてきた時とか、背後からとか、威嚇目的じゃなかったら密着しないと効果がないものだ。それを気絶させるまで使ったという。
「へええ」
 ふうん。全然構わない。
「やったな」
 心の底からの称賛だったし、肩を叩いた手は自分でも驚くほど労りと表彰で軽かったが、アッシュのことを思うと諸手を挙げて喜べない。殺すべきか、英二を殴った腕を折るかくらいしなければ、自分をここに送らせた誰より英二を守りたかったであろうボスに申し訳が立たない気さえする。落とし前というやつをアッシュの部下である自分がしなければいけない使命にも似た気が。
「ふふん、僕だってやればできるんだぜ」
………そーだな」 
 物騒なことを考えるアレックスの前で、英二があんまり嬉しそうに得意げな顔でそうやって笑うものだから、アレックスは途端に毒気が抜かれてしまう。
 お前、そんな、ああくそ。そうだなお前はよくやった、よくやったよ。俺にできることはもうここからさっさとお前を連れ帰ることだけだよ。「帰ろうぜ。コングとボーンズもまだお前のこと探してるだろうし」「あの二人も?」「ああ。この家ん中を血眼になって探してる」「……アッシュの命令で?」「お前のことが心配だからな」「それは、そうじゃなくて……」立ち上がり携帯を操作するアレックスを、英二が上目に見てくる。まあそうだろう。大体英二が考えてる通りだ。申し訳なさと感謝と口惜しさで複雑に揺れる瞳に、今は全て説明するほど暇がない。「お前って犬に似てるって言われないか?」「エッ、何急に」「待てができそうだって話だ」「…………わん」非常に嫌そうな顔で吠えられた。
「もう正座解いていい?」
「反省したか?」
「とってもした」
「よし、じゃあ行こう」コングとボーンズ、アッシュにメッセージを送り終え、携帯をしまいつつ数歩歩く。「あっ」後ろで英二が声を上げた。なんだと振り返れば、膝立ちになったまま両手を彷徨わせこの世の終わりだとでも言うように「足がほんのり痺れてる」「……」「うわあ、なんか、椅子が主体の生活に慣れきってたんだな」それから部屋の隅に目をやった。
「あの子たちは?」
 アレックスも視線を追う。毛布にくるまっている、攫われた三人の少女たち。
 英二はきっと、アレックスたちが助けに来た経緯について、茶葉を買いに行ったはずの自分が戻って来ず、秘密を共有していたアレックスが勘づきアッシュに連絡した、というあたりは完全に把握しているだろう。そうして詳細は分からないながらもアッシュの手腕で助けに来られたことも先程の居た堪れなさそうな態度からして分かっているはずだ。アッシュに迷惑をかけまいとしていたのに、最終的にこうなってしまったのを情けなく思っているのだろう。心情は察する。けれど、まさか、最初からだとは思わないだろう。
 最初から、なのだ。
 アレックスはアッシュに電話した時のことを思い起こす。
 あの時自分は携帯の向こうからでも射殺される気概でいたのだが、アッシュは想像に反して冷静だった。冷静に、殺気をふんだんに含めた声で「なるほどな」と呟いた。そして世間を賑わす誘拐犯の素性、犯罪事情、アジト、アレックスたちがどう動くべきかをつらつらと並べ立て最後にこう言ったのだ。「英二を頼んだぞ」。その時の自分の心情の変化ったらない。誇張でもなんでもなく震えた。「イエス、ボス」その震えが我らがボスの尋常ならざる能力に対してか、それとも大事な日本人を頼まれた信頼に応えねばならないというものに対してか、きっと両方だろうがアレックスは命令を遂行しようと動いたのだった。
 劇薬事情を毎日毎日調べて行けば、全く関係のない末端の噂話や犯罪者の黒い話を手に掴んだりする。アッシュは情報の取捨選択を決して間違えるような人間ではなく、そして見ず知らずの人間を気にするほどお人好しではない。今回たまたま耳にした話が、たまたま連続女児誘拐犯の作る実験的麻薬のことで、たまたま大切な同居人が誘拐された少女たちを気にし過ぎているのを不審に思い、まさか連れ去られるとは思わなかったが結果、見ず知らずの人間のためではないお節介を発揮する羽目になったのだという。つまり、要約すると、英二がアッシュに迷惑をかけまいと思い悩む前からアッシュは英二のために手間をかけていたと、そういうわけなのだ。
 これを知ったらこいつは怒るか泣くかするんじゃないだろうか。何せあんなにアッシュのことを思っていたのに、この表現が正しいかはともかくマウントを取られていたことになる。アレックスは多少の同情を隠しながら言った。
「そのガキど……子供らは大丈夫だ。救急車も警察ももう呼んである」
「そうなの? じゃあ、せめて、上に運んであげた方が……
「いや、俺たちの痕跡を残すのはマズいだろ、色々」その痕跡を消すためにアッシュは指示の立場からここに来られず、自分たちに託したのだから。「そっか、そうだね……」「もう行こう。動けるか?」英二は眠る少女たちを眉尻を下げきって見ていたが、「うん」壁に手をつき立ち上がった。「帰ろう」
――どこに?」 
 その時、執着深い声とともに、発砲音が二発轟いた。
 先の一発は自分の右肩を掠ったようだが、後の一発は相手の腕に命中した。部屋の入り口で知らない男が銃を取り落とし、アレックスは隙を逃さず腿に二発撃ちこむ。男がこちらを睨む目は茶色く、どこかで見た顔だと思ったがまだ歯向かってきそうだったため腕にもう一発。男は倒れ、静かになった。
「っ、アレックス」
 あいつが英二を殴ったのだろうということと、あの顔はそうだマンションの前に佇んでた野郎だったということを同時に悟り、怒りのままに気絶している男に銃口を向けた。
「アレックス!」英二が叫ぶ。びくりと引き金に伸びている指が浮いた。顔を見た。
……殺さねえよ」アレックスは銃を下ろす。「誰も、死なないさ」アッシュのために殺した方がいいがアッシュと英二のために殺さない方がいい。なんとか留飲を下げようと銃をしまうアレックスに、「そうじゃない、違う」英二が駆け寄ってくる。  
「ごめん、ごめんアレックス、きみ怪我を」
 間近で見た英二は今にも泣きだしてしまいそうで、今の今までの威勢の良さと呑気さが一瞬にして崩れ去った要因が突然の銃撃ではなく、自分のじりじり痛い右肩であることがどこか信じられなかった。「ああ、いや、うん」他人事のように返してしまう。
「ほんとにごめん、待って、僕は本当に迷惑しか……ぐずぐずしてたからだ、ごめん」
「いいって」
「だって、僕がもっと――
「今度はもっと威力が高いスタンガン送ってやる」
「ありが、ありがとう、ごめんね。大丈夫? アレックス、痛くないか? 血が滲んでるし大丈夫じゃないだろ、ええっと待ってハンカチ」「うるせえよ、大丈夫だよ、怪我くらい静かにさせろ」英二がぐっと押し黙った。唇を引き結び、喉まである言葉を飲み込むと、アレックスを見上げてくる。目もうるさいな、とアレックスは思った。「帰るぞ。いいな?」英二はこっくり頷く。「うん、ありがとう。……帰ろう」帰ろう、か。
 自分たちが帰るべき場所はあの嘘みたいな高級マンションの一室で、そこには自分たちが種類は違えど慕っているアッシュがいる。
 そうして紛れもなく正しく玄関扉を開けられるのを待っているのだ。それはなんて不思議なことだろう。この日本人はそんな特別な存在のくせに、アッシュだけじゃなくアレックスたちのことも案じ、帰る場所が同じだと思っている。お人好しで、お節介で、馬鹿で、明るく、優しく、弱くて強い。
「アレックス? どうしたの」 
……今日だけで三日分くらい名前呼ばれた気がする」
「そんなに呼んでないだろ」
「俺がアッシュに殺されたら墓はお前が建ててくれよな。頼んだぜ英二」
 一貫しない言葉に、えっ、と呆ける英二を促し部屋を出た。
 アッシュが、英二のために転がる小石を事前に拾おうとしても、今回のようにこの日本人は誰かのためなら自ら石にぶつかっていくかもしれない。その時は、とても面倒で仕方ないが、自分が掘削機になろう。それが二人のためになると、確信した。どうしようもない奴しかいないのだ。
 アレックスはやれやれと痛む肩を竦め、満更でもなく笑うのだった。



 何かありそうだったら必ずアレックスかアッシュに言うという妥協してくれた約束を破ってしまった以上、もう一つの誓いの方はなんとしても守らなければならない。
 アッシュの怒りの矛先を自分だけに向ける。
 正直誘拐犯にスタンガンを当てるより難易度が高い気がしないでもないが、アレックスを巻き込んだのは自分であるし彼は全面的に何も悪くない。ああくそ、なんで自分は頬など殴られたんだろう。アレックスに傷を負わせてしまったんだろう。無傷だったらまだ情状酌量の余地があったのに!
「あの、……あの、アッシュ」
 帰りの車の中で必死に考え、運転中のコングと助手席のボーンズに何度もバックミラー越しに「考えても無駄むだ」そうマンション前で降ろされ二人が借りた車を返しに行く間際まで目線でも口でも訴えかけられていたが、確かになんの最善策も浮かばなかったが、エントランスの前に立つアッシュを見れば言うことは一つだ。
「ごめんなさい」
 英二は深々と頭を下げた。
 それは傍から見ればハウスキーパーが隣に無愛想な青年を置き、目の前の容姿端麗なお坊ちゃんに謝罪するという珍光景だったが、英二は至って真面目だった。
「勝手に行動して、挙句きみに助けられて、アレックスも巻き込んでしまって、本当に──」続けてごめんを繰り返そうとすると、下げている視界にスニーカーが入り込んだ。ハッとして頭を上げると、目の前にアレックスが立っている。
「あー、ボス」アレックスが言う。「怒るなら俺だ。なんとなく予感がしたのに、防げなかった」そりゃないだろアレックス! きみが僕の墓を建てるんだ! ずずいと怪我していない方の肩を押し退け隣に躍り出る。「違うからアッシュ、違うんだ、ぜんぶ僕が悪い。本当だ、きみも分かってるんだろ。車の中でもアレックスはなんにも教えてくれなかったけど、僕のせいでいらない心配と尻拭いをしてくれたことは、いくら僕だって気づいてるんだぞ」慌てすぎていつも以上に訛りの強い英語になってしまったかもしれない。構うもんか。ニュアンスが伝わればいい。責められるのは僕だけだ。譲れない。
「お前ら何言ってんだ?」
 アッシュがほとほと奇妙なものでも相手にするように眉を顰めた。
「へ?」
 自分の口だけじゃなく隣からも一音零れた。
「アレックス、俺はお前らが出先で怪我したってことしか聞いてないぜ」
 首をちぎらんばかりに振り向き、アレックスの顔を凝視するが、彼は彼で信じられない顔してボスを見、それから英二と目を合わせた。凄まじい勢いで言葉もなしに意思が疎通し合う。
「そうなんだよ!」英二はアレックスの肩に腕を回そうとして自分が巻いたハンカチに寸の間躊躇い、代わりに背中へと勢い良く回した。「そう! なんというかこう凄い転け方しちゃってさー!」アレックスも英二の背中を叩く勢いで腕をやる。「凄かったんだぜボス、英二ったらこう、なあ!」「僕なんかほら、ほっぺた地面に激突したし、それを助けようとしてくれたアレックスの肩を擦る感じの、こう、」「NASAに捕獲されてもおかしくねえ転け方だった!」「NASAに捕獲されてもおかしくない転け方だったんだよね!」あっはっは! 二人して乱痴気騒ぎのように笑い合い、航空宇宙局に捕獲されそうな転倒ってどんなだよとお互い不審がったが、謎の疾走感と一体感が生まれたのは確かで、それを見ていたアッシュがハハっと笑った。「動画投稿されねえように気をつけろよ」むしろそんな動画があったら見てみたいレベルだ。
 というか、これは、一体どういう……「英二」アッシュが翡翠の瞳で英二を射止める。「無事で良かった」後ろのエントランスを振り向いた。「手当てしよう、もう中に入れ。俺はアレックスに少し話があるから、あとで行く。すぐだ」英二はどうすればいいか分からなくなった。
「おかえり」
 けれども正面切ってそれを言われてしまったら。
……ただいま」
 自分たちの家に入るしかないではないか。
 半日ほど空けていただけなのにどうしてかとてつもなく懐かしさを感じ、ここはアッシュに帰って来てほしい場所だったはずなのにそこに自分がいないと家とは呼べないのではないかという大変な自惚れ(誰かにとっては事実同然なのだが)を抱き、口元が緩んだ。叶うなら、ずっとがいい。このままがいい。けれど、誘拐された少女たちのようにある日突然大事な場所から引き剥がされてしまうかもしれない。ううん、彼にとってはそれが常だったのだ。ならばやはり自分が傍にいないと駄目なのだ。そうして、いつか、ある日突然、苦しみの泥濘から救い出されて、そりゃ泥は纏わりついてくるだろうが干乾びて徐々にぽろぽろ剥がれていってくれるかもしれない。マージたちも、そうであってほしいと願う。無責任なことだけれど。
 幸せにならないと駄目だ。
「じゃあ、僕、戻るね」 
 英二は玄関扉に歩み寄るが、振り返って満面の笑みを浮かべた。
「早く来いよな、僕待ってるから」
 それから、返事も待たずに、軽い足取りで家へと入って行く。
 ちょっとおかしいかもしれないけど、アッシュとアレックス、もちろんコングやボーンズが部屋の扉を開けたら、自分が「おかえり」と言ってやるんだ。
 僕たちの家は、ここなのだ。
 英二はふふっと笑みを零した。



 英二の姿が完全に見えなくなった頃、アレックスは死刑を言い渡される覚悟であったし、なるべく何も思わないようもうすぐ停止する呼吸だけを意識していた。アッシュがおもむろに口を開く。
「アレックス」
……イエス、ボス」
「よくやった」
「は」
「英二を守ってくれただろ」
「え、いや、俺は、」
「助かった」
「は……
 ハンカチを巻いていない方の肩をぽんと叩かれた。「お前が仲間で良かったよ」一瞬その言語がどこの国のものかさえ呼吸だけを頑張っていた脳が翻訳処理を惑い、全身硬直している間にアッシュは踵を返してしまう。「え、な、アッシュ」名前を呼べば自動ドアが開きそうな距離で振り返られた。
 口を数回開閉し、驚愕の余韻がある状態で訊いた。「撃たねえのか?」「何を?」「俺を」「なんで?」「いやだって俺は――それに、英二は、あいつに言わなくていいのか? 色々、お前が元からなんとかしようと」「俺は」アッシュが言う。
「あいつが俺のために隠し事してんのを、暴くつもりはない」
 それは、なんて。
 めんどくせえ奴らなんだろう!
 アレックスは唖然と棒立ちになり、アッシュがニヤリと笑って「何してんだ、早く行こうぜ。NASAに捕獲されるぞ」エントランスを抜けて行った。当たり前のように自分も部屋に招かれている。こんなんだったろうか。部下である自分と、ボスであるアッシュは、こんなんだったろうか。アレックスは周りから彼の片腕などと言われているが、そこにはどうしたって能力的にも経験的にも埋められない距離が存在していて、しかしみんな分かっていて全部ひっくるめてアッシュについているのだ。それがどうだろう。英二が来てからというもの、なんだか、不意に、本当に隣に立てているような気がしてくる。
 叩かれた肩と、ハンカチの巻いてある肩を交互に見やり、アレックスは本日何度目かの溜め息を吐くと、マンション内に入って行った。
 彼らの家が、待っている。