さもゆ
2024-11-14 22:09:29
23960文字
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【A英】ネクロマンサーってやつだよ/キスじゃなくても良かったんじゃないのか?

幽霊が見える英二と死霊使いアッシュの話(全然死霊使ってない)。

さんかく窓の外側は夜
という作品のパロディちっくな内容です。

2018.12.15 & 2018.12.24 たまごのお粥pixiv投稿作品


「ごめん、本当に……ちょっと待って。そうか、うん、……うん。きみ今、何語で喋ってた?」
「ロシア語にでも聞こえたのか?」
「いや、英語だ。僕にも聞き取れるよう、ゆっくり喋ってくれてた」
「ご名答。俺の話が理解できてないなら、それはここの問題だよ、オニイチャン」
 アッシュが小憎たらしい動作で、自身の頭を指先でとんとんと示した。
 彼には病人を気遣う優しさが毛頭ないのだ、と英二は半ば唖然とした。問題があるのは英二の頭であると思っているらしい。ああ、大問題だ。英二は平熱を上回った熱のある体と、ずきずき痛んできた頭を少しでも楽にしようと、ベッドに沈んだ。問題が難解すぎた。



 ストリート・キッズのボス、アッシュ・リンクスのねぐらである部屋で目覚めた英二は、自分を襲ってきた目玉のゴースト人間男(他に表現しようがない)のことや眠る前に言われた聞き慣れない単語、アッシュが何者であるか、とにかくその他諸々の疑問を口に出す前にこう叫んでいた。「伊部さんッ!」その声は掠れていて、ベッドから飛び起きようとした自分はふらふらだったが、それでも必死にスマホを探し、挙句ベッドから転げ落ち床に激突した。今は一体何時で、自分はどれくらい眠っていて、そして保護者代わりの彼になんの連絡もしていないことがとても心配だったのだ。

 しかし心配は杞憂に終わった。部屋に入ってきて英二を抱え上げベッドに座らせたアッシュが、ここに連れてくる際、連絡を取ってくれたらしかった。曰く、「俺と英二が霊的に惹かれあってて、時間が欲しいから、少しの間英二を借りる。絶対に危険な目には遭わせない」とかなんとか。霊的に、惹かれあってて? 物申したい表現に眉を顰める前に、更にぎょっとすることを言われたのだ。

「お前、丸一日眠ってたぜ」

 つまりあの恐ろしい体験は昨日のことで、それは確実に起こったことで、そうして目の前にいるアメリカの青年は全ての出来事の答えを持っている様子で、英二は汗ばんでいる首を手の甲で拭いながら訊いた。

「あれは、……なんだったの?」

 それからアッシュは、ゆっくりと、なるべく簡単な単語を探るようにして、言葉を舌に乗せた。
「お前には、幽霊が見えてる。そうだろ?」
 パイプ椅子を軋ませながら、目の前にアッシュが座った。
……うん」
 英二は落ち着きなく自分の体温の残るシーツを指先で弄りながら、頷いた。
「俺にも見えてる。死んだものの魂みたいなもんが、当たり前に」
「僕も、……僕もだよ」
 鼻の奥がツンとした。こんな会話をしたことがなかった。いつかできたらいいなと思っていた。きゅっと手を握り込む。
「でも、僕は、あんなのは初めて見た」
「お前にはいつも、どういうふうに見えてるんだ?」
「どうって、ちゃんと、人の形をしてる。他の動物はハッキリしないこともあるけど、人間の幽霊は、……生前の姿に近いよ」
「ああ。多少血が出てても骨が折れてても目が飛び出しててもな」
「そういうのに横切られたりすると、反応しちゃ駄目だって分かってても、」
「ぎょっとする。慣れればいいけど、ガキの頃は怖くて泣いてた」
「っ、僕も」
 いくら背景同然の視覚情報でも、人間は本能的に死が怖い生き物だと思っている。幽霊を見えることに決して特別に悲観したことはなくとも、恐怖はあるのだ。英二はアッシュの緑色の瞳を見上げた。
 綺麗で、強く、美しく、この世の素晴らしいものをたくさん見てきたっておかしくないこの瞳には、英二と同じ世界が映っている。泣きそうになったのを瞬きで押さえながら、続きを待った。

「お前は、そういう幽霊に襲われたことはなかったか?」

……人の形したやつに?」

「ああ」

「襲われるって、どこまで? 目玉幽霊にされたみたいなことは、ないよ。一度も」

…………
 アッシュは一瞬変な顔をした。理解できない、といったふうだった。英二はなんとなく申し訳なくなり、慌てて付け足す。
「あの、見られてたりとか、追いかけられたりとか、ちょっかいかけられたことはあるけど……
「一つ確認したい」
「何?」
「日本の幽霊っていうのはお遊びで幽霊やってんのか?」
「えっ?」
 意味を掴みあぐねて訊き返すと、早口で呟かれた。「じゃなかったらなんでお前は無事なんだよ」舌打ちしそうな勢いだったため、口を挟まず黙っていると、「……いや、いい」彼はまたゆっくり英語を発した。
「ああいう人外じみた幽霊を見たのは、初めてだって言ったな?」
「う、うん」
「あれは集合体さ」
「集合体?」
「幽霊のな」
 幽霊の集合体。あまりイメージできずに首を傾げると、アッシュが指先をくるくる弄った。「つまり、そうだな」言葉を探しているらしく、口を数回ほど開閉し、金髪をくしゃっと掻き混ぜる。
「難しいな。俺たちの力って、うまく説明できないだろ」
「そうだね。自分にしか分からない感覚だし……
 目覚めてからずっと重怠い体と熱っぽい頭が辛く感じ、軽く頭を振った。その様子を見ていたアッシュが、気遣わし気に視線を送ってくる。
「お前は、今まで、死んだ奴らに足を引っ張られたことがないから分かんねえだろうけど」
 緑の瞳がどこまでも深く揺らめいている。
「あいつらは、恐れや悲しみや怒り、理不尽の塊なんだ。もちろん無害なやつもいる。けど、それを……使う奴もいるんだよ」
「使う奴?」
「そう。……ネクロマンサーさ」 
 アッシュが言った。
「死霊使い。トールキンの小説に出てきたの知らないか? あそこまでファンタジーじゃないが。幽霊を操り、死者や霊を使って、……誰かを呪ったりもする。俺はネクロマンサーってやつなんだ。でも呪ったり誰かを襲わせたりは、しない。……よほどのことがなきゃな。あの男は死霊をかき集めて悪さしてたんだよ。死霊や、見える奴にとって、お前みたいなのは格好の餌だ。つけ入りやすそうだしな。お前あのままだったら……、」
 そこで口を閉ざし、また開いた。
「体が辛いのは名残だ。もう少し休めばすぐ良くなるさ」
「うん……
 英二は頷いた。
 そうしてすぐに首を振った。「ごめん、本当に……ちょっと待って」そして冒頭に至る。



 肌触りがいいとは言えない枕に火照った頬を押しつけながら、英二はアッシュにというよりは、ひとり言のように呟いた。

「信じられない……

 信じられないことなんて、この十九年自分がずっと周りから得られる評価だろうと思ってきたことだったのに。
 幽霊を、あの死んだものの魂を、見えているからといって理解していない摩訶不思議な存在を、操って使う? ネクロマンサー? こんな目を持って生まれてきたのだ、心霊に関わる創作物は積極的に見聞きしてきた。
 それでも英二は日本で陰陽師に会ったことはないし、井戸やテレビから這い出てきてどこまでも追ってくる女に遭遇したことはないし、不特定多数を呪うような携帯なども持ったことがない。
 幽霊は、ただそこにいて、空気の流れに漂っている。たまに生きた人間に憑りついて、そうなったら自他に影響が出る。死者と生者はそういう関係だと勝手に思っていた。
 死霊使いなんて、いると考えたこともなかった。
「自分の見たものを信じないのか?」
「いや、……いや、自分の見たものは、信じてる。ずっと信じてきた」
 精神科や脳検査に行こうかと思った時もある。それをしなかったのは、周りと自分の普通は違うのだから、気にするべきでないと悟ったからだ。

「あの男は……ネクロマンサーだったんだ……
 自得するように口にすると、案外腑に落ちるような気がした。

 死霊使い。
 死んだものの魂を使う者。
 
 今まで出会ってこなかっただけで、日本にも、世界のどこにでも、幽霊が見えてそれをどうにかしている人間は、割といるのかもしれない。
 そうしてアッシュはその術を使って、なんだかよく分からないが確実に悪い事態から英二を助けてくれたのだ。

「ごめんまだ言ってなかった。ありがとうアッシュ、助けてくれて」

 枕に頭をつけたまま見上げれば、じっと見下ろされ、そして視線を逸らされた。「別に」それからなぜか苛立たしそうに訊かれる。「怖くないのか」  

 怖い? 考えてみる。
 そりゃ怖い。未知は足がすくむものだし、自分を襲ってきた人間と同じことができる人間が目の前にいるのだから、警戒してもいいだろう。
 でもアッシュに警戒してしまったら、僕はきっと全人類を警戒しなければならなくなってしまう。
 包丁を持たせれば赤ん坊だって人を傷つけることができる世の中で、数少ないだろう自分と同じような視界を持ち、そしてわざわざ助けてくれたのだから。

「怖いよ」

 アッシュの肩がぴくりと強張った。

「だって今まできみみたいな人はいなかったんだ。初めて会った時から、ヘンな感じがした。確かに怖いんだけど、でも……いやな怖さじゃないんだ」

 自分でもふわふわした説明だと思ったが、それを聞いたアッシュは小さく溜め息を吐くと、次にはからかうような顔を英二に向けていた。

「そんなだから憑け入られやすいんだぜ、英二」
……今まであんなことなかったし」
「日本てのは平和なんだな。妖怪や神様大国なんじゃないのか?」
「僕だってアメリカは幽霊よりヒーローやエイリアン大国だと思ってたよ」
「アメコミと映画の見過ぎだな」
「きみだって。……ふふ」

 英二は顔を綻ばせた。英二にとっては、幽霊の話もできて、世間一般的な普通の話もできていることがおかしく、楽しかった。くすくす笑っていると、目元に影が落ちてきた。アッシュの伸ばした手が、英二の頬をするりと撫でた。

「もう寝な。まだ言っときたいことはあるけど、回復してからの方がいいだろ」

 英二もまだまだ訊きたいことがたくさんあった。
 ネクロマンサーについて、死んだものについて、自分はそんなに幽霊に目をつけられるほど何か駄目なのか、そして、アッシュについて。彼は一体、今までどうやって生きてきたのだろう。怖い目に遭ったんでしょう? 幽霊を使えたのはいつから? 他に見える人はいた? それから、それから……僕がきみにどうしようもなく魅力を感じるのは、どうして?

 頬をゆるゆる撫でる手が、じんわり心地が良かった。

「そういえば、」 

 本当はずっと気になっていたけれど。

「アッシュはどうして、僕の居場所が分かったの……?」

 携帯見たからに決まってるだろ、呆れ声でそう言われるのを予想していた英二は、けれどもしそうじゃないなら、と思った。そうじゃないなら、アッシュも英二と同じように特別な何かを感じ取ってくれていたら、それはなんだかとても恐ろしいような、幸せな気がしたのだ。

 頬を撫でていた手の親指が英二の唇の端を、柔く押しつぶした。

 近づいてきた綺麗な顔に、「アッシュ……?」身を引くこともできずにただ見つめ返す。

 そういえば、がもう一つ存在していた。

 僕この人に、キスされたんだった。

 英二の思考を読み取ったかのタイミングで、鼻と鼻が触れ合いそうな距離を保ち、アッシュの薄い唇が開いた。

「お前の言葉を借りるなら」

「う、うん」

「ヘンな感じがしたんだ。お前は、……ヘンだよ。普通の奴なのに。ただ、見えてるだけの、危機管理のなってない子どもなのに」

「子どもって、」

 僕はきみより二つは年上なんだぞ。

「惹かれてるんだ。なんでかは、分からないけど。たぶん、理屈じゃない、魂が――だから、分かるんだよ」
  
 泣きたくないのに、涙が出そうになった。分からない。不明瞭で、明言できなくて、これこそファンタジーみたいな話だが、英二はどうしてか胸が温かくて泣きたい感情でいっぱいになった。彼の傍にいられたら、きっと全てのことが満たされて、それだけで充分な気さえした。けれどそれを認めて口にするのは、今までの十九年間を引っ繰り返しそうな恐ろしさがあり、英二はわざとおどけるように訊いた。

「だからキスしたの?」

 アッシュもおどけるように笑って見せた。

「エロいこと考えてると霊が寄ってこないっていう俗説、知らないのか?」

「あれほんとだったのっ?」
 
「教会で祈るよりは効く。まあ、ネクロマンサーが手っ取り早く、悪いもんを引き剥がす手だよ」

「へえ……
 あれは正攻法だったのだ。じゃあやっぱり、キス一つであそこまでおかしい具合になるのは、アッシュの霊的技だったのだ。……助けるためのものだとしても。むしろ助けるためのものなのだから、こちらが意識する必要はない。ないだろう。恥ずかしいだけで。すごく恥ずかしい。というかいくら最善の方法だからってキスするのはアッシュ的にどうなんだろう。僕は、……どうなんだろう。

 ぎゅむり。アッシュが英二の鼻を抓んだ。

「おやすみ、英二。……今は休め」

 目の下をなぞるように指先で触れてから、アッシュは離れて行った。
……おやすみ」
 たくさん寝たはずなのに相変わらず体は不調で、英二は大人しく瞼を閉じるしかなかった。



「あの、アレックス。僕ほんとに、送って貰わなくても大丈夫だから……
 隣を歩く背の高い青年を、英二は情けない気持ちで見上げた。
 英二に視線を落としたアレックスは、こちらも少々困った顔で答える。
「ボスの命令だからな。むしろ送らせて貰わなきゃ後が怖い」
 彼らにとってアッシュは圧倒的に強くて怖くて魅力的なボスなのだ、としみじみ察した英二は、けれど何もこんなことをさせなくてもいいだろうと益々恐縮した。

 目覚めた時にはベッドの持ち主はおらず、代わりにアッシュの片腕らしいアレックスがおり、ボスからの伝言を英二に用意していたのだ。「用事で少し空けなきゃならなくなったから、お前は回復したなら帰れ。けど、何かあったら、必ず連絡してこい」そっくりそのままの伝言を言い切ると、アレックスは外を親指で指した。「俺が送ってく」それから二人はダウンタウンを歩くことになった。送ってくって、この様子じゃホテルまで送られそうだ。バス停まででいいのだけれど。

「アッシュは僕を小学生か何かに見えてるのかな……

「中学生には見てたな」
 
「僕ちゃんと訂正したよね……?」

 ストリート・キッズの取材の時に散々訂正したはずだ。何度周りに「I`m 19 years old」だと言ったことか。十九の数字だけ発音が完璧になった節さえある。

「まあ、物騒だからな。心配なんだろう」 

「心配って……

 それは物理的な意味だろうか、心霊的な意味だろうか。
 英二は周りを見渡し、昼過ぎの日差しに照らされる生身の人間と鳩と薄汚れた建物などを確認してから、ちらりとアレックスを窺った。この大通りを外れた通りは、どことなく荒んだ空気なのに、やはり不思議なほど幽霊が見当たらない。アッシュの力なのかもしれない、と思うと同時、アッシュの仲間――リンクスメンバーはどこまでを知っているのだろうと疑問になった。

「アレックスはさ」

 英二は何気ないふうを装って明るく言った。

「映画とか、見る? 僕わりとホラー映画とか好きで」  

 長年で培ってきた切り出し方だった。
 本当を言うとホラー映画はあまり好きではない。普通に怖いからだ。特にスプラッタ系とサイコ系なんかを見てしまった日には血をだらだら流している幽霊に土下座してでも謝りたくなった。いやまさかその幽霊もフランスのホラー映画みたいな死に方はしていないだろうが。自分の心霊事情に役立つかもと見始めたのが甘かったのである。

「ゾンビものなら見るけどな」

「ゾンビは物理が効きそうでいいよね。……勝てる人は、大体主人公と数人だけだけど」
「ははっ、まあな」
「ホラー映画見てるとさ、いつも思うんだよね。ゾンビとか幽霊とか本当にいるのかなって」
「ああ……

「アレックスはどう思う?」

 英二が努めて明るく、男子学生のようなノリで首を傾げれば、彼は存外真面目そうに顎に手をやる。

「俺は……いるんじゃないか、とは思う」

「ほほう」 

「分かんねえけどな。でもなんとなく、そういうのが、見える奴には見えるんだろうと思う時がある。さすがにゾンビは……絶対にないとは言い切れねえか」

 確かに。
 死霊使いがいるなら生きた死体だっているかもしれない。

 留まることのない『かもしれない』にゾッとしつつも、英二は感覚的に分かった。アレックスには幽霊が見えない。けれど、自分の知り得ない世界を想像して、否定しない寛容さがある。アッシュの傍にいる人なのだ。感じることもあるのだろう。それでも彼を慕い、一度会っただけのひ弱で面倒な英二とこうして歩いている。

「アレックスは優しいんだな」

「突然なんだよ」

 良かった。
 英二は嬉しくなって笑った。

 アッシュには、見える世界が違くとも、ちゃんと仲間がいるのだ。
 英二にとっての伊部のように。それは、生きていく上で、とても幸せなことなのだから。
 


「英ちゃん!」
 
 英二にとってとても幸せなことである代表の伊部は、ホテルの部屋に無事戻ってきた英二を見て開口一番叫んで駆け寄ってきた。「伊部さん、あの、ただいま……」「おかえり! 大丈夫だったかい? アッシュから電話がかかってきた時は何事かと思ったよ」「ほんとにごめんなさい。僕も、ちょっとよく分からないことになってて」その時、ぐう、と英二の腹が鳴った。伊部が絶望的な顔になった。
「監禁とかされてないよな……
「されてませんよ!?」
 英二はどうやってこの心配性の保護者代わりである彼(自分が伊部の立場だったら同じくらい切羽詰まるだろうとは思った)に分かりやすく説明しようかと悩んだが、腹の虫がうるさかったため、ひとまず二人は部屋に落ち着くことにした。

 英二はシャワーを浴び、一日ぶりのご飯を食べ、さてどうしようと目線をうろつかせる。

 そもそも、この話は、他に話していいものなのか。口止めはされなかった。する暇がなかったからかもしれない。それとも話す相手がいるとは思っていないのか。心霊的事情を話せる相手なんか十九年に一人見つかるだけで奇跡だからな。……その奇跡の一人である伊部さんには話した方が……いやでもアッシュは嫌かもしれない……

「英ちゃん」

 ぐるぐる考え込む英二に、伊部が声をかける。

「そうだな、まず訊かせて欲しいのは、アッシュはきみを危険な目に遭わせなかったかってことかな」

「ないです! 断じて、彼は僕を助けてくれたんです!」

 伊部の日本人特有の黒っぽい茶色の目が、安堵で細まった。
「なら、いいんだ。……助けられたって、幽霊から?」
「はい。こんなこと、初めてで、なんて説明したらいいか……それに、説明しても、いいのかどうか」

 途方に暮れた声を出してしまったと気づき、また余計に心配させたら申し訳ないと英二は真っ直ぐ伊部を見つめた。

「あの、伊部さん。僕は、アッシュに対して、ヘンな感じがするって、言いましたよね」

「そうだね」

「そのヘンな感じは、大丈夫なやつです。ほんとです。助けてくれたし、アッシュは僕よりそういうことに詳しそうだし、わざわざ僕をここまで人に送らせたり、だから――

「英ちゃんが危険なことにならなかったら、別に会うのをやめろとか言わないよ」

「えっ」

「詳しいことも、話しづらいなら、訊かないさ。悔しいけど、俺には分からない世界だし……

「伊部さん」

 もしNASAがこのホテル内にいる人間の幸福量をグラフ化していたら、今この時トップに上ったのは間違いなく自分だと断言できそうだった。心の底から礼を言う英二に、伊部は仕方がないなあというふうに微笑んでくれる。
 この人のためにも、もうあの目玉幽霊男のような者には決して近づかず、危ないことには遭わないようにしよう。英二は心に誓った。






 英二が胸に秘めた誓いを守ろうとしても、どうも周りはそうさせてくれないらしい。

…………うっ」

 この往来で、あれを見て、たった一音しか漏らさなかった自分を誰か全力で褒めてほしかった。

 あれから三日ほど、英二は平穏無事に過ごせていた。伊部の仕事に付き添って、たまにこちらを見てくる幽霊たちに素知らぬふりをして、その時点で確かにほんの少しあれ? と思わなくもなかった。

 近いのだ。幽霊との距離が。心なしか。

 背景同然だった幽霊たちが、徐々に傍を通り抜ける通行人くらいになったような、そんな予感めいた感覚を、気のせいだろうと楽観視していた自分は本当に馬鹿だ。アッシュが言っていた「憑け入られやすい」とはこういうことを言っていたのではないか。そのアッシュも、携帯で近いうちにまた会おうと連絡したきり音沙汰がない。

「い、伊部さ……」  

 振り返ると、伊部は露店の主と談笑しており、あの死とは無縁の空間に水を差すのはどうしても憚られた。

 英二は黙って、伊部から距離を取り、並ぶ露店の影に隠れた。ここ、観光で訪れたマンハッタンのチャイナタウンは、ニューヨーク都市圏にある中華街で最古だと聞いたが、その最も古い歴史を持つ街で人類の昔からの謎・怪物のような幽霊に対面できることを感慨深く思わなければならない。そういう暗示をかけでもしないと行き交う車を飛び越えてでも逃げ出したかった。

 どこを見渡しても黒髪黒目の人間がいる中、生白い塊が歩いてくる。

 それは雲のように靡いていたが、実際には意思を持って動いているのだろうと分かった。

 一人の人間――恰好からして男だろうか、まだ顔が見えない――の足や胴、肩に絡みつくようにして、無数の手が取り巻いていたのだ。
 生白く、手首だけだったり、肘からだったり、指の本数がバラバラだったり、そういう気持ちの悪い蜘蛛のようなものが、男の傍を通る人間に伸び触れたりしていた。
 触れられた人間は、多くは無反応だったが、風か虫にでもするような反応を見せた者もいて、それはつまりあれを完全に見えている自分が触られたら何かとんでもないことになることを意味していた。

 距離が縮まる。あれが近づいてくる。英二は傍の漢字で書かれた看板を凝視した。目はないけれど、目を合わせてはならないと思った。

 雑踏の音の中、自分の早鐘のような鼓動が何より大きく聞こえた。

 男が通り過ぎるのが、気配で分かった。
 英二はほっと息を吐いたが、その際聞こえた声に驚いて振り向いてしまう。

 恐らく声変わり前の少年の声だったからだ。

「待って……!」

 口からは引き留める声が出ていたが心は馬鹿野郎と叫んでいたし、脳は構うなと警鐘を鳴らしていた。
 しかし声は掠れていて、喧騒に掻き消される程度だった。

……ッう、」
 ただ、英二に気づいた手が柳のように伸びてきて、後退る前に喉に触れようと動くが――触れぬままするすると引いて行く。「えっ」安心したのも束の間、その少年と目が合ったことに自分から声をかけておいて動揺した。

 自分より四つ五つ年下で身長が低い、中国か韓国かのアジア系の少年が、耳に当てていた携帯を下ろし訝し気に英二を見ている。大量の手をくっつけたまま、それに関しては何もないように、待ってと言われたから待ったふうな態度で、

「何?」

 と訊ねた。

「え、ええっと」

 答えに窮した。

 引き留めたのは反射だった。声が若かったため、もし彼がアッシュの言っていた死霊を悪事に使う目玉幽霊男のような者だったらとかいう警戒は、その一瞬吹っ飛んでいた。もし彼が、理不尽に死霊に憑りつかれている側だったら? そんな考えが過った刹那おこがましくも放っておけないと「Wait a moment」を拙く放っていたのだ。でもこの少年は、顔色も良好、黒目は明るく、どこも不調そうではない。

「えっと、あの……

「なんだよ。なんもないなら行くけど」

「ま、ま、待って」

 露店の影から飛び出していた英二を、通行人が迷惑そうに見てきたので、英二は意を決して少年に近づき道の端、店と店の隙間に避けた。生白い手が少年に取り巻いたままうぞうぞ動いている。英二に伸ばしたいように思えた。

「あの、」
 なるべく少年の胸元辺りを見ながら、出し抜けに訊いた。

「体調とか、悪くない? 足が動かしづらいとか、肩が重いとか、寒気がするとか、気分が落ち込んだりとか」

……ははん、なるほど。残念だけど俺は占いとか怪し気な壺とか必要ないよ。他当たってくれ。じゃあな」 

「お願いだからちょっと待って!」 

 だって明らかにそれって良くないものだ!
 
 踵を返した少年の肩を掴んだ。
 掴んでしまった。
 むしろこんなにたくさんの手を乗せておいて普通に生身の肩を掴めたことが驚きだったが、しかしすぐに恐怖に変わった。

 霊安室に手を突っ込んだ気持ちだった。全身に突き刺すような冷気を浴び、脊髄反射で手を離そうとしたが無理だった。
 ひゅっと喉が鳴る。
 少年の肩に置いた英二の手首と腕を、瞬く間に大小様々な手が撫で上げ掴んでいく。冷たく湿っていて、蛇の腹で締め上げられている小動物の感覚を知りたくなかったが知った。恐怖と不快と嫌悪。ぷつぷつ肌が粟立った。

「うう、わ」
 足が重い。立っていられない。悲しい、辛い、怒鳴り散らしたい、死にたくない――およそ想像できる負の感情が英二の体を腕から侵食していく。

「おいっ、あんた――」 

 少年を巻き込みながら地面に膝をつき、「まさか、」少年が英二の離せなくなっていた腕を掴んだ。そこだけ生きた人間の体温が広がる。

 英二より幼い顔をした黒目が、焦ったように英二を覗き込んだ。

「あんた、まさか……これが見えるのか?」

「え」

「見えるのか? 見えないのか?」

「み、みえ、見える」

 なんてこった、少年が天を仰いだ。顔を戻し、不安を押し隠した表情で、「今どうなってる」と訊いた。どうなってる? 「う、腕が」「うん」「掴まれてる」「分かった。離すから待ってて」「えっ」そして英二の腕を無理やり肩からどかした。
 周りから見ればなんの変哲もない動作だったが、英二には目を背けて耳も塞ぎたくなった。

 ぶちぶちと、少年の肩から英二の腕を掴んでいた無数の腕が引き剥がされる。ちぎれた、というのが正しいそれは、手指の肉片がそのまま英二に張り付き、離れることはできても依然恐慌状態だった。

「あんた一人か? 連れは?」

「えと、あの、もう一人」

「そいつに連絡できる? 俺のせいだ、あんたを助けるために移動したい」
  
 何がなんだか分からないが、ひどく寒く寂しく、善悪を判断する前に英二は頷き、震える手で伊部宛にメッセージを送る。簡潔に一言。『霊的案件です』それからもう一文。『心配しないでください』

「立てる?」
 少年が手を差し出してきたが、途中でとめて「俺が触ったらやばい?」恐る恐る訊いた。英二は立ち上がり、「大丈夫。でも、うん、あんまり……」「分かった。距離空けて、俺についてきて」英二が歩ける状態だと分かると大通りを避けて歩き始めた。

 自分の右腕に目を落とす。
 ちぎれた手指が服越しに腕に食い込んでいた。

 怖くない怖くない、英二は震える唇でぶつぶつ唱えた。



 辿り着いたそこは塗装が剥げ落ち窓は割れ、いかにも不良の溜まり場ですといった構えの潰れた店だった。
 中華料理店だったのだろう店内に踏み入り、置かれたままになっている椅子に英二を座らせると、少年は落ち着きない様子で英二と店の外を交互に見やった。英二から充分距離を取ってくれている少年は、悪い人間には見えない。

「ここは?」

「え、ああ、俺たちの集まり場所だよ。困った時用の」

「困った時用?」

「心霊問題用って言うのかな」

「心霊問題用」

……あんた見えてるんだろ?」

 英二は力なく頷いた。動くためのエネルギーが水のように流れ出ている。

「顔色悪いな。ほんとごめん、まさか見えてると思ってなくて……見えてるのになんで近づいてきたんだよ」

 心底不思議、といったふうに言われ、英二は自嘲した。この事態は英二の自業自得だった。

「きみが危ないんじゃないかと思って……

……そんなやばいの? これ」

「きみ、見えてないの?」

 少年は得意顔になって胸を張った。「ああ、俺にはそういうの、全く見えないよ」ならばなぜこの会話は成立しているんだ。たとえ見えなくともそんなにくっつけていたら何かしら影響が出るだろうと今度はこっちが不思議になった。

 じゃり、と硝子を踏み締める音がした。首を向ける。入ってきた人物は明らかに不良です、という見た目をしていた。サングラスに、モヒカンの男。

「ショーター!」

 少年が全幅の信頼を寄せている声で名前を呼んだ男は、少年を見て呆れ声で言った。

「シンお前、またそんなにくっつけて……
 英二は本当にどうしてか、アッシュに似ている、と思った。見た目じゃなくて、動作じゃなくて、もっと見えないところが、……強くて、魅力的だと。

 男――ショーターは英二に顔を向けると、「え、どちらさん?」シンと呼んだ少年を振り向いた。

「ごめん、俺がうっかりしてて、そいつ見えるんだよ。そんで……憑かれちゃったみたい」

「ああ、うん、憑いてるな」

「ごめん……

「ちがっ、その子は悪くないんだ、僕が勝手に――

 ショーターは英二の前まで歩み寄ると、腰を下ろした。「お前影響されやすいタイプか」まるで医者の診断のように言う。
「シン、悪いけどこいつ先にするから」
「もちろんだぜ、俺なんともないし」
「お前はお前で難儀なんだよなあ」
「へへ」「こら、褒めてないぞ」仲のいい兄弟のような会話をしてから、英二に向き直った。

「お前名前は?」
「え、英二です」
「日本人か?」
「う、うん」
「幽霊に憑かれたのは初めて?」
「うん、いや、憑かれ……かけた? ことなら」
「へえ。よく助かったな」
「助けてくれた人が、いて」
「へえ! 運がいいな、そんな人間中々いないぜ」
「それは、うん、僕も初めて会ったから……

「じゃあ俺は二人目だな」

 ショーターが英二の腕を掴んだ。

「いっ……!?」 

 痛みが全身を駆け巡った。特に腕は焼けた鉄でも押されたような強烈な痛みで、ぶわっと汗が滲んだ。

 けれどそれは一瞬で、あとには何もなかった。

 寒気も、寂しさも、悲しみや怒りも、英二の腕に食い込み不調をきたしていた手指も、全てが消え失せていた。
 ショーターが英二から腕を離す。
 彼はサングラスをかけていても分かる快活な笑みを浮かべて、英二の前から立ち上がった。
「ほい、終わり。もうヘマすんなよ」 

 ありがとうを言うべきだったが混乱が勝って口からなんの言葉も出てこなかった。

 ショーターはシンのもとまで行くと、「はい次お前なー」「ばっちこいだぜ!」片手を振りかぶってシンの背中、生白い手指の塊を叩いた。

 刹那、灰のように手指が崩れ消えていく。

 爪の先まで空気に溶け消えたあと、シンがぐるぐる肩を回しながら陽気に笑った。

「なんか体が軽くなった気がする」

「お前の場合気がするだけだろうな」

 英二は先ほどまで幽霊に憑かれていた腕を擦りながら、ぎゅっと目を閉じた。
 なんなんだろう。どうしてなんだろう。
 ここに来てから、おかしい。おかしいことの連続だ。
 自分には幽霊が見えている。世界がおかしいことだらけなのは知っている。
 知っているけど、どうしてこんなに急激に新しいおかしなことが立て続けに起こるんだ。
 今までと何が違うんだ。アメリカだから?

「あの、」

 目を開け、英二は二人に視線をやった。

「今の、何?」

「何って……」 

「きみたちも、その、ネクロマンサーみたいな、そういうのなの?」

 二人は顔を見合わせると、それぞれ首を横に振り、否定した。ショーターが口を開く。

「俺は見えるし祓えるけど、操ったりはできねえよ。こいつは見えないし触れないけど、色々くっつけられやすい体質でな。お前と似たようなもんだけど、幸いなのはめちゃくちゃな鈍感だってことだ」

「めちゃくちゃな鈍感」

「霊を感じ取る力が米粒ほどもねえってことだ。だから知らずに憑かれて、周りに悪影響が出る」

「困るよな全く。俺は分かんないけど」

 あっけらかんと頷いたシンを軽く小突くショーターに、英二は呆然と訊いた。

「祓うって、」

 他にもっと、訊きたいことがあった。

 けれど全ての疑問を押しのけ口をついて出た言葉に、二人はわけが分からない、という顔をしたものだから、英二はあーとかうーとか唸って、どうにか自分の情緒不安定を鎮めようと努力するしかない。

 脳裏で綺麗な緑色の瞳が、悪戯っ子のように弧を描いていた。