さもゆ
2024-11-14 22:09:29
23960文字
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【A英】ネクロマンサーってやつだよ/キスじゃなくても良かったんじゃないのか?

幽霊が見える英二と死霊使いアッシュの話(全然死霊使ってない)。

さんかく窓の外側は夜
という作品のパロディちっくな内容です。

2018.12.15 & 2018.12.24 たまごのお粥pixiv投稿作品

 幽霊が見えることに対して、別段悲観したことはなかった。
 大概の人より、視覚による情報量が多い。それだけの認識。
 よくあるホラー映画やゾンビ映画みたいな恐ろしくて危険な目に遭わされたりしないし、そりゃ確かにたまにゾッとしたり付き纏われたり(憑き纏われたり、が正しいのか)、怖い見た目のやつもいるけど。
 それでも英二は今まで、特に気にすることはなかった。

 今、この瞬間までは。

「こ、こんにちは……

 散々練習した英語での挨拶は、不自然に震えた声で途切れた。首の後ろにすっと冷たい氷を押し当てられている感覚に襲われ、この場から逃げ出したくなったが、根性で視線を相手から逸らすだけに留める。
「英ちゃん?」
 隣の伊部に訝し気に呼ばれ、英二は落ち着けと胸の内で繰り返した。気づかれないように深呼吸をし、なんでもないですと笑おうと試みたが、視界をずらしても感じる視線にどうにもならなくなる。
「すみません、僕、緊張しちゃったみたいで……ちょっと気分が……
 傍から見て、震える声と血の気の失せた顔は、言葉に説得力を持たせた。伊部はハッとした顔つきになり、それから慌てて「大丈夫かい? ちょっとほらあれだ、外の空気でも吸ってきた方がいいよ」取材対象者に断りを入れ、英二の背中を出口へと軽く押してくれる。
「すみません……
 伊部と、取材対象の男にもぺこりと頭を下げてから、あとは振り返らずに出口へ向かった。

 アメリカのニューヨーク、その中心地区の空気は、たとえ出雲より何倍も空気が美味しくなかろうが、今だけは清涼に感じた。
 自動ドアが後ろで閉まり、一歩二歩、建物から離れる。
 すうう、はああ、引くつく喉で正しい呼吸を確保し、どくどくうるさい胸を押さえた。

 なんだあれ。
 あんなのは、初めて見た。

 足を怪我して、青春を捧げていた棒高跳びを、これまでのように跳べなくなった。そこで今回、世話になったカメラマンの伊部に心遣いを受けて、ともにアメリカに来た。英二は凄く楽しみにしていたし、カメラも好きだし、だから、そういう心霊問題については、日本と大して変わらないだろうと気にも留めなかったのだ。
 間違っていた。

 あれは……取材対象者であったあの男の顔に纏わりついていたものは、日本では見たことがなかった。

 どろりと暗闇に溶けたようないくつもの目玉、男の肩にのしかかり、首に絡んでいた、あの人型ではない何かは、紛れもなく幽霊だろう。
 死んだものの、魂的なもの。英二が物心ついた頃から見てきた、人類全員には見えない存在。
 
 でもあんな、一目見て逃げ出したくなるような、化け物みたいな幽霊は、知らない。

「おっかねー……

 これが日本の幽霊と、アメリカのゴーストの違いか。英二はぶるりと身震いし、幽霊もそりゃもとはその国を生きた何ものなのかだから、お国柄があって当然だと前向きに考えようとした。

 ちらりと後ろを振り返る。伊部はきっと、英二が何か見たのだろうと、察してくれているだろう。彼には本当に頭が上がらない。
 ごめんなさい、伊部さん。僕にはもう一度あの大量の目玉と対峙する度胸が、ないです。
 英二は内心、霊感が少しもないのに自分を理解しようとし慮ってくれる彼に謝り倒すと、暫くここで街並みを眺めていようと、恐ろしいあれを頭から追い出しにかかった。



 あれから数日、伊部の仕事にくっついて行った先々でも、幽霊の姿は英二の目に風景同然に映った。
 しかし、不思議なことに、その様相はどこもおかしくなく(死因になったらしい傷痕や流れ続けている血、折れた手足などは通常として)、あの目玉の化け物のようなゴーストは他に見ることがなく。
 きっとあれは幽霊界のイレギュラーなのだろうと帰結することにして、初日の恐怖はどこへやら、英二は楽しく過ごせていた。

「明日はストリート・キッズの取材に行く予定なんだけど」

 本日の取材の帰りがけ、伊部が妙に不安そうに切り出したため、英二は首を傾げつつ頷く。
「はい」
「英ちゃんも……来る?」
「えっ。あの、迷惑……ですか」
「違うよ! ただ、」
 伊部が勢いよく首を振る。ほっとして言葉の続きを待った。

「ただ、あまり治安が良くないし、……怖いもの見ちゃうかもだろ?」

 伊部の声音と眼差しはあんまりにも真摯で、そして英二のことを考えてのもので、この人は本当にとてもいい人で自分のことを信じてそれ故に心配してくれていて僕はこんなに幸せ者だと、幼い頃見えるせいで苦労してきた自分に言いたくなった。なんて恵まれているんだろう。じゃなかったら、精神病院に閉じ込められたっておかしくないことは、十九にもなれば分かっている。

 脳裏に、目玉の幽霊が思い浮かんだが、万が一またあんなのに出くわしたら磨いてきた逃走スキルを発揮すればいいだけだ。
 僕は、心霊事情的にも治安の悪いところに伊部さん一人行かせるような真似、できないししたくない。

「大丈夫ですよ、伊部さん! 僕は大丈夫です!」

 英二はなんの根拠もなく不安定な返事を、明朗快活に言い放った。






 自分でもフラグじみたことを宣言したと思ったが、ストリート・キッズの多くいるスラム街のその通りは、本当に大丈夫な場所だった。

 通りを歩く若者はみな一様に、日本の青年とはかけ離れたガラの悪そうな見た目で、道も建物も落書きや汚れが目立つし、空気もどこかどんよりしている。

 でも幽霊がいないのである。
 英二は心底ほっとした。それと同時に疑問も沸き起こる。大体こういう場所には、いるものなのに。

「大丈夫かい? 英ちゃん」
「あ、はい。身構えるほど、何もいな……

 不意に、英二は引き寄せられるようにそこに首を向けた。
 通りを挟んだ向かい側の、建物と建物の隙間だった。
 昼間の陽光が一切差し込んでいないそこは、何か世界が異なるような、けれど自分の見ている通常世界のような、とにかく不可思議な暗闇だった。

 なんだろう。

 怖いな、と思った。
 何かいる、とも。

「あっ」

 隣の伊部が声を上げる。英二は急に思考が現実に戻された感覚にハッとして、伊部の視線の先を辿った。

 わあ。

 英二は軽く目を見張った。

 同性の自分でも素直に純粋に綺麗だと思える、金髪と緑の瞳を持つ男が、こちらに歩いてきている。「やあ、初めまして」伊部が声をかける。彼が、取材対象の、ストリート・キッズのボス──アッシュ・リンクスらしかった。

 緑の瞳と目が合う。そして逸らされた。

 その一瞬の間、英二の背中にぞわぞわした何かが走り抜けた気がした。



 不良少年・青年たちは、驚くほど気さくな者ばかりだった。大人を警戒するせいか伊部には初め敵対視線のようなものを向ける者もいたが、伊部が彼ら曰くの『悪くない大人』で、英二が『人畜無害の青年』(中学生に間違われた時は信じられない思いだった)と分かると、態度は友人に向けるそれになった。

 ――アッシュ・リンクス。
 ここら一帯のボスで、容姿端麗、頭脳明晰、リーダー性を兼ね備えた、十七歳の青年。
 彼に本物の銃を見せて貰ったり、彼の仲間に受け入れて貰ったり、英二はアメリカと日本のギャップに驚きつつも、新鮮な気持ちで彼らに接していた。

 誰も幽霊に憑かれていたり、幽霊自体どこにもいない。

 平和だった。

「通りの写真を撮ってきていいかな」

 あらかた取材を終えると、伊部がカメラを片手に立ち上がる。
 言われたアッシュは、目を眇めて外に視線をやり、それから答えた。

「ああ。けど、路地裏とか奥まったところは行かない方がいい」

 危険だから。

 付け足して言われた言葉に伊部は神妙に頷き、「大丈夫。きみらのテリトリーを荒らしたりしないよ」それから英二に目をやる。
「英ちゃんはどうする?」
「あ、僕も写真撮りに行ってもいいですか? 遠くにはいかないんで」
 写真が好きだ。せっかくの機会なんだし、風景もたくさん撮っておきたい。そういう思いを知っている伊部は、じゃあ少しの間別行動しようか、と提案してくれた。

「お守りでもつけようか」

 英二を中学生と勘違いしていたアッシュが、からかうようにそう言ったので、英二はぶすっとむくれ、べっと舌を突き出しておいた。ボスに舌出しやがった! 周りから畏怖に近いざわめきが上がるも、気にしないでおく。



 なんで不良って落書きが好きなんだろう。いや好きで書いているわけじゃないのかな? スプレー缶で字を書くのはできるけど絵ってなると相当難しいんじゃ……、壁に書かれたカラフルな落書きを写真に収めつつ、とりとめのないことを考える。

 時折、行き交う人から不審やからかいの眼差しを向けられるが、ちょっかいをかけられることはなかった。アッシュが何か指示でもしているのかもしれない。

……綺麗だったよなあ」

 きらきら、陽の光に当たると眩しい金の髪。
 宝石を砕いたみたいな、または水底のような、緑の目。
 自分は黄色人種であると改めて思わされる、白い肌。

 アメリカに来て色々な人を目にしてきたが、アッシュほど綺麗な人はいなかったな、なんて一人しみじみするほど、彼は素敵な人のように思えた。強くて、魅力的。

 強くて魅力的?

 英二は眉根を寄せる。落書き壁から離れ、次は何を撮ろうと視線を巡らす。

 強くて魅力的って、なんだ。魅力的なのは分かる。彼を慕うここの者達を見れば明白だし、この短時間で彼との会話は楽しいものだったし、けれど、強い、とは?
 強いのも、分かる。ボスだし、強くなきゃメンバーを纏めることもできないように思う。

 でも、そんな物理的な強さじゃなくて。

 物理的な強さじゃなくて?

「あ……

 英二はある一点から目が離せなくなった。それはあの建物と建物の隙間だった。行きに気になった、何かいると思った隙間。
 人間一人がやっと通れるような幅の狭さである。いたとしても、猫か、鼠か、──。

 英二は歩を進めていた。ほぼ無意識の行動であったし、見なければならないという意識もあった。
 そうしてひんやりする壁に手を付き、暗闇を覗こうと身を乗り出した。

「危険だからっていう忠告、聞いてなかったのか?」

 低い声が耳元に吹き込まれ、ぎょっとして飛びずさるが、壁に付いていた手を取られ後ろから囲われる。英二は首だけ勢いよく振り向けるしかなかった。

「うわっ」

 喉から引きつった声が絞り出る。鼻先にアッシュの顔があった。彼は不機嫌そうに片方の口角を歪めている。「っ、」ぞわわわ、項から背筋に謎の痺れが走り抜けた。

……聞いてなかった?」

 鼻と鼻が触れ合いそうな距離で、首を傾げられた。

「き、いてた。聞いてたよ」

 英二は思い切り視線を下に落とした。駄目だと思った。

 この人、なんか、ヘンだ。

 何がどう、とは説明できない。幽霊を見た時と似ている。害はない、でも怖い。あの目玉のゴーストが幽霊界のイレギュラーなら、アッシュは人間界のイレギュラーと評せるような何かがあった。じゃあ、僕は、どうなんだろう。全人類に必ず見えるわけではないものを、見ている自分は、果たして正常なのか?

「英二」

 体を離し、アッシュはやれやれといったふうに腕を上げた。

「仕方ないから俺がお守りしてやるよ」

 そう言った彼には、もう怖さを感じなかった。



「それは、つまり、アッシュにも霊感があるとか、そういうことなのかな」

 ホテルで夕食を取りながら、伊部が言葉を選び選び口にした。
 英二は首を捻る。
 昼間の取材は万事上手くいき、その上親しくなったストリート・キッズの面々にまた来いよなんて言われ、伊部も英二もほっとして帰路についたのだが。
 どうにもアッシュに対して感じた妙な気配が、英二をもやもやさせている。

「今までにも、いなかったわけじゃないんだろ? 霊感があるって人は」
「はい……見えないまでも、嫌な感じを感じ取る人とかは、いましたけど」
「うん」
「でも、アッシュみたいな、ヘンな感じは……
 うまい言葉が見つからないのが、とてつもなくもどかしい。
 伊部は頭をかいた。
「訊くわけにもいかないしなあ」
「幽霊が見えますか、なんて、訊けないですよね……それこそヘンに思われる……
 英二は肩を落とす。
 こんな会話をしていること自体、ヘンに違いないのだけれども。






 その日は休暇だった。
 伊部の仕事も用事も何もなく、二人は好きに過ごすことにして、英二は何をしようと考える。
 数秒考えただけで、過ごし方は既に決まっていたように思う。
 アッシュに会いに行こう。
 伊部にその旨を伝えるか迷い、いや別に後ろめたいこともないし言っていいだろうと行き先を告げれば、案の定心配された。「一人で大丈夫かい? ただでさえ治安は良くないし、それに、アッシュは、……ヘンな感じがするんだろ?」「そう、なんですけど、なんか」英二は自分でも分からないことを言葉にしようとなんとか語彙を探すが、結局何も出てこず、「……大丈夫です」押し切るしかなかった。

 連絡先を交換した携帯に『遊びに行くよ』か『会いに行っていい?』か『話がしたい』のどのメッセージを相手に送ろうか暫し悩んで、『今お時間ありますでしょうか』などと馬鹿丁寧な英文を送信し、返事も待たずに街に出た。

 時間があると言われたら、会いに行っていいか訊けばいい。
 時間がないと言われたら、諦めて街中を散歩しよう。

 返事は十分と経たずにきた。人の邪魔にならないように、端に寄って立ち止まる。

『うぶな女だってそんな誘い方しないぜ』
『ある』

 どこか小馬鹿にしたような声が容易に再生されて、英二は緊張していたのが馬鹿らしくなって文字を打った。

『話がしたいんだ』

 どんな話をどうやって切り出せばいいのか、何一つ明確ではなかった。ただ、あの青年に磁石みたいに引き寄せられていた。

『会いに行っていいかな?』

 ポン。
 街の喧騒に掻き消えたっておかしくない通知音が、やけに大きく聞こえた。

『俺が行く』
『待ってろ』



 待ってろったって、きみ僕の居場所知らないじゃないか。
 慌てて現在位置を送ったが、既読が一向につかない。英二はきょろきょろと周りを見回し、もしや近くに綺麗な金髪がいやしないかと確認するが、訝しげに通行人に見られるだけだ。目が合った人に日本人的癖でぺこりと頭を下げ、やきもきして足踏みする。
 既読をつけていないだけで読んでいるかもしれない。
 そもそもストリート・キッズのボスが、そんなほいほいどことも知れない(日本とは知られているけど)僕に会いに来てもいいのか? 普通には話せる知り合い程度の僕に! いや僕が彼をどうこうするつもりは毛頭ないしあったとしても僕がけちょんけちょんにされるだけだろうけども。

 英二はふと思った。

 もしかして、彼も自分に『ヘンな感じ』を覚えたんじゃないだろうか。

 もしそうなら、どうしよう。
 こんなこと初めてだ。
 十九年生きてきて、長い目で見ればきっといつか自分と同じような人が現れて、怖さや大変さを共有できるんじゃないだろうかなんて、淡い希望を持ってはいた。
 それが、今だったら、どうしよう。

 未知が怖い。

「英二くん?」

 ぞわっ──全身の肌が粟立つ。聞いたことのある声だった。アッシュじゃない。

 振り向く。目が合った。

「ひ、」
 悲鳴は既のところで飲み込んだ。小学生の頃の持久走、血塗れの老人が追いかけてきた時よりゾッとしたし、高校の陸上大会で棒高跳びの着地地点に手が生えていた時より勘弁してくれと思った。

 その男は頭部を完全に闇に侵食されていた。
 正確には、闇のようなもの。

「ああ、ええ……っと、ごめんなさい、どなた、ですか」

 ぎょろり。
 別々の方向を向いていた闇に溶けるいくつもの目玉が、一斉にこちらを向く。

「覚えてない? 伊部の取材で会ったんだけどな。あれから体調はどう? 平気?」

 ──あの目玉のゴーストだ。前より大きくなっている。男の顔は皮膚の一片も見えない。頭を覆い隠し、肩にのしかかり、それを地面に引きずりながら男が近づいてくる。

「あ、えと、はい、大丈夫、へいきです」

 何も大丈夫ではないし平気ではない。

 よろよろと後退り、壁に背をつけようとしたら、たたらを踏んだ。後ろは建物の間、路地だった。
 目の前に男が立つ。
 助けてとか誰かとか叫びたい状況なのに、長年の空気読みの経験が邪魔をした。
 これは自分にしか見えない。
 人も多い街中で。
 怖い、なんて言えない。
 何が逃走スキルだ、ちくしょう。陸上部のようなラインが引かれた場所しか走れない癖に!

 逃げ出したい!

「え、ええっと、あの、気遣ってくれてありがとうございます。大丈夫なので、僕は……

 押しのけて行けばいいが、あれに触れたくなかった。英二は自分の靴先を見つめながら、頭上から注がれる多くの視線に震えた。情けないことに、本当に本能レベルで恐怖している。背中を冷たい汗が滑り落ちた。

「本当に? 具合悪いんじゃない?」

 俯けていた視界に黒くどろどろしたものが張り付いた手が映り、「ッ!」弾かれるように後退り距離を取る。手から地面にぼとぼと伝い落ちたヘドロのようなそれからも、目玉がこっちを向いていた。更に後退し、そして自分を馬鹿野郎と罵る。逃げられない。逃げ場がない。

 表の街の喧騒を背負い、逆光となった男が、口のような窪みを蠢かせた。「何怖がってるの?」何もかも全てだ。英二は喉からひゅうと掠れた息を数度吐き、それから漸く言葉にした。「あなた、大丈夫、なんですか」

 今まで、幽霊に、所謂憑りつかれた人を、何度か見たことがあった。体調不良や精神の落ち込み、稀に物体にも影響を及ぼすそれは、しかし、大概いつの間にか消えていた。それは本人が神社やお寺に行ったからかもしれないし、死んだものを寄せ付けない生きた力が勝ったからかもしれなかった。だから、見えるだけの自分はそれほど悲観しなくとも済んだのだ。

 だがこの男はどうだ。こんなにたくさん、人型でないものをくっつけて、どうして普通にいられるんだ。

「俺? ははは、俺のこと心配してくれるの?」

 笑い声とともに目玉があちらこちらを見やる。

 英二が後ろに足を動かし、どんと壁に背中が当たった瞬間、男が言った。

――きみには見えるんだね」

 目玉が一斉に英二を見た。
 
――は、」

 いつの間にか眼前に男が立っている。

 英二を覆い被さるようにして、暗闇が落ちてきた。
 ぼとり。頬に一滴、滴り落ち、身の毛のよだつ感覚に支配される。

 脳の大事な部分が最初から最後まで逃げろと訴えてきていたが、手足は鉛のように重く動かず、その代わり生き急ぐように心拍が急激に上昇していた。

 まずい。まずいまずいまずい! 

「口、開けて」

 男が言った。
   
 この時確かに、絶対に何があってもこの男の言う通りにしてはいけないし効果があるかは分からないが今すぐにでも大声で悲鳴でも上げるべきだとあらゆる「嫌だ」が渦巻いていたのに、英二は他人の身体のように大人しく口を開けていた。

「良い子だね」

 頬に落ちたそれと同じものが、どろりと口の中に入ってくる――

 カチリ。
 微かな音が、英二の正常に機能しているか怪しい耳に届いた。それはつい最近聞いた音だった。「うわーっ、本物の銃だ!」「遊ぶなよ」「遊ばないよ! 重いや、すごい……。ね、撃鉄? を起こす時って、ほんとに映画みたいな音するの?」「…………貸してみな」そんな会話のあと、彼の指が動いて鳴らした音。

 男の後ろから、低い声が飛んできた。

「こんなに目があっちゃ、どこが頭か分からないな」

 おどけた台詞だったが、鋭い刃物のような声音だった。
 刹那、英二を覆っていた暗闇が失せる。足から一切の力が抜けてその場にずるずるしゃがみ込んだ。

「アッシュ……

 男に銃を突き付けている、こんな路地裏でも輝きを失わない金髪が見えた。緑色の瞳が、怒りか何かしらの感情で濃くなっている。

 男が振り向き、アッシュが銃を下ろす。それから長い足が男の頭付近――恐らく顎――目掛けて回し蹴りされた。骨が砕かれるような鈍い音が響き、男が倒れ伏す。その体を蹴り上げ、路地の端にぞんざいに転がし、アッシュは英二の前に膝をついた。僅か数秒の出来事だった。

 気絶している(死んでいないと願いたい)男の頭は、ただの人間の頭になっている。英二はそれを視界の端に入れ、もうどこにも自分を見る異質なあの目玉がないことを知ると、震えた息を吐き出した。

「アッシュ、……アッシュ」

 ひどく体が寒かった。がたがた震えながら、溢れ出る疑問と恐怖と安堵を唇に乗せることができずに、ただ彼の名前を呼ぶ。体の内側が、掻き回されているように気持ちが悪い。

「英二」

 白くて長い指が頬に触れた。黒いどろどろが落ちた箇所だった。
 英二は歯の根が合わない口でとにかく何かを言わなければと思ったが、その唇をアッシュの親指でなぞられ、言葉を発するのを諦める。
 額に、額を合わされた。緑の瞳が覗き込むように英二を見ている。怒りはない。

「もっと早く来れたら良かった。怖かっただろ」

 怖かった。
 怖かったのだ、とても。
 
 頷き、そしてこの人は自分が隠さずに怖いと言える相手で、自分と同じなのかは分からないけれど似ている視覚情報を持っていて、英二を助けてくれた存在なのだと改めて実感し、涙が滲んだ。

 だって、こんなにも、彼に触れられているところは、あたたかい。

「他にも、方法がないわけじゃ、ないけど」

 アッシュが言い淀んで、英二の唇を親指の腹で撫でる。

……我慢してくれ」

 何を? 心の中で発した疑問は「えっ」間抜けな一音にしかならなかった。

 べろり、と頬を舐められた。
 途端に火が点いたように顔が熱くなり、表面張力を崩された涙が頬を伝う。それも舐めとられ、「な、な、な――」何してるの、という問いは体の内側を巡っていた気持ちの悪い感覚が、言い知れない熱に変わったことにより発されることなく飲み込まれる。
 ちゅう、と唇で頬を吸われ、冷え切っていた体がじわじわ体温を取り戻す。体温だけの熱さじゃない。
 怖い。この人は、今、一体僕に何をしているの。

「う、」
 背筋がぞわぞわする。でもさっきみたいな恐怖や嫌悪や不快とかじゃない。

「すぐ、よくなるから」

 英二の唇に、アッシュの唇が合わさった。
 舌を半ば無理やり押し入られ、口の中を余すところなく舐められる。
「へ」
 仰天して見開いた英二の目を、アッシュはじっと見ている。ぞくぞくと言い知れない感覚がハッキリした。引っ込めていた舌をつつかれ、絡み取られ、遠慮なく吸われる。
「んん、ん……っ」
 あの黒い塊を多少飲んでしまった体が、そのせいで気持ちが悪くなっていたのだろう体が、内側から快感に支配されていく。勃起していないのが不思議なほどに。紛れもない、アッシュのせいかおかげか、とにかく目の前の青年の力に思えた。
「や……っ」
 あまりの羞恥に頭を振り、突っぱねようと腕を伸ばすが、逆に掬い取られ頭までも固定された。
「や、やだ、あっしゅ!」
「我慢しろ」
「だ、だって、だって……
……気持ちよくないか?」 
「よいですけどっ、って違うそうじゃなくて、これなんかよろしくない――あッ」

 問答無用でキスされた。
 舌を吸われる。堪え切れなくなって瞼を強く閉じ、「ふ……っ、やぁ、んんっ」ついでに自分の有り得ない声を発している喉と聞いていなくちゃいけない耳も閉じたくなった。

「あ、うあ、あ、あ……――ッ!」

 アッシュに吸われるようにして足の爪先から上り詰めた快感が、ばちんと弾けた。
 最後にくちゅりと舌を舐め、銀色の糸を引きながらアッシュが離れていく。ぷつりと糸が途切れた。「……う、」射精したあとに似た倦怠感と快感の名残で、頭の奥が眠気を訴えてきていた。

 アッシュが手を差し伸べ、英二を立たせようとしてくれたが、「おい、」全身が甘く痺れていて力など入らなかった。「お前、……そんなんでよく今まで無事でいられたな」アッシュが腹立たしいほど呆れ返った声を出す。

 この人はヘンだ。 
 何をしたのかちっとも分からないのに。
 怖いと思っているのに。   
 ――強くて、魅力的。

 英二はとうとう、眠気と柔く残る気持ち良さで手放したい意識のもと、ちゃんと発音できているかあやふやな英語で訊いた。

「きみは、いったい、何者なの」

……俺は、」

 寝ぼけ眼で捉えたアッシュの姿は相変わらず綺麗だったし、寝落ちる寸前で答えられた単語の意味を考えられなくとも、ひどく耳に心地のいい声だということは分かって、それで。

 英二の意識は一旦途切れた。