第三話
感情的で退屈な話の話
・
羅乃目……紅族。第十九代統領
・
黒骸……紅族。羅乃目の許婚
・
羅神……羅乃目に憑いている黒い狼の
憑守
・
雨庸……黒骸に憑いている白い大蛇の憑守
・
鎌苅トキ時……憑守が見える、
食事処伊呂波二代目店主
時には退屈な話をしなければならないこともある。華やかな舞台にも幕間が存在するように、生活の全てが劇的に彩られているわけでは当然ない。だからと言って生活を止めるわけにはいかないのと同様に、この話を止めるわけにはいかない。
常に面白く心躍る話など、寝る前に母親に語ってもらう御伽話だけなのである。
欲しがりすぎるのは禁物だと弁えてほしい。
*
「いや〜聞いてくれよ、いや〜参ったよ、うちの猫がいなくなっちまったもんでよ。いやね、俺ぁ正直どっちでもいいんだけどよ、可愛い娘が泣いて悲しがるんだよ〜」
「そういえば羅乃目、迷い子猫の親猫を探してあげてたよな? そういうの得意なのか?」
「うん」
ある日、伊呂波に来た客の愚痴から話が発展した成り行きで羅乃目はいなくなってしまった飼い猫を探す手伝いをすることになった。
羅乃目にとっては造作もないことでも、人間にとって難しいことはそれなりに多い。
「本当かい? 助かるよ〜。いやね、もし見つからなくてもよお、父ちゃんは人に頼んでまで探したんだぞ〜っていう免罪符にもなるからよお。駄賃ははずむからさあ」
その父ちゃんは話の内容からたいそう娘思いな気配をまとい、実に人がよさそうな顔をしている。が、なんと言ったって妻子持ちのくせに夜更けに西町の外れでよろしくやっていた帰りに酒をひっかけている最中だ。どうしようもない父ちゃんだ。遅かれ早かれこの父ちゃんの可愛い娘は、また違う理由で泣いて悲しむ可能性が高い。
「別にいいでやんすよ」
こともなさ気に羅乃目は安請け合いをした。存命であれば猫を見つけること自体は容易だし、猫が家に帰りたくない意思を見せたら、見つからなかったなどと言って適当に誤魔化せばいいだけのことである。
実際、いとも簡単にお目当ての猫は探し出すことができた。正真正銘ぎっちり箱入り家猫だった彼女は、ふと頭をよぎった外への憧れから気まぐれに敷地の外へ出てしまう。全てが真新しく新鮮で、まるで新春の輝きと開放感に包まれているような心持ちで歩き回っていたら、帰るべき家の場所がわからなくなってしまったという。それを救って保護したのがなんとつい先日お世話になったばかりの、あの『親分格でもないのに責任感が強いオス猫』であった。猫の世間は案外狭いようだ。その額のように。
羅乃目は名前を持っていなかったこのオス猫を、親分からもじって『ブン』と呼ぶことにした。
猫の世間が狭いのではなく、ブンの活動範囲が異様に広い可能性があるな、と羅乃目は脳内情報を更新した。
「いや〜助かったよ。これ駄賃ね。またなにかあったらお願いしような。ありがとうね」
父ちゃんはそう言いながら羅乃目に十文手渡した。猫を探した対価として妥当なのかどうか、そしてはずんだのかどうかはいまいちわからないが、これで羅乃目は饅頭を三つ買って帰り、伊呂波の三人で食べた。
何故このように面白味のない話を、ひとつの味付けもせず無味のまま垂れ流しているのかと問われれば。
結果としてこれが羅乃目と黒骸の、便利屋としての初仕事になったから、である。
だが残念ながらこれが全く面白くない。だが記録として、記念として記憶しておくべき事柄なのである。
「俺が言うのもあれなんだが、ふたりには家賃と食費その他もろもろ差し引いた給料しか払えないからさ、こういうので細かく稼ぐのもありなんじゃないか? 店にはちょっと人に頼みごとをしたいとか、ちょっと困ってるとか、そういう客が結構来るからな。いつも俺が話だけ聞いてやってるんだけど、ふたりさえよければそういう客、紹介するぞ」
羅乃目のお土産の饅頭を大事そうに齧りながら、トキ時がそんな提案をしてきたのだ。
「人を見に来たって言ってただろ?西町に出入りしている奴らやこの店に来る客はどうしたって偏りがひどいからな、噂が広まっていけばゆくゆくは色々と見られる機会が増えるんじゃないかとも思って」
「なるほど、それは名案かもしれませんね」
意外にも黒骸が乗り気になっている。長い指を顎に添えて微笑んだ。饅頭は既に食べ終えており、トキ時の淹れた茶を味わっていたところだ。
「まあ夜は伊呂波があるからな。一日中働いてるみたいなことにもなりかねないから、そんなに強く提案はできないけど」
ここ食事処伊呂波は、ごく北町寄りの西町の外れにありながら「飯が美味くて店主が聞き上手!」と連日狭い店内がぎゅうぎゅうになる繁盛ぶりをみせている。先代の頃から変わらず通ってくれる常連や、トキ時の代で新しくついた常連も多い。地域に愛される場所なのだ。
営業中の伊呂波でのふたりの仕事は基本的に接客のみである。一応あとは用心棒としての役割りも担っている。「死神がお前に挨拶に行くぞ」という台詞に顔を青ざめない輩や、突発的に起こる酔っ払った客同士の喧嘩などを成敗するのだ。営業時間外だと買い出しや仕入れの手伝いもある。重くて運ぶのが大変な物でも、ふたりがいれば楽々すいすい。トキ時は今まであれやこれやと全てひとりで賄って大忙し! であったが、ふたりのおかげで大好きな料理に集中できるので大助かりも大助かり! という具合だ。ふたりが来てからのほんの数日間で、浮かれてぬか床を増やしたらしい。
それでも体力が有り余った子どものように、暇な時間の多くを町の散歩で過ごしている羅乃目にはむしろ丁度いい運動にもなるかもしれない。
「簡単そうな内容のものだけを受けて、上手くいきそうなら続ける、くらいの気持ちでいいかもしれません。せっかくのご提案ですし、俺はやってみたいです」
「ホオー! やる気じゃねえか! いいな! 黒が元気だ! オレはお前のそういうツラ久々に見た気がするぜ!!」
「猫見つけてお饅頭買えるなら、わっちもやるでやんすよ。わっち元気いっぱい!」
こうしてふたりの兼業便利屋稼業が幕を開ける。
その晩の営業で、さあちょっと困っている客はいないかと、いつもの愚痴や相談を待ち構えていたトキ時だったが、客側から出てきたのは思いがけない台詞だった。
「あのよ、うちの犬っころがいなくなっちまって。猫は見つけてくれたんだろう? 犬は、どうかな。金はちゃんと払うよ。叱ったらよ
……ビビって、走って行っちまって
……! ウウーーーッ!」
どうやらあのどうしようもない父ちゃんは、仲間内に猫探しの話を自慢したらしい。猫が帰ってきて可愛い娘からの株も上がって父ちゃんは嬉しい!というような内容で。
「犬もいけるでやんす」
そんな会話を横で聞いていた別の客が「動物探しじゃないけど、もしかして物置きの整理の手伝いとかもやってくれる?」だとか、「最近薪を割るのに腰が痛くてよお」だとか、「俺の浮気が母ちゃんにバレそうなんだよ!助けてくれ!」「そいつぁテメェのゆるい股の問題だろうが!」「いよ! 男の中の男!」「妾を別宅で養うなんて俺たちには到底できねえ芸当だよな!」「わはははは!」だとか
……
「ああ、簡単な手伝いなら俺が行きますよ。日程と内容を教えてください。金額を相談しましょう」
継続的に依頼が来るかは別としても、幸先はよさそうだ。
そうやって少しずつ、ふたりが西町に馴染もうとしていた矢先のことである。
「おはよう、珍しいな。羅乃目の前に黒が起きてくるなんて」
「あの、羅乃目が熱を出しまして」
「え?!」
「ほかほかなんです
……」
羅乃目が熱を出した。
最初に異変に気がついたのは羅神だ。いつもならとうに起きているだろう時間になっても起きない羅乃目を不審に思い顔を覗き込む。丸くなって寝ている羅乃目の隙間に鼻先を突っ込んで額を押し付けると、羅乃目は目を覚ましてはいた。
桃色に染まった頬とぼんやりとした潤んだ目で羅神を見つめ、重そうなゆったりとした挙動で羅神の耳を掴んで引き寄せてくる。
「お前もしや、熱があるのか?」
「んー」
「他に不調は? 喉や咳はあるのか」
容態を聞き出そうとする羅神とは裏腹に、羅乃目は引き寄せた彼の顔を抱え込んで丸くなり直してしまった。
「くっ、放せ
……」形ばかりは抵抗したが、完全に体勢を持っていかれた羅神は抜け出すことが出来ず、仕方なく助けを求める。「おい雨庸。黒骸を起こせ、大声は出すなよ」
「へいへい。オーイ黒、朝だ朝だ。起きやがれ」
言われた通り大声を出さずに、黒骸へ無遠慮に頭突きを入れている。頭突きというよりは上から自由落下で頭をびたんびたんとぶつけているに近い。蛇が頭突きをするとこういった絵面になるという大発見である。誰の目にも奇怪に映るであろう光景だ。こういったものを人間が見ると、やれ妖怪だなんだと騒ぎたくなる気持ちもわかる。
「ヴッ
……おきてるよ、おきてヴッ」
「オーイ」
「
……おき、ヴッ
……てる」
「羅乃目が変なんだよ」
「! 羅乃目が?!」
半分夢の中で受け答えをしていた黒骸が、羅乃目絡みと聞いて飛び起きた。毎朝この方法で起こした方が楽かもしれねえな、と雨庸は黒骸の起こし方一覧にひとつ項目を増やした。現在の持ち札では、断トツで大声で騒ぎ立てるが有効なのだ。
「羅乃目どうしたの? 大丈夫? 何があったの?」
「んー」
羅乃目は羅神を抱き抱えて不機嫌そうに唸るばかりで、状況が伝わってこない。
「発熱している。とりあえず羅乃目の腕を解いてくれ」
黒骸は羅神を触れない。ひとまずは羅乃目の腕を丁寧に開いて羅神を救出することにした。
羅神を引き剥がしてしまうと、羅乃目は目を閉じたまま手探りで掛け布団を頭まで被って丸まった。布団の中でまだ不機嫌そうに唸っている。
黒骸は呼吸のために顔だけは出してやりながら汗をかいて額に張り付いた髪を整え、そのまま頬を撫でる。素早く羅乃目を観察した。
「高熱が故に寒いのかな。でも汗はかいてる。暑さと寒さが共存してたらそれは不快にもなるか。今のところ熱だけかな? 咳も鼻を啜っている様子もないし吐き戻してもいない。これからくるかな
……」額に手を当て、蒸したての饅頭のようになった羅乃目の体温を再確認した。「熱を出すなんていつぶりだろう。あの頃はどうしたんだっけ」
黒骸は落ち着いた態度を崩さなかった。本当は取り乱したいほどに心底心配ではあるが、自分が慌てたところで解熱はしない。ならば冷静に最善の対処法を思案するのが一番羅乃目のためになるとわかっている。
「確か薬草かなにかを煎じて飲まされていたな」
「困ったな。山菜ときのこならわかるけど、薬草はわからない」
「とりあえずトキ時にいっぺん相談してみたらいいんじゃねえか?」
「
……という次第でして」
「そいつは大変だ!」
あらまあ! とでも言いそうな表情でトキ時は羅乃目の様子を見に駆けて行き、高熱でくったりとしている彼女を見ると、ううー可哀想にとでも言いそうな表情になった。全てが顔に出ている。
「羅乃目、食欲あるか? お水だけ飲もうか。起き上がれるか?」
「んーんー」
頭がふらつくのが嫌なのか、羅乃目は起き上がりたくないと言わんばかりに目を強く瞑って身をよじる。
「俺が後ろから支えてあげるから起きよう? 汗かいてるから水だけ飲もうよ」
「まるで赤子のようだぞ。統領の威厳はどうした」
「オイオイしっかりしろよ、あんまりへろへろだと黒が泣いちまうぜ」
男性陣四人(正確にはふたりと二匹)でなんとかなだめすかして水を飲ませる。もちゃもちゃしている羅乃目は水を飲んだやいなや、また丸まってしまった。
「前に俺が熱出した時の薬があるんだけど、紅族にも人間と同じ薬って効くのかな」
「基本的な構造は同じ、だと思います
……多分」
「オイオイそうやって変なモン飲ませようとしてんじゃねえだろうな」
「え?! そうか! いや、確かに心配だよな! どうするか
……そうだ俺が飲むか! いやでも俺は熱はないんだよな、意味がねえか、ちょっと舐める
……?」
「
……いやいい。お前の態度で毒の類でないことは十分に伝わる」
あらぬ疑いをかけられてしまったトキ時は精一杯全力で無実を証明しようと必死になってくれたが、そもそも言い出しっぺの雨庸を含め、誰ひとりとしてトキ時の善意を疑ってはいない。
「ンだよ、俺だって別にアイツがそういうことするたぁ思ってねえけどよ、一応確認しといた方がいいだろうがよ。大事だろうが」
薬を取りにひとり母屋へ戻ったトキ時が不在の間、雨庸はひとしきり叱られていた。
「あったあった、これこれ」
そんなことは知らずに薬包紙で三角形に包まれた粉薬を片手に、軽く息を切らせてにこやかに戻ってきた。額には薄らと汗が滲んでいる。おそらくはトキ時なりに全力で走って全力で探して全力で戻ってきてくれたのだろう。彼の体力と運動能力を思うと、この狭い中庭も母屋の急な階段もそれなりの運動量に値するはずだ。
「そういえば、羅乃目って何歳だ?」
「十七歳だ」
「うん、じゃあ大丈夫だな。ほら! 一応ちょっと舐めとくからな」
見てろよーとでも言いたげに薬包紙を開いたトキ時は、左の小指で粉薬をちょんと突くとそのまま舐めた。
「にが」
「水で流し込むより直接舐めた方が苦い、とは思います」
薬を舐めた感想が思わず口からまろび出てしまったトキ時と、出っぱなしなのもなんだか申し訳ないなと思って拾いに行ってしまった黒骸の図である。
ひとまずはまた男性陣四人(略)でなだめすかして羅乃目に薬を飲ませた。熱で弱っているとはいえ、手力は黒骸よりも強い。下手に嫌がられて抵抗されると実はなす術がないのだ。
「はい上手に飲めました」
トキ時が安心した表情を見せる。
その後も髪をまとめ直したり、寝巻きを脱がなくていい範囲までの汗を拭いたり布団を直したり、彼の手際のよさはまるで手慣れた母親のようであった。もーまたこの子は熱を出しちゃって、世話が焼けるんだから。と今にも言い出しそうだ。
羅乃目も眠りが深くなったのか、今は直された布団の上で寝かしつけられた通りに行儀よく仰向けに眠っている。一二回寝返りを打てばまたいつものように小さく丸まった姿勢になるだろう。
「ありがとうございました。なんだか手慣れていましたね」
「子どもの頃は季節の変わり目だとかにすぐ体調を崩してたからな。その時看病してくれてたお袋のこと思い出して、ちょっと頑張ってみた」
「
……羅乃目が熱を出すなんて、十数年ぶりだと思います。みたところ症状は発熱だけのようですから、環境が変わった疲れが出たのかもしれません」
「そりゃあ疲れるよな慣れないことばっかりだろうし。日が浅いのによく頑張ってくれてるのはちゃんと伝わってるよ。ありがとうな」
「いえ、そんな。なんだかすみません」
「謝らない! 俺が熱出したら看病してくれよな」
「ええ。もちろん」
掘立て小屋から撤収した面々は、買い出しと仕込みに別れて行動を開始した。
「羅乃目に精のつくものを見繕ってあげたいんです、少々遠回りしてきても?」
「おういいぞ。案外けろっと元気になるかもしれないからな。甘味も買ってこいよ」
「ではお言葉に甘えて」
トキ時は黒骸を送り出すと、早速本日の仕込みに取り掛かった。
まずはきんぴらごぼう。手際よくごぼうをささがきに、にんじんも千切りにしてここに合わせる。砂糖としょうゆで味付けをして、最後に小さく輪切りにしたとうがらしを追加して彩りと刺激を。少々濃いめの味付けにするのが伊呂波流だ。
さて次は煮豆にしようと前日から水に漬けておいた金時豆を
……
「トキ時! あれはやはり薬ではなかったのか?!」
「へ?! 何事?!」
「くそ! いいから来い!!」
取り乱した様子の羅神に呼ばれてトキ時は慌てて後に続いた。土間を抜けて中庭に出ると即異変に気がついた。料理に集中していて気づいていなかったのだ。
掘立て小屋から、唸るような叫ぶような声が聞こえてくる。咄嗟に玄関を開けば、着衣を乱し、髪を振り乱した金眼の羅乃目と目が合った。
「!」
「阿呆! 閉めろ!」
──バンッ
羅乃目の姿と羅神の声に驚いて、慌ててその戸を閉め直す。
「なんだ? 誰だ? 中にいるのは羅乃目なのか?」
「正真正銘、羅乃目だ」
「で、でも違かったぞ」
「目が」とは言わずに、トキ時は自分の目を指さしてその質問を完結させた。
「詳しい説明をしている場合ではない、とにかく紅族は瞳が二種類あることだけは伝えておこう」
「えっ! ちょっとそれは
……かっこいいな」
緊急事態の最中であったが、何かが確実にトキ時の琴線に触れたらしい。
「そのようなことを言っている場合か!」
はわ
……と場違いに輝きかけたトキ時の瞳が瞬時に戻った。明らかに羅神の言葉が正しい。
「そうだ! そう、何?! なになになんで? 何が起きてるんだ?」
「それはこちらの台詞だ! お前は一体羅乃目になにを飲ませた!」
「正真正銘全てを賭けて誓っていい! ただの解熱薬!! 心臓とか賭けてもいいぞ!」
「いらん!」
掘立て小屋の玄関に背中を預けてその場にしゃがみ込み状況整理に努めようとするが、そもそも理由も発端もわからず事態は平行線だ。
その間も羅乃目の叫ぶような唸り声が掘立て小屋から聞こえてくる。時折り単語のようにも聞こえるが、意味の繋がらないただの羅列だ。大きな物音も混ざってきた、中で暴れている可能性がある。
「何が起きてるんだ? 羅乃目は大丈夫なのか?!」
「致命的ななにかではないことはわかるが、普段の行動から明らかに逸脱している。本来目の色は自身の意思で制御できるものだ。余程のことが起きている!」
背中越しに中の物音が体に響いてくる。
トキ時はそこで突然何かを思い出したような表情になった。
「え? え? 待ってくれ、紅族って人間と年齢の数え方が違うとかないよな?」
「は?」
「羅乃目は十七歳だって言ったよな? え? 実はまだ十歳ですとかないよな?」
「
……お前は何を言っているんだ?」
トキ時は一度ぐっと唾を飲み込んでこう続けた。
「あの薬は子どもには強すぎるんだ! 子どもが飲むと意識障害や幻覚、せん妄状態になる場合がある!」
「くっ、そういう事か!」
「なんだよ! やっぱり違うのか!?」
「
……とうさまと、かあさまは
……?」
掘立て小屋の中から不意にか細い声が聞こえた。
「!」
「っ!
……とにかく! 私は黒骸を連れ戻して来る! 中には決して入るなよ! 今の羅乃目に力加減ができるとは到底思えん! いいな!! 決してだ!!」
言うが早いか羅神は駆け出したが、同じ勢いのまま戻ってきてこう付け足した。
「羅乃目が外に出ないように見張っていろ! あれで出歩かれてはたまったものではない!!」
羅神は全速力で走り出した。黒骸の行き先は聞いていない。だが買い出しなら東町のはずだ、羅乃目が気に入っている甘味処も東町にある。しかし東町は広い。明確に目的地を決めずに最適なものを探して歩き回っている可能性もある。
「おい! 紅族の男を見なかったか! 蛇憑きで長身の男だ!」
とにかくすれ違う全ての動物にこの台詞を投げて行く。最初こそ手応えが無かったが、段々と近づいているのか少なくとも通った道なのか、動物たちの示す反応と方角が固定されてきた。
「何処にいる!」
羅神は人間には見えず、聞こえず、触れられず。したがって道にどれだけ人間が溢れていようとそのまま真っ直ぐに突っ切ることができる。全ての最短距離を取って走り抜けられる。
「おい! 紅族の男を見なかったか! 蛇憑きで長身の男だ!」
既に何度言っているかわからない台詞を投げると、道端で人間が撒いた穀物のカスを突いていた雀はすぐ隣の角を示した。
「恩にきる!」
示された角を曲がると、見慣れた細長い後ろ姿があった。買い出し用の籠を背負い、それとは別に風呂敷で包んだ何かを片手にぶら下げている。
「黒骸!!」
羅神はよく通る声でその名前を呼んだ。しかし黒骸は全く反応をしない。当然である、反応をしないだけでとうに気付いている。回り込んで正面を塞いできた羅神に歩を緩めることなくちらりと視線だけ合わせた、極めて自然な所作で。誰もそこに狼がいるなど想像もしないだろう。
黒骸は「何があったの」と視線だけで訴える。
「薬が体に合わなかった、羅乃目は今せん妄状態であの小屋で暴れている! 下手をするとあの男を殺しかねん! 面倒が起こる前に帰るぞ!」
「!」
黒骸はふいに「あ」と小さな声で漏らして立ち止まった。対人間用の偽装である。一瞬考えるふりをして、何か大切なことを突然思い出したかのように振る舞う。
次の瞬間弾かれたように、人間に不審がられないぎりぎりの速度で伊呂波まで全力疾走した。
「オイオイオイオイ!! やっぱやべえもんだったじゃねえか! オイ! どうすんだよ!!」
「どうにかする為に帰るのだろうが!」
羅神は冷静沈着だった。だったはず。突っ走り気味な羅乃目を制し、常に物事を俯瞰で捉えているような余裕のある態度を取っていた。それが今、大声を出しながら終始取り乱している。それだけのことが起きている、と伝わるのには十分すぎるほどであった。
久しぶりにほとんど本気という走りをした黒骸はあっという間に伊呂波へ辿り着いた。買い出し用の籠と風呂敷包みを投げ捨てながら一目散に店奥の暖簾をくぐって土間を通り抜け
……
「玄関が開いてる」
「くそ! 入るなと言っておいたのに、それとも引き摺り込まれたか?」
「違う」
黒骸が掘立て小屋に駆け込むと、いつも通りに陽が高い時間帯でもそこはぼんやりと薄暗かった。
「あ、おかえり」
中には髪と着衣が乱れ全身に軽く怪我をして、いかにもぼろぼろと言った有り様になり座り込んでいるトキ時と。
その腕の中で寝息をたてる羅乃目の姿があった。
「大馬鹿者! 入るなと言っただろうが! 下手をすれば殺されていたかもしれないんだぞ!」
「いや、だって! ごめん
……泣いてるみたいだったから心配で」
「!」
羅乃目の頬には涙が乾いたかさついたあとが残っている。目を閉じてはいるが、周りも赤く腫れぼったい。
元から物がほとんどなかった室内は、布団がぐちゃぐちゃになって箪笥が横薙ぎになっているだけであった。中身はわからないが見たところ破損はしていない。
次の言葉が見つからないのか、少しだけ静寂が流れる。薄暗い掘立て小屋に、不快な触感の重い空気が流れ込もうとしている。その空気の層の隙間から、トキ時がぬるりと発言した。
「
……あのさ、あんまりこういうこと言うのは、よくない
……と思うんだけど」
ここで言葉を切って黒骸の瞳を実に遠慮がちに見やった。ああきっと、誰にも何も言わないから出て行けとかそういう話をされるのだ、と。それは至極当然な話だろうと黒骸は細くゆっくりと息を吐いた。
「ごめん、その、他に言葉が浮かばなくて
……」トキ時は眉間に皺を寄せたのちに、やっと腹が決まった! という顔をした。「
……羅乃目って、すごく重いんだな。あ、足が痺れて
……」
「あ? え、あの、すみません貰います。貰います」
こうして極限の足の痺れから涙目になっていたトキ時から黒骸の腕の中へと羅乃目が渡った。それでも起きない。気持ちよさそうに眠っている。
トキ時と黒骸は、壁へ背中を預けるように並んで座った。トキ時は唸りながら足を前へ投げ出す。今足を触ったらさすがのこの男も怒るかもしれない。
「いやーごめんな、俺が貧弱なばっかりに。だとしてもちょっと、重い、よな?」
「あ、ええ。はい、あの」想像していなかった言葉に黒骸の調子が狂っている。「
……重いです。俺たちは筋肉が多いので見た目より遥かに重いんです。羅乃目はこの見た目で二十貫(約八十キログラム)は超えています」
「米俵よりある
……!」
調子が狂っている黒骸は、思わず全く言う必要のない羅乃目の体重を答えてしまった。まあ体重が知られたからといって恥ずかしがるような羅乃目ではないのだが。事情を知らない人間には伏せておきたい情報のひとつでもある。
黒骸はその長い腕でくちゃくちゃになっていた掛け布団を手繰り寄せると、羅乃目の顔だけ出して頭まですっぽりと包んでやった。
「赤ん坊みたいだな」
「羅乃目は狭い場所が好きなので、こうやって包んであげると安心するんです」
「そうか。俺も覚えておくよ」
「あと、暑さに弱くて寒さに強いです」
「ははは、聞けば聞くほど赤ん坊みたいだな」
また無言になってしまった。
待ってましたと言わんばかりに、不快な触感の空気が再度流れ込もうとしている。
「あのさ」「あの」
「あ、なんだ?」「あ、どうぞ」
「
……」「
……」
見事な同時発言を繰り返し、また結局振り出しに戻る男たち。
「黒、先にいいぞ」
左手でどうぞをされた黒骸は何回か小さく口を開けては閉め、切り出す為の言葉を探している。何度かの開閉のあと、ようやく言葉を見つける。
「トキ時さんは俺たちが怖くないんですか?」
少しだけ早口だった。
だがきちんと目を合わせて放った言葉だった。
真剣に真っ直ぐに、ただこれだけは聞いておかねばならないといった面持ちで。
「怖くない」同じ真剣さで、トキ時はきっちりと返す。「怖くない、怖くないよ
……良にも似たようなの言われたことあったな」
「なんで」
「なんでって、なあ。そりゃあ今回はちょっと痛かったけど。別に羅乃目だしな」
なんの説明にもなってないじゃないですかと言いたい気持ちを抑えて、もう一度言葉を探す。
「なんでトキ時さんはそこまで優しいんですか。どうして他人にそこまで優しくできるんですか」
二度目の質問を受け、トキ時は首をさすりながら壁から背を離した。そのまま胡座をかいて前のめりになる。足の痺れは取れたのだろうか。
「優しさというより全てを相手に委ねていると言った方が近い気がします。寛容、寛大という言葉では生ぬるい。どうしてそんなことができるんですか、あまりにも無防備すぎる。俺は一度あなたを手にかけようとしているんですよ?」
トキ時は黒骸からの質問に対して一応は答えを考えているようだ。手を首に置いたまま天井を見つめて思案顔をしている。
「
……俺は子どもの頃に優しい大人と優しくない大人に会って。優しい大人に救われたから、じゃあ自分も優しい大人になろう
……かな?」考えながら話している。自分でも着地点が見つかっていない話し方だ。「さっき羅神にも怒られたけど俺は馬鹿だからさ、誰に優しくして誰に優しくしないとか、そういうことができないんだ。常に全力で最大限の出力を心掛けてる。でも優しいだけが優しさじゃないとかも言うだろ? 突き詰めれば俺の優しさは惰性に近い。紛い物なんだ。きっと本物の聖人君子が見たら裸足で逃げ出すよ。俺は別に優しくない」
言葉の最後で首に置いていた手を膝に持っていった。俺の話は終わり、の合図のようにも見えた。
「言うは易く行うは難し、です。少なくともそれを徹底して実行できている。紛い物だなんてとても」
「でも黒は俺のこういう性格が嫌なんだろ?」
笑いながらさらりと放つトキ時からは、なんの嫌味も感じ取れなかった。
「いえ」そんなことはないです。と言いかけたが、取り繕うのをやめて言い直した。
「すみません
……でも言い訳をしても?」
「いいぞ」
「俺たちにとって人間に優しくされるなんてあり得ないことなんです。あなただってご存知でしょう? ましてや俺たちが何者かを知っていてだなんて、ごめんなさい。怖いんです。その裏に何を考えているんだろうとか、何を見返りに求められるんだろうとか。理由は何かと。とにかく疑わずにはいられない。探らずにはいられない。俺たちは、いえ少なくとも俺は、それが純粋な優しさであっても真正面からの受け取り方がわからないんです」
トキ時は真面目な顔でうんうんと大きく頷きながら黒骸の吐露を聞いていた。
「ま! そりゃあそうなるよな。黒が正しい」胡座をかいたまま、後ろへ軽く転がるような動きで背を壁につけ直した。「でも俺の性格はもう変わらないだろうからな。というか俺はこの態度を改める気はないし、ふたりへの対応は今後も変えない。だからあとは黒が決めていい。俺は人を騙すのも嘘をつくのも下手くそだ。どう受け止めていくかは黒が決めていい」
黒骸はどこか諦めた面持ちになった。諦めたといっても呆れているというわけではない。いつもの微笑みをたたえて、自分を立て直している。
「
……羅乃目があなたに懐く理由が少しわかった気がします。もうひとつ質問しても?」
「なんだ?」
「さっき何を言いかけたんですか」
ふたりで同時に話して有耶無耶になった会話のことであろう。
「ああ、さっきのか。別に出ていかなくてもいいぞって言おうと思って」
「逆を言われると思っていました」
「俺がそんなこと言わなくても、自分で言い出しそうな切羽詰まった顔してたからな。別に居たいだけ居ていいよ。人手があるのはありがたいって前にも言ったろ」そこでまた唇をきゅっと結ぶ黒骸を見てトキ時は続ける。「俺の話なんて退屈だろうけどさ、退屈ついでにもうひとつ」
今度は伸びをして、また壁から背を離す。
「俺は感情でしか話ができないんだ。理由を説明するとか、理論がどうこうとか全くできない。ただなんかふたりのことが好きだなって思う。もっと一緒にいたいかもなって。だからなんか出ていかずに伊呂波に居てほしいって思ってる
……馬鹿みたいだろ?」へらりと笑った。この男の笑い方はどこまでいっても嫌味がついてこない。「俺がいいって言ってるんだから、俺はいいよ」
「トキ時さんは案外強引なところもありますよね。笑顔で畳み掛けてくるというか。妙に有無を言わせない強さがあって」
「あー、俺のそういうところは親父譲りだ。自覚あるんだ。今思えばどんどん性格似てきたな。俺の顔、生まれた時から親父に瓜二つでさ。間違いなく年取ったら俺はあの顔になるんだろうなって思ってる」すると、はたと表情を変えた。何かに気がついたような顔だ。「黒はせめて何か理由があった方が安心するんだろうな多分。あった、あったぞ、とっておきの理由があった」
理由とはこのようにひねり出して見つけるものなのかどうかはわからないが、鼻息荒くトキ時は体ごと黒骸へ向き合った。崩していた足を正し、両手を足の付け根に近い位置で添える。跪坐の体勢になった。何をそんなに改めて言う理由があったのだろうか。
「ふたりが来てくれてから手が空く時間ができて俺はもう嬉しくて浮かれて調子に乗って
……ぬか床を増設した。また忙しくなって手をかけてあげられなくなるなんて俺には耐えられない
……! だから居てくれよ。な」
神様仏様〜とでも拝みだしそうに両手をぱんっと体の前で合わせている。語尾の「な」の部分だけちらりと首を傾げて黒骸をうかがっていた。
「ふっ
……くくく」
こんなにも改まって、たいそう立派な理由が出てくるのかと思っていた黒骸は肩を震わせて思わず小さく笑ってしまった。
出ていくなと引き留めるための、慌てて取って付けてくれた優しい理由だ。
「そうだ、そうだよ、俺は俺のぬか床のためにふたりに優しくしてるんだよ。あった、ほら、理由。とりあえずそういうことでよろしく頼む。こんなに下心ありで優しくしてるんだからもうなにも心配ないだろ。よかったなー」
トキ時は自分の言葉の途中で「え、天才か?我ながらいいこと思いつけてるぞ」と言いそうな顔をしながら話していた。この顔を見るのは二度目になる。
「そうですね、そのくらいのっぴきならない理由があると俺もやりやすいです。トキ時さんのぬか床を台無しにするわけにはいきません」
笑いの尾を引きながら視線を下へ落とすと羅乃目の顔がよく見えた。かさついた涙のあとを指で撫でる。泣いた余韻で、寝息をたてるたびに鼻がすぴすぴと小さく音をたてていた。
「
……でも。はいじゃあそうですかと、突然全てを受け止められるようになれるかわかりません。トキ時さんの主張はよくわかりました。今後どうなるとしても、まだもう少し時間をください。それから初めて会った時、乱暴な扱いをしてすみませんでした。謝らせてください」
「おう、もういいよ気にしてないから。ってことは、居てくれるんだな」
「ええ。改めてよろしくお願いします」
感情的で退屈な自分語り。でもそれは時に避けて通れない道になっている場合もある。
まだ疑っている、訝しんでいる、信じきれていない。どうしようもない男たちの昼下がり。心は踊らずとも、それでも共に踊るために一歩近付いた男たち。
この晩の伊呂波は思いの外時間を食ってしまって仕込みが間に合わなくなった為に品数が少なく、客から文句が出た。
「いやあすみません、階段から転がり落ちてこのざまなんです。仕込みが間に合わなくて。申し訳ない」
「そいつはいけねえな! 俺たちで治療費稼がしてやんねえと!」「いいねえこっち酒追加してくれ」「俺もおかわり」「今日は勝ったんだよ任せな!」「いよ!男の中の男!」「酒酒〜」
結局はこんな調子で、いつもより売り上げがよかったくらいだ。お行儀と口は悪くとも、憎めない気のいいどうしようもない男たち。どうしようもない男に集うどうしようもない男たち。
羅乃目に負わされた怪我はうっかり階段から転がり落ちたことにした。羅乃目に頭突きされてできた目の上の痣が、今ばかりはいい仕事をしている。
一番手に負えなかったのは羅乃目だ。伊呂波が終わった頃に起きてきて「いっぱい寝たから眠くないでやんす」と言って、まだ微熱があるのに目を爛々に輝かせて寝ないと主張しながら布団の上を転がって黒骸を困らせた。せん妄状態時の記憶はほとんどないようだった、嫌な夢みて疲れたでやんすと締めくくっている。
「黒! 楽しいおはなしして!」
次話