静脈

スモーカーさんお誕生日の時にpixivに載せてました、でもスモーカーさんが一年分誕生日をローにすっぽかされた話です
タイトルの静脈には「静脈とは、血液が各臓器から心臓に戻る際に通る血管で、名前のない細い静脈が集まって太い静脈につながっています」という、名のつかない感情が心臓に戻っていくまでどのくらいかかるだろう、っていう意味を込めています
冒頭の赤い糸と青い糸のくだりも、静脈と動脈の感じから
あと作中の告白も、白さを告げるという意味合いも含んでたり

個人的にとてもコメディだと思って書きました



(一年後、スモーカー)

(もう三月か)
 とカレンダーをめくった。今年の初めから慌ただしく日々が過ぎて、あっという間の二ヶ月を振り返る暇もなかった。
 ヒナの誕生日だった先日、本部に寄ることを誕生日本人に半ば強引に決められ、スモーカーは渋々海軍本部へ参った。G5の部下たちも祝いたいとごねていたが、「たしぎとまとめて祝い品を送ればいいだろうが」と言うと、すぐにプレゼント選びに奔走していた。
(あれが海賊にも恐れられるG5かよ)
 スモーカーはたまに噂の出所に疑問を感じずにはいられない。もう長い間自分のことを「スモやん」と慕う部下たちは、あいかわらず大らかで涙もろく、騒がしい。
 ここのところ深く刻まれてなかなか取れなくなった眉間の縦じわを抑えながら、本部に行っている間に溜まってた書類を片付け、束にして放り投げる。新しい葉巻に火をつけようとするが、ライターのつき具合が思わしくない。ようやくついた火を受けて、葉巻は静かに焦げ出した。
 ……そういえば、近ごろ支部の周囲が静かだ。部下の訓練が捗るのは喜ぶべきことこの上ないが、海域に敵は出ないし、遠方の島に立ち寄っても海賊たちの姿が見えないという。海賊王の船は有能な航海士のせいでいまだに足取りを掴んでも煙に巻かれてしまう。捕らえられないもどかしさもある反面、さすがだと感嘆する。それは今に始まったことではないのだが。
 ハートの海賊団の動向が、去年の三月あたりからぱったりと途絶えたのだ。
 麦わらの一味やユースタス・キッドの海賊団のように、姿や形はあれどなかなか捕まえられないという報告が上がる船はちらほらある。捕縛されずに逃げ回りながら、あちこちで騒動を起こしてこちらとしては早く尻尾を掴んで引きずり出してやりたいところだ。
 そこにいつもなら本人の意志と関係なしに巻き込まれているハートの海賊団の話が、ここ一年でまったく出てこない。
(生きてはいる、んだろうが)
 煙が自分の周囲を漂っている。窓も開いていないこの部屋で、行き場もなくふらふらとさまようようだ。
 去年の誕生日にはいつもとは違った小包が届いた。毎年送られてくるツテとは違った経由でたどり着いたその包みを開けてみると、ハートの海賊団のクルー三人の名前が添えてあった。ごわごわの手形、少しだけついていたミンク族の白い毛。そしてメッセージには、
『今年はおれらからです』
 とだけ。
 つまり、ローはそのときからあの船に乗っていないのだ。
 死を隠蔽 いんぺいするようなことはないだろう。だったら、どこかにふらっと旅でもしたか。スモーカーの予想は大体当たっていた。ただ行き先は当然教えられなかった。
 もしかしたら、どこかの島で落ち着いてしまったかもしれない。いいやつでもできて、そこに足 しげく通っているのかも。そうであれば、自分が心を砕く必要はない。気まぐれにプレゼントを送られ、すれ違った海域で待ち合わせをして酒を飲むだけの間柄なんて、徐々にたち消えるのは目に見えてわかっていたはずだ。
 葉巻の灰を捨てると、鼻の奥に香りが抜けた。去年のハートのクルーたちからの祝いの葉巻だ。なかなかいい味で、たしぎからの評判も良かった。軍からの支給品がないときは、またこの葉巻を買うかと思えるくらいには。
……ライターは、買わねェとな)
 もう一本葉巻に火をつけようと何度かライターを擦ったが、すぐにやめてしまった。

 支部の馴染みの食堂よりも、ときどき下に降りて街の食堂へ行きたくなる。
 今日もそういう気分で、立ち寄ると店主が顔をほころばせて笑った。
「一人かい?」
 いつもやかましい部下をぞろぞろ連れてくる場所だから、店主は一人での来訪に驚いていた。「一人だ」と告げると、気前よくいちばん店を見渡せるテーブルに案内される。木製の椅子に落ち着くと、滑らかなテーブルの表面には細かい傷が無数についていた。年季の入った店の証に、上から肘をついて葉巻をもてあそぶ。
「あれ、禁煙?」
「火がつかねェ。マッチあるか?」
「あるよ」
 店主が忙しなく動く間、店主の妻が景気のいい声で挨拶を飛ばしてきた。スモーカーは手をあげて応え、すぐに渡されたマッチを擦る。
「最近は物騒なことも少ないね、海兵さんたちがよくこっちへ来てくれるよ」
「あいつらがか。面倒起こしそうになったらすぐ追い出していいからな」
 そうさせてもらうよ、と愛想笑いを返され、グラスに入った水を置いていった。
 ここは山のそばで湧き水も多いが、新鮮に保つのが難しい。スモーカーが赴任していちばん始めに手をつけたのが、大型の浄水器の設置だった。突然現れた真っ白い海兵に街の人たちが怯える中、無言で縄を取って角材を縛り上げ、杭を打って浄水器を固定したのを覚えている。この水はそうして濾過して作られた、スモーカーの最初の信頼の積み重ねのうちの一つである。
 だから金も取らない、という店主の厚意にいつも甘えるが、酒を飲むときはさすがに料金を支払うことにしている。特にヒナが来た日なんかには目も当てられない量の酒樽が転がるからだ。
 惜しみなく出された料理を残さず平らげると、スモーカーは礼を言って立ち上がろうとした。
「そういや、ライターが壊れてるんだったよな」
 さっき帰っていった客が使っていた椅子とテーブルを拭きながら、店主が問いかける。「そうだ」と言うと、店主は外を指さした。
「ここの二町先にできた新しい道具屋がいい腕の技師だから、もしかしたら直してもらえるかもしれないぜ」
 それはいいな、と言いかけて、スモーカーは口をつぐんだ。手の中にある、胴体部分がずいぶんくすんだライターを見つめる。
 ──これは、最初にローが突然送ってきた誕生日プレゼントだった。つけ心地もいいし、気に入りになってしまったことが しゃくだった。けれど去年から送られてこないところを見ると、もうこれ以降はないのかもしれない。だからなにも義理を立てなくてもいいのではないか。
「いや、新しいのがあればそれを買う。新品も売ってんのか、そこは」
 スモーカーは尋ねる。あると思うよ、と明るい声を浴び、スモーカーは店を出た。
 たった三年で故障するほど何度も使ったライターは、かろうじて鈍い色で太陽を反射させている。弱々しい光はスモーカーの視線の端をわずかにまぶしくさせた。昼間の光は、色素のうすい目に少し痛い。

 堀を降り、道具屋に向けて歩いていると、反対側の石壁から部下たちがバタバタと走ってきた。
「スモやん!」
「良かった、ここにいたんだな!」
「なんだ騒々しい」
 慌てて近づいてくる部下たちの勢いに負けて、葉巻の煙が舞い上がって自分よりうしろにたなびく。
「今呼びに行こうとしてて……あいつが来てんだよ、あいつ!」
「白猟屋はいるか? って偉そうにふんぞり返っててよ」
 スモーカーはその言葉に、目を見開いた。人を偉そうに屋号呼びするのはこの世に一人しかいない。
 けれどなぜこんな敵地の真ん中に。まさか捕まったから? いやそんなヘマをあいつがするのか。けれど堂々としすぎているのも、ローらしいと言えばローらしい。
 こっちだ、と部下の手招きを受けて、スモーカーは早歩きをした。海軍の街に海賊がいるのも考えものだが、部下たちはパンクハザードでローの戦闘力を見ているし、けがの治療で世話になってしまっている。あの男に強く当たれないのだ。
 曲がり角を二つ行くと、自分の目線の先にフードを被った男が立っていた。
 フードの影から二つの目が見える。その目は揺らぎながらスモーカーを捉えていた。ちょうどスモーカーが行こうとしていた道具屋の目のまえだった。当然スモーカーの頭からは、ライターを新調することなんてすっかり消え失せてしまった。

 ◇

 近くの酒場へ連れていくと、ローが、一年間の放浪の日々で出会ったある女についてこう話し出した。

「お前、迷子だろう」
 と建物の隙間から、年老いた女が言ってきたらしい。
「いや、迷子って」
 こんな大の大人に向かってなにを言ってやがる、と思ったが、黙って聞いておくことにしたそうだ。ローは立ち寄ったこの島のログが貯まるまで滞在しなければならなかった。つまり、そのときは珍しく暇で時間を持て余していたのだ。
「迷子も迷子、途方に暮れている」
 占い師のようなことを言い出す女は、壁材の剥がれた建物に寄りかかり、しわの深く刻まれた手で手をさすっていた。
「おれが迷ってるように見えるか?」
 ローはなるべくやさしく言った。酔狂に付き合うのであれば、穏便に済まさなくてはならない。変なことを吹っかけられ、神経を逆撫でされてはたまったもんじゃない。それには今話を聞いているスモーカーも同感だった。些細なことでも人生には、ちょっとした意見の違いではらわたの煮えくりかえることが多くあるのだ。だというのに。
「ほれ、今も。勢いを殺している」
 今度はそのしわのある右手で、女は女自身のこけきった両頬をなでたそうだ。そして口の端を引きつるように上げる。海賊ホーキンスの占いのような正確さはないだろうが、ローがこのエセ占い師に対し、用心して一歩分の線を引いたのは少なくとも見抜かれた。
 心を読めるのか、はたまた人生経験からくる憶測か。
「若いのにもったいない、とか言うのはやめろよ」
「言うもんか。お前は若いのに、経験だけは苦渋と辛酸ばかりだ」
 違うかい? と女はローを覗き込んできた。
 どうして知っているのか。ローはそのとき、それほど悲壮な感じを漂わせていたのだろうか。
……辛いもんだ、若いうちに人生の大半で舐めるような悲しみを負うのは」
「あんたもそうなのか?」
 帽子のつばをあげると、女の顔がよく見えたらしい。老婆で、顔が青白く、不健康そうに見えた。医者として今すぐ病院へ行った方がいいと言いたかったが、おそらくその金もないであろう身なりだったそうだ。そこがどんな島かはわからないが、少なくともどの平和な島にも、少なからず格差はある。そもそも格差がなければ、平和を平和ともわからない。
「あんたよりは長生きだからね。でも、あんたみたいな体験はない。一つ一つがそれなりに楽しかったり、大変だったりした」
 ローは女の言葉に、奇妙な浮遊感に包まれたらしい。
 その日はどんよりとした曇りで、空の切れ目から光が漏れていた。寄せる波は、誰もいないビーチを濡らした。
「海は、怖いかい?」
 ローは女と接しているうちに、正体がわかってきたらしい。そのまま話に乗ってやったそうだ。
「落ちたら、怖い。でも仲間がいる」
「それはなによりだ」
 喉の奥から絞り出したような音で笑う女は、自分の長い髪をき、髪が一、二本抜けた。
 ああもうまもなくか、とローは突然女のすべてを悟った。
「家族は?」
 ローが聞くと、女はまだ笑っていた。まるで誰かを、もしくは自分を嘲笑うようだったんだとか。
「いないさ。そうじゃなかったら、こんなところで一人寂しく死んだりはしない」
「共同墓地くらいには埋めてやれる」
「やさしいねェ、でも残念。体はとっくにどこかへ運ばれちまったよ。あんたがもうちょっと早くここに来てくれてたらね」
「それはすまなかった」
 愛想のない笑いを返すと、女は続けた。
「あんたの母親にさ、」
 ローはその言葉に体を震わせた。
「会ったよ。きれいな人だった。あんたと口元が似てるよ、トラファルガー・ロー」
 女は今度はやわらかく笑った。きっとあっちの笑い方が本来の女の姿なんだろう、とローはあとから思ったそうだ。
 夫がいて、子どもがいて、なにかの理由でその笑顔は奪われて、こうしてここで密かに死を迎えた。そういう顛末 てんまつは世界中にあって、一つ一つに同情する時間はない。
……なんだ、おれを見透かしてたわけじゃねェんだな」
「まあね。子どもを育てたもの同士、子どもの話で盛り上がるのは世の常さ」
 憎たらしそうに言うわりに、女の表情は安らかだったらしい。
「あんた、嫌われているのよ、こっちの世界に」
「死後の世界にか?」
「そうさ、人を殺さないからね。それに医者で、死にそうなやつを助けちまう」
 あんたの周りにいても、仲間は増えない。女はそう言った。
……そりゃあ、父様の身も心配になってきたな。そっちの世界じゃ、すっかり嫌われちまってんだろ」
 医者として優秀だったから。そうローが付け加えたら、女は大げさに肩をすくめた。彼女は霊だと言われても納得がいきかねるほど、生き生きとした反応をしたらしい。
「もしもどこかで会えたら、伝えておくよ。生意気に育って、ピンピンしてるって」
「ああ、そうしてくれ」
「あとあんたたち両親のこと、大事にしてるって」
「妹もだ、忘れるなよ」
「あんた死人に偉そうだね……
 女の最後の声は、掠れてしまっていた。
「なあ、ところで迷子って」
 そう言いかけて、ローは口をつぐんだ。まもなく女の体は完全に見えなくなった。青白い炎が静かに揺れて、小さくなり、とうとうしぼむのをローはずっと見ていたそうだ。

「お前にこの話をしたのは」
 さっきの食堂とはまた別の、路地裏にある昼間からも営業している酒場の隅で、カウンターに酒が運ばれる。職務中だと言うと、スモーカーにはコーヒーが置かれた。
「単にお前が胡散くさいって言って、この話をなかったことにするだろうなと思ったからだ」
……それはねェな。麦わらのとこの骨を見ちまってるから、そういう世界はあるだろうってのはわかってる」
「ああ……そうか、そうだな」
 ヨミヨミの実って言うらしいぜ、とローがあの音楽家の能力を端的に話した。そのあとも、口数は少ないがぽつぽつと麦わらの一味の船で世話になった話を繰り出された。独り言のようなそれを、スモーカーは黙って聞いてやる。ただいよいよ話がなくなって、一杯目の酒が尽きた。もう一杯をオーダーするローの横顔を見ながら、やわらかく核心を突く。
「霊に会ったこと、を話したかったんじゃねェだろ」
「おれがこの一年の中で、いちばん驚いたことだぞ。少しは共感しろ」
「そういうのを求めるたちだったか、お前は」
 スモーカーは今日何本目かわからない葉巻を取り出した。「マッチを」と店主に言うと、カウンターから小さな箱を渡される。芯に火を灯すと、火薬の焦げた匂いをわずかにくすぶらせ、葉巻がじりじりと燃えた。
「で、迷子だったのか」
……一年の旅自体は順調に進んでた」
「ロー」
 スモーカーは、あくまで本題を避け続ける男に苛立ってつい たしなめる。ばつが悪そうにローが目を背け、サーブされた酒を勢いよく半分ほど空けた。
「お前こそ、なんでキレてんだ」
 逆にローに尋ねられる。質問に質問で返されることほど面倒くさいものはない。が、スモーカーは煙を吐き出し、答えになることを探して──結局黙ってしまった。ここでいう答え、というのは、この一年音沙汰のなかった目のまえの男に関する私情ばかりをぐちゃぐちゃに絡めて作ったようなものでしかないからだ。たかがライター一つから男の面影を探すくらいまでには、スモーカーもこの一年さまよっていた。迷子はお互い様だった。
「てめェも黙るんじゃねェかよ」
 ローに言われ、「うるせェ」と返して終わってしまった。
 図星をつつき合うだけでは らちがあかない。あかないが、なんと言い出せばいいかわからない。このまま黙って時間が流れ、ローが帰ればもう永遠に二人の時間が交錯することはないだろう。それでもいいのかもしれない。
 スモーカーがそんな大人のずるさを考えている間に、ローが先に口を開いた。
「一年の旅は、順調だった」
 さっきも聞いたセリフだ。同じことを二度も告げるなんて無駄を嫌う男が珍しい、とスモーカーは顔を向ける。今はもうフードを取っているローは、出会ったころより精悍になっていた。経験が、時間が、男をより したたかにしている。けれど酔いに任せて話そうとする姿は、初めて一緒に飲んだときからなにも変わっていなかった。
「いろんなものを見たぜ、珍しいものもあった。映像にも収めて、ときどきクルーに送った」
 一旦酒を傾ける。二口ほど飲み込み、あっさりしたエールが喉を濡らして、ふたたびしゃべり出す声音はなめらかだった。
「お前と会わない一年は、」
 そして潤った喉で得意げに話そうとして、ローは開いたままの口を閉じることもなく静かに息をついた。
……くそ、ちゃんと話せるはずだったのに」
 一人で悪態をつき、二杯目を空にした。
 スモーカーはローの頭越しに、徐々に店内が賑やかになっていく様子を見ていた。カウンターの端で二人でいることが目立たなくなるほど、夕暮れの日差しがまだ燦々 さんさんと窓から注いでいるうちから客は酒を求める。ここでなら、海軍将校と大海賊がひざを突き合わせ、互いがいなかった一年間を振り返っているなんて誰も気にも留めないだろう。
「てめェは飲んでんだろ、酒の勢いで話せ。こっちは素面で聞かなきゃなんねェんだぞ」
「うるせェ、聞きたくなかったらさっさと金払って出てきゃいいだろ」
 相当に物騒な言い様なのに、内容はあまりにお粗末すぎた。自分より半分以上も年下の人間でさえ、恋や愛を簡単に言葉にできるというのに。ローには酒の勢いを借りて会わなかった一年をどう感じていたかを話せといい、スモーカーにはそれを酒を飲まずに聞けという。
 なんと地獄のような甘酸っぱい時間なのだ。二人は口には出さないがそう思った。これが絆されたというやつなのか。スモーカーに至ってはめまいすら覚えた。
(海賊嫌いのおれが、情けねェ話だ)
 頭痛までしてきそうな額を押さえ、冷め切ったコーヒーを一気に飲んだ。もともとうすい水のような味だったが、より苦味が少なく感じられたのは、このむせかえりそうな時間を甘く感じているからだろう。
 三杯目の酒がローのまえに置かれた。水面にふっくらと泡が乗っている。その泡のきめ細かさを楽しむことなくローは酒を飲んだ。まだ顔は赤くないが、酔いはたしかに回っている。隈のある目が据わってきていた。
「霊に会ってから、ありもしない世界を想像した」
 ようやく紡がれた言葉は、予想よりもはるかに苦しそうだった。スモーカーは慎重に続きを待つ。
「もしも故郷が健在で、今も変わらず人が住み、祭りをしていたら」
 女が会ったという母親の面影をたぐり寄せ、ローから流れ出す言葉は止まらない。
「きっと自分はこの道には辿り着いていない。父と同じ白衣を着てたし、母と同じ笑顔で患者と向き合えてた。いや笑顔に関しては妹に任せた方がいいか」
 たしかに、とは思ったが触れないことにして、スモーカーはじっとローの耳あたりを眺める。
「そういう想像も、過去の話も、頭の中では結構鮮やかに映ってる」
 鮮やかなのはいいことだ。それを良い思い出として捉えているということだろう。傷ではなく、悲しみでもなく、その日々がたしかに本人にとって幸せの象徴だったと言える。酒混じりの涙目が、袖口で拭かれて消えた。
「じゃあこの一年の旅だって、おれにとって今や背負うものもなく気楽なはずだ。船は任せてきたし、自由にできたのに」
 少しずつ険しくなるローの表情に、なにが言いてェんだと噛みつこうとしたが、ひとまず最後まで聞いてやることにした。けれど、その選択をしたのちに早くも後悔する。
「船に戻って、土産を渡して、旅の間で覚えてることはクルーになにもかも話せたが、どんな匂いで、どんな色だったかは思いだせねェ」
 ローがこっちを思いきり睨みつけた。目尻の鋭さは憎い敵を相手にしているようだ。いや海兵相手なのだから、そんな目をしていても当然なのだが、久しくローからはそんな目を向けられたことがないから完全に失念していた。けれど表情が話の内容とまるで噛み合わない。
「こんなに真っ白いてめェのことは、鮮明に思い出せたのに」
 こんなに、と言いながらスモーカーの全身を眺め、最後にもう一度「くそ」と舌打ちをする。語尾は半分呂律が回っていなかった。こんな量で酔うほどだったか? とジョッキを改めて数えたが、いつものローならこれしきで酔わないはずだ。この一年間、酒も飲まなかったのだろうか。
 ──ローが旅に出るまえ、年にわずかしかない二人の酒の席で、ローはクルーたちといるときよりも飲むと言っていた。クルーといると、羽目を外せはするが、いつどこでどう敵が来るかがわからないから穏やかには飲めないんだと言う。律儀な野郎だと少し見直して、グラスを傾けた。
 だから二人のときは、自分が知っているトラファルガー・ローと幾分違ったやわらかさが見受けられた。それをどうこうしようと──つまりはキスやセックスに臨もうと思ったことはない。なぜなら両者間で合意が成り立たないと思っていたからだ。
 いやいやおれとお前だぞ? 海軍と海賊が?
 と心の中で互いに笑い、それぞれの宿に戻ってシャワーを浴びて眠り、朝になって二日酔いのまま働きに行く。酔いが抜ける昼ごろには、飲んでいたときにかもし出された甘ったるい余韻はすっかり消え失せて、まるでなかったことのように頭から追い出す。
 そのときの、完全に追い出しきれなかった残滓のようなものが、脳裏にずっとこびりついてしつこくつきまとい、スモーカーはとうとう遠くに見えたポーラータング号の写真を撮った。
 ローへなにかを送ったのは、あれが初めてだった。送ったあとからプレゼントが届かなくなり、ハートのクルーたちから詫び代わりのような品を送られ、酒の誘いもなくなり、一年が過ぎて今ここに二人でいる。そしてこの一年いろいろとスモーカーをすっぽかしたローから旅路を聞かされ、結局旅は楽しかったのかつまらなかったのかわからないが、とにかく色がなかったと。数々の彩りがあったであろう島々の一切合財 いっさいがっさいよりも、真っ白い己のことがどうにも引っかかって頭から離れなかったと言われ。
「そんな顔で言うやつがあるか」
 スモーカーはようやく重たい口を開いて、そうとしか言えなかった。告白、というよりもはや呪いみたいに忌々しい口調で聞かされたローの言葉は、鬼を見るように憎たらしくスモーカーを睨み、告げられたのだ。自分の非を(非でもなんでもないのだが)認めたくない男は獣のごとく唸り声さえあげていて、では今からこの素直じゃない男を持ち帰って抱けと言われても──残念ながらできそうな自分がいることにも驚愕している。
「だから、これをやる」
 ローはスモーカーのまえに一つの包みを置いた。乱暴な物言いにしては丁寧だった。あの表情と口ぶりからして、内容さえ聞いていなければもしや爆弾か? と怪しんだだろうが、そうではないことはスモーカーが誰よりもわかっている。
「そしておれは帰る」
「ロー」
「職務中だろ、いつまでも油売ってんじゃねェ」
 それはお前が来たからだろ、と今すぐ手錠をかけてやろうかと青筋を立てた。けれどそこそこ図体の大きい自分のまえの、小さな包みを見るとぐっと気持ちを堪えてしまう。どこで買ったのか、なにを見立てたのか、どういう思いで持っていたのか。
(死の外科医、恐ろしい悪魔の実の能力者、あいつは過去に心臓を百個届けた凶悪な海賊──)
 スモーカーは頭の中で必死にローの世間的イメージを湧かせた。そうしないと、ローが健気な生き物に思えてきてしまうからだ。湧かせながら、包みを手の取る。開くと同時にローは「ROOM」とつぶやき目のまえから消え去った。中にはついさっき故障してしまったライターとまったく同じものが入っていた。そして一言だけメッセージも添えてある。
『壊れたころだろうと思ったから』
 もうローの姿はない。青白いサークルの片鱗だけが見え、一瞬にして消えてしまった。ローの代わりに残ったのは、どこにあったのかわからない石壁の残骸だった。椅子を汚してゴトリと床に落ちる瞬間までをしっかり見つめる。
 誕生日おめでとうの代わりに三杯分の酒代と、抱きしめ損ねたせいで体の奥で煮えるように たぎった物足りなさを抱えさせられ、スモーカーは大きなため息をついた。

 結局遅くなった夕飯も軍の食堂で取るのは はばかられ、昼と同じ食堂へ行った。食堂の店主が顔を上げ、スモーカーの手元に気づく。
「おや、ライター直ったのかい?」
 てっきり道具屋で直してきたものと思っている店主が、あそこの技師の腕前を自分のことを自慢するように鼻高々に話し出した。スモーカーはその勘違いにわずかに表情を緩めたのだが、どうやら店主には見つからずに終わった。
「ああ、腕がいい。あっという間に取り替えられちまった」
 カチッと新しい音をたて、ライターのふたが開いた。胸元にあった葉巻に火をつけ、テーブルの上に大きく円を描く。入口のそばの窓が開いていて、そこから風に乗って煙が流れていった。

 ◇

(ペンギン)

「え、キャプテン?」
 ペンギンはドアを開けて驚愕した。白猟のところへ行ってくると置き手紙を残して出たはずのローが、気がつけば船長室に戻っていて毛布をかけて眠っている。いつの間に帰ってきたのか、誰か帰ってきたところは見たのか。
 一年の放浪ののち、クルーたちへの土産話や酒盛りをした翌朝、忽然 こつぜんと消えていた。
「またどっか行った⁈」と慌てているうちに、シャチが置き手紙を見つけたのだ。クルーは酒で二日酔いの中ぐらぐらする頭を抱えてそれぞれの職務に戻ったから、キャプテンがどう行動していてもあまり気に留める者は少なかった。それが狙いで、珍しく派手な酒盛りをしたのかもしれない。
 そして丸一日不在にして、昼近くに帰船した。
「起きてますか? キャプテン?」
……寝かせてくれ……夜通し能力ばっかり使って帰ってきたから疲れた……
「そりゃ自業自得でしょ、敵の巣のど真ん中なんて行くから」
 シーツ洗うんで、とペンギンは容赦なくローを転がして、ベッドのシーツを剥ぎ取った。今日の快晴はここ数日でもかなり貴重だから、「洗うなら今日しかない!」というベポの言葉で、クルーたちはせっせと泡まみれになっている。
「酒臭いですね、二日酔いでさらに酒飲んだんですか」
……素面で行けるか、あんな場所」
 はいはい、と なだめながら、ペンギンは尋ねる。
「白猟には会えました?」
 他のクルーでは聞きづらいことだ。けれどペンギンなら聞けた。一年間船長代理を頼まれた旗揚げの三人なら、このくらいの質問はしてもいいはずだ。
「あれ、会えなかったんですか?」
………………会った」
 短い一言の内にも外にもいろいろな感情を含んでいそうな言い方だが、ペンギンは聞かないことにした。たぶんクルーの誰にも会わずに船長室目がけて帰ってきたのは、しばらくは せわしなく整理をつけなくてはならない心境だからだろう。シーツのないベッドにふたたび戻り、大きな体を丸めたローを眺めながら、
(難儀な人だよな)
 とペンギンは思う。けれど間柄に境界線のあるまま、会えたことにぬか喜びしろと言うのも無理な話だとわかる。
 シーツを丸めてカゴに放り、「昼飯には起きててくださいよ」と言ってドアを閉めた。きっとローはちゃんと起きてくるだろう。
 廊下の先にはシャチがいて、
「もしかしてローさん帰ってる?」
 と気づいた。ペンギンは「帰ってきてるけど、そっとしとこう」と声をひそめた。
 一年の旅で、ローはさまざまな場所へ行ってきたらしい。でもそのどれもが一見面白そうで楽しんだ記憶であるように見えて、話す目線は伏せがちだった。ペンギンは遠くで酒を開けながら、あの伏せた視線の先に見えているものをわかっていた。
 そうして遠い回り道をしながら得た結果を、スモーカーにぶつけたあとはどうだったのか。それはローがシーツのないベッドで一眠りでもすれば──あるいは向こうからアクションがあれば、案外すっきり答えを出せるかもしれない。
 名前のない感情を拾い集め、一本の道にする。その糸のような道を辿ると二人なりの答えにたどり着く。それまではプレゼント交換でもなんでもしたらいい。四十と三十の男同士がやることじゃないとは思うけど。
 ペンギンは青空の下、真っ白い洗濯物ばかりが干されているであろう甲板に向けて歩いた。