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ぷの
2024-10-25 20:45:57
4259文字
Public
レイチュリ
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上の空な潜水士の給仕係
🛁の口に食べ物を運ぶ🦚の話。
P1 - 給仕係
P2 - 上の空な潜水士
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【上の空な潜水士】
最初はクッキーだった。砂糖とバターの香りが脳に届くなり、今すぐ取り込めと強い指令が降りてきて、レイシオはほとんど無意識に口を開いていた。脳の糖分が不足していたのだろう。口の中にそっと置かれたクッキーを胃に納めてから、今のはなんだと頭の片隅で振り返ったが、すぐに目の前の問題にかき消された。
次はチョコレートの香りだった。同じように口の中に運ばれて咀嚼すれば、その甘さに酩酊するような心地になった。構造の単純な糖分がエネルギーになる音がする。口の中に残った甘さが雑音だと思ったところでストローが差し出されたので、迷わず飲んだ。口から鼻に抜けるコーヒーの香りで集中を取り戻した。頭の中を覗かれているかのようなタイミングだった。
これが終わったら、今起こったことについて確認しよう。重要なのは、この差し出されるものがレイシオを脅かさないとういこと。まずはそれだけでいい。一つのことに集中しながら別のことを並列で考えられるほど器用ではない。
浮上しかけた思考はすぐにまた深い海に潜った。頭から閉め出してしまえば繰り返されるそれは景色の一つになって、あとは無意識が対処した。
一区切りついてレイシオの意識が浮上したとき、部屋の中には誰もいなかった。慣れ親しんだ残り香だけが、その存在がここにいたことを知らせた。
今日は仕事の予定も個人的な約束もなかった。アベンチュリンは終業後にフラッとレイシオの研究室に遊びに来て、無言でレイシオの世話を焼き、黙って帰ってしまった。寂しがってはいなかっただろうか。いいや、優先順位を下げて蔑ろにしておきながら、今になって寂しがっているのは自分だ。どうして何も言わずに帰ってしまったのか、待っていてくれたら埋め合わせをしたのに。ハッ、なんて甘えだ。待てと短い一言を発するどころか目もくれなかったレイシオに何も言う権利はない。
帰ってしまったものはしかたない。再び思考の海に潜るかとタブレットにペンを走らせる。考えるべきことを画面の隅に箇条書きにしたところで、オートロックの扉が開いた。レイシオの許可無しにこの部屋に入れるのは、マスターキーを持つ関係者を除けば一人だけである。
これでもかと飾り立てたうるさい格好をしているのに、ほとんど物音を立てず滑るように歩く気配は、水中を泳ぐ魚のようだ。レイシオは束の間迷った。アベンチュリンに挨拶をして先ほどまでの不調法を詫びるか、このまま顔を上げずに気づかない振りをするか。アベンチュリンが普通に入室してきたなら、迷うことなく前者を選んだだろう。しかし、彼は気配を殺してきた。レイシオが引き続き意識を向けないと思っていながら、戻ってきたのだ。その目的に興味が湧いた。それに、ただ同じ空間にいるだけでいいと言われたようで、くすぐったいような心地がした。
結局、レイシオは後者を選んだ。引き続きタブレットにペンを走らせ、浅い思考を続ける。アベンチュリンに覚られないよう、意識を向けすぎないことに注意しながら。
彼はなにやらごそごそとやっていたかと思うと、デスクを挟んだレイシオの向かいの椅子に腰かけた。レイシオはすぐに頭を切り替えて、目の前の作業に意識の比重を傾ける。
口元に何かを差し出された。オリーブオイルとペッパーの香りが鼻を掠める。口を開けて迎えてみれば、柔らかめに茹でられたロマネスコだった。レイシオに差し出したフォークをそのまま使い、アベンチュリンも食べているようだ。続いて差し出されたのは、小ぶりなラビオリだ。中の具に使われたソースの味が好みで、思わず顔が緩んだ。幸い、アベンチュリンは不審に思わなかったようだ。気をつけろ、今この顔面は石膏だと思え。口以外極力動かしてはならない。
アベンチュリン自身が食べるよりレイシオに食べさせる方が少ないが、それは集中を妨げないよう気遣っているためだ。レイシオにとっては別の理由でその方が良かった。レイシオのついでとはいえ、アベンチュリンが進んでさまざまな栄養素を摂っていることに花丸をやりたい。
それから間に飲み物や休憩を挟みながら、いろいろなものを少しずつ食べさせられた。途中で腹が膨れたのか、アベンチュリンは食べるペースが落ちた。残っても始末に困るだろう。レイシオは試しに差し出される前にも口を開けるようにした。あやまたず食べ物を運んできた手が心なしか嬉しそうだと感じたのは、気のせいでないといい。
最後に、皮つきのマスカットを口に運ばれた。不埒なレイシオは、それを運んできた裸の指先をこそ食べたかった。けれど、口の中に実を押し込んだ指はレイシオの唇に掠りもせず、器用に去ってしまった。
タブレットに表示されている時刻を見れば、いつの間にか夜も更けていた。時間をかけてゆっくり食べたせいか、はたまた特別な給仕のおかげか、ほどよく腹が満たされている。アベンチュリンはその辺にあった付箋に何かを書き始めたので、帰る時間が来たのだろう。
さて、種明かしをするか、このまま見送るか。レイシオは再び迷った。タブレットの中の膨大な数式の羅列は、アベンチュリンにわからないように暗号化した埋め合わせの計画書だった。今すぐ実行できるものもある。だが。
結局、レイシオは後者を選んだ。アベンチュリンがかすかに鼻唄を歌い始めたからだ。無意識なのだろう、とても機嫌がいい。今このとき、レイシオには不調法こそが求められている。
計画書の内容に修正を入れながら、心の中に再び湧き出した寂しさを紛らわせる。これだけのことをしてもらってまだ寂しいとは、欲張りにもほどがある。実のところ、レイシオは受けとるよりも与えたい質だ。アベンチュリンもまたそう。お互いの満足を追っていたら釣り合いがとれず、譲り合えなければ続かない。
明日になったら、必ず連絡しよう。そう心に決めて計画書を精査していたから、油断していた。
唇に、先ほど望んで得られなかった指先が触れた。ごく短い時間、羽のように軽くだったが、確かに体温を感じた。その指の行く先を追いかけたかった。捕まえて口に含みたかった。表情をキープすることには成功したと思う。ペンが画面の上で滑って線が乱れたのにも気づかれなかったはずだ。
アベンチュリンがメモ以外に何も残さず出ていってから、レイシオはぐったりとデスクに突っ伏した。馬鹿なことをした。次からは集中が切れたら正直に申告しよう。甘やかしたがりの恋人は、レイシオが食べさせてくれと言えば叶えてくれるはずなのだから。
付箋とレシートを大切にファイルに挟んだ。明日の予定を休暇に変更して、これ以上必要のない残業はさっさと切り上げた。
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