つきのせ さぶろく
2024-11-02 02:57:00
4502文字
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穏やかになれない

【自陣SS】いわひら自陣(🩰🦇)のその後の朝の話 【ネタバレあり】



 これを最初の言葉にするのか、最後の言葉にするのか、今も迷っている。
 ただ彼女の灯火を絶やしたくなかった。それだけだった。心はとうに失くしていて、ただ君のためにと遠くを見ていた。追い風が吹いている。その先には彼女がいて、こちらを振り向くことなく歩いていた。当の自分は、まだ歩けないでいる。
 足が、動かない。

 息を吸うように蛇喰は目を覚ました。カーテンが風に靡く音がして、今日が始まった。彼の耳の奥には夢の光景がまだ残っていて、その足は緊張を忘れないでいる。ベッドから足を下ろすことさえもできないのだろうか。そう思うくらいの倦怠感のようなものが蛇喰の足だけにまとわりついていた。
 いつから、どうしてこんなにも心がざわついているのか。確信的なことは理解できていない。自由になってから少し経って、じわじわと生活が崩れ始めたのを感じた。包丁が握れないことがあった。窓を開けることができないことがあった。あの日割れたコップを片付けられなかった。自分が何を恐れているのかがわからなかった。その度に、彼女はそれを否定せずにいた。ただ、清廉な彼女に、血まみれの己は不釣り合いなのだと削れた心が囁いていた。割れたガラスは元には戻らない。心も同じだった。
 名前を呼んで欲しい。それは、無欲な彼女の、たっての願いだった。承諾の言葉は、蛇喰の喉につかえてしまい、唾液を飲み込んだとて出てはこなかった。彼女を愛しているのは自分だけでいいと思っていて、あの教団にいる誰も、彼女を愛する権利なんてないと思っていた。しかしその反動は大きく、今や自分すら権利を持っていない様に思えてしまう。彼女を見るたびに、空いた鳩尾の穴でガラスのかけらがくるくると暴れている。そんな心持ちだ。表面で笑うことはできても、それは冷や汗を飲み込んだ結果でしかない。
 これを人は罪悪感と呼ぶのだろうか。人ひとり殺しても覚えられなかったもの。それが二人、三人になってもだ。蛇喰缺委という信じる者が抱えられなかった心の動き。それが今、信心から解き放たれて今更、彼の心にゆっくりと、しかしとめどなく流れている。時間が流れるものであるなら、記憶や思い出は流体の何かだ。水圧という言葉がそれにも当てはまるのなら、その流体が積もれば積もるほど心にのしかかる圧は高くなる。そして、記憶の洪水に沈んだ心がその水圧に適応してしまったら最後、水から上がればそれこそ深海魚と同じように潰れてしまうだろう。罪悪感とは、そういうものだ。解放されてすぐは風に靡いていた髪の毛も、今やずぶ濡れで束になり雫を垂らしている。
「ねえ、缺委。わたしたち、これからどうなるのかな」
 どうなるのかなんて、誰も答えられない。
「誰も、言わないんだよ。方針がどうとか、そういうの」
 翡翠の瞳に灯っていたものがあまりにも眩しくて、缺委は何も言わずに目を逸らしてしまった。今となれば、自分は考えなしの愚か者だとすぐにわかるのに、どうしてそれが一番正しいと錯覚していたのだろうか。人生は選択の連続で、選択によって人生が成り立っているという言説はあるが、その選択は必ず呪いを残していく。選ばなかった未来が吐く呪詛のようなものだ。選択したその先が、果たして本当に正しかったのか。遅効性の毒のようにその思考が脳を染める。
「缺委」
 小さな口が名前を呼ぶだけで心が痛む。あの時一人も殺さなければどうなっていたのか、少なくともこの痛みは生まれなかったのではないか。彼女が暗い顔を見せることもなかったのだろうか。ちがう。彼女を神にしようなどという醜悪で過剰な信仰心は地獄の源となりうる。それは殺してよかったはずだ。殺さなければ、彼女が汚れた何かに食い尽くされてしまうところだったのだ。
「缺委」
 大きく、けれども優しく揺さぶられて目を覚ました。開けた目の先には天井だけではなかった。やや眉を顰める翡翠の顔が、眠り込んでしまったのだろう蛇喰の顔を覗き込んでいた。さらりと流れる髪の毛の先が、少しだけ開けた窓から流れ込む風に揺れている。カーテンがさらりと音を立てた。
「今日は、わたしが先に起きたね」
 覗き込んでいた顔がすぐに離れた。隙間から見えていた痣は長い前髪で隠れ、視線がどこに向いているのかわからなくなった。柔らかい光をうすく反射している鼻先が見える。言葉を探す蛇喰をよそに、彼女は口を開く。
「朝ごはん、作ってみたの」
 とん、と軽い音。蛇喰はやっと香ばしいパンの香りに気がついて、ぎこちなく髪をかき上げた。
「わたし、もう教祖様じゃないもの」
 カーテンよりもふわりと膨らんだワンピースの裾。振り向いた翡翠が、少しだけ口角を緩ませている。ワンピースと同じように、切り揃えられた髪の毛の先も遊ぶように揺れた。翡翠は先に部屋のドアを潜って行った。残された蛇喰もゆるりと体を起こし、重たい足を床に落とす。足裏にフローリングの冷たさを感じて、軽く足裏で叩くと軽い振動が足にまとわりつく黒いモヤのようなものを晴らしてくれるような気がした。試しに立ち上がってみれば、存外肩は軽く、重たいのはふくらはぎ以下だと気付かされる。蛇喰は翡翠が歩いた後を辿るように歩き出した。香ばしさはだんだんと濃くなって、じわりとバターの香りも溶け出してくる。
 二人の食卓は、蛇喰の自室よりも明るく照らされていた。程よく焦げたトーストに、とろけて角を失ったバター。大雑把にちぎられたレタスの上に、少し潰れたカットトマトの中身が溢れていた。くつくつと沸騰する鍋の音がしていたかと思うと、ピッという機械音と共に水面は落ち着いて、湯上がりすぐの汗をかいた茹でたてのウインナーがレタスの上に寝かされた。
「本当は、オムレツ作ってみたかったのだけれど……今日はウインナー」
 座って、と翡翠に促され蛇喰は席についた。目の前で寝転ぶウインナーは、湯気こそたっていないもののその熱は喉を鳴らす。翡翠がその小さな手を合わせたので、蛇喰も同じように手を合わせた。
「いただきます」
 今、一瞬だけ教会の食堂の、大きな机が眼前に見えた気がした。その時は、彩サラダにケチャップで艶めくオムレツが並んでいた。その腹を割いて現れる半熟の中身が、子供達を喜ばせていたことは思い出せた。蛇喰と翡翠の間には、食器が擦れる静かな音だけが流れていく。天使もこの時は行儀良く座ってくれているようだ。
 ちぎられたパンの表面を滑るバターは、舌の上でじゅわっと塩気を広げた。奥歯がパンの耳を強く噛み締めれば、染みた塩気と油分が口腔内を潤す。ぷつりとウインナーにフォークを刺せば、小さな穴から透明な肉汁が湧いて、丸い表面を伝って皿を濡らす。その端を齧れば、ぱつんと皮が切れて、まだ熱を持つ肉汁が舌先を急速に熱した。バターよりも濃い塩分が下に広がって、耳下腺が縮むような、痛みすら覚える衝撃を受けていた。今更ながら、まともに食事内容を認識したのは久しぶりだと、蛇喰は朝食ごと現実を咀嚼していた。
「缺委、最近ちゃんと朝ごはん食べてなかったでしょう」
 フォークを下ろした翡翠が、面と向かって缺委を見据えていた。その視線に蛇喰の喉が鳴る。
「コーヒーだけなんて、やっぱり良くないわ」
 翡翠のフォークがトマトを突き刺した。彼女の言葉に缺委はぐうの音も出ず、何も言えないのを誤魔化すために同じようにトマトを口に放り込むことしかできなかった。窓辺の木がくすくすと笑うように揺れている。教会という居場所を失ってしばらくは、孤児として教会が預かっていた子供たちもいた手前もあり、今よりはまだまともな食事だった。しかしその子供たちも新しい居場所へ送り出され、今は翡翠と蛇喰だけがこの家にいる。しかし、起床時間は今まで通りなのに、朝食は一人分しか作っていないのがここ最近だ。
「食欲がないわけではないんでしょう」
 翡翠にはやはりお見通しなのだろうか。レタスを貫通したフォークの刃がかつんと皿に当たって止まった。カーテンが風に揺れた反動で、ランナーがカーテンレールを滑る。薄い白の奥にしまわれていた緑が、一瞬だけ露わになった。
「前までは子供達がいたから、騒がしかったけれど……今はわたしと缺委だけよ。だから、缺委は缺委のまま、わたしはわたしのままでいいと思うの」
 5月の風に乗って、若草の香りがする。食事を過度に噛み締めていた奥歯は少しだけ弛緩して、蛇喰の中にトマトの酸味を味わう程度の余裕を生んでいた。パンやウインナーとは違って、冷やされていた時の温度をまだ保っているそれは、熱を持った喉を冷やしながら徐々に下っていく。トマトの酸味の奥には甘味が隠れていることをその時蛇喰は思い出した。解放されたことを自覚しているのに、いまだに胸を締め付ける感覚が残っている。体は縛られていなくても、心はきっといまだに何かのしがらみで縛られているのだろう。翡翠は言及しないのだが、蛇喰がいまだに隠しているものはその秘匿に耐えかねているのかどんどん膨張しているのだ。もしかすると、翡翠はそれをわかっているのかもしれない。今まで隠し通してきたという実績だけはあるが、そのまま隠し通すとして、一生を賭して抱え切れるかと言われればまだ首を縦には振れないと、今の蛇喰は痛感していた。今もなお足にまとわりつく重さと、鳩尾に残る棘の痛みがそれを裏付けている。
「ごちそうさま」
 いつの間にか、翡翠の皿は綺麗に空になっていた。暖かい照明の光が反射している。
「缺委、食べ終わったらお皿洗いをお願いね」
 翡翠がくるりとキッチンへ向いた時、ワンピースがふわりと広がって、繊細なレースが光を透かした。翡翠の姿が見えなくなってすぐ、水道から水が流れる音がした。蛇喰の皿にはレタス数枚とウインナーが一本まだ残っている。トーストも半分以上残っていた。カーテンを揺らしていた風は弱まってしまい、薄いレースカーテンに木々の影が落ちるだけになってしまった。それでも部屋は陽光の白い光でより明るい。今日の天気なら、日中は電気を消しても明るいだろう。
 こんな穏やかな日が来ると、誰が予想していただろうか。翡翠の鼻歌が横を通り過ぎた。緑の瞳は蛇喰を見て少しだけ細められただけで、軽やかに彼女はダイニングから姿を消した。残された蛇喰は、ただゆるゆるとフォークを動かし始めた。もう湯冷めしたウインナーは、ぷつりと皮を突き破っても肉汁は出てこない。翡翠はずっとこの時間が続くことを願っているのだろうか。それなら蛇喰缺委という男は、何を望むべきなんだろうか。今も昔も、結局この男は一人の少女のために、望まれることと望まれていなくともやるべきことをしようとする。どんなにその胸が締め付けられようとも。
 だからこれからも、きっと彼は穏やかにはなれない。