ユナユナ
2024-10-30 20:41:14
7017文字
Public
 

栞【赤黛】

黛千尋が恋を自覚したお話



 黛の放ったパスで赤司がアリウープを決めた瞬間、ああ、自分はこの男に恋をしているのだな、と自覚した。
 動揺はなかった。こんなものか、とは思ったが。恋を自覚したところで胸がぎゅっと締めつけられることもなかったし、顔が真っ赤に染まることもなかった。たぶんこうしている今も、自分はいつも通りの顔をしているのだろう。
 恋しさ愛おしさなど都市伝説か? と疑うほどに感じないし、いつから彼に恋をしていたのかもわからない。初めて会ったときではないことは確かなのだが、まるでグラデーションを描くようにあまりにも自然に恋に変化していたものだから、「ここ」と明確に区切りをつけることができないのだ。
 よく聞くような「甘酸っぱい」だとか「ほろ苦い」だとかいう形容詞は全く当てはまりそうにないな、と汗を拭う赤司を見下ろしながら思う。この恋を五感で形容するとしたら「無味無臭」だ。トキメキのトの字もない。何もかもが黛の知識にある恋から掛け離れている。
 唯一「恋」のパブリックイメージに近いのは「見ているだけでいい」だろうか。ただそれも、本来なら付随するだろう切なさや苦しさなどは少しもなかった。相手の幸せを遠くから願ったり、見ているだけで幸せを感じたりするほど、黛は健気な性格をしてない。見ているだけで十分に面白いから、「見ているだけでいい」のだ。
 感情のまま赤司にふらふらと近寄れば、いま以上に振り回されるのは目に見えている。そんなの体がいくつあっても足りない。黛は安全圏から赤司のことを心ゆくまで観察──鑑賞? していたいのである。
 そもそもこの恋を叶えたいという欲がないのだ、自分には。付き合いたいだとか、手を繋いでみたいだとか、あるいはキスをしたいだとか、そういう甘い願いが欠片も存在しない。きっと赤司が誰かと付き合うなり結婚するなりしても、この胸は少しも痛まないだろう。なんならちょっと相手を見てみたい気持ちすらある。
 あまりの熱のなさに、まさか恋と憧れと履き違えているのでは、と己の感情を隅々まで精査してみたものの、やはりこれは恋だという確信が深まるだけだった。
 しかし、赤司に向ける感情のなかに「好き」や「愛している」という想いは存在しているのか、と問われると疑問が残る。恋の定義が根底から崩れかねない疑念だが、それでもこれは恋だという確信は揺らがないのだから始末に負えない。我ながらなんとややこしい感情なのだろう。
 けれど、説明できないほど複雑怪奇なその中身とは反対に、黛が恋をした理由は実にシンプルに言葉にすることができる。
 眩しかったのだ。赤司が、ではない。いや、確かに赤司も含まれてはいるのだが、そういうことではなく。あの春の日の屋上での出会いから今に至るまでの全てが、無我夢中でボールを追うこの日々が、ただただ眩しかった。瞼を閉じても、その光を感じるくらいに。
 赤司があの人気のない屋上の扉を開き、静かで穏やかなその場所から黛を連れ出さなければ、いっそ暴力的なほどに色鮮やかで、けれどどうしたって目が奪われるこの世界に足を踏み入れることなど一生なかっただろう。己のなかに熱い感情──恐らくは情熱と名のつくそれがあるのだと知ることもなかった。
 だから、恋をしている。黛にとって赤司は「知らなかった世界」そのものだから。
 それは果たして赤司征十郎個人に恋をしていると言えるのか、と疑問が残るところではあるが、そこを考え出したらキリがないので、ちゃんと赤司に恋をしている、ということにさせてもらう。誰に明かすでもないのだからわざわざラベル付けする必要はないのだが、そこは気分の問題だ。
 一度、ゆっくりまぶたを閉じる。乱れた呼吸を整えて、それからそっと目を開く。案の定、眼前には恋を自覚する前と何も変わらない景色が広がっている。それに少しがっかりしたような、あるいはほっとしたような気分になりながら視線を動かすと、何かを言いたげにこちらを見る赤司と目が合った。
「なに」
 嫌々ながら声を掛けると、赤司は感情の読めない表情で、いま、と小さく唇を動かした。
「いま、何を考えていた?」
 狙いすましたかのようなタイミングで放たれたその言葉に思わず眉を寄せる。まさか、今の一瞬黛の感情を悟ったとでもいうのだろうか。
……なんでンなこと聞くんだよ」
「やけに考え込んでいるように見えた」
 相変わらず目敏い男だ。黛は赤司に聞こえるように大きく舌打ちをすると、唇の右端を吊り上げて挑発的に笑ってみせた。
「それは主将としての質問か?」
「いいや、個人的な興味だ」
 淡々とした赤司の答えにふんと短く鼻を鳴らしながら、マネージャーから受け取ったスポーツドリンクを口に含む。
 ──個人的な興味、ね。
 赤司がバスケ以外のことに関心を向けるとは、随分と珍しいこともあったものだ。それが黛に向けられているものでなければ面白いものを見れたと思えたのだが。他人に無遠慮に内面を探られるのはあまりいい気分ではない。それが恋であろうがなかろうが。
「それで、何を考えていた?」
 やけに食い下がってくる赤司に、ぴくりと下瞼が痙攣したのがわかった。普段は他人の心情になど欠片も興味を示さないくせに、どうしてこういうときに限って気まぐれを起こすのだろう。
「お前に言う必要ある?」
「言えないようなことを考えていたのか?」
「質問に質問で返すなよ」
「先にしたのはお前だろう」
「お前の自分に非は一切ないと思ってるとこマジで腹立つな」
 吐き捨てながら顔を正面に向けて、赤司を視界から外す。これ以上会話を続ける気はないという黛の意思表示に、ようやく赤司が大人しくなる。まったく傍迷惑な男だ。仮にも「想い人」本人から不意打ちを喰らってもその程度の感想しか浮かばないのは我ながらどうかと思うが。
 とはいえ、これで赤司に対して普段通りに振る舞えることは証明された。自分たちの関係は何も変わらない。昨日も、今日も、明後日も。変わったのは空白だった自分の感情に名前がついたことだけだ。
「黛さん、さっきのパスについて話があるのだけど」
 実渕に呼ばれ、意識を浮上させる。いくつか実渕と言葉を交わし、何故か絡んできた葉山から逃れているうちに、先程までの思考などすっかり意識の外に追いやられていた。


 次に黛が己の恋に意識を向けたのは、恋を自覚した日から実に三ヶ月以上経った頃のことだった。
「恋とは、そんなに良いものなのだろうか」
 自主練も終わり、気付けば二人しか残っていなかった部室で着替えているさなか、赤司が不意に呟いた。
 脈絡なく放たれたその言葉に、シャツのボタンを留めていた手が止まる。顔だけで振り向いて斜め後ろにいる赤司に視線を向けたものの、この位置からでは彼の表情を窺い見ることはできなかった。黛は片目を僅かに細めると、視線を戻して着替えを再開する。
「オペラでもやる気か?」
「フィガロの結婚か。……以前から思っていたが、お前は案外よくものを知っているな」
「喧嘩売ってんのかお前」
「売っていない。お前のその好戦的なところは『幻の6人目』として致命的だ。制御できるようにしておけ」
「あー、はいはい。わかりましたよ」
 ならまずお前の物言いを何とかしろ、と心のなかで毒づきながら、ボタンを留め終えたシャツの襟を直す。汗を吸って重くなったTシャツは、適当に丸めてスポーツバッグのなかに突っ込んだ。
 沈黙が落ちる。衣擦れの音だけが微かに響くその時間に耐えきれず、黛は再び口を開いた。
「で、恋がなんだって?」
「恋とはそんなに良いものなのかと言った」
 聞き間違いじゃなかったか、とスラックスに足を通しながら思う。
「なんでいきなりそんなこと言い出したわけ?」
「今日、告白をされた」
 そんなの日常茶飯事だろ、と水を差すのはやめておいた。黛だって空気を読めないわけではないのだ。普段は読む気がないだけで。
「好きだ、と言われた。付き合ってほしいとも」
 そりゃあそうだろう。告白するのに好意を伝えなくてどうする。内心でツッコミを入れながら赤司の言葉を待つ。
「同じクラスの女子だった。積極的にアピールしてくるというよりは、同じように僕に恋愛感情を向けている友人と二人一緒になって盛り上がっているようなタイプだった」
 赤司は淡々と言葉を紡いでいく。
「二人の間には、抜け駆け禁止という暗黙の了解がある様子だった。彼女は友人関係に波風を立てないことに全神経を払っているような性格だったから、彼女から告白してくることはないだろうと踏んでいた」
 ──こいつ一回誰かに刺されねぇかな。
 勇気を出して告白してきた相手に向ける言葉ではなさすぎる。人の心をどこかに落としてきたとしか思えない。まあ、仮にも恋をしている相手が告白をされた話を聞いてその程度の感想しか出てこない黛も大概かもしれないが。
「それでも彼女は僕に告白をした。想いを伝えるだけではなく、僕と付き合いたいという具体的な結果も求めた告白だった」
「何が言いたいんだよ」
「何よりも人の輪を乱さないことに重きを置いている彼女が、人間関係にヒビが入る可能性があるのをわかっていながら、それでも自分の感情を優先させてしまうほど、恋とは良いものなのだろうか」
 一瞬の間をおいて、赤司が深く息を吐く。
……恐ろしくないか? ただ恋をしただけで、今までの自分が変わってしまうというのは」
 ぽつ、と水滴のように落とされた言葉を最後に赤司は口を閉じた。再びの沈黙が訪れる。
 黛はベルトの金具を留めながら、ひっそりと驚きを噛み殺した。まさかこの男の口から「恐ろしい」などという言葉が出てくるとは思わなかった。
 言っても構わないと判断する程度には気を許されているのか、取り繕うほどの価値を感じていないのか。──いや、というよりも他人に話しているという感覚が薄いのだろう。
 赤司は黛と会話をしているわけではないのだ。ずっと頭の中で渦巻いていたものを会話という形式で吐き出しているだけ。要するに自問自答だ。黛は壁打ちの壁ぐらいの認識なのかもしれない。
 赤司は本気で黛に答えを求めているわけではないのだ。それがわかっているので、黛は特に何か深く考えることもなく口を開いた。
「人それぞれだろ、そんなもん。恋して人が変わるヤツもいるし、何も変わらないヤツもいる。何を犠牲にしても恋を叶えたいヤツもいれば、現状維持で満足するヤツもいる。そのその子はどっちかってと前者のタイプだったんだろ」
「一般論だな」
「生憎と他人にご高説を垂れるほど人生経験を積んでないんでね」
 小馬鹿にするように鼻で笑って、ロッカーからバッグを引きずり出す。足元にバッグを置いた拍子に、どさ、と重たげな音が鳴った。
「お前は?」
「あ?」
「お前は、したことはあるのか」
 赤司の言葉が、明確に答えを求める形に変化する。ぎょっとして振り返ると、真っ直ぐにこちらを見つめる赤司と目が合った。
……何を?」
「恋を」
 勘弁してくれ、と言ってしまいそうになるのをすんでのところで堪える。恋を自覚した瞬間に何を考えていたかを問われたときの方がずっとマシだった。当の本人にこうして直球で恋について尋ねられると居た堪れなくなる。
「なんでオレに聞くわけ?」
「この場にはお前しかいないだろう」
「そういうことじゃねぇよ」
 赤司は黛の言葉を聞くと、ふむ、と小さく頷いた。それに嫌な予感を覚えた黛が身構える間もなく、赤司が口を開く。
「したことはない、とは言わないんだな」
 鋭い指摘に黛は思わず顔を歪めた。確かにここは「知らない」なり「したことがない」なり言ってしらばっくれるべき場面だった。この恋を誰かに話すつもりはなかったが、特段隠そうとも思ってはいなかった──そもそも聞かれると思っていなかったので──故の油断だ。
 好きな人はいるか、と聞いてくれれば同じ不意打ちでも「いない」と答えることができたと思う。何しろ自分は赤司に「恋」をしているが、「好き」を向けているかは未だにわからないのだから。まあ、今更言っても仕方のない話である。
「クソ、重箱の隅をつつくみたいなマネしやがって。そうだよ、あるよ。なんなら現在進行形だよ。これで満足か?」
 投げやりに返す黛に、赤司は「そうか」とやけに淡白な態度で頷いた。
「それで?」
「あ?」
「何か変わったか?」
 黛は大きくため息を吐くと、観念して口を開いた。どうせこれ以上かく恥はないのだ。それなら話すだけ話してさっさと解放されたい。
「何も」
「本当に?」
「嘘ついたってなんのメリットもねぇだろ」
 赤司に恋をしていることは間違いない。赤司に出会ってから黛の目に映る世界が大きく変わったことも。しかし黛は、それで自分のなかの何かが変わったとは微塵も思わなかった。もしかしたら恋心と同じく気付かないうちに変化している、なんてこともあるのかもしれないが、それだって赤司の言うような意味での変化ではないと断言できる。
「なら、お前にとって恋とはどんなものなんだ?」
「お前、よく素面でそういうセリフ言えるよな」
「茶化すな」
「はいはい」
 不機嫌そうな赤司を適当に受け流しながら、ロッカーの戸を閉める。ガチ、と金具同士がぶつかる音がやけに大きく響いた。
 赤司の問いを聞いて真っ先に頭に浮かんだのは「光」だった。これは決して、絶対に、死んでも言うつもりはないし、これを明かすか赤司への恋心を明かすかの二択なら迷わず恋をしていると告げる方を選ぶが。
 それでも黛にとっての赤司の存在を言葉で表すのなら、それは「光」以外にないと思っている。それくらい眩しかった。赤司征十郎という男も、彼が黛に見せた世界も。
 だがそれは黛の人生においての話であって、この恋の本質ではない。
 この恋は、ただあるだけのものだ。恋によって日々が彩られることもなく、反対に日常が壊れることもない。ただ「ある」だけ。あったところで何かが変わるわけでもないし、なかったところで何かを失うわけでもない。この恋が黛の人生に影響を与えることは、決してないのだ。
 それでも、この恋が消えることはきっと一生ないのだろう。忘れない、ではない。「消えない」だ。高校を卒業しようが、成人しようが、今際の際に立ってすら。この恋はずっとここに居座っている。だから、そう、あえてこれを言葉で表すとしたら、それは──。
「本についてる紐、あるだろ。栞になるやつ。ちゃんとした名前は知らねぇけど」
 話を逸らされたと思ったのか、赤司が不快そうに眉を顰める。黛はそれに構うことなく言葉を続けた。
「あれってさ、便利だけどなくても別に困るわけじゃないだろ。あれがあってもなくても、本の内容が変わるわけじゃないし」
 言葉にしていくうちに、少しずつ自分のなかの恋に対する考え方が固まっていくのがわかる。
 これから先の未来でこの日々を思い出すとき、きっとこの恋はひとつの目印になる。まるで本に挟まった栞のように。けれど栞を使わなくたって、目的のページを開くことはできるのだ。
「ただの栞だったら失くしたり捨てたりするかもしれねぇけど、あれは本に繋がってるからなくなったりしない。それと同じだよ」
……よくわからない」
「だろうな」
 予想していた答えに苦笑を返す。この感覚を理解してもらうことは難しいだろう。どうにもバスケに関わること以外の人の機微に疎い節のある赤司なら尚更だ。
「ま、心配しなくてもお前にゃ縁のないことだよ」
「何故そう言い切れる」
「恋ってのは余裕があるヤツがするもんだ」
……僕に余裕がないと?」
 赤司がムッとした様子で黛の言葉に噛みついてくる。できない、と思われることが完璧主義者の彼には気に食わないのだろう。恋をしたいわけでもなかろうに。
 そういうとこなんだよな、と内心で呟きながらスポーツバッグを肩にかける。
「もう十分だろ? じゃ、オレはこれで」
 ひらりと手を振って、赤司の返事を待つことなくドアノブを捻る。問われたことにはきちんと答えたのだ。役目は果たした。ならばこれ以上長居する必要はない。
 外に出ると、辺りはもうすっかりと暗くなっていた。少しずつ日が落ちるのが早くなってきている。秋が段々と深くなっていくのを肌で感じながら、黛はゆっくりと歩き出した。
 それにしても、あの赤司が「恋」を知りたがるとは。思春期らしい悩み──というには些か無機質だが──にあの男も人間だったのだなと少し安心する。まあ、あの様子では彼が恋を理解するのはだいぶ先のことになるだろうが。残念ながら黛の在学中に「恋をする赤司」を見ることはできなさそうだ。
 黛は気分を切り替えるようにぐっと大きく体を伸ばす。
 春はいまだ遠く、冬はすぐ近くに迫っている。
 だから今は、冬に向けて力をつけなければ。ひとまず食堂が閉まる前に寮に戻るため、黛は少しだけ足を早めたのだった。