以下のお話が前提になっています。
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『息子』がホスピスに入った。彼の望みは過度な延命を行わず、なるべく穏やかに残りの時間を過ごすことらしい。レイシオに確認はなかったが、確認されたところで彼の人生の終わり方にケチをつけるつもりは今となっては少しもなかった。そう思えるくらいには彼はしっかりと自分の人生を歩んだのだ。
アベンチュリンが血の一滴も混ざっていないレイシオの息子になったのは、ツガンニヤで約束をしてから数年が経った頃だった。色々と手を回したものの、死刑囚の遺体を受け取る方法として結局一番確実な方法だと告げたときの唖然とした彼の表情をレイシオは今でも鮮明に思い出せる。
互いに戸籍を弄ることがあればその時はまた考えようなんて話をした記憶があるが、結局どちらも伴侶を得ることなく何十年と過ぎてしまった。アベンチュリンはレイシオの姓を名乗らなかったし、戸籍情報まで必要な資料以外で表に出すこともなかったので自分達の関係を知っているものはほとんどいない。
その情報に触れる者が往々にして業務上得た情報を口外する軽率さを持たなかったのは、彼の女神の采配だったのかもしれなかった。時間をかけて近親者を説き伏せていたレイシオからすればさしたる問題でもなくなっていたが、アベンチュリンはレイシオの戸籍を自らの所業で汚すことを酷く気にしているようだったので。
アベンチュリンのケースワーカーがレイシオに教えてくれたホスピスの病室に向かうと、息子になるなら仕方がないと苦笑しながら教えてくれた彼の本名が病室の番号の下に示されていた。カカワーシャ。決してその名を呼ぶまいと再度自身に言い聞かせる。
何十年も前に宇宙ごと状況が二転三転どころでなく入れ替わり、アベンチュリンの処遇は死刑判決ごとうやむやになってしまった。その後も彼はスターピースカンパニーに籍を置き続け、時折危ない橋を渡りながら定年を迎えるよりも大分早く病を得ることとなる。
それからしばらく仕事を続けたものの結局早期退職をして、自分の体力と相談しながら大学に通い学士課程を卒業したらしい。らしい、と伝聞調になってしまうのはアベンチュリンがレイシオの専門の学科どころか、真理大学の門戸すら叩かなかったのが原因である。
せっかくならうちに来れば良かったと文句を言えば、明確に学びたいことがあって大学を選んだ生徒の意欲を削ぐような真似をするのは教師としてどうかと思うと窘められてしまった。確かに、後に取り寄せた彼の卒業論文ははっきりとした目的意識を持っていて、レイシオでは指導できない分野だったと今となっては認めるしかない。
体の状態が良ければもしかしたら大学院にも進んだかもしれなかったが、そういう未来は彼にはなかった。どれだけ医学が進歩しても取り払うことの叶わない病と衰弱に彼の体は少しずつ蝕まれてある意味順当に今に至る。
スターピースカンパニーで得た名を彼はもう使っていない。大学や病院で、その名を呼ばれる事もなかっただろう。だからこそ、レイシオは彼がかつてレイシオに望んだ通り、アベンチュリンと呼んでやりたかった。かつての日々がこの病を得ていたとしても穏やかだったはずの生活に繋がっていたのだと示すためにも。
当然鍵がかかっていない引き戸を引いて、レイシオは靴音に気をつけながら彼のベッドに近寄った。以前彼の自宅で会った時よりもずっと痩せ衰えて枯れてしまった彼は、緩い鎮静の薬が効いているのかうつらうつらしているようだった。使われていなかった椅子にレイシオが座り込んでも、気づかないまま浅い息を吐いている。
まだ酸素に頼ってはいないが、喉と胃はとっくに液体すらろくに受け付けていないらしい。それを示す点滴の製品名とゆっくりと落ちていく水滴を見ながら、レイシオはアベンチュリンのほとんど眠っている横顔を眺めていた。
「
……ぃしお?」
「ああ、おはよう。アベンチュリン。僕が来たのは三十分程前で、苦痛も感じていないように見えたからそのままにしておいた。僕は休暇を取って来ているから、帰る時間を気にする必要もない。君のペースに合わせよう。さて、他に何か聞きたいことは?」
あまり無駄話をさせたくなくて予測できる疑問の答えを先んじて教えてから尋ねれば掠れた声で話そうとするので、ベッドの脇に置いてあった使い捨ての洗浄用スポンジに水を含ませて口内を湿らせてやる。迷いのないレイシオの行動にアベンチュリンはぎょっとしたようではあったが、結局素直に受け入れることにしたらしい。
「ありがとう、喋りやすくなった。君、本当に何でもできるね」
「それはどうも」
アベンチュリンがそう遠くない未来にこうなると覚悟してから、ほとんど使う機会はなかろうと理解しつつも介護の手法に目を通していた。レイシオの想定通り、自身の身の回りの手配は彼がそれなりに動けるうちに全て済ませてしまっていて、今日の今日までレイシオが手を出すこともなかったのだが。
「でも来てたんだったらすぐ起こしてほしかったな。今の僕は一分一秒が命取りなんだ」
「なら、冗談にもならない無駄口はなくすんだな」
趣味が悪い言い回しに眉間に力を入れてしまいながらレイシオが指摘すると、アベンチュリンが苦笑する。
「それは失礼。でも、君のおかげか今日は大分気分が良いよ」
来てくれてありがとう。そう、柔らかな調子でアベンチュリンが礼を述べるので、レイシオも同じくらいの響きになるように相槌を打った。どれくらいはっきり見えているかは判然としなかったものの、言葉はしっかり聞き分けられるようだったので音の輪郭が曖昧にならないように気をつけて聞かせてやる。
「君が死んだら骨をツガンニヤに撒くという話をしていただろう。その骨をいくらか僕の家の墓に入れても構わないか」
約束を反故にするつもりは毛頭ないが、彼がレイシオの戸籍上の息子であるならばその権利もあるにはあるのだ。もちろん彼が全部故郷に還せと言うのであれば、レイシオは反対するつもりはない。
「
……君も死にかけの病人を驚かせるのは止めた方が良いと思う」
「すまない。もっと早く話しておくべきだった」
死の淵にあってなお輝きを残した目が丸くなり、ほんの少し意地悪な形に眇められた。彼の言う通り、こんな話題を出すならもっと早いタイミングが適切だったと思う。
言い訳をするなら、今まではこんなつもりは少しもなかったのだ。つまるところ、レイシオは彼の遺骨の全てを母星の砂漠のあちこちに撒いて、いつか生まれた場所に辿り着くひとかけらがあれば良いとただ願っていた。
その思いが揺らいだのは本当に最近の事だった。両親を見送って眠らせた墓の手入れに向かいながら、アベンチュリンにそうしてやれない事実をレイシオは惜しんでしまったのだ。こんなことはレイシオの独りよがりだと分かっていて、それでもこうして尋ねてしまうほどにレイシオは彼との別れを惜しんでいる。
「提案については喜んで。部位はそうだなあ
……少なくとも足はツガンニヤに撒いてくれないかい? ほら、家族の下まで歩いていかないといけないからね。君のお家のお墓に入れるのは腕がいいな。君が見つけられるように
――次はちゃんと見つけてくれよ?」
「まったく、何十年前の話を蒸し返しているんだ」
レイシオの苦言を気にも留めず、だってこの話自体その頃の話だしとアベンチュリンは懐かしむようにそっと目を細める。レイシオがあの長いようで短かった日々を少しも忘れていないように、彼も忘れられていないらしかった。
過ぎた日差しと乾いた風。自分が予想するよりもずっと穏やかだったアベンチュリンが奏でた歌声も、レイシオは忘れずに今まで生きてきた。
「まあ手を振って見つけてもらうのと、後は」
そう言って言葉を切ると、アベンチュリンが大儀そうに腕を持ち上げてレイシオに差し向ける。手招きをされる前にその腕を支えてやれば、枯れ枝のような腕と指で引き寄せられた。このかろがろとした感触をレイシオが知るのは三度目の事である。
背中に回る腕はすぐにでもずり落ちてしまいそうな力加減で、それが彼の精一杯である事を示している。無駄に体力を消耗する行動は避けてほしかったが、彼がしたいことを阻みたくもなかった。耳元で聞こえる呼吸はざらついていて、簡単な動きも彼にとってどれだけの重労働なのかを身をもって理解する。
「
……こうやって歓迎してあげないと」
「ああ、その時は頼む」
最後にほんの少しだけ力が強まって、アベンチュリンの腕がシーツの上に落ちた。乱れた息をごまかしたかったのか、一呼吸分の沈黙の後にアベンチュリンがレイシオに笑いかける。答えるつもりで口角を少し上げて、レイシオはアベンチュリンの額を撫でてやった。
ゆっくり来てね、と彼は言う。
「僕はずっと早く家族に会いにいきたいと思っていたけど、待つ側になると遅刻するくらいがちょうどいいと思うようになる。僕の家族もそう思ってくれていたんだろうか」
「きっとそうだろう。君はよく生きたから、叱られることもないだろうな」
そう二つ太鼓判を押してやれば、アベンチュリンが目を伏せるようにして小さく笑った。君みたいなお医者様が言ってくれるなら上出来だ。そう、結局少しも治療に関わらなかったレイシオにアベンチュリンは言ってくれる。
「しばらくいてくれるのかい?」
「ああ、君が起きていられるうちは」
死んだ後の話ばかりをするのも建設的でないとでも思ったのか、アベンチュリンが意識して明るい声を出して尋ねてくる。曖昧な言い方をしてしまったが、この段階の患者にとって起きているという言葉が一日の終わりの話として語られることはほぼない。
「それは贅沢だな。本格的な鎮静はもうちょっと粘らなきゃ」
アベンチュリンもレイシオの言わんとするところを正確に理解したらしく、最後の行程をおどけた調子で口にした。その日が来るのがさほど遠くないことはアベンチュリンの左手が証明している。
彼が握り込んでいるスイッチは看護師を呼ぶためのものではなく、体に医療用麻薬を注入するためのものだった。命綱を一瞬たりとも手放せないほどの苦しみを経て、彼は今ここにいる。
「苦痛をいたずらに増やすために君を訪ねたつもりはない」
口ではそう言いながらも、その瞬間が少しでも遠くにあればいいと願ってしまう。父や母に望んだのと同じように、彼がレイシオを少しでも知覚できていてほしかった。
分かってる。大丈夫だよ、とレイシオの思いを知ってか知らずかアベンチュリンは口にした。それからレイシオにしっかりと焦点を合わせようとして、その時間でレイシオは心を落ち着かせようと努める。
「
……話をさせてほしい。ずっと君に話していなかったこと。僕が歩んで来た人生の最低な部分から一番大事にしたいと思っている所も全部」
全部君に置いていく。そう告げられて、レイシオはただ頷くしかできなかった。本当ならもっと早い方が良かったと、きっと彼だって理解しているだろう。全てを語る体力を今の彼が残しているとはレイシオには到底思えなかった。
もしかしたら、彼もまたツガンニヤ以外に自分を残していくつもりなどなかったのかもしれない。レイシオが彼の縁を求めてしまったように、今際の際において彼の心も揺らいでいる。
「それでも話しそびれることがあれば、その時はまたどこかで」
アベンチュリンの提案を受けて、レイシオはもう一つ重ねて頷いた。遠くになるかも分からない未来、きっと自分達は再会するだろう。それが砂と岩だらけの大地のオーロラの下なのか、はたまたコンクリートで塗り固められたビルの前なのか、レイシオに馴染む緑の大地なのかは分からない。
けれど、彼が再会を信じるのであれば、レイシオだって信じていたい。そう願いを込めて、レイシオはアベンチュリンの左手に自身の手を重ねた。
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