ふたりでステーキをたらふく食べて、満腹になって店を出た。ふたたび車に戻ると、服に染み付いた肉とあぶらのにおいが、とたんに車内に充満する。
「こんなことならもっと適当な服着てこればよかったね」
苗字が自分の服の袖に鼻を引くつかせながら言うが、俺から見れば苗字の今着ている服だって、じゅうぶん適当な服に見える。
食事をしているあいだに、帰宅ラッシュのピークは過ぎたらしい。さっきまでよりも、ずいぶんスムーズな運転で、車は家に向かっている。
さっきから苗字は、フロントガラスにぼんやり視線をやったまま、何か考え込むようにずっと黙りこくっている。今更沈黙が苦になるような間柄ではないが、それでも多少は気になった。
夕飯を食っているあいだは大体いつも通り、どうでもいいような話をしたりしなかったり、そんな感じだった。苗字が急に静かになったのは、車がふたたび発進してからだ。
ちらりと盗み見たかぎり、よくない思いつめ方をしているわけではなさそうだった。仕事のことかもしれないし、そうでなければそのうち、自分のなかで話がまとまったところで、適当に話し始めるだろう。そう思い、俺は夜道の運転に専念する。
しばらくすると案の定、苗字が静かに「あのさ、爆豪くん」と俺を呼んだ。
「んだよ」
「行きの車で話してたことだけど」
「忘れた。どの話だ」
「同窓会の話」
ああ、と俺はぬるい返事をした。本当は忘れてなどいなかったが、率先して再開したい話題でもなかった。
「あのとき、私の言い方が悪かったかなと思って。別に私、爆豪くんの奥さん扱いされたくないとか、そういうふうに思ってるわけじゃないんだけど、そのあたりちゃんと伝わってる?」
「そんくらい分かる」
「そっか、ならいいんだけど」
それきり、苗字はまた口を閉じる。「ならいいんだけど」と言うわりに、あまりそう思っていなさそうな調子だった。
もう少し言葉を足して、思ってること吐かせた方がいいかもしれない。そう思ったところで、
「昔、別れたとき、だいぶひどいこと言っちゃったなって、ずっと思ってたから」
苗字がぽつりと、そう付け足した。で、また黙る。
俺はといえば、思っていたより面倒くさい話だった、と内心で舌打ちをしていた。
八年ぶりに再会して以降、いろんなことが目まぐるしく進んでいって、思えば昔の話をじっくり掘り返すことはしてこなかった。それは俺がとにかく苗字を急かしたからでもあったし、こうしてうまいこと丸め込めた以上、過去の微妙な話題を蒸し返す必要もないと考えていたからだ。
そもそも俺にとっては、八年前の別れ話は文字通り過去のものになっている。俺なりに噛み砕き、反省すべき点は反省し、今後の展開と行動の指針にした。
その作業が済んだ時点で、別れ話について考えるのはやめにした。済んでしまったことを考えても、意味がなかったからだ。
だが、苗字にとっては違ったのかもしれない。表情と声色から察するに、苗字はまだ、八年前の別れ話を引き摺っている。自分から切り出したものだから、当然と言えば当然かもしれないが。
俺に復縁を迫られ、落ち着く間もなく状況が変わっていくなかで、苗字はそこにうまく蹴りをつけられなかったのだろう。先延ばしにしていた問題は、消えることなく、苗字のなかにしこりになって残っている。
が、そんなものは俺には何の関係もないことだった。俺まで苗字の感傷に引き摺られ、めそめそとくだらない反省会に付き合う義理はない。
鼻をひとつ鳴らすと、苗字がゆるりと顔をこちらに向けた。頬に苗字の視線を感じながら、俺は言った。
「ごめんで済んだらヒーローいらねンだよ」
「……ごめんとか、まだ一言も言ってないんだけど」
「どうせこの後、なんだかんだぐだぐだ言ったあとに謝んだろ、てめえは」
「今この瞬間に謝る気をなくしたよ」
苗字が呆れたように言う。昔と変わらない、クソ生意気な物言い。けれどめそめそと謝られるよりは、クソ生意気にされるほうが、俺にとってずっとましだった。
「てめえに謝られるようなことは、俺は何もされてねえ。つーかこれで謝られたら、おまえと別れて俺にダメージ入ったみたいになんだろ」
「そうかな……?」
首をかしげる苗字。そこは素直にうなずいとけや。いちいち引っかかってんじゃねえ、面倒くせえ。俺はまた舌打ちをした。
「おまえと別れたことくらい、あんなもんまったく、俺にとっちゃノーダメなんだわ。謝られる方が迷惑」
「そっか。じゃあ謝るのやめるね」
そう言って、苗字は窓の外に視線をやった。俺ももう、何も言わなかった。
こいつは多分この先ずっと、別れた日に自分が口にした言葉を思い出しては、自分で勝手に傷つき続けるんだろうと、そのとき俺は、なんとなく、そう思った。俺がどうとかではない。こいつは徹頭徹尾、自分のことばかり考えているやつだから、俺が謝るな、何とも思っていないと言ったところで、自分で勝手に引き摺って、自分で勝手に傷つき続ける。
そういう相手に何かを言ってやったところで、結局のところ無意味でしかないのだということを、俺はすでに知っている。許すとか許さないとか、そもそもどうとも思ってないとか、そういうことは全部、勝手に罪悪感を感じている側にとっては関係ないんだろう。
沈黙のまま車を走らせ、やがて自宅マンションに到着した。
苗字が次に口を開いたのは、マンションに帰り着き、エレベーターに乗り込んでからだった。
「けど、あれだよね」
それまでずっとぼんやりしていた苗字が、急に吹っ切ったような明るい口調で言う。空元気かと思いつつ、俺は苗字に視線を向けた。
苗字は考え込みつつも、さっきまでよりは歯切れよく言葉を続ける。
「そもそも爆豪くんの奥さん扱いがどうとかって、私にまだ爆豪くんの奥さんの自覚というか、実感がないから、いろいろ考えちゃうのかな」
「自覚ねえのかよ」
「まだ、あんまり。ほら、入籍と同居のタイミングも違ったし」
それはたしかにそうなのだが、だからといってそれだけが理由じゃねえだろうが、と俺は内心で悪態をついた。
実感がわかない最大の理由は、同居後もてめえが仕事でろくに家庭と向き合わず、新婚らしい振る舞いを一切やっていないからだ。共同生活という点において、今のところこいつは何の役にも立っていない。場所とるぶんだけ、邪魔ですらある。
が、それを言わないだけの分別は、さすがの俺でも持っていた。だというのに、苗字はなおも続ける。
「私たち結婚したからって、特に何も変わったことってないよね」
ハ? と、よっぽど不機嫌な声が出そうになったのを、俺は今度もまた、なけなしの自制心で押しとどめた。
さっきまで落ち込んでたと思えば、今度はまったく見当違いな方向に舵を切ってきやがる。どうなっとんだ、こいつの思考回路は。
特に何も変わってない? バカか、んなわけねえだろうが。俺が今ちょっと考えただけでも、変わったことなんか死ぬほどある。
一緒に飯を食うのに、当然のようにどちらかの手料理という選択肢があること。俺の好みよりも甘めの味付けで、料理をつくるようになったこと。助手席のシートの定位置が前にずれたこと。
読めねえ英語の専門誌がテーブルに置いてあること。クローゼットに俺より小さいサイズのコートがかかっていること。同じにおいの衣服を着ていること。
夜更けに帰宅した日には、寝ている苗字を起こさないよう、そっとベッドに入るようになったこと。朝起きたら、苗字が横にいること。
そういうすべてが、まさかこいつには見えていないのか。いくら引っ越してきてからずっと、仕事が忙しかったとはいえ、限度ってもんがあるだろう。
苗字の生活の解像度の低さに、怒りを通り越して呆れるやら感心するやら、俺の心情はせわしなくなった。いや、逆に苗字の適応力がありすぎるのか? さすが、俺に言われたからといって、即日入籍を受け入れるだけのやつだとは思う。万事が大雑把すぎる。
というかあれか。そもそもこいつがこんな舐めた口をきいてんのは、俺たちの夫婦生活に視野が狭くて解像度激低いザル視力女でも理解できるような、分かりやすい「実態」が伴っていないからか。
エレベーターが止まる。
苗字の口はまだ止まらない。
「そりゃあ引っ越しの手続きとか、結婚のあれこれとか、そういう共同作業はいろいろあったし、生活のなかに爆豪くんの存在があるのって久しぶりではあるけど……。でもそういうのが一段落しちゃったら、高校のときの延長をまた、社会人になってやってるだけって感じじゃない?」
家に入る。苗字が鍵をかけたのを確認してから、俺はようやくアホがつらつら並べ立てた持論に、返事をしてやることにした。
「そりゃ、することろくにしてねえからなァ」
「すること?」
きょとんとした顔で、靴を脱いだ苗字がこちらを振り返る。その顔を真正面から見つめ返し、俺は答えた。
「セックス」
「せっ………………」
絶句し、苗字が固まる。直後、ものすごい勢いで顔を赤らめ、しかし全身はやはり硬直させたままの苗字を、俺は本気で嘲るように笑ってやった。
何を動揺してんだか知らないが、こちらとしては、そういうこと全部こみこみで結婚しているに決まっている。今更赤くなったり青くなったり固まったりぐにゃぐにゃになったり、そういうことになる方がどうかしているというものだ。
それともこいつは、忘れているんだろうか。すでに一回、相当手加減したとはいえ、俺はこいつを抱きつぶしているわけだが。
「何固まってんだ。結婚してんだから、するに決まってんだろ、アホが」
「決まってるの……?」
「逆になんでしねえと思っとんだ。ガキじゃねンんだぞ」
「いや、それはそうなんだけど……」
ようやく硬直がとけた苗字が、もごもごと自信なさげに反論してくる。くるくる変わる表情を見るに、苗字も再会した日の晩のことを思い出しているのは明白だった。その顔を見て、ようやく少しだけ溜飲が下がる。
けれどそれも、苗字が次の一言を発するまでの、短いあいだのことだった。
「というか聞きたいんだけど、そもそも、爆豪くんって、そういうことしたいの……?」
「ハァ?」
今度こそ掛け値なしに呆れた「ハァ?」が出た。俺のなけなしの自制心をもってしても、飲み込むことは不可能だった。いや、そうだろうが。なんでそんな質問になるのか、皆目見当がつかない。こいつ、俺のことをなんだと思っとるんだ。
「てめえ、復縁した日にあんだけ抱きつぶされときながら、まじで言ってんのか」
「いや、だって、なんかあれは、その……八年ぶりで気持ちが盛り上がってただけで、普段は別に、全然そんなことないのかと……」
「んなわけねえだろボケ」
「そ、そうなんだ……」
苗字が赤面したまま、視線をふせた。
この状態の苗字に合わせていては、いつまでたっても話が先に進まない。靴を脱ぎ、棒立ちになっている苗字の横を通り抜けながら、俺は苗字に尋ねた。
「おまえはどうなんだよ」
「どう、とは」
「してえのか、したくねえのか」
束の間、苗字が視線をさまよわせる。赤くなった頬と困ったように下がった眉、きゅっと引き結んだくちびるが、今の話題とあいまって、それなりにそこそこに俺をあおっているようにも見える。
少し悩んでから、苗字は上目遣いに俺を見て、答えた。
「したくないって答えたらどうなる……?」
「…………」
「無言で指の関節鳴らすのやめて……」
いっそ縛り上げてその辺から放り捨てるか。この女、この期に及んでこの言いぐさ。まじで俺を、というか男を舐め腐っている。
「いや、違うんだよ。別に嫌ではない、んだけど……。なんていうか、だって、そういうこと、一回しかしたことないし、そんな多分、男の人みたいにしたいぜって感じにはならないじゃん……今までの人生、なくてなんとかなってたし」
「知らん」
「いきなり性に目覚めるわけもなく……」
「そりゃてめえの気合いの問題だろ」
泣き言に聞く耳を持つ必要もない。そう考えていたのが顔に出ていたのか、苗字はじとりとこちらを睨んで、
「……腰も破壊されたし」
「ぐっ」
急に反論しづらい論拠を出してきた。こいつ、さすがに俺のことが分かっている。口喧嘩で不利と見るや、的確に俺の引け目を狙ってきやがる。
しばし、睨み合いの膠着状態がつづく。適当なところで折れてやる、という選択肢は、今の俺にはなかった。そもそも今ここで折れたら、なし崩し的にセックスレス生活が継続しかねない。
どうあがいても、ここは勝利をもぎとらなければならない場面だった。ここで勝ちさえつかんでしまえば、後のことはまあ、多少は譲歩してやってもいい。たとえば次からは、苗字のクソ経験値にあわせたレベルで、ゆっくりだらだらやっていくとか。
そんなわけで、睨みあいの末に先に視線をそらしたのは、苗字の方だった。「そんなに……?」と照れたような困惑したような声でぼそぼそ言っているが、そんなもんは、そんなにに決まっている。
俺は無言で、苗字に圧をかけ続ける。やがて苗字は諦めたように嘆息してから、もう一度俺の方を見上げて言った。
「別に、嫌ってわけじゃないんだよ」
「それァさっきも聞いた」
「ただ、なんていうか、その……。あ、でも、いざしますよってなる、その前のは好きだった、かも……?」
どうでもいいがこいつ、いい年して「セックス」のひとつも口に出せないのか。学生時代に俺以外の男と縁がなかったからって、ここまでのもんとは思わなかった。
なかば呆れつつ「前ってなんの前だよ」と俺は苗字に聞き直す。苗字はやはり、もじもじと口ごもりつつ言った。
「だから、なんていうか……キスとか、そういうさぁ」
「あ? 前戯のことか」
「うっ、どストレートだ……」
引いている苗字を見ながら、俺は再会した晩のことを思い出した。そういえばたしかに、いざ突っ込んでどうこうした後よりも、その前のほうが苗字はよがっていたような気がしないでもない。最初にがっついたのは失敗だったにしても、そのあとはおおむね、まあまあ気持ちよさそうにしていたことは、俺もはっきり覚えていた。
というか、はじめてのわりにえらい感じるじゃねえかと、やや満足したことまで、俺はしっかり覚えている。だからこそ、その後の「二度目はまあいいかな」的な態度が死ぬほどムカついたわけだが。
そんな俺の感情などつゆ知らず、苗字はもごもごと続けた。
「そういう、前戯……は、好きだったというか……。爆豪くんにさわられるの、なんか、すごい意味わかんないくらい気持ちよくて……」
「……は?」
「いや、変な話をしてるとは思うけど……でも、爆豪くんにさわられると、おかしくなっちゃうというか……」
話を聞いているうちに、頭が痛くなってきた。結局、こいつは何をどうしていきたいんだ。そして俺のことをどうしたいんだ。
俺はてっきり、セックスにいい印象がない苗字をどうにか丸め込み、夫婦らしいそれなりの頻度で抱けるよう洗脳するのが、今夜のこの会話の終着点だと思っていた。実際、今の今までそういう流れだったはずだし、このあとはお定まりに「数こなしゃ良くなるっていうだろ」とか「おまえが良くなれる場所探すためにもヤらにゃ始まんねえだろ」とか、そういう方向でいく予定でいた。
それをなんだ? こいつ、何を言ってる?「俺にさわられるのがめちゃくちゃ気持ちいい」っていうのはつまり、俺にさわられたいって話じゃないのか?
いや、「さわられると気持ちいい」を言えて「セックス」を口に出せねえ理由はなんなんだよ。今おまえが口にしたセリフの方が、俺からすりゃとんでもないんだが。「セックス」は一般名詞だが、「さわられると気持ちいい」は百パーセントてめえの感想で、主観以外の何物でもないだろうが。
言いたいことが嵐のように頭の中を吹き荒れる。しかし、そのひとつひとつを真面目に口にしていては、あっという間に夜が明けてしまいそうだった。
痛むこめかみを指でおさえ、俺は声を低めて言った。
「おい、このエロ根暗」
「……それ、返事しなくちゃいけない? 私のこと呼んでるって思いたくない不本意な蔑称なんだけど」
「んなこたどうでもいい。てめえ、今すぐシャワー行ってこい」
「な、なんで」
「抱くからに決まってんだろ」
うっ、と苗字が返事の言葉に詰まっているが、同情してやるつもりはなかった。前回のとき、無計画に煽るのをやめろというのは、さんざん口を酸っぱくして言い聞かせている。にもかかわらず、学習能力がないこの根暗は、今回もまた懲りずに同じ過ちを繰り返していた。
「いや、でも、あの、爆豪くん」
「そっちがその気なら、俺ァシャワーなしで始めてもいい」
「い、行ってきます、行ってきますシャワーに」
「二分で出てこい、ちんたらしてたらガスも水道も止めるかんな」
「インフラを人質にとるのよくないよ」
慌ただしく着替えを取りに走る苗字を見送り、俺は深くため息を吐く。今度こそは苗字の腰を破壊しない、そう自分を戒めたばかりだが、この調子ではどこまでその自戒を守れるものか、自分でもまったく自信がなかった。
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