多分80億人の為のラブソング

どろさん誕生日おめでとうございます!!!!!!
マーロマの二次創作卓前提のやつです

「可愛いねその、えーっと。ドラヤキマン?」
 本日の最初の患者はぬいぐるみを大事そうに抱きかかえた幼児だった。デザインのセンスからアンパンマンの登場キャラクターなのだろうということくらいは子供に疎いボクでも窺えたが、具体的なキャラクター名はわからない。わからないがアンパンマンのキャラクターならば食べ物の名前+マンでアタリをつければ大きく外れることはないに違いない。
 そういう当て勘の元、ぬいぐるみをとりあえず褒めてみるというわかりやすい友好の姿勢を示してみたのだが効果はかんばしくなく、幼児の顔は硬直した後に段々と険しい物に変わっていった。これはボクの不徳の致すところだが哀しいことに見慣れてしまった表情なので、これがどういう心境故なのかだけはハッキリとわかる。
つまり、どうやらボクはまたやってしまったようだ。今度からはそのぬいぐるみとだけ言った方がいいかもなぁ。
「先生、カレーパンマンです」
「この形でどら焼きじゃないんだ……
「羊羹ならマダムがいますがどら焼きはいませんね」
「マダムって何……? いや違う違う、アンパンマン講座を受けている場合じゃない。えーっと、ボクはアンパンマンに詳しくなくてさ、ごめんね? でもその子が可愛いと思ったのは本当だよ?」
 素直に謝ると、歳に似合わず寛大な心も持つ立派な幼児はうんとだけ頷いてくれたが表情は硬いままで、カレーパンマンなるものを抱きしめる腕は更に硬い。ここからなんとか心を開いてもらうには、それはもう尋常ならざる努力を要することになるだろう。しかし、幼児から病状を聞き出せてこその小児科医である。この使命から逃れる術はなく怠惰も許されてはいない。
 まずは初手として、机に溢れているピンク色の丸をさりげなく目を引く場所に押し出した。ピンク色でしかも丸い。多分子供に好かれるビジュアルだと思う。なんとかなれ。
……ここでは本当に行き当たりばったりだなぁ、ボク。

 ○

 子供への応対の正解が未だによくわからない。多分一生自信が持てないままの人間だろうなとわかってこの道を選んだのだが、それにしたって思っていたより向いていないし、本当にずっとよくわからないまま勤続年数を重ね続けている。ボクの子供時代も、大人から見るとあんなものだっただろうか。よく覚えていないし、自分のことは客観的にわからない。でも兄はああいうのとはもっと別種のわけがわからない生き物だった気がするので、子供というのは千差万別にわけがわからない生き物なのかもしれない。
 空になった本日のおやつのメロンパンの袋をくしゃくしゃにしてゴミ箱に捨ててから、まだ少し残っている牛乳に口をつけつつ記憶のページをめくっても、ボクはどちらかというと大人しくて助かると言われた過去しか思い至らないが、それはそれで困る子供だったのではなかろうか。わからないのが一番の問題なんだから、子供らしさもわかりやすいのが一番だよねぇ。
 もういっそこういう子供っぽい味覚を披露していけば、同類だと思われてスムーズに打ち解けられたりは……。無理だろうなぁ。大人の癖にと弄られる未来が見える。それもある種の成功ではあるだろうが。でもやっぱり威厳があると思われたいじゃないか、ボクももういい歳した大人なのだから。
 常々思うことだが、子供は毎年新顔がやってきては気づけば子供を卒業していくというのに、診療する側は毎年型落ちが進む旧型が対応するという体制にまず無理がある気がする。せめて子供の流行廃りを教えてくれる定期セミナーが欲しい。教材とかがあると更に嬉しい。
 そんな胡乱な逃避にうつつを抜かしてしていると、同い年にも関わらず美少年を自称する男が脳裏をよぎった。「いつまでも若々しい気持ちを忘れないのがこの美貌の秘訣さ……」などと要らない助言まで押し付けてくる。帰れ。キミの場合はボクより体力ない癖に年齢に見合わぬその行動力で厄介な面倒ごとに巻き込まれるのだからむしろ少し落ち着け。
 しかし、そういえば最近、少年相手に「今の子の流行は何か教えてくれるかい?」と質問する機会を得たが、「雨穴とか」と即答されたような。その解答には(はぁ、動画投稿者を選ぶだなんて流石現代っこらしい答えだなぁ)と面食らったものだが、大雑把に怪談と括ってしまえばいつの時代も子供は怪談が好きだと結論づけてしまえる気がする。これをよすがに今までアイツのせいで経験した少々不思議な話でも語り聴かせてみたら、案外ウケがとれるかもしれない。……いや、うん、何事にも程度ってものがあるよな。語って聞かせるには少しばかり血生臭いや。
 牛乳を大きく啜ると、ずずっと空気が紛れ込む。最後の一口だったようで口内を満たす残り香が幽かに甘い。おやつ休憩ももう少しで終わるこの時間に完飲する己のスケジュール能力は我ながら褒め称えたいところだが、本音を言うと少しばかりもの足りないのは否めなかった。
 確定している午後の予定に思いを馳せながら一本二本と指を折る。うん、やはり頭脳的にも肉体的にも多忙極まる近い未来に必ず訪れる試練と相対するのに、今の腹の具合ではどう考えてもまだまだ足りないぞぅ! 
 そうと決まればなにごとも思いついたそばから実行に移すに限るので、自動販売機に寄りミルクティーのボタンを押すとガコンと速やかにオーダーが実行された。キミはわかりやすくていいね。

 ○

 ポンと太鼓を叩く音が、遠くから聞こえた。
 多忙を極める仕事をなんとか終え、同僚達からの「明日のオフはどうするの?」などの質問を「疲れたから……」とふわふわした文句でなんとか振り切り、後はもう帰宅するだけという自由の身には心惹かれる愉快な音だ。祭囃子こそ聞こえて来ないが、現代日本において太鼓を叩くような事情は大方祭りだと相場が決まっている。この音を聞いてその場で足を止めない者がこの世にいようか。だって今まさに近所で祭りが開かれているのだ!
 さて、どうしようかな?
 オフ前日の現代人として当然のようにこの身は正直疲れ果てているし、今すぐにでも帰って寝てしまいたい。同僚達への返答はふわふわしたものだった自覚はあるが(だって疲れて寝たいを正直に言ったら現代社会では用事にカウントして貰えないじゃないか!)、同時に腹の底から出た嘘偽りのない断り文句でもあった。何故か残念そうな顔をされた気がしたが、それでもなお一切心が痛まない程度にはあの瞬間の自分にとっては切実な願いだったと断言できる。そしてこのまま大通り沿いに駅まで歩き、電車に乗ってさっさと帰って寝てしまいたいという気持ちは退勤した瞬間のままである。今すっごく寝たい。
 けれども、同時に腹も減っていることにも気づき始めちゃったんだよねぇ。
 鞄の中には帰り道用のあんパンがあるし、それでも足りなければ都心部住まいだ、コンビニ他いくらでも選択肢があるが、とにかくロマニ・アーキマンは今、空腹なのだ。あの太鼓の音を聞く前よりも、聞いた後の今の方が、より。林檎飴、焼きそば、綿飴、たこ焼き、イカ焼き、フライドポテト、鈴カステラ。祭りの縁日の定番の品々が脳裏に浮かんでは消える。別に、今でなくても食べられる品々だが、祭りの縁日の魅力は理屈では語ってはいけない。ああいうものは相応しい場所で食べるからこそ美味しい。
 その場でどちらの欲望に素直になるか三秒ばかり迷った末、ロマニは食欲の手をとることにした。



 と、意を決して歩を進めたのはいいが、十分ばかり歩んだところでどうも様子がおかしいことに気がついた。町並みが奇妙……な気がする。何せ職場の近くなので、多少入り組んだ先だろうと見知った道であるはずだし、そもこの辺りも何度か歩いたことがある。勿論、何かしらの工事を終えたという情報を仕入れていない己のアップデート不足を疑うのが妥当な判断であることは間違いないのだが、理屈ではなく第六感が不可思議で覆われたように見えるこの町並みを疑ってしまってならない。試しにスマートフォンで地図アプリを起動してみたが、違和感の正体にたどり着けなかった。少なくとも地図上ではここは紛れもなくロマニが勤める病院の近所であり、その上地図と町並みを照らし合わせても矛盾はない。
 ただ、なんだろうか。この煙に巻かれているような、ペテンにかけられているような。まるで胡散臭い極まりないアイツと喋っているような気分にずっと囚われ続けているのだ。
 ポンと太鼓を叩く音は依然、鳴り響き続けている。
歩を進めれば進めるほど音は順調に大きくなっていっているので、このまま誘われ続ければそう遠くない未来にたどり着けることだろう。
 ――どこに? 
 本当に今更気づいたことだが、今の時期この近所で祭りが開かれているなんてことは耳に挟んだことがない。何かしらの告知も見た覚えがない。病院勤め、それも小児科のこのボクがだ。ありえるだろうか、そんなことが。そこに気づくと連鎖的に、違和感の正体に一つ辿り着いた。
 太鼓の音に惹かれて以来、ボクは未だに人間とすれ違っていない。路地裏といえど、この都心部で、誰とも。
 あっはっはっは。ありえるわけないよなぁ、そんなこと。
 ――うん、やはり今すぐにでも引き返そう。
まずは大通りを目指してみるのがいいだろうか。幸い地図そのものは当てになるのだ、なんとかなるだろう。大通りに出て誰かと出会えたのならば、話はそれで終わりだ。アレはただの杞憂だった、やっぱり疲れていたのだなと冷蔵庫の奥のビールの肴にでもしてしまえばいい。
 例え誰とも遭遇できなくとも……、疑念が確信に変わり、とりあえず情報が一つ手に入ることになる。どう転んでも事態は好転するのだから、やらない手はない。
 そうと決まればと身を翻した所で、ポケットがゆっくりと振動した。
 スマートフォンを取り出して確認するとロクデナシの名前が表示されている。こういう時に巻き込んで一番後腐れのないヤツの名前でこれ以上なく丁度良い。けれどもこんな事態なのだから、本人確認もしておこうか。
「やあ、ロマンくん。今晩キミの家で呑まないかい?」
 通話を許可すると暢気な声が聞こえてきた。確認の体をしているが、これはアイツが勝手に家に押しかけてくる時の文句である。多分マーリンだな、これ。でも一応、初志貫徹はしておこう。
「こんばんは、マーリン。最後に一緒に食べた寿司の店名を言え」
「え、何? ひょっとして詐欺か何かと疑っているのかい?」

 ○

「それはまた見事に狸に化かされたねぇ。楽しげな太鼓の音に誘われてしまったのだろう? それじゃあ狸だ。いや、もしかして狢かも? ふふふ、今時古風じゃないか」
……狸くらいならボクだってわかるけれど、ムジナってイマイチピンとこないな。何だい、それ? 名前くらいなら聞いたことくらいある気がするけれども」
「狢は狸と同じように人を化かす妖怪だよ。アナグマを指すというのが一般的かな。でも今回のような何かに化かされたという話なら、まぁ概ね狸と一緒だね。狢という漢字でタヌキとも読むから」
「なんだそれ、ちゃんとした違いはないのかい?」
「ズバリ、名前が違う!」
……
「キミさぁ、今この通話切っちゃおうって思っただろう」
「大当たり」
「酷いなぁ。名前が違うというのは結構重要なファクターだよ? 『ブーバキキ効果』ならキミの管轄にちょっとかすっていたりしないかい? 名は体を表すと昔から言うじゃないか」
「あ~なんか掴めてきた。狢の方が狸より危険というか、狸の妖怪の中でも危険なやつを狢と呼ぶとかそういう理解でいいかい?」
「その通り。本当はもうちょっと地方性の強い話だからそれを長く語ってもいいし、言って聞かせたらキミならもっと違う区分を提唱しそうなのだけれども。でも似たような性質の混同されやすい怪異なのだから、危険度で分けた方がわかりやすくていいだろう?」
「わかりやすさを優先して不正確な言説を流布するなよ」
「雄を狸、雌を狢と呼ぶ説もあるぞぅ!」
……
「ほら、あーもう面倒臭いからこの辺でこの話も切り上げたいなぁよ思ってきただろう? だからいいじゃないか、曖昧で。不思議で曖昧で、どうにも上手く説明できない出来事の中で元気に駆け回ってこその妖怪なのだから。さて、キミを化かしたのは狸と狢のどちらだろうね?」
「楽しそうにしやがって……。それで? 仮に狸だったら、さして危険度はないんだな?」
「『饅頭だと思ったら何かの糞を食わされていました』というオチが鉄板だねぇ」
「普通に死ぬだろう、それ」
「ちなみに狢もやるよ」
「化かし方はバリエーションがないなぁ。まぁ動物だから仕方がないか」
「大狢の場合ならそんななまどろっこしいことなんてせずに、とって食うという差別化があるぞぅ」
「何それ要らない」
「『本朝食鑑』曰く狸も食べるらしいけれどね。有名だろう? カチカチ山の婆汁。」
「ははーん、これはバリエーションがないのは人間の想像力の方だな?」
「キミはどちらに化かされたと思う?」
「ねぇ、これ区別をつける必要が本当にあるのかい?」
「さぁ、どうだろうねぇ?」
「本当に切るぞぅ!」
「寂しくなる癖に」
「言ってろ。……、これさぁ、逃げる以外の選択肢あるか? 正直、スマホを頼りに逃げてしまえば、それでもうなんとかなりそうな気がするのだけれど」
「うん、私もさっさと帰るのならその手段でいいとは思っているよ。道に迷わせるのも、風景をごまかすのも狸や狢の十八番だけれども、流石にスマホを化かせやしないさ。人間より賢いからね」
「ふーん。なら尚のこと、この時間でキミではなくスマホの相手をしておけばよかった」
「酷いなぁ。でも本当にそのまま帰ってしまう前に一ついいかい?」
「聞いてやるよ」
「キミ、最近誰かを助けたことないかい?」
「ハァ?」
「いやね? 今から私はとても当然の話をするよ? 狸も狢も日本古来の妖怪なのは今説明した通りだけれどもね、説明するまでもなくキミがご存じのように、妖怪である前に彼らは歴とした動物なのだよ、ロマンくん。そして動物は人間なんかよりよっぽど義理堅く恩返しするものなんだ、世界中のどこでもね」

 ○

「つまり今ボクは健気な動物の恩返しを受け取るか、はたまた化かされて痛い目に遭うかという、善玉爺さんと意地悪爺さんの岐路に立っているとキミは言いたいわけだ」
「大当たり」
 ここで急に面倒臭い選択肢を増やした男は通話の向こうで酷く嬉しそうにしている。そこから見るボクはそれはもうさぞかし楽しい見世物だろうよ。やっぱりさっさと通話を切って何も知らずに帰ってしまえばよかったな。面倒な選択肢を増やされずにすんだ筈だ。
「ボクは狸なんか助けた覚えはないぞぅ?」
「その時人間に化けていたんじゃないかな。怪我した人間が目の前に現れたら手当くらいするだろう、キミ。ここまで聞いて、心当たりの方はどうだい?」
「ボクの職業は何だって思っているんだよ」
「だからこそ面白がっているんじゃないか。他の人間相手ならさっさと帰りなさいと言っているところだよ」
「このロクデナシ!」
「今回ばかりはヒトデナシと返すのは控えておこう」
 やっぱり今からでも切ろうかなぁ。これから先更に余計なことを吹き込んでこないと限らないし。今のところ腹が立つことしか言ってこないじゃないか!
「それでどうするんだい? ロマンくん」
 どうするも何も。
 ロマニ・アーキマンは狸に化かされ、相応に酷い目に遭うかもしれないというリスクを抱えてまで動物の恩返しとやらに期待を持てる人間か? 断じて否だ。
生憎ボクの頭は日本昔話で構成されていないし、動物相手に金銀財宝を期待するほど因業でなければ生活にも困っていない。今のボクにとっては速やかな帰宅だけでも十分すぎる幸福だ。
 しかも今日はアイツがボクの家に押しかけてくるようなので、晩ご飯の用意をしなくても良いというオプション付きである。人間、疲れている時に分不相応な幸福に無理して手を伸ばすべきではない。
 よって、例えこの太鼓の音の先に待っているのが健気な動物の可能性があったとしても、こんな大仰なお誘いなんてさっさと断って帰るのが妥当な判断で、ボクの選ぶべき道だ。
 けれども。
 大仰がすぎる故に、どうしたって後ろ髪が引かれた。だってボクならここまでしないもの。動物とうのは、たかが怪我でここまでするほど健気なのだろうか。よくわからない。果たしてこのわからないは放置していっても良いのだろうか。
……ボクに何かあったらキミのせいだからな」
「おや、キミのことだかたてっきり容赦なく帰るものだとばかり思っていたのに」
「だって本当にキミの言うとおりなら、予後を診てやらないといけないだろう」
 ここまで恩義を感じる理由は大けがだった場合しかボクには想定できない。
 どこで狸の怪我を診てやったのかをまるで思い出せない程度には薄情なボクだけれど、そこが気にならないほどのヒトデナシでもないのだ。なにせお医者さんなもので。
「ロマンくんは本当にロマンくんだねぇ」
「そうだよ。ボクはキミと違って結構動物に懐かれるタイプだからな!」
「そう。それでも一応、饅頭を出されても食べないようにね?」
「じゃあボクがちゃんと我慢できるようにキミが和菓子屋に寄って色々買っておけ」
「私相手だとこれだものなぁ」
 だってキミはマーリンだし。

 ○

 太鼓の音に誘われるままに歩を進めると、辿りついた先は見覚えのない寺だった。
 縁日でもやりそうという面では妥当な場所だが、ここは本来ならば市民の皆様の憩いの場の公園である。気分を変えたい時にはコンビニでおにぎりでも買ってここで昼食を食べるので確かな筈だ。つい先日もそうした。スマートフォンもその通りだと同意してくれている。
「なんか……、公園が寺になってる……
「あっはっはっは。いいじゃないか、愉快で。キミの職場の近くというと……、たまに鯛焼き屋が来るからお気に入りだって言っていたあそこだよね?」
「愉快かぁ?」
「愉快だろう、一生のうちにそう何度もあるわけではないぞう!」
「いつかキミも体験できるといいな。手を合わせておいてやるよ。折角寺にいることだし。……ところでさぁ。今、というかこれからのボクって端から見たらどんな風に見えると思う?」
……
 電話の向こうから答えは返ってこない。だがそれが何よりも雄弁に語っている。
 今からボクはバカには見えない寺に這入ってたぬきの接待を受ける予定である。本来ならば何の変哲もない公園で。その様は他人から見るとパントマイムにでも見えるだろう。いや、パントマイムならまだましか。
 誰がどう見ても不審者じゃないか! 今になってもうすっごく帰りたい! 
今からでも入れる保険が? なんと! 今回もない!
「この時間帯でも結構人がいる公園なんだよね、ココ」
「しかも駅からそこそこ近いよね!」
「他人事のように……」 
他人の不幸を面白がるようなロクデナシの喜色に満ちた声を聞きながら、門を軽く押してみるとギィと軋みながらゆっくり開いた。鍵はかかっていないようだ。当然か。
 年季の入った木特有の手触りがあまりにも真に迫る温度さえ持っていたので、余計にこの空間の異様さむしろ強調させた。
 不思議な空間に誘われるがままに入り込むというのは、背筋が少しばかり冷える。
……じゃあ入るぞぅ」
「どうぞどうぞ」
 砂利を踏む音を感じながら寺の中に入り込んだが中に何もいない。だがお堂の中へ招くように扉は開いていた。そのまま奥までどうぞということだろう。
 木々が揺れ動いてもう水分が失せ始めた葉がこすれる音しか聞こえて来ない。ここは本来ならば住宅街の中の賑やかな公園だというのに。
……誰もいないなぁ」
「こうして私が通話で傍にいるのだから、そう寂しがらないで」
「調子に乗っていると本当に切るぞぅ」
「ここまで来て生殺しにするのはあんまりじゃないかい?」
 じゃあそれなりの態度をとるんだな。
 しかしこれ以上心配を重ねても仕方がないのでお堂に上がろうとした所で、新しい課題がロマニに課された。
 ――果たして靴は脱ぐべきだろうか。
 お堂に上がるからには当然、靴は脱ぐべきである。これは信心以前の問題だ。例えどこの誰を信仰していても人様の建物の中に入るならばそのご家庭の習慣に従うべきであり、寺に入るのならば、まぁ、脱ぐのが一般常識に該当する。むしろ脱がない人間がいたら距離を置いちゃうよね。
 しかし今のロマニは狸(もしくは狢)に化かされているらしく、ここも本当ならば個人の敷地ではなく公共施設たる公園だ。
 嫌だなぁ、公園で突然靴を脱いで歩きだす不審者になるのは……! 
 これからもっと言い訳のしようのない状況になるんだろうなってのはわかっていてもさぁ! 
 ここでうだうだ悩んでいても、自分に不審者のはんこを押す人間が周囲にいるのかを判別する術が今のロマニにはない。故に優先するべきは自分が納得できるか否かだ。変なクスリはやっていなので例え通報されてもなんとかなるだろう、なるよね? 大丈夫。やってないから。悪の組織にも勤務してない。よし。現代日本で清く生きていて良かった。
 目を瞑り、耳を塞ぎながらしっかり地面を踏みしめると砂利の感触が靴越しに伝わってきた。ただし、寺の心遣いが行き届いたような丸い砂利ではなく公園でその辺に散っている砕けた砂利のそれだが。
やっぱり公園だなぁ。公園で靴って、普通脱がないよね? いや、公園で遊んだ記憶に乏しいから強く断言できないのだけれども。でもいいよね? 靴を履いたままで。
もしも嫌だったら――、後でごめんなさいと言おう。
 でも次からは看板をお立て。

 ○

 靴を履いたままお堂に上がるという不思議な体験を幻視しながら廊下を進むと、門以来の閉じた部屋に辿り着いた。薄い障子の向こうには誰かがいる気配がする。
 この寺の主だろう。
……、いかにもな和室の前に辿り着いたぞぅ」
「じゃあ通話状態にしたままポケットにでも忍ばせておくれ」
「どうしようかなぁ」
「いざとなったら通報してくれるオマケつきだからお得だよ?」
「言ったからには絶対にやれよ」
 でもこの会話は筒抜けだろうから、正直頼みの綱としては頼りないんだよなぁ、あのバカ。仕方のないことだが。脅しということにしておこう。
 コホンと咳払いをして背筋を伸ばし、人に見られていたら嫌すぎるのを我慢しながら極力小さく声をかけた。
「えーっと、あの、失礼します」
「どうぞお入りください」
 中からは壮年の男性の声が返ってきた。誘われるままに障子を開けて部屋の中に入ると、中には声から想像した通りの恰幅が良い和尚然とした男が正座している。
 健康そうな肌色に反してやや濃い隈が実にわかりやすくてありがたい。
 これは絶対に狸だ! いや正直アナグマのビジュアルは正直あやふやだけれども!
「こんばんは……? その、本日はお招きにあずかりありがとうございます?」
「いえいえ、こちらこそご足労おかけしました。ささ、どうぞ上座に」
 たぬきの和尚はささ、どうぞとロマニを座布団の方へと促したが、ここもやはり本当は公園であることを思えば、できれば座りたくなかった。砂利の上に座って許されるのはね、学生の特権なんだ。それに痛そうだし、帰りの電車で運良く席にありつけても遠慮しなくちゃいけなくなるし。
「この後に友人と用事がありまして、あまり長居はできないんです」
「そうでした、真に申し訳ない。何分慣れていないもので気が利かず……
「いえいえそんな、ほらボクもこんなんですから……
 と靴を指しながら寺にこんな上がり方をした無礼を詫びると、和尚然とした男はいえいえこちらこそ……とそれはもうこちらの腰が低くなりそうな程にわびを雨のように浴びせてくる。さっさと帰ろうとしていた電話前までの自分を思うと少し心が痛むほどだ。苦しゅうないので頭を上げて欲しい。
 和尚的に満足した頃に彼はゆっくりと顔を上げ、懐から細長い箱を取り出した。
「ではこちらだけでもお納めください」
 どこぞのテレビ番組にでてきそうな時代がかった箱だ。手触りも悪くない。きっといい素材を使っている。
「怪しいものではございません故」
「はぁ……
 確かに、この重さで持っているだけで悪さを働けるようなものを用意するのは、亀はともかく狸には容易ではあるまい。ならばこれはありがたく持ち帰ってからあのバカに話を聞くことにしよう。これで狸の和尚の本日の用事はお終いのわけだ。
 終わりが嫌にあっけなかったが、ボクの本題はそれでいい。
……足はもう無事ですか?」
「はい、お陰様で倅はもうすっかり良くなりました。今日も元気に走っております」
「それなら良かった」
 そうか、本人じゃなくて親なのか。なるほど。
 ――本当に良かった。確かにあの怪我ならば安静にしていれば今頃すっかり治っていてもおかしくはない。あの子からはもうお礼をちゃんと貰っていたのだから、こんなに気を遣わなくたって良かったのにね。でもそういえば親ってそういうものだから、こうなってしまったのだろう。子供時代のボクは上手く思い出せないが、父さんがそんなだったことくらいは覚えている。
 色々大げさで困るよねぇ。

 〇

 寺の門をくぐると背後で最後に大きくポンと一際大きい音がなった。
 その音を合図に振り返れば先ほど確かにそこに見えた筈の閑静な寺は消え失せ、見慣れた近所の公園に戻っている。ただし、相変わらず人っ子一人いないが。
 きちんと此方に気をつかっていてくれたらしい。実に人間馴れした見事な狸の親子は公園の真ん中でぺこりと丸で頭を下げるような仕草を見せてから、草むらへと飛び込んだ。怪我に原因は知らないが、気をつけながら長生きをするんだぞぅ。
 こうして太鼓の音に誘われたことから始まったいい歳した大人の冒険は、少し毛深いだけの化けの皮を被ったありふれた体験談に終わってしまった。秋の日はつるべ落としというように辺りはもうすっかり夜に包まれ、街ももう眠る準備に入り始めるている。
 こんな些細不な思議なんて素通りして。
 大人の日常とはそういうものだ。
 こんなものを大層面白がっていたアイツに報告でもしてやろうとポケットの中のスマートフォンを取り出して口元に当てた。
「もう終わったぞう」
「「そのようだねぇ」」
 聞き慣れた声での返事がスマートフォンのみならず後方からも聞こえてきたので、急いで公園の入り口に視線を戻すと目にも慣れた姿が目に入った。
 スマートフォンを片手に暢気に手を振っていて、もう片方の手はデパートの紙袋を携えている。
 その紙袋持って今ここにいるってことは電話した頃にはもう駅にいたな? それを先に言え、巻き込んでやったのに。相変わらずバカみたいな行動力で生きている生き物だ。
「その箱の中身を当ててみせようか、アーキマン」
「外れたらケーキバイキング奢りな」
「些細な戯れに対してペナルティが重すぎやしないかい? 別にいいけれど。中身はハクタク様だよ。キミの守備範囲だから説明は要らないね?」
 ハクタク、白沢、白澤。
 基本的には徳の高い治世下に顔をだす瑞獣だっけ。病魔避けとしても信仰されていることの方がボクにとっては身近なので、きっとそちらを指しての発言だ。
 確認するために軸箱をマーリンに押し付けてから掛け軸を開くと、そこには確かにマーリンのいう通り人面に獅子のような白い胴体という特徴的な出で立ちの妖が墨で描かれていた。狸とは思えぬ、中々達者な筆致である。
「ボクが医者だからかな?」
「というよりは子供の相手が下手な小児科医だからじゃない? 僧侶に化けた狸が描いた白澤図は見せた子供が泣き止むと言われているんだよ」
「あ~……、なる、ほど……
 なるほど。だからコイツは狸と狢に大した違いがないと豪語した後も違いに拘ったのだろう。きっとこの話は狸固有のものに違いない。どちらでも良くない数少ない理由に心当たりがあったわけだ。
 他人が身銭を切るギャンブルほど見ていて楽しいものはないがコイツの持論である。さぞ堪能いただけたことだろうなぁ。後で酒瓶のラベルと上にして殴ってくれようか。デパ地下の惣菜のおかげで今日は楽しく酔えそうだし。
「健気な動物に幼気な恩返しだ、是非とも有効活用してあげたまえ」
……そうしてやった方がいいのだろうけれども。それでも、子供が泣くのは立派な意思の伝達手段だからね。全部大切に受け止めて、そこから何を伝えたくて泣いたのかを汲み取るのも仕事のうちさ。そういうことから逃げない覚悟で小児科医になったのだから。キミの言う通りの使い方をしてやれそうもないや。その代わりに駅の本屋で本でも買って帰ることにするよ」
「へぇ、ようやくアンパンマンを覚える気になったのかな?」
「今の子の流行は雨穴だってさ。子供のことは子供の方が詳しいものだよ。人間も狸も。だから参考にすべきは子供の方の提案だ」
「なるほど、道理だね」