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君とワルツを 6

幼いヒースクリフの記録と囚人たちの話。後日談です。
シリーズ完結となります。メインストーリー6章の内容を含みますのでご注意ください。

 
 
 赤い壁紙と背の高い本棚に囲まれた自室。ダンテは持ち込んだ用箋鋏に視線を落とし、気まぐれにページをめくっていた。こういった記録に目を通すようになってからじきに一年が経とうとしている。いつの日からか囚人達の顔と筆跡が結び付くようになったダンテは、草原に生息する植物ひとつひとつに名前があると知ればそれらを個として識別するように、てんで不統一な筆跡の寄せ集めから執筆者それぞれの表情が伺えるようになったことに面白さを感じていた。
 夢のような時間だった、とダンテは思った。しかしそれが夢ではないことはダンテが手にしている囚人達の記録が物語っている。降り注ぐ雨が記された全てを洗い流してしまったかに思われたが、それらは掻き消えることなく辛うじて内容をくみ取れる程度の形を保っていた。最後に用箋鋏を手にしていたムルソーの尽力によるものだろうか、とダンテは思案する。
 ただ一点の例外を挙げるならば、キャサリン・アーンショウの名前だけが靄がかかったように滲み読み解くことができなくなっている。まるで自分たちが関与できないどこかから一方的に介入され歪みを矯正したのだと言わんばかりの状況に気味の悪さを覚える。そして囚人達もまたその法則に従い、彼女の名前を忘却してしまっていた。
 どうしたものかと思案したその時、ふと自室のドアがノックされる音が聞こえてきたことでダンテは頬杖をやめて顔を上げる。それから徐に立ち上がると部屋の入口まで足を運んだ。金属製のドアノブを軽く捻り手前へ引き寄せる。ドアの向こう側に立つその人を視界に捉えると、ダンテは軽く微笑む代わりに時計の針を軽く打ち鳴らした。
〈ファウスト、もう終わったんだ〉
 ダンテに名前を呼ばれたその人は神秘的なまでに色素の薄い髪を揺らして小さく頷く。彼女は磨りガラスのように淡く光を集める瞳をこちらへ向け、一冊のファイルを差し出した。見た目よりも柔らかい印象の手触りからプラスチックとは違う、布や紙といった材質でできたものだろうとダンテは思案する。
〈貰ってもいいの?〉
「記録の保管に役立つでしょう。中にカウンセリングのログを綴じていますから、それに倣って収納してください」
 二つ折りのそれを開くと綴じ具に挟まれた一枚の記録用紙が目に映る。等間隔に並んだ線の細い字体が並んでいることからファウストによって記されたものだとすぐに気が付いた。
〈ありがとう。使わせて貰うよ〉
 そう言ってダンテがファイルを畳むと、ファウストの背後から別の人影が姿を現す。ファウストはその人影がある方へ視線を移すと少しの間目を伏せて、再びダンテの方へと視線を向けた。
「ファウストは業務へ戻ります。積もる話もあるでしょうから」
 彼女の言葉に頷いたダンテはこちらを伺う人影へ向けて手招きをする。その人はファウストと立ち位置を入れ替える形でダンテの目の前に立ち、気まずさを誤魔化すつもりか大袈裟に咳払ってみせた。
「あー……その、邪魔すんぞ」
 ヒースクリフは明後日の方へ視線を泳がせながら右手の人差し指で首元を掻いている。そこで鈍く光る銀色の指輪を見つけ、ダンテは小さく息をついた。同時に目についたのは彼の額に宛がわれた四角い絆創膏だ。それは数日前に子供の姿をした彼がバスの外で負ったものに違いなかったが、大人の姿に戻ってからもその跡が残り続けていた。化膿を防ぐためにとファウストが処置を施す様子を少し離れたところから見ていた時のことを思い返す。
〈どうぞ、ヒースクリフ。入って〉
 彼はダンテに従って部屋の中に入り促されるまま空いた椅子のひとつに座る。ダンテは先程まで座っていた椅子に再び腰かけると、こちらを見つめるヒースクリフへ声をかけた。
〈お疲れ様。具合はどう?〉
 労いの言葉を受け取ったヒースクリフは大きく溜息を零す。またそれか、と呟くと腕を組んでダンテのいる方を睨んだ。
「別に平気だっつってんだろ、どいつもこいつも……
 どうやらヒースクリフは先の出来事をほとんど覚えていないようだった。それどころか不寝番を買って出たあの夜、ダンテと別れた後の記憶が曖昧になっているらしい。ようやく意識がはっきりとしたときには、既にあのセピア色に染まった草原の上に横たわっていたのだと言う。
 当初は不寝番をさぼっていたと疑われるのではないかと焦ったようだったが、弁明を始めるより先にロージャからいの一番に強く抱きしめられ動転したようだ。彼女は何すんだ、と大声を張り上げたヒースクリフを意に介さず抱擁を続け、一通りの患いの言葉をかけ終わるまで満足しなかった。それは感情表現がオーバーなドンキホーテも同じであったが、驚くことにシンクレアでさえヒースクリフの背中に頬を寄せ、控えめに腕を回していた。こうして三人の囚人に抱きつかれたヒースクリフはいよいよ言葉を失い、ウーティスの制止が入るまでの間自分を見下ろす他の者の顔を順繰りに見つめていた。
 くす、と笑みをこぼしたダンテを見てヒースクリフは不満げに眉を顰める。
「なんだよ」
〈ううん。ロージャ達に抱きつかれてた君の顔を思い出していただけだよ〉
 そう言うと揶揄われたのだと判断したのか、ヒースクリフは機嫌を損ねたらしい。しかしそれが気恥ずかしさから来る苛立ちだということを自覚しているようで、ヒースクリフはダンテの座る椅子の脚を軽く蹴飛ばした。
〈あっコラ〉
 太腿に微かな振動が伝わったことでそれに気付いたダンテがやんわりと叱責する。それを聞いたヒースクリフは「うるせえよ」とだけ言い放ちダンテから顔を背けて見せた。
 頭を強打しているから、というイサンの一声で医務室に担ぎ込まれていたヒースクリフだったが、曰く自分の様子を見に来る囚人達の様子がやけに甲斐甲斐しく気に障るらしい。彼の身に起こったことはきっと囚人達が既に説明してくれているだろう。だが自分と他の囚人との間に認識の齟齬があることで普段通りのコミュニケーションが取れず、それがヒースクリフにとって些細なストレスになっているようだ。
〈皆君のことを心配してたんだ。もちろん私もね〉
 ダンテの視線の先でヒースクリフは机に肘を付いている。相変わらず顔は背けたままだったが、目線をこちらへくれていることから話を聞くつもりはあるようだとダンテは思案した。
〈だからしばらくは我慢してくれる? 鬱陶しいだろうけど、皆それくらい君のことが大事なんだよ〉
……おー」
 それからダンテは努めてシンプルに、しかし誠実に伝える情報を選びながらヒースクリフへと語り聞かせた。心身ともに幼くなってしまったヒースクリフのことや囚人達の様子を話せば、彼は苦虫を噛み潰したような顔で押し黙る。これから他の囚人達とどう顔を合わせたものかと頭を抱えたヒースクリフに、ダンテはお互い様だよと毒にも薬にもならない慰めの言葉をかけた。
「で、ガキのオレは何を口走ったんだ?」
 ふとヒースクリフから尋ねられダンテは声を詰まらせる。不味いと分かってはいたものの、咄嗟にその先の言葉を続けることができなかった。
〈それは……
……いや、分かってる。キャシーのことだろ」
 そう言ってヒースクリフは視線を床に落とす。少し遅れてダンテは肯定を意味する言葉を口にした。は、とヒースクリフが薄く笑う。
「夢を見てたんだ。一度だけ、あの子に踊りを教わったときの夢。あん時はキャシーがオレに何をさせたかったのか分からなくて、ただ振り回されて終わっちまったけどな」
 己の独白から想起する何かがあったのか、ヒースクリフはしばらくの沈黙を噛みしめる。それから項垂れていたヒースクリフの顔が持ち上がると、感傷に浸る彼の沈痛な、しかしどこか穏やかな表情がそこにあった。
「キャシーはさ。オレにとってそこにいる意味、っていうか……全部だったんだ。特にガキの頃は」
 ヒースクリフの両目はそこにあるダンテの姿を映してはおらず、その視線はずっと遠い過去を生きる自分自身へと向けられているようだった。話題は自然と彼女に関するものへと移っていく。
「一人になるとキャシーのことばかり考えて、何度も屋敷で過ごした日を思い出して……けど、それを繰り返さないと少しずつ忘れていっちまう。キャシーが……オレだけが覚えてるあの子が少しずつ消えていくのが、多分怖えんだ」
 そう消え入りそうな声で呟くと彼は再び口を閉ざした。ダンテの目の前にいるヒースクリフの様子が、バスの中から雲の向こう側にある星を見ようとしていた彼の姿と重なる。
……大丈夫。少しずつだけど、きっと取り戻せる〉
 それは確信から生まれた言葉だった。顔を上げて時計の上で揺らめく炎を見つめたヒースクリフへ向け、ダンテは再び声を発する。
〈それまで旅を続けよう。幸い、君には行動を共にする仲間がいるから〉
 するとダンテへ向けられていた紫の瞳が微かに見開かれ、炎の色が反射した。その後薄く開かれていた彼の口元が引き結ばれる。柔らかい微笑みをたたえたヒースクリフが頷く様子を見て、ああ、きっと自分が伝えたかったのはこの言葉だったとダンテは肩を撫で下ろした。それから今しがた放ったばかりの言葉を胸の奥で何度も反芻し、己の心を慰める。大丈夫、一緒に取り戻そう。君は一人ではないと。
 ふと、ダンテは机の上に置きっぱなしになっていた用箋鋏を見やる。幼いヒースクリフの言動やそれに対する囚人達の所感が記されたそれは、きっとヒースクリフにとって気持ちの良い内容ではないはずだ。しかしそこに記された子供の、ひいては今ここにいるヒースクリフが再会を希う人が存在したという事実が用紙の上に綴られている。そしてダンテとヒースクリフは滲んだインクの向こうでたおやかに佇むその人を知っている。今はきっとその事実だけで十分だ。
「さっきから気になってたんだけどよ。それ、何だ」
 雨に濡れくしゃくしゃになった紙の束はヒースクリフの目にも異質に映るらしい。用箋鋏の存在を指摘されてダンテは口を開く。
〈記録だよ。小さい君の〉
「オレの……なんでそんなモン作ったんだ」
 訝しげに問いただすヒースクリフに、ダンテは頭に浮かんだ様々な理由の中からひとつを選びながら「ええと」と声を漏らす。
「思い出になるかなって」
「思い出?」
 そうヒースクリフが声を上げたその時、部屋の外から規則正しく鳴ったのは誰かがドアをノックする音だった。慌てて立ち上がったダンテが扉を開ける。すると、そこには先ほどこの場を後にしたばかりのファウストの姿があった。
「すみません、ダンテ。それからヒースクリフさんも」
 ファウストは言葉とは裏腹に淡々とした様子で話し出す。
「LCDから連絡が入りました。近辺で発現したねじれの調査、および捕獲を優先するようにとのことです」
〈分かった。すぐ戻ろう〉
 そう言ってダンテはヒースクリフへと視線を向ける。どうやらファウストの話が聞こえていたらしく、ダンテが呼びかけるよりも先に立ち上がっていた。
〈ごめんね、ヒースクリフ。また時間を作るよ〉
「構わねえって。あんさん、最近ちょっと過敏になってねえか?」
 ファウストに続いて廊下を歩いていたヒースクリフだったが、ダンテに声を掛けられて立ち止まる。ダンテの気遣いを過敏と一蹴したが、言葉に反して彼の表情は明るいものだった。

 そうして座席へ続く扉を開けたのは先頭を歩くファウストだった。次いでヒースクリフの姿が囚人達の目に留まる。あ、と声を上げたのはシンクレアだ。それを合図に皆一様のリアクションをヒースクリフへ浴びせた。胸に手を当てて安堵する者、彼の名前を呼び歓喜の声を上げる者、薄く笑みを浮かべる者。そんな囚人達の視線を無視してヒースクリフは最後列の空席に腰かける。おかえりなさい、といつもと変わらぬ表情で手を振ったのはホンルだった。
「た……ただいま」
「全員、揃ったな」
 前方から聞こえてきたのはヴェルギリウスの声だ。彼もまたいつも通りの強面を囚人達へ向けている。ヒースクリフは何度か迷う素振りを見せてから、ヴェルギリウスへ向けて口を開いた。
「その……悪かったよ。足止めさせちまって」
 その謝罪が自分へ向けられたものだと理解しているヴェルギリウスは、座席に座ったヒースクリフのもとへ静かに歩み寄る。それからばつが悪そうに視線を逸らす彼の表情を覗き込んだ。
…………
「な、なんだよ」
 何も言わずにただこちらを見下ろす案内人を訝しんだのか、たじろぐヒースクリフの様子にヴェルギリウスは吐息交じりの笑みをこぼす。そうして肩の上に手を置いたかと思うと、小さく肩を二度叩いて再び前方の座席へ向かって歩いて行った。ちら、とイシュメールが振り返りヒースクリフの顔を覗き込む。すると彼女の口角がにまりと吊り上がった。その後ヒースクリフが何かを言うより先に正面を向き座り直したが、前方の座席を思いきり蹴り飛ばしたヒースクリフによって周囲はざわめき立ち、小さな騒ぎが起こり始めた。
 降りしきっていた雨はぱたりと止み、あのくすんだ重苦しい空模様を覗かせている。相変わらず星など見えない空が浮かぶだけなのだろう、とダンテは思案した。
 全員、降車。ヴェルギリウスの合図で囚人達が一斉に立ち上がる。例に漏れずダンテもまたバスの外へと歩み始めた。ふと、どこかから冷たい風が吹き抜ける。その風はダンテの傍を通り抜けて、バットを担ぐヒースクリフの背中をそっと撫でたように感じた。