世界の片隅の小さな町を閉じ込めていた、心すらも凍らせるような永遠の冬が明け、厚く積もった雪が溶けていく。とうとうこの町にも春が訪れ、白に覆われていた世界のあちらこちらで豊かな色彩が芽吹き出していた。
心綻ぶ陽光が射し込むある日、舞い散る桜の花びらのように奇跡がひとつ降ってきた。
「数日前から村の墓場でおかしな気配を感じるんだ」
『墓守の死神』が私に言った。唐突な言葉に首を傾げる。
「墓は君の領分だろうに、何故わざわざ私に伝えるんだ?」
「その問題の墓というのがね……」
──君がご執心の少年の墓なんだ。
『墓守の死神』がそう言った瞬間、私は彼の墓へと向かって飛び出していた。
少年の亡骸が埋葬されている墓の前で息を整えながら辺りを見回す。傍には彼のために植えた桜の木がそよ風に吹かれて気持ち良さそうにゆらゆらと揺れている。
植え替えたところで花をつけるまで何年もかかる、と『悠久の死神』は呆れた口調で剥き身の木を眺めていた。にもかかわらず、桜の木は自然の摂理を無視し、この町が春を迎えてすぐに花をつけ出した。春を望んだ少年の強い祈りが届いたのか、はたまた彼を養分としたのかは分からないが、今では風がそよぐ度、花びらを散らしながら満開に色づいている。春が訪れてから変わらぬ景色。彼だけが欠けた春だ。
つまり、何の変化も違和感もないように思える。
「話を最後まで聞かないのはよくない」
追いかけてきたらしい『墓守の死神』の、刺々しい言葉が背中に刺さる。
「おかしな気配は土の中からするんだ」
『墓守の死神』が指差すのは墓の足元。雪がすっかり溶けきって本来の姿を表した焦げ茶の土の下。少年が眠っているはずの場所だ。
墓を掘り返す行為は亡き者への冒涜だろうと流石の私も罪悪感に苛まれた。しかし、急き立てるような胸騒ぎが止まらず、『墓守の死神』の言うように土を掘り返し、彼の体が納まっている棺を引きずり出す。
「やっぱり。この棺の中から不思議な気配を感じるよ」
確信した口ぶりで言い「開けてみよう」といつになく押しの強い、重い口調で言うものだから、申し訳ないと思いながらも棺の蓋を持ち上げる。二度と開くはずのなかった、少年を閉じ込めた匣が軋んだ音を立てて開く。
その中には胸の前で手を組んで眠ったように横たわる少年の姿があった。私が彼の命を摘みとった瞬間と同じ、傍で咲く桜より鮮やかな髪と透けるように白い肌。本当に眠っているだけのように見える。
「……綺麗だ」
『墓守の死神』の言葉に、自分の心が読まれたのかと驚いて振り返る。しかし『墓守の死神』の表情は感嘆のそれではなく、訝しげなものだった。
「腐敗していない。何故?」
呟かれた言葉にハッとして再び少年の方に体を向ける。確かに、少年が最期を迎えてから数ヵ月は経過しているはずなのに彼の体は生前と変わらぬほど美しく横たわっている。
不可解な現象に二人して呆然と黙視する少年の、その胸にひとひらの桜の花びらが触れた時、彼の白い瞼がぴくりと微かに震える。
まさか、と思った。
どくどくと胸の中心が強く脈打って体が震える。
そんなはずはない。未だ冷静な脳が訴える。
なのに、自分の視覚は少年の両瞼が再び開くのを目の当たりにしている。あり得ないはずの現象が、今、目の前で起こっている。
少年の瞼が持ち上がり、瞳が光に晒されて私は息を呑んだ。
少年のライラック色の目は白く濁り、右目はザクロのように真っ赤に色を変えている。死神の目と同じ赤を彼の右の瞳はもっていた。
「少年……?」
震える声に、少年の両の目がふらふらとこちらを向く。焦点の合わない目は、彼自身もまた、何が起こっているか分からないことを示していた。ゆっくりと瞬きを繰り返し、彼の目はこの世界を映し出そうと試みている。
「まさか、こんなことが……」
眼前で起こる超常現象を前に絶句する『墓守の死神』の声を聞きながら、少年の体を抱えて棺から運び出す。持ち上げた彼の体は驚くほど軽く、体重と呼べる質量はほとんど無いに等しかった。触れてその感触を確かめていないと存在の有無を認識することすら難しい。
信じがたい出来事と感覚に目が回るような思いでいると、腕の中で横たわる少年が小首を傾げたように見えた。
──ハーデイ
彼の唇がそう動くのを見て、脳髄が雷に撃たれたような衝撃に襲われる。もう二度と聞くことのないと思っていたその響きが鮮烈に私の体を駆け巡っていく。驚愕で呼吸さえ忘れるほどだった。
「どうしてあの少年がここにいる?」
『悠久の死神』が苦い顔で少年を指差す。
私の名を呼んだ少年はすぐに再び眠りについてしまった。このまま放置するわけにもいかないということで『墓守の死神』と相談し、私は彼の体を抱えて教会へ戻ってきたのだった。
彼の体を広間のベンチに横たえて一息ついた頃、異変を感じ取って集まってきた他の死神達と共に『墓守の死神』を囲んで状況の説明と確認が始まっていた。
「私にも分からないことが多いんだ。ひとつずつ確かめていこう」
『墓守の死神』の言葉に皆で頷く。
「彼……『半死神の少年』の命を『断罪の死神』が奪ったことで、この町に春がやってきた。そう、ちゃんと春はやってきたんだ。ということは今あそこのベンチで横たわっている彼は」
「生者ではない、か」
『悠久の死神』が呟いた言葉を『墓守の死神』が肯定する。
「そう。彼の心臓は動いていない。それはみんなも分かるね」
頷く。苦い気持ちが胸に広がるが、どうしようもない事実だ。彼からは生命の息吹を感じない。彼の体は生命活動を停止していた。
「……どうやら彼は、墓に入る時には本来失われているはずのもの──魂で形作られた存在のようだ。皆も既に気づいているかもしれないが、今の彼の体は私達死神のものと近い。これは推測の域を出ないけれど、『断罪の死神』が刈り取ったのは彼の人間としての命の部分なんだろう。半死神の彼から人間の部分だけを切り離した、というべきだろうか。そしてその器に魂を残した……。全く『断罪の死神』の力は計り知れないな。上手く神を騙したって訳だ」
「そんな……私が?」
「無意識でやってのけたのかい? よっぽど彼に傾倒していたんだね」
『断罪の死神』は肩を竦めて溜め息を吐く。
「それに魂で形作られた、って。触れられるのにか?」
にわかには信じがたい現象に疑問が溢れ出す。
「魂の形は想いに左右されやすい。君が施す際に無意識に少年に触れたいと思っていたか、少年が君に触れられたいと思っていたか……。どちらにせよ強い気持ちがそれを可能にしたんだろうね」
「……」
『墓守の死神』に指摘されて返答に窮してしまう。図星だったからだ。命を奪う最期の瞬間も彼が握った手の感触が恋しくて、離したくないと強く思っていた。自分の欲望が具現化した形が今の彼なのだとしたら、己の罪深さに全身が焼き尽くされてしまいそうだ。
『悠久の死神』から向けられる視線が鋭く刺さって彼の方に目を向けられない。あれだけ情を移すなと釘を刺されていたのにこの有り様なのだから、彼からの謗りも甘んじて受ける他ない。
『墓守の死神』は私と『悠久の死神』を交互に見ては察したように苦笑しつつ話を続けた。
「しかし、そんな不安定な状態を維持し続けることができるわけない。彼の魂は残った半身、死神の部分に今も少しずつ喰われ続けている。近い内に彼の魂は喰い潰されて消えてしまうだろう」
「なぁ。それって、あとどのくらい?」
突如、少年の声が耳に届いて振り返る。ベンチに横たえていた体をむくりと起こして、彼は私たちの方をじっと見つめていた。
「少年……! いつから起きていたんだ」
「最初から。体は動かなかったけど声はずっと聞こえてたよ。人間の部分が死んだって仮説、正しい気がする。この左目が全然見えなくなったのが、多分、そういうことなんだろ」
両目を手のひらで交互に覆って自身の視界を確かめた後、濁ったライラック色の眦に指を添えて少年が吐露する。
「目が……?」
少年が告げる事実に驚いて声を漏らすと、気丈な微笑みが返ってくる。懐かしく愛しい微笑み。状況が状況だというのに、心に淡く暖かな感情が溢れてくるのを止められない。
「心配しなくていいよ。右目は見えるから。多分こっちが俺に残された死神の方の目、ってことなんだろ」
ザクロを煮詰めて溶かしたような色をした右目が呼応するようにぎらりと発光する。死神と同じように。
「それで。あとどれくらいここにいられる?」
少年の真剣な目が静かに『墓守の死神』を見つめる。ベンチの背を掴む彼の手が微かに震えている。
「君の魂が耐えられる時間は……そうだね、正確には分かりかねるが、桜が散る頃……。もって十日というところだろうか」
「あぁ……よかった。まだ時間はあるんだ」
少年はほっと息を吐いて口角を緩めた。十日、というわずかな時間を告げられて尚、彼の瞳は希望に満ち溢れていた。眩しくてくらくらする。この町に春の陽射しが訪れた時にだってこんな眩さを感じなかった。
惚けて見つめていた私の視線と彼の視線がぶつかると、少年は飛びかからん勢いで私の方へ向かってきた。一秒だって無駄にできないって顔に書いてある。
「俺、高台に行きたいな。この町を見下ろせるあの場所に。白い世界がどんな風に変わったのか、一緒に確かめてよ。ハーデイ」
手を取って、少年が高らかに私の名前を呼ぶ。永遠の冬の最後の日に閉ざしたはずの思い出がまるで昨日であったかのように変わらない調子で。あの頃から地続きで今に繋がっているかのようだ。
「ああ、もちろん」
彼の手を引いて歩き出す。柔らかな空気が私たちの体を撫でていく。
瞬きの間の、光が瞬くように輝く刹那の春が動き出した。
「魂だけの存在……なんて愛おしい! 凍らせて永遠にしたいですねぇ」
『断罪の死神』と少年が去った後の室温がわずかに下がる。『氷結の死神』の言葉と、興奮する彼から溢れ出た冷気のせいだ。
「無駄だよ。彼の体は本来は実体を持たない魂そのものだから。凍り漬けにしたところで時が経って魂が喰い潰されれば跡形もなく消える」
「『氷結の死神』、さっきまでは黙って突っ立ってただけだったから言及し損ねたけど、何であんたが普通にここにいるんだ。『墓守の死神』に始末されたんじゃなかったのか」
『悠久の死神』が眉間に皺を寄せて隠しきれない苛立ちを声に滲ませるが、『氷結の死神』は「うふふふ」と不敵に微笑むだけだ。代わりに『墓守の死神』が答えた。
「どうも『氷結の死神』はしぶといようでね。何度土に埋めても帰ってくるんだ。これ以上罪を重ねないように私が見張っておこう」
「やめてくださいよぉ、貴方の領域から抜け出すの苦労するんですから」
「君が忠告に従って誰彼構わず凍らすことなんてしなければ私だって構ったりしないのに」
うんざりといった様子で溜め息をひとつ吐いた『墓守の死神』は、死神と少年が睦まじく歩いていった教会の扉の先に視線を移した。
彼らの背中はもうとっくに、麗らかな春の景色に溶けて見えなくなっていた。
「うわ……あったかい」
教会の扉を開けた少年が春の風をその身に受けて感嘆の声を漏らす。深呼吸をして胸いっぱいに春の陽気を吸い込み、周りの景色を見回す彼は死人であることを感じさせないほど生き生きとしていた。
そうして意気揚々と一歩踏み出した少年の体が勢いよく前につんのめる。少年の左のつま先が段差に躓いて、踏ん張った右足の靴底が乾いた土の表面を滑ったのだ。
手を繋いでいてよかった。大きく右腕を引いて前に倒れていく少年の体を引き戻す。隣に戻ってきた彼の大きく開いた目と視線が合う。
「び、っくりした」
「それは私のセリフだ」
くすりと笑った少年につられて私の口からも笑みがこぼれる。腹の底を擽られるような愉快な感情は久々だった。彼と過ごした時間以来だった。くすくすと私たちの空間をささやかな笑い声が満たしていく。何が面白いだとか、楽しいだとか、理由は言葉には出来ないけれど、顔を見合わせているだけで自然と笑いが込み上げてしまう。春の暖かさがもたらす、不可思議で愉快な時間だった。
「少し町に寄っていこう」
気を取り直して歩きだした私の言葉に少年は逡巡する様子をみせる。
「そうしたいのは山々だけど、俺の姿を見られたら厄介なことにならないか?」
人間なんて軽薄な生き物、春の犠牲になった少年の存在など忘れた顔で過ごしているに違いなかったが、純粋な彼はそう思っていないらしい。
「陰からこっそり覗けばいいさ」
「わかった。それなら俺も行ってみたい」
頷くのを確認し、彼の手を引いて町の方角へと向かう。
春を取り戻した町はその陽気に包まれて活気に溢れていた。家の前で談笑する者、道端に咲いた野花を見つけて喜ぶ者、ひらひらと舞う蝶を追いかける幼子。
厳しい冬の頃は沈んだ顔をしていた住人たちも、この春の陽射しの下ではあちらこちらで笑顔を咲かせている。青空の清々しさに負けないほどの賑わいを見せる町の様子に少年は言葉も出ないようで、大きな瞳でただじっとその景色を見つめていた。
視力を失ったはずの彼のライラック色の瞳にも町の光景が映し出されて、輝いてみえる。
「行こう。ハーデイ」
「もういいのか?」
「早く高台からの景色も見てみたくなったんだ」
私の手をしっかりと握り直した彼の横顔は期待と好奇心で満ち溢れていた。
高台への道は冬の頃とはうってかわって穏やかな木漏れ日が射し込むのどかな景色に変わっていた。雪に覆われていた足元はすっかり草花に置き換わって緑に敷き詰められている。
明るい高台への道を歩きながら、少年は賑やかな生命の息吹のひとつひとつに目を輝かせて、いつもよりずっと時間をかけて登っていく。
生い茂った木々の隙間から開けた景色が見え始め、徐々に早足になっていく少年に引きずられるように高台の頂上へとたどり着いた。
踏みしめる大地には小さな花々が群生し、空は抜けるような青で私たちを見下ろしている。正面に構える景色は遠くまで広大な濃緑に覆われて、地平線で空の透き通る青と溶けて交わる。
包み込むような穏やかな春の風を全身に受けた少年の服が舞うようにはためく。
「これが、春……」
真っ直ぐに前を見据えたまま、ぽつりと少年が呟く。
「そうだ。君が願って、君の命と引き換えに巡ってきた春だ」
「……うん」
少年の声が揺れたのが気になって隣に視線を移すと、ライラック色の縁から雫が零れ落ちる。
「少年……」
「ああ……、なんか、えっと。どうしたんだろう。止まらないや」
少年が慌てて目元を拭うそばからぽろぽろと大粒の涙が溢れる。柔らかな陽射しに照されて、朝露のように少年の頬を伝っていく。
「そんなに目を擦るとよくない」
濡れた少年の頬を両手で包んで、赤くなった目元を宥めるように親指で撫でる。その間も両の目から絶え間なく滴る雫は暖かに私の指を濡らす。
「はーでい」
声を震わせる少年と目が合うと、彼の中で張りつめていた糸が切れたのか、堰をきったように嗚咽と涙が溢れ出す。無理に笑みを作ろうとして叶わなかった彼の口角を、瞳から伝った雫が濡らしていく。
胸に飛び込んできた少年を受け止めて、そっとその背中に両手を回す。あやすように撫でる度、彼の涙声は大きくなっていく。
「よ、かった、はるが、きて……みんな、えがおで、おれ……」
「安心したんだね?」
こくこくと腕の中の少年が頷く。
「本当に、君は優しすぎる」
本当なら自分だけが迎えられなかった春を恨めしく思い、自分をないがしろにした人々を憎んでもおかしくないのに。
少年の犠牲など知らぬ人々は春を迎えて言うのだ「神様ありがとう」と。この町を永遠の冬に閉じ込めたのも同じ神であるというのに。
皮肉に満ちた世界は君が深く慈しむほど価値のあるものなのだろうか。疑問に思うけれど、自分を見捨てた世界ですら愛せてしまえる君の心に触れていると、私はこの世界の捉え方を改める必要があるように思えてくる。
子供みたいに泣きじゃくる少年の淡色の髪をそっと撫でる。小さな体を蝕むように蓄積され続けていた膨大な不安が弾けて流れ出している。両の手は私の服にしがみついて、大きな皺を作る。
初めて見た彼の涙に大きく動揺したが、これが十七歳である彼の本来のあるべき姿のような気もした。
やがて、しゃくりあげる声が小さくなり、少年の呼吸が少しずついつものリズムを取り戻していく。
「ありがとう、ハーデイ」
ズッと鼻をすする音と共に少年の体が胸から離れる。まだ充血したままの濡れた瞳を隠すように目を伏せて、しっとりと濡れた艶やかな黒い睫毛がゆっくりと数回瞬きをする。
その下の頬は少し赤みを帯びていた。
「こんなに泣いたの初めてだ……今は、顔、見て欲しくないな」
背を向けてしまった彼の涙が落ち着くまで、私は彼の愛した世界をもう一度目に焼き付けていた。
帰り道は来た時よりもっとずっと時間をかけた。春を見つけては瞳を潤ませる少年が、少しずつ春に慣れていけるように。ゆっくりと、手を繋いで歩いた。
教会へ戻る道すがら彼の墓の傍に植えた桜の木の話をすると、見てみたいと言うので墓地へと寄り道をした。
墓地につく頃にはすっかりいつも通りの気丈で好奇心旺盛な少年へと戻っていた。
「これが桜?」
「ああ、そうだ」
「きれいだ……」
桜を見つめて目を細める彼はこの世の何よりもこの花に似合っていると思った。
「君の髪と似ていて、どうしても見せたかった」
「似てる、かな」
見上げる彼の頬に舞い落ちた桜の花びらを摘まんでまじまじと見つめる。
「この花が全部散る頃に、俺は消えるんだね」
美しい花を見つめながら終わりを呟く彼に言葉が詰まる。儚さに縁取られた彼の薄桃色の輪郭は桜そのもののようにすら思えた。
「この花は何?」
感傷に浸る私をよそに少年の興味は自らの墓に供えられた花々へと向けられていた。
「私が各地から摘んできた花だ。君に春を教えると約束したから」
「もしかして、俺が死んでからずっとこうして墓の世話をしてくれていたのか?」
頷くと彼の瞳に薄く水膜が張る。目の縁を再び充血させながら、それでも今度は綺麗に顔を綻ばせた。
「俺のこと忘れずにいてくれて、嬉しい」
君のことを忘れるなんて出来るわけない。
見つめ合って微笑みを返すと照れたようにはにかむ。少年は再び足下の手向け花に視線を落とし、それにしても、と言葉を続けた。
「どこにあった花なんだ? 高台には咲いていなかった気がするけど」
「様々な場所で摘んできたからな。どこと言われると具体的に説明は難しい」
「そうなんだ?」
「気になるなら花を探し歩いた場所を案内しようか」
私の提案に少年の表情がぱっと明るくなる。
「行きたい!」
興奮に声を弾ませてはしゃぐ彼に、私の心も踊った。
翌日から少年と私は各地を歩いて回った。仕事の合間に春を探して一人で歩いていた道を、今回は少年と共に。以前は侘しさや寂しさの混じっていた道中は二人で歩くと晴れやかな景色に変わる。
「教会の外にはあまり出ないって言ってたのに、こんなに色んな場所に出向いてくれたんだな」
「君に春の土産話をしなくてはと思っていたからね」
「嬉しいよ、ハーデイ。本当に」
彼は照れくさそうに微笑んで、私の手を握り直す。触れる温度や肌の感触は私の中にある愛しさをより一層膨れ上がらせる。
歩幅を合わせて歩きながら私たちは限られた暖かな時間を噛み締めるようにゆっくりと過ごしていった。
一日ずつ時間をかけて一通り花の咲く場所を巡ってきた私たちは、最終的に少年の希望で再び高台へと戻ってきた。生前に通った思い出深い場所だからなのか、それとも他のどこよりも花筵のように草花が咲いているからなのか、彼はこの場所を一番気に入っているようだった。
「そういえば、ハーデイはずっと手を握っててくれるね、どうして?」
繋がれた左手に視線を落として少年が首を傾げる。
ドキリ、とした。死神の瞳を得た彼に、私の内に渦巻く邪な感情全てを見透かされているような気がして背筋に冷たいものが伝う。
私は少年と時間を共にする時、常に彼の左手に自分の手を絡めて過ごしていた。
視界の外にいる私が彼に忘れられてしまわないように。私が彼を見失わないように。
目を離した瞬間に消えてしまってもおかしくない彼を傍に繋ぎ止めていたくて手を握り続けた。独りよがりな祈りと執着だった。
何より彼に触れていたくて仕方なかった。喪って、もう二度と帰ってくることのないはずだった体温や肌の感触の愛しさを片時も手放したくはなかった。離れていた時間の中で知らずの内に膨大に膨れ上がっていた仄暗いエゴが彼の左手を繋いでいる全てだった。
不快だったろうかと恐る恐る問うと、ぶんぶんと首を横に振っためいっぱい否定が返ってきて、ひとまず胸を撫で下ろした。
「……君は目覚めた最初の日に躓いただろう。左目が見えない影響なのかと思って心配でつい」
この理由もまたひとつの真実だった。友達の範疇を越えた邪な想いの中から彼に触れていい理由を慌てて探した。そうしなければならないほど、彼への想いは強く深く心に根付いてしまっていることに気づいて自嘲する。
私の言葉を聞いた少年はその時の出来事に思い当たったようで「ああ、あの時の」と声を漏らした。
「そんなに心配をかけてるとは思わなかった。思い返してみれば、ハーデイは俺が見えない左側の景色や生き物に気づいてよく声を掛けてくれてた。俺の視界を補ってくれてたんだな」
好意的に向けられる眩いほど純粋な眼差しに、心の隅がちくりと痛む。
「手を繋いでくれてたおかげで失くした視界の中でもハーデイを見失わずに済んでたよ」
ありがとう、なんて。少年はいつだって真っ直ぐに言葉を伝えてくれる。命も視力も死後の安寧も、彼から様々な尊いものを奪ってばかりの私に感謝の言葉を貰える資格などありはしないのだ。彼の言葉を素直に受け止めるのはどこか後ろめたい。
「本当は。君が風で飛んでいってしまわないように繋いでおきたかったのかもしれないな」
「あはは。何それ」
冗談めかして腰を抱くと、くすぐったそうに笑う少年の振動が私の体を揺らす。自分の質量のことは自覚していないらしい。
「ほら。こんなにも軽い」
「わっ、ちょっと、ハーデイ!」
少年の腰に回していた手を持ち上げてその体を浮かせる。両足が地面から離れても重さを感じさせない君が、綿毛のように風に吹かれて飛ばされない保証なんかどこにもないだろう?
「わかった! ハーデイが力持ちなのは分かったから降ろしてくれ……!」
少年が足をばたつかせて抵抗するから、抜けないように腕に力を込めた。こっちの感傷なんか微塵も伝わってない。持ち上げた彼の肩口に顔を埋めると、春の陽射しを吸い込んだ太陽の匂いがした。
「わあっ!」
彼を抱いたままその場でくるくると回ると少年は大声をあげて私にしがみつく。仕返しを込めたちょっとした悪戯心だった。
振り回される少年は最初こそ腕に力を込めて耐えているようだったが、やがて回転に慣れてけらけらと愉快に笑いだした。少年の明るい笑い声が高台の景色にこだまして、内に渦巻いていた不安も鬱屈した思いも消し飛ばしてくれる。少年の声に後押しされるように私たちはくるくると春野の上でダンスを躍り続けた。
しばしの戯れの後、少年を地面に降ろして腕の中から解放すると、余韻に浸ってくすくすと笑いを引きずりながら地面に座り込む。
「あー、面白かった」
ひとしきり笑い終えたらしい少年はそのまま仰向けに寝そべる。少年の突拍子もない行動を立ち尽くして眺めるだけの私に少年は朗らかに笑いかける。
「ふふ、冬の頃は地面に寝転がるなんて考えられなかったけど、今は草の香りがしてふかふかで、心地良いね」
大きく伸びをして深く息を吸い込む。脱力した四肢を緑の地面に投げ出して、眠るように目を閉じる。瞳を閉じたその姿に棺桶の中の彼を思い出し、胸が騒いで落ち着かない。まるでこの草地が彼の棺桶そのもののように思えてしまう。大地と溶け合って、いつか彼は世界とひとつになるのだろうか。
「ハーデイも寝転んでみれば? 気持ちいいよ」
ぱちりと開いた赤い目で無邪気に誘う。
彼の誘いにのるのも悪くはなかったが、寝そべる彼の傍に腰を降ろすだけにとどめる。
せめて彼が見ている景色と同じものを見ようと空を仰いだ。陽が落ち始めた空は、夕陽が放つオレンジと清らかなライトブルーが混じり合い、その中を落陽に照らされた薄雲と鳥の影が通りすぎていく。涼しさを纏い始めた春風は花の甘い香りを巻き込みながら私たちの輪郭を撫でていく。
ゆったりと流れていく長閑な時間に揺蕩っていると、心地よい眠気に誘われる。
気持ちが共鳴したのだろうか、隣の少年がふわりと欠伸をこぼす。
「そろそろ帰ろうか」
頷いた彼の手を引いて起こす。力を入れすぎて浮かせてしまわないように手加減をするのが難しい。
「うわっ、草だらけだ」
「当たり前だ」
自分の服に大量にくっついた草花を眺めて苦笑う。ぱたぱたとついた草を払ってやりながら、春の妖精がいるのならこんな姿をしてるのかもしれないなと緑を纏う彼を見て思った。我ながら突飛もない思考だ。春を全身で堪能する彼の影響を受けて浮かれているのかもしれない。
だから、彼の髪に花を挿して贈ったこともきっと心が浮かれきっていたせいなのだ。
「ははっ、似合うな」
黄色い花弁に深い緑の葉がついた花を桜色に添えて、春そのものを凝縮したような彼を見つめているとうっとりと心が蕩ける。
「ん、と……じゃあ、ハーデイにはこれかな」
きょろきょろと辺りを見回して彼が手に取ったのは紫色の可憐な花だった。夕陽を吸い込んで静かに深い色を湛えている。それを私の耳の辺りに添えると少年は満足そうに微笑んだ。
色鮮やかな私たちを空の茜色が包み込んでいく。暖かな優しい空間で、ずっとこの時間の中を漂っていたいと感じていた。瞳に焼き付けたこの色彩は永遠のように思えていた。
なのに。
教会へ帰る頃には髪に着けた花はもう微かに萎び始めていて、花の命の儚さを痛感する。
少年がくれた美しい花もこうして枯れて朽ちていくと思うと、自分の中にある彼との思い出も、時間と共に色褪せていくのだと思わされる気がして、形のあるものが恐ろしくなった。
自分の信じた永遠が足下から揺らぐような気がして、胸に冷たいものが広がる。
春との別れはそのまま少年との永遠の別れに繋がる。春が終われば夏が来て、秋が来て、やがてまた冬がやって来る。
少年と共に春を過ごして分かったことがある。少年には春がとても似合うのに、私は冬の少年が一番美しいと感じるのだ。
春の景色に溶けるように馴染む少年を愛おしいと思うと同時に、冬の黒と白にいっとう映えていた彼の妖しいまでの美しさをこんなにも恋い焦がれている。
永遠の冬の中で春を求めていたときのように、やがて巡ってくるひとときの冬の中では春色の少年の面影を追ってしまうのだろう。もう二度と戻れない冬を、君のいない冬を、私はどう過ごせばいいのだろう。
「本当にべったり傍にいるんだね」
上から降ってきた声に、読んでいた本を閉じて頭上の人物を見上げる。
「『墓守の死神』か。何か用か」
私の肩に頭を寄せてすやすやと安らかに眠っている少年を起こさないよう、小声で尋ねる。
「『悠久の死神』が、君たちが片時も離れずに過ごしているってぼやいていたから、気になって」
「揃いも揃って覗き見とは趣味が悪いな。監視のつもりか? 仕事はちゃんとこなしているだろう。何か問題でもあるのか」
『墓守の死神』は首を横に振る。その動きに合わせて白銀の髪が波のように揺れる。
「皮肉や嫌味を言いに来た訳じゃない。良かった、と思って」
「何が」
「彼がいなくなってからの君は、この世界全てを恨んで憎んで、力のままに壊しかねない顔していたから」
「していたか?」
「それも無自覚なんだね。強大な力を持つ君の駄々を止めるのは私たちでも骨が折れるから、無自覚に世界を破滅させないよう気をつけてほしいな」
『墓守の死神』は溜め息をつくが、その言動に悪意めいた感情は感じ取れない。単純に呆れられているようだった。
「本来土に還るはずだった彼が蘇るという、私の永遠を揺るがしたイレギュラーの行く末に興味があってね。『氷結の死神』の相手をしながら傍観させてもらうよ」
「氷結……」
苦い記憶と紐付く単語に思わず唸るような声を発してしまう。『墓守の死神』は私の反応に苦笑で返す。
「ほら、また怖い顔してる。そこの少年と共に過ごしたこの世界をこれからずっとそんな顔をして過ごしていくのかい?」
「何が言いたい?」
「残された時間はわずかだけど、そこの小さな死神ともっと話をするといい。心残りのないように」
言いたいことを一方的に告げて満足したらしい『墓守の死神』は颯爽とその場を去っていった。
『墓守の死神』から小さな死神と指された隣の少年は変わらずあどけない寝顔を見せている。死神なんておぞましい名前とは程遠い。
「あーあ、そんな甘ったるい顔して。『断罪の死神』とあろう者が堂々とルール違反してるんだから訳ないよね」
「……今度は君か。『悠久の死神』」
ちくちくと刺すような声に、うんざりと顔をあげると『悠久の死神』の見下ろす視線とぶつかる。いつもは互いに静観している他の死神がやけに突っかかってくる。冬に少年を巡って起きたいざこざの日々に近いものを感じて、懐かしさすら感じる。
「あんたはこの世界が嫌いなんでしょ」
しかも今日の死神たちは要領の得ないことばかり伝えてくる。
「どうしてそんな話になるのか分からないが、死神の責務を果たす上で世界が好きか嫌いかなんて関係あるのか?」
「知らないよ。けど死神に感情なんてものが備わっている以上、関係がないとは言い切れないんじゃないの。……ねぇ、あんたはどんな風に世界を感じている?」
「分からない。今の私に答えは出せない。そういう君はどうなんだ『悠久の死神』」
「俺は……もう、どうでもいい。人間の友人がいたあの時は悪くないなって思ってたような気がするけど、喪って何もかもどうでもよくなった。俺には、変わらない日常だけでいい」
伏し目がちになった『悠久の死神』のルビーの瞳に黒く長い睫毛の陰が落ちる。普段は感情を表に出さない彼から哀しみの気配を感じる。私も少年を再び喪えば同じように思うのだろうか。
深く情を移した少年に手を掛けねばならなかったあの時には、この世界と私たちの運命を呪わずにはいられなかった。どうして出会ってしまったのだろう、と。
けれど、少年が私に春と永遠をもたらして、この世界で出会ったことに意味を与えてくれたから。抱いた哀しみや無力感をどこにぶつければいいか分からなくなった。
彼との最期の約束を破る訳にはいかないという、その思いで私はここに在り続けた。
『悠久の死神』の言葉を聞き、少年を見つめたまま考え込んでしまう私に死神は薄く笑いかけた。
「せっかく与えられたチャンスなんだ。あんたは後悔しないようにしなよ」
「『悠久の死神』、君は──」
「ハーデイ……? 誰かいるのか?」
少年が目を覚ました気配に『悠久の死神』は音もなく一瞬で姿を消した。誰も彼も言い逃げばかりしていく。
「いや、誰も。よく眠っていたようだが、疲れているのか?」
寝ぼけ眼を擦りながら少年は首を横に振る。
「大丈夫。それよりも、またあんたのオルガンの音を聴かせてほしいんだ」
広間に堂々と鎮座するパイプオルガンを指差す少年の頼みを承諾し、立ち上がる。
胸に手を当てて目を瞑り私の演奏に耳を傾ける姿は、祈りを捧げる彼と重なった。
永遠の冬を終わらせてからというもの、彼との思い出に浸る時にはいつもオルガンの前に座っていた。彼と共に聴いた音を何度も繰り返して、記憶を手繰り寄せる手がかりにした。自分の手足が奏でる音は愛しい思い出が詰まった記憶の小箱の蓋を開かせる。穏やかで清らかで尊い思い出はオルガンの音色とよく似合っていた。
「懐かしいな。あの頃の思い出が次々に蘇ってくるみたいだ」
興奮を抑えきれない様子で惜しみ無い拍手を送ってくれる少年だったが、その瞳に一瞬影が落ちる。
「私の演奏は気に入らなかったか?」
「え?」
「どこか浮かない顔をしている」
指摘すると、あんたには何でもお見通しだな、と少年が眉を八の字にして笑う。
「ハーデイの演奏はとても上手になってて、すごく感動した。俺がいなくなった後もたくさん弾いてたんだって分かる。俺の記憶の中の音色よりずっと綺麗になってて……本当に俺は長い時間棺桶の中で眠っていたんだって気づいて、少しびっくりしただけ」
「……」
彼の記憶の中では、あの日のことは昨日のことのように感じられるのだろう。棺桶の中で目が覚めた彼は、人間の普遍的な営みのように一晩眠った感覚だったのかもしれない。けれど実際は彼と別れてから春を迎えるまでの数ヶ月経っていて。その間、私は生きていて彼は死んでいた。
私たちの間に横たわる、埋めようのなかった空白の時間に、彼は戸惑っているようだった。
「ハーデイ?」
押し黙った私の顔を心配に曇らせた瞳でまじまじと覗き込んでくる。
「あ、よかった。泣いてるのかと思った」
「死神は涙を流したりしないさ。形は人と似ているが、おそらくそういう機能が備わってないんだろう」
「人間の部分が死んだはずの俺はあんなに泣いたのに」
「それは君の魂が人の形をしているからじゃないか?」
「……本当に? ハーデイには俺が人間に見えてる?」
今さら何を言うのだろう、と思ったが真剣な目で見上げてくる彼の質問に素直に肯定した。彼の強張っていた表情が私の反応を見てふっと緩む。
「よかった。俺、春になって目覚めてから鏡を見てなくって」
「鏡?」
何がよかったのか、それが鏡とどう関係するのか、さっきの質問の意図も含めていまひとつ少年の言わんとすることが繋がらず、首を傾げる。
「自分の姿を見るのが怖かったんだ。姿形が化け物のように歪んでいたらどうしようって思ってたから」
少年は自分の体を抱くように両手を回して、肩先からなぞるように撫で下ろしていく。その行為はまるで自身の輪郭を確かめているようだった。
「他の死神が言ってただろう? 魂の形は想いで変わる、って」
少年が蘇った日に『墓守の死神』が説明してくれたことを思い出して頷く。
私が少年の命を奪う時に祈った、彼に触れたいという強い願いが反映され、魂となった今の彼にも触れられるのだと。そう認識している。
「俺がこの形になったのはきっとハーデイに触れていたいと望んだからだ。ハーデイが俺を眠るように逝かせてくれたあの時、握っていた手を離したくないって、思ってた」
「……!」
懺悔のように目を伏せた少年の告白に、脳が揺れるほどの衝撃を感じる。彼もまたあの時、同じ願いを抱いていたのだ。
「ハーデイと春を迎えたいって、身に余る願いを叶えてしまった自分の形が欲望で歪んでいそうで、自分で自分を確かめるのが怖かったんだ」
顔を上げた少年はいつになく不安げに瞳を震わせていた。
「俺は、俺の魂は、ちゃんと人の形をしてる?」
「ああ。君は惚れ惚れするほどに美しく人の形をしているよ」
祈るように確かめる少年の腰をゆっくりと引き寄せて腕の中に閉じ込める。驚いて一瞬肩を震わせた少年だったが、すぐに体の力を抜いて体重を預けてくれた。
「すまない。私の祈りがこんなに君を不安にさせていたなんて」
「ハーデイの、祈り?」
「私も、同じ気持ちだったんだ」
「同じ、って」
「私もあの時、君に触れていたい、春を君と共に過ごしたいと思っていた。だから君の形を決めたのは、私の祈りに違いないと思っていた」
懺悔の言葉を述べながらも心は罪悪感よりも喜びで塗り替えられ始めていた。少年と気持ちが通じ合っていたことに心臓が震える。私一人だけの願いではなかったことがこんなにも嬉しい。
それは少年も同じようだった。
「じゃあこの体は俺たち二人分の想いで出来ているんだ……そう思うと、全部愛しく感じてくるよ」
高揚した様子で私の体を抱きしめ返し、嬉しさを噛み締めて声を蕩けさせる。抱き合って隙間なく体を密着させていると互いの体温が混じり合って、心も体もひとつに融け合えるような気持ちにすらなれた。
「桜、散ってきたね」
昼下がりの陽光を受ける桜の木を見上げながら、少年は世間話でもするかのように淡々とした口調で呟く。
視界いっぱいに咲き乱れていた桜も今では大部分が葉桜に変わってしまった。
春の終わりがすぐそこまで迫ってきている事実を目の当たりにし、身体中に焦燥感と寂しさが押し寄せてくる。緑の葉の隙間から射し込む木漏れ日を浴びて光る少年を見つめていると大波の感傷に襲われる。
「春はこの格好だと暑くてたまらないや」
光に手を翳しながら言葉の割には嬉しそうな口ぶりで、春の暖かな陽射しを愛おしく思っていることが手に取るように分かる。
それでも熱を吸い込んだ服の暑さに流石に耐えかねたのか、襟元を緩めたその隙間、彼の鎖骨の下あたりに赤紫の鬱血の痕が残っているのを見つけて息を呑む。私の視線に気づいた少年がくすりと笑う。
「ハーデイがくれた友情の証、だね?」
指の腹で痕の縁をなぞるように円を描いてはにかむ少年の艶やかさにぞくりとした。最期だと油断して曝け出した浅ましい欲が色濃く彼の体に残り続けていた。なのに彼は欲に塗れた証すらも愛しそうに抱きしめる。
「ハーデイのは……綺麗に消えてるんだな」
かつて少年の唇が触れた首筋を彼の指が撫でる。消えてしまった痕を懐かしんで、赤と濁紫のオッドアイは過去を見つめていた。
「私たちの友情が消えたわけじゃないさ」
「ああ、そうだね」
髪を撫でながら伝えた慰めの言葉に少年は眦を緩めた。
「もう一回つけてもいい?」
「形に残るものに拘らなくてもいいんじゃないか?」
遠慮がちに見上げる少年のお願いを断腸の思いで断る。
時間と共に薄れていく自身の痕を見つめながら、彼との思い出も存在も色褪せていってしまうのではないかと不安に駆られて胸が押し潰されそうだった。もうあんな切ない思いは御免だった。形に残るものはいつか消えてなくなってしまうから、他のものがよかった。
「代わりに、と言っては何だが」
しょんぼりと少し俯いてしまった少年の前髪をさらりと掻き分ける。暖かな外気に晒された形のいい額に唇を寄せる。傷ひとつない滑らかな肌が私の唇を押し返した。
「私からの親愛の証だ」
「あい、って……大げさだなぁ」
まごまごと前髪を整える少年の耳が朱に色づくのを見て、くすくすと笑いが込み上げてくる。
「目に見えなくたって、私たちの間にあった気持ちも思い出も消えたりしない、そうだろう?」
「うん。ありがとう、ハーデイ」
少年は頬を微かに色づかせて気恥ずかしそうにはにかむ。
見つめ合っていた少年の両手が私に向かって伸びる。頬を両手で包まれると、少年の顔が徐々に近づいてくる。頬に柔らかな唇の感触が訪れると共に胸に暖かいものがじんわりと広がっていく。
再び向かい合った少年の表情は幸せそうに綻んでいた。待ちわびていた春を迎えて花弁を開く花の喜びそのものだった。
「この世界に生まれて、ハーデイと出会えて、よかった」
「生まれて、よかった……本当に?」
「ああ。だってハーデイと過ごした世界はこんなにも、綺麗だ」
晴れ晴れとした表情で空を見上げる彼の瞳に映る世界は、確かにとても美しい。この世界で私はこれからも彼の想いと共に生きていくのだな。
少年の言葉を待っていたかのように、言い終わると同時に彼の体が薄桃色の光に覆われる。花明かりにも見紛うそれは、彼の命を奪って永遠の冬を終わらせたあの時の光景に酷似していた。
「少年……」
「時間が来たみたいだ」
最後の花びらが少年の手のひらに舞い降りた途端。そこを始点にして、まるで淡雪のように、光の粒になった彼の体がはらはらとほどけていく。この世界の大気に溶けていくように彼の輪郭が滲む。寂しくて胸が痛むけれど、哀しいとは感じなかった。
「ハーデイにもう一度会えて嬉しかった。俺を忘れずにいてくれて、春を一緒に過ごしてくれて、ありがとう」
「ああ。こちらこそ。もう一度会いに来てくれて、私に春を教えてくれて、ありがとう。少年」
心に咲いた君という春を枯らさないようずっと抱きしめ続けていよう。
──さよなら、ハーデイ
薄れゆく唇がそう動いたのを最後に、少年の姿が消えて、桜の花弁がはらりと地面に落ちる。
それに続いてぽつりぽつりと青空から雫が降ってくる。にわか雨だ。彼が消えた空から降る雨は柔らかに大地を潤して、新たな命の息吹を予感させる。
その一方で私の頬に落ちた雨は暖かい涙のようでもあった。瞳を閉じると彼の最期の笑顔がくっきりと浮かび上がってくる。
──さようなら、私の大切な人。
空っぽになった墓の傍で佇む桜の木は春を迎える度に薄紅に艶めく花をつけ続けた。
時折通りかかる人々はそれに見とれては「綺麗」と形容した。
誰もを魅了する花の幹に触れる度、私は愛しい少年の魂をすぐ傍に感じられるような気がするのだった。彼が愛した世界をこの夢見草と共に見届けよう。
私の命が朽ちるその時まで。
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