瀬野
2024-10-13 16:09:15
8979文字
Public ビマヨダ
 

風神の子と凶兆の子による狂騒曲⑤

https://privatter.me/page/66cb15aaca8c9のちょっと前の話。
ビマ+ヨダ with マスター
何事もなければ平行線のままだった二人が交差するためのターニングポイント的なそれ。

 右を見ても左を見ても、幹の太い樹木と深い草しかなく、地面が見える箇所は所謂獣道のようであった。マスターは一通り周囲を見渡し、今夜は野宿だなと早々に結論付けた。それとほぼ同時に、携帯している通信端末が反応した。

――――先輩、聞……えますか?』

 マスターの顔の高さにノイズ交じりの通信画像が出現する。画面にはマシュ・キリエライトの姿があった。

「うん、少しノイズが入ってるけど、なんとか聞こえるよ」
『よかった――先輩達の現在地は……囲一体に何らかの魔術……開されている可能性が高いとのことで心配でした』
「じゃあ聖杯も近い?」

 マスターの問いに答えたのは、マシュの隣で一緒にモニタリング中のダ・ヴィンチだった。小さな眉間に眉間を寄せ、苦笑いを浮かべている。

『う~ん……それはどうかな? 時代的――……、その土地に元々存在……ているマナの影響もあるかもだ』
「なるほど」
『ともかく、今日は最低……留めて、本格的……調査は明日以降にしよう。キミ達がいまいる地点、人里からかなり離れてるようだからね』
「了解。日も落ちかけてるしね」

 管制室との通信を切ると、マスターは自身の背後にいるサーヴァント達を振り返った。
 トリスメギストスⅡによって選定された二人――ビーマとドゥリーヨダナは、静かにマスターの指示を待っていた。互いのことを視界に入れないようにしながら。

「ってことだから、とりあえず野営できそうな場所探そうか」

 マスターがどちらにともなく言うと、ビーマがにっと笑って一歩前に出た。

「なら俺が上から見てきてやる。ちょっと待ってな」

 上からという言葉と共に空を指した人差し指の意味するところを理解して、マスターは笑顔で頷いた。瞬時に神気を宿した風が巻き起こり、周囲に生えるチークの枝葉がざわざわと揺れる。
 空に舞い上がって行ったビーマを視線で追いかけながら、マスターは他のことを考えていた。

(思ってたより静か、だな)

 そっと盗み見るように、視線だけを隣のサーヴァントに向ける。ドゥリーヨダナはつまらなさそうに森の樹々を眺めている。上空にいるビーマには無関心といった様子だ。喧嘩の一つや二つ発生するかと想像していたマスターは、知らず知らず緊張で硬くなっていた肩の力を抜いた。

「心配せんでも、わし様はちゃんと心得とるわい」
「ぎくっ」

 少々大袈裟に肩を跳ね上げたマスターが声の方へ振り向くと、ドゥリーヨダナがさも呆れたと言わんばかりの顔をして見下ろしていた。

「ははは……ばれてた?」
「ふん。信用されとらんなー、わし様。それもこれもあの脳筋馬鹿ゴリラのせい」

 大の男がわざとらしくいじける様子は、マスターの内に残っていた僅かな緊張を全て溶かした。気が抜けたとも言う。

「信用してない訳じゃないよ。でも、同じカルデアの仲間だからってだけで問題ないと考えるのも、二人の過去とか気持ちを無視するようで居心地悪いって言うか……

 それに――と続け、はたとそこで言葉を止めた。
 やや逡巡した後、マスターは顔の前でパンッと手を打ち鳴らし、一際明るい声を出した。

「そういえばもう少しでドゥリーヨダナの霊基強化用のリソースが十分集まるんだ! そしたら第三再臨の姿になれるよ!」
……少しあからさま過ぎるぞ、マスター。よもやこのわし様に対して謀でもする気か?」

 強引に話題を切り替えたマスターにドゥリーヨダナが不審な目を向ける。

「えっ、いやいや、そんなことする訳ないですっ……――!?」

 あらぬ疑いを呼んだことに「しまった」と思うマスターの耳に、甲高い電子音が突き刺さった。間を置かずに通信機から緊迫した声が上がる。

『先輩! 周囲に敵性反応多数です!』
「了解! ドゥリーヨダナ、分かる?」
「ああ。魔獣の類か……面倒な」

 木の根本に生い茂る背の高い草むらから、ガサガサと何かが蠢く音がする。それは前方は元より、右からも左からも聞こえている。
 ドゥリーヨダナは文句を言いつつ渋々と棍棒を構えた。マスターを背に立ち、唸り声と共に徐々に近づいてくる獣の群れを睨みつける。

「ビーマを呼び戻さないと」

 上空からでは樹々が邪魔をして、この状況にまだ気付いていないかもしれない。そう思っての発言だったが、即座に否定の声が上がった。

「その必要はない」
「え!?」

 まさかの言葉に瞠目したマスターは、目の前に立つ男の背を凝視する。

「いくらドゥリーヨダナが強くても、流石に一人じゃ……

 無茶なことはしないでくれと、懇願に近い抗議の声を上げた。
 だがドゥリーヨダナは一切動じることなく、反対にマスターの心配を杞憂だと言い切った。

「あやつなら気付いとる筈だ。今頃、空から強襲する機会を窺っているだろうよ」
「え」

 まるでビーマを信頼しているかのような口ぶりだ。
 予想だにせぬ言葉にマスターが気を盗られている内に、狼に似た魔獣が一頭、草むらから姿を現した。喉元に食らい付こうと地面を蹴り上げ飛び掛かる。その牙を棍棒で受け止めたドゥリーヨダナは、そのまま腕を横にふり抜き遠心力で魔獣を吹っ飛ばした。
 最初の一頭が攻撃をしかけたことで、他の魔獣たちも動きを見せた。四方八方から一斉に唸りながら襲い掛かる。ドゥリーヨダナは器用に棍棒を振るい、魔獣達の攻撃を払い除け続けるが、数の多さに自然と押され始める。ビーマの加勢はまだない。その意図を察したドゥリーヨダナは忌々し気に舌打ちした。

「おいマスター、魔力を寄越せ。弟達に群れを追い込ませる」
「う、うん!」

 礼装が起動し、宝具発動に必要な魔力がドゥリーヨダナの身に充填される。体内を迸る魔力の奔流を操り、霊基の奥に宿した九十九の魂に流し込んだ。

「兄弟達よ!」

 ドゥリーヨダナの号令を合図に魔力は外に向かって大きくうねり、大気を歪ませる。姿なき大軍が起こす地響きが森を揺らした。

「獣共を囲い込み、森ごと全てを蹂躙せよ!」

 毛を逆立てた魔獣達が一斉に吠え始める。
 魔力が凝縮し、急速に形を成す。
 ドゥリーヨダナがマスターを小脇に抱え、背後より現れたチャリオットに飛び乗った。

一より生まれし百王子ジャイ・カウラヴァ!」

 完全に形を得た九十九人の弟達が、鬨の声を上げながら左右に別れて魔獣の群れへと猛進していく。前方にいる者が槍で草木を薙ぎ払って道を作り、次に続く者が踏み均して戦場を整え、後方から追いかける者たちが魔獣を追い詰めていく。マスターは振り落とされないよう戦車にしがみつきながら、目の前で起こっている光景を呆然と眺めていた。圧倒されているマスターの隣で、ドゥリーヨダナは眉間に皺を寄せて呟いた。

……はぁーーーっ、これが我が友であったなら喜んで託したんだがな」
「え? 何か言った?」
「ぬわぁんでもない。それよりマスター、もっと奥にひっこめ。わし様より前には出るなよ」
「う、うん」

 マスターは言われた通りに車体の奥で身を低くした。ふと気になり視線をドゥリーヨダナをやると、彼が敵ではなく別の何かを見ていることに気付いた。お調子者ではあるが敵から目を逸らすのは珍しい。不思議に思いドゥリーヨダナの目線の先を追った。

……あ」

 ドゥリーヨダナの延長線上に、黄金の鎧を身に纏ったビーマがいた。マスターが見ていることに気付くと、二ッと不敵に笑った。
 彼の真下には今、百王子等に四方を囲まれた魔獣の群れが逃げ場を求めて蠢いている。中心には群れのボスと思しき一回り大きな体の個体がいた。そのボスの周囲の魔力濃度が高くなっていると管制室から報告が上がった直後、群れの背を足場にして突進してきたボスがドゥリーヨダナの眼前に迫る。

「ドゥリーヨダナ!」

 マスターの叫びとほぼ同時に轟音と衝撃が生じた。
 魔獣の断末魔が空気を劈く。
 ビーマが空から急襲したのだと気付いたのは、威勢が良く、どこか楽し気な勝鬨が聞こえてきたからだ。
 やがて残響が静まった後、マスターは咄嗟に閉じていた目をそろそろと開く。丁度ドゥリーヨダナの宝具が消え行く所だった。魔獣の群れも全て倒されている。遠くで手を振る百王子に手を振り返している内にチャリオットも消えてしまい、マスターはあえなく落下しどすんと尻もちをついた。

「痛た……二人とも、怪我はない?」
「おう!」
……
……ドゥリーヨダナ?」

 溌溂と返事をしたビーマに対し、ドゥリーヨダナが無言であることに訝しむ。最後の手柄を持っていかれ拗ねているのかと思ったマスターは、ドゥリーヨダナの姿を見てぎょっとした。

………………マスター、わし様早急に沐浴を所望する」

 魔獣の血を頭からべったりと被ったドゥリーヨダナは不機嫌そうにぼやいた。マスターが返事をする前にビーマが「何言ってんだ」と嘲笑混じりに言った。

「いっぺん霊体化すりゃいいだろう」
「魔獣の血なんぞを浴びた悍ましさが霊体化で消えるかぁ! 大体お前が力任せに魔獣を潰すからこうなったんだろーが!!」
「いや、避けろよ。阿呆か。大体魔性持ちが穢れでキャンキャン喚くな」
「息を吸うように煽らないでよぉ!」
「うるさぁい! つべこべ言わずにわし様の玉体を穢した責任を取れ!!!!」
「王子様、オレその言い方はちょっと違うと思います……ってそうじゃなくってぇ!」

 敵性体との戦闘が終わった途端に喧嘩を始めた二人の間に、マスターは頭を抱えた。



 その後、野営地は見つかったのかとマスターが訊ねたことで、喧嘩は一旦収まった。「丁度良い場所があったぜ」と答えたビーマについて獣道を歩いて行くと、やがて滝を臨む川の淵に躍り出た。上流の滝壺の畔は開けた場所になっており、魔性の気のないごく普通の野鳥や鹿が今夜はここで野営することにした。

「水場を見つけとるならさっさと案内せんかぁ!」
「うるせぇな。お前がぐだぐだ言ってっからだろ」
「うぎぎぎ……マスター!」
「駄目です」
「まだ何も言っとらんのだが!?」
「いいからとっとと血落として来いよ」
「言われんでもそうするわ! マスター! わし様向こうで沐浴してくる!」

 ドゥリーヨダナは一頻り騒くと、滝壺の下流側へとのしのし歩いて行った。

「少しは静かにしてられねぇのか、あいつは。マスター、俺は晩飯用の魚を採って来る。ヤバくなったら令呪で呼んでくれ」
「ありがとう。ビーマも気を付けてね」

 一人その場に残されたマスターは、黙々と野営の準備を進めた。日はもうほとんど沈んでいた。少し離れた所にいるドゥリーヨダナの姿が半ば暗がりに溶け込んでいる。念のため近くにいようと、ランタンを手に畔を歩く。
 鎧と腰布を脱ぎ、普段よりも軽装になったドゥリーヨダナは腰まで水の中に浸かっていた。一度全身を水に沈めたことを、しとどに濡れた髪が物語る。肩布に付着した血糊を洗い流している彼へとマスターが声をかけた。

「洗うの手伝うよ」
「おお、殊勝な心掛けだな。わし様のために働くのはいいが、血には直接触れるなよ」
「うん」

 マスターが手に取った布を広げる。花のような薄桃色の布地の一画に、黒ずんだ赤が滲んでいる。水に浸すと薄く柔らかい布がふわりと優雅に揺蕩う。
 ふと顔を上げると、濡れて肌に張りついた服の喉元を寛げるドゥリーヨダナの様子を目にした。妙に色気のある雰囲気に落ち着かない気持ちになると共に、昨夜見た夢にいた――自身の血だまりに沈む――彼の姿と重ねてしまった。

「ごめんね、ドゥリーヨダナ。仕方ないとはいえ、ビーマと一緒にさせて」
「はー? 何だ今更」

 ドゥリーヨダナが布を絞る手を止めマスターを見遣る。どこか気まずそうな表情をしている年若いマスターに、年長者としての顔が覗いた。

「誰かから何か聞いたのか?」
「聞いた訳じゃ、ないんだけど……
「なら見た・・のか」

 マスターは頷くと、生前の記録を夢で……と続けて言った。

「そうか。ちなみにどっちのだ?」
……多分、ドゥリーヨダナの方……かな?」

 そこで疑問形になるということはビーマも登場したのだろう。心当たりは嫌と言う程あるが、どの場面を見たのかまではどうでもよいので深くは追及しなかった。それよりも辛気臭い顔をされることが、憐れまれているようで面白くない。ざぶざぶと水をかき分けながら岸へと戻る。

「いつの何の記録を見たのか知らんが、もしもそのせいで哀れな男だなどと同情するのなら、わし様今すぐ座に還るからな」

 足は水中に入れたまま、岸に腰を掛け、濡れて重くなった肩布を絞る。
 声の硬さから「座に還る」という言葉が本心だと感じ、マスターは両手を慌ただしく横にふり否定した。

「そんな風には思わないよ。でも……うん……ちょっと考えすぎちゃったみたいだ。ごめん」
「まあよい。大方、夢の生々しさにてられたといったところであろう? わし様の勇猛かつ華麗な活躍は現代っ子のマスターにはいささか刺激が強すぎるからな!」
「あはは、そうかも。……………………………………あ」

 和やかになりかけた空気に水を差すような、重苦しい気配がマスターから滲み出る。
 マスターは青い顔で自分の手元を凝視していた。

………ごめん、ドゥリーヨダナ……
「よいと言っただろう。生前の出来事と、今ここにいるわし様は確かに繋がってはいるが、地続きではない。死んだ時に全て地上に置いて行ったものだ。一度はな。“やり直し”というなら話は別だが、せっかくの現界をパーンダヴァ憎しに浪費する気はないぞ。ハッピードゥリーヨダナタイムを過ごすのに必要であれば、少ーしくらいならあの筋肉ゴリラの同伴を許してやらんでもない」
「ありがとう。でもごめん……そっちのことじゃなくて……

 マスターは両手をドゥリーヨダナに向けて広げた。

「その……いつも腰に巻いてる布、を、洗ってたんだけど、うっかり手放しちゃって……流されちゃったみたい」

 ドゥリーヨダナはマスターの手と、ランタンに照らされた水面を交互に見た。自分が身に着けている衣服と、鎧などを置いた辺りも確かめる。
 マスターの言葉通り、大事な布が一枚足りなかった。

…………それを早く言え」
……ごめんなさい……

 真顔で静かに怒るドゥリーヨダナは物凄く怖かったと、後にマスターは後輩に語る。



「ここら辺、妙に魔力が濃いな」

 マスター達から離れ魚を追っていたビーマは、気付けば一際暗く空気の淀んだ場所に出ていた。意識せずとも魔力の濃度と流れが手に取るように分かる。 ――これでさっさと帰れる。
 管制室に招集されてからずっとビーマの中にあった緊張が、ゆるりと解けていくような感覚があった。
 緊張の理由はビーマ自身理解している。ドゥリーヨダナの存在だ。
 別に事を起こそうとは考えていない。それはカルデアのサーヴァントとして在る今、為すべき仕事ではないからだ。
 けれども本能はまた別だ。
 ドゥリーヨダナを前にした時にだけ、腹の底から絶え間なく湧いて枯れることのないこの激情を、正確に言い表す言葉をビーマは持たなかった。
 この情動を制御するのは楽ではなかった。物理的に距離を取ったり、戦闘で気を散らしたりして何とかやり過ごしているが、ふとした瞬間に目が追っていた。このレイシフトが始まってからというもの、つい出そうになる手を引っ込めた回数は両手の数で足りない。流石のビーマも神経をすり減らし続けていれば疲労が溜まる。何気なく歩いてきて特異点の原因らしきものを発見出来たのは僥倖だった。
 魚はまだ採れていないが、レーションの備蓄を気にする程の滞在にはならないだろう。川を遡って滝壺に戻ろうと踵を返した時、上流から何かが流れてくるのが見えた。遠目にも魚や落ち葉などではないことは分かる。そして何故だか見覚えがあるような気がした。

…………まさかな」

 そう呟きつつ、ビーマは川の中ほどにある大きな岩に飛び乗り、流れて来たそれを拾い上げた。拾った物を両手で広げて確かめたビーマは絶句した。魚を採りに来て、宿敵の衣を持って帰ることになるとは思う筈もない。

………………………………あいつ、上でなにやってんだ」

 盛大に溜息を吐いた後、布を思い切り絞った。ビリィッっと布が裂ける音がしたが、無視して水が出なくなるまで絞った。
 絞り切った布を片手に川岸に戻ろうとした矢先、また異質な何かの気配を察知した。今度は魔術的な意味でのおかしさだ。森の見た目は変わっていないが、何かが変質したことは確かだった。
 マスターに報告を。
 すぐにこの場を離れるつもりで川岸へと跳んだ。
 だが意に反して、ビーマの足は縫い留められたかのように動かなくなった。

…………

 音もなく現れたそれに、ビーマは目を見開いて固まる。

『ビーマ』

 名を呼ばれたことにハッとする。これは罠だ。幻影か何かだと心の中で唱える。

「こんな場所に、ガキの頃のあいつがいる訳ねえ」

 ビーマの正面には、まだ同じ師の下で鍛錬していた頃のドゥリーヨダナが立っていた。格好も当時身に纏っていたものと同じだし、先程名を呼んだ時に発した声は、声変わり直前の少年期に聞いていたものだ。誰よりも向かい合ってきたのだ。見間違う筈はない。
 それはそれとして、ここにいる筈がないこともまた確かだった。土地も時代も大きくずれているので、生前のドゥリーヨダナという可能性は無いに等しい。
 幼いドゥリーヨダナはじっとその場に立ち尽くしてビーマを見つめている。立ち去る様子はないが、反対にビーマを捕らえようとする動きも見られない。

「大方……獲物を釣るための疑似餌ってとこか……

 それなら手招くぐらいしたらどうだ。
 ビーマは魔術には疎い。謎解きは管制室にいる者たちの領分だろうと、一旦退くことにした。
 幻影から目を逸らし、固まっていた足を動かした。

『ビーマ』

 幻影のドゥリーヨダナが、か細い声でビーマを呼ぶ。しかしそこにはビーマを呼び止めるという意思が感じられず、どちらかと言えば独り言に近しい声色をしていた。
 ビーマは思わず幻影を振り返る。

……

 一瞬驚愕に顔を染めたビーマは、姿を見せない幻影の術者に舌打ちした。
 振り返ることなく、今度こそ幻影を背に歩き出す。



 マスター達の元へ戻ったビーマはすぐに事の次第を話し、翌日には三人で件の地点へ向かった。幻影はまた現れたが、人によって目に映るものが異なるらしく、ビーマ以外に子供のドゥリーヨダナを見た者はいなかった。マスターがわざと幻影の罠に引っかかって見せたことで術者の正体も割れ、微小特異点は無事解決の道を辿った。
 敵の本陣を叩いた後、技術顧問が術の解析結果をマスター等に伝えた。

『どうやら術を仕掛ける対象者の記憶を再現した疑似餌を作っていたようだね。記憶の影法師って言ったところかな。森は術者によって工房化され、誘いこんだ獲物で強化していたんだろう。何の目的でそんなことをしていたかは不明だけど、森は大きな交易路の傍にある。商人たちが狙われて交易が止まるような事態になっていれば、歴史に影響も出かねない。交易っていうのは物だけじゃなくて、文化や思想も運ぶものだからね。小さな芽の内に摘めて良かったよ』

 ダ・ヴィンチの解説に、マスターとドゥリーヨダナは揃って「あ~」と間の抜けた声を出した。

「じゃあ聖杯が見えてたのって、あの時オレが一番考えてたことがそのことだったからかな」
『かもね~。ちなみにドゥリーヨダナには何が見えていたんだい?』
「教えん」
『ケチー』
「ビーマが見えたんじゃないの?」
「なっ!? 何を言い出すんだマスター!?」
「だってドゥリーヨダナ……戦闘中とか、周りに敵がいるかもしれない時とかは、ビーマがどうよく動くか見てるでしょ。魔獣の群れと戦った時だって、何もやり取りしてないのに連携プレーしてたし。だからあの時一番気にしてたのって、ビーマのことなんじゃないかって」
『へぇ~』
「ご、誤解だぁー!! わし様そんなことしとらん!! 名誉棄損で訴えてやる!!!」 
「えー、じゃあ何を見たの?」
「黙秘する!」
『キミ、それって肯定してるのと同じだよ』
「やかましい! さっさと帰るぞ!」

 他愛のないやり取りを繰り広げるマスター達の背後で、ビーマはひとりダ・ヴィンチの言葉について考えていた。すぐに納得した二人と違って、ビーマだけはまだ腑に落ちない点があった。

(記憶の“再現”ってのは……本当か?)

 ダ・ヴィンチを疑うつもりはない。実際見た目はそっくりそのまま記憶から取り出したようなものだったからだ。けれどビーマが見た幻影は、彼自身覚えのない――と言うよりも到底信じられない部分があった。この矛盾がビーマの胸にモヤモヤとした何かを生んでいた。

『帰還準備完了です。皆さん、お疲れさまでした!』

 ビーマが納得しようがしまいが、この特異点からは直に離れる。もう二度と同じ幻影を目にすることはない。考えても詮無きことだと自分に言い聞かせた。
 カルデアへと帰還する直前、ふと見たドゥリーヨダナの顔に、幻影の面影が混じっているような気がした。