ガシャン。
それが床に落ちた音はその場に痛いほどの沈黙をもたらした。一同が視線を向けると、元凶はハッと正気を取り戻したかのように周囲を一瞥する。自分に注がれる視線に耐えられなかったのだろう。彼はその大きな身をジリジリと引くと、すまないと小さく溢し、扉を押しのけて外へと飛び出した。
男が消えた途端に張り詰めた空気が柔らかくほどける。漏れ出す騒めきの中、渦中の最も近くにいたローは落ちたものを拾った。金属製の鳥籠の中で、驚き、興奮した小鳥たちがいきり立って鳴いていた。
もとの位置に戻す。そして、立ち尽くしていた店員に金札を数枚押し付けて、彼を追った。普段理知的である男のあの様子は、通常ではない。柄にもなく心配したのだ。
「ドレーク屋」
ひどく動揺していた男を見つけるのは容易かった。建物と建物の隙間で、気配を隠すこともせず、ただ身体を丸めて縮こまっていた。縮こまったとて元が大きいのだから、そういう意味でも見つけやすかった。
ローは名を呼んだが、返ってきたのは無言だけ。しかし、一瞬だけ隙間から覗き込んだ視線は、確かにこちらを捉えていた。聞こえていないわけではない。聞きたくない、と大きな手のひらで耳を力いっぱい塞いでいる。
その眼に浮かぶ色は恐れ、怯え、惑い──どれもこれも当てはまるように見えた。
まるで子どものようだ。ローはそう思った。自分より年上で、どちらかと言えば冷静で、非常に大きな体躯を持ち合わせた男、という印象と照らし合わせると、今して見せている表情や仕草はひどくアンバランスだ。
しかし、ローには目の前の男の様子に覚えがあった。心的外傷、いわゆるトラウマが起因した侵入症状に対しての反応に、似たような例が存在していたと記憶している。
今の男には、何か聞きたくないものがあるようだった。聞きたくないのに、聞こえてしまうから、両の手に力を込めている。精神に傷を負うとは、目の前にないものに苛まれること─そういうことでもある。
ドレークは、今、目の前にない何かを拒絶するために、自分から世界を引き剥がそうと、躍起になっている。
専門外だな。ローはそう思った。異名の通り、男の専門は外科なので、精神科の知識は薄っぺらい。
だが、放っておくという選択肢はなかった。なぜなら今ここにいる医者はローだけで、目の前の男には治療(カウンセリング)が必要だった。医者が患者を見捨てる理由はない。ローは心のどこかで、本気で、そう思っている。
「宿に飛ぶぞ。いいな」
状況が状況なので、了承以外の返事を聞く気はさらさらなかったが、患者の意思を確認する行為は大切だ。しゃがみ込んで問いかけたローの言葉に、ドレークの頭は微かにだが動いた。コクリ。逆立てられた前髪が震え、揺れる。
自分の言葉はちゃんと男に届いている。反応があったことに一抹の安堵を覚えながら、手のひらを翳して、青いドームを作った。
それはローのための治療室。その中にいるのはローの患者。くるりと指を回すと、世界は瞬く間に暗転した。
明転すると、ドレークが押さえていた宿の一室に飛んでいた。もともと二人で泊まるつもりだった部屋である。一階は酒場となっているため、酩酊した男たちの大きな声が床を震わせていた。酒の匂いも、少しだけ届いていた。
治療に適した場所とは言えないだろう。しかし、だからと言って、この状態の男を自船に連れ帰ることは難しかった。ローは医者であると同時に、海賊団の船長で、目の前の男の恋人でもある。まずは二人きりになる方がいいと思ったのだ。
ドレークは、依然としてうずくまったままである。ベッドに腰をかけられるか。そのようにローが声を掛けて、やっとその大きな体を動かす。
彼が座り込んだベッドは、ギシギシと鳴いた。ローはその対面に来るように、スツールを引きずって寄せて、そこに座る。
再び、静けさが二人の間に流れ出す。ローはまず待った。話せるようになるまで、酒場の喧騒をぼんやりと聞いていた。
少しして、やっと開かれた口から落ちたのは、謝罪の言葉だった。
「
……すまない。トラファルガー」
嗚呼、この男は海賊を名乗るには酷く甘い。隙が多すぎる。
いや、普段は毅然としていて、融通が効かないほど、何者も寄せ付けぬ気迫がある。敵のことだって容易く切り捨てて、薙ぎ倒し、果ては噛み付くではないか。
それが、まるで自分には気を許しているみたいに。
「なにがだ」
ローはあえて素知らぬふりで応えた。大丈夫という言葉は気休めにしかならない。謝るなと言っても、この生真面目には無理がある。だから、「何が」と問いかけた。そうすることで、ドレークがそれ以上自分をいやに卑下しなくてすめばと、そう思った。
男はまた黙る。しかしそれは、何を言えばいいのかと悩んでいるような、そんな様子に見えた。視線を空中に彷徨わせ、唇が空気を喰んで微かに歪む。言葉を探しているのだろうと思わせる。言いたい気持ちはあるのだろう。それを、どう言葉にするかをあぐねているようだ。
その様子を見てローは、先ほどのことを思い出した。互いの航路が重なり、鉢合わせたので、二人は酒を飲んでいたのだ。
選んだ場所は北の海の酒を出すバーだった。港町ゆえに慣れているのか、海賊がいることを暗黙として見過ごす賢さが客たちにあった。その居心地のよさと酒の味が肌に合い、二人揃ってだいぶ機嫌が良かったように思う。
それが、一変したのは?
ギャア、と鳥が鳴いたときだった。二人の座る席の近くに置かれた鳥籠の中で、つがいの鳥が暴れ、籠を激しく揺らしたのだ。
鳥はストレスを感じやすい生き物だという。何かしらの理由があって、耐えきれなくなったのだろう。その鳴き声は徐々に悲鳴じみていき、二人はもちろんだが、店内の客たちの空気も、薄暗く淀んでいく。
店員の一人が申し訳ないです、と言いながらそちらを伺った。その時、そうだ、確か男は言った。「嗚呼、また割ったのか」
卵のことだとすぐに分かった。鳥がストレスのあまり、卵を落として、割ったのだ。
それだ、と思う。確証はないが、ドレークの琴線に触れたのは、鳥の卵が割れていたことだ。ローが気づいたことに、彼が気づかぬわけがない。男は鳥が卵を割ったと気づいて、立ち上がると、鳥籠を乱暴に扱ったのだ。
「
……どうして鳥籠を、落としたんだ。あんな乱暴にしてやっちゃ、可哀想だったろ」
海賊の口から出る言葉としてはあまりにお綺麗だなと思いつつ、ローはそう問いかけた。自分はともかく、ドレークは基本的に暴力行為は好まない。自分に向かってくる敵に対しては非情だが、基本はそうでない。ましてや動物相手に乱暴を働くという発想があるようには思えなかった。
それでも、あの瞬間、鳥籠に向けた激情は確かなことだ。
「
………かわいそう、?」
ドレークの様子が、変わった。すっと目の色が変わり、剣呑な目つきになる。ローは初めて、目の前の偉丈夫に一握の恐怖を感じた。彼が纏う空気の鋭さに、身動きどころか息も止まる。
「可哀想なものか!」
爆弾は、爆発した。その大きな声は、まるで恐竜の叫びのように空気を震わす。口の中の水分が干上がり、ない水分を求めて、喉が上下する。
「自分たちが産んだ卵を
……あんなふうに扱っていたというのに。あれの、どこが、可哀想なんだ
……!」
──怒りだった。ドレークの顔から、全身から滲み出ているのは、激しい怒りだ。平時の男は努めて感情的にならぬよう心がけているきらいがあった。そんな彼が、ここまで怒気を放つとは。想像もしていなかった。
覇気とはまた違う類の、それでいて激しい気配の震えが肌を刺す。ローは郷里を思い出した。冷気が肌をじわじわと焼く、極寒の地。あの冷たさによく似ている。そう感じたのはローが、ドレークが、北の海で生まれ育ったからなのかもしれない。
相変わらず階下の喧騒が、遠雷のように聞こえてくる。ローは、瞼を閉じ、暗闇の中で返す言葉を探した。今、彼に向かって否定は紡いではいけない。あるがままの怒りを言語化し、そのまま受け止めるための言葉を、男は向かって言い聞かせるように溢す。
「
……そうか。おまえは、あの鳥たちに怒りを覚えたのか」
ローの返答が聞こえたのだろうドレークは、少しだけ落ち着きを取り戻したようで、怒気を沈めた。ハッとした顔で、ローを見る。努めて平静を装った。恐れを成したなど思われなくはなかった。
すると、今度はどことなく、悲しみや寂しさに染まった表情をする。目をぎゅっと細め、瞬き、まつ毛が震えていた。嗚呼、本当に甘い男だ。自分の怒りに誰かを晒したことで、簡単に傷つく。
「
……すまない。何度も、取り乱して、」
そう溢すドレークのことを、なんだか無性に撫でてやりたくなった。侘しさを馴染ませるその体が、本当に、少年のように小さく感じられた。
赴くままに手を伸ばす。が、一瞬だけ、ドレークの身体が強張った。ビクリ、と肩を跳ね上がらせて、ローのことを恐れた。これも、今のドレークにとってはダメなのだろう。ローは空中で手を止めて、「触ってもいいか」と尋ね直す。は、と浅い息を漏らした偉丈夫は、強く瞬くと「大丈夫だ」と答えた。
そこでやっと、ドレークの頭を撫で付ける。ワックスで固められて太い束になった毛を柔らかくほぐすように梳きながら、その丸い頭に触れた。生きているのだから当然、熱を持っていて、それはローのものよりも体温が高く感じられる。
──割れてしまった卵がもし孵っていたとしたら、このように熱を帯びていたのだろうか。何の気なしに思いついたことだったが、多分そうなのだろうと妹のことを思い出した。初めて触れた時にあついと思ったような、気がする。もはや曖昧な記憶だ。
「トラファルガー」
なされるがままだったドレークが不意に名前を読んでくる。そこでローは過去ではなく、今に孵る。
「なんだ、ドレーク屋」
「今日は同じベッドにいてくれ。
……うるさいのに、耐えられそうにない」
それは未だ酒盛りに明け暮れているだろう階下の酒場の音のことだろう。普段はどこでも眠れると豪語するだけあって、寝床の質は選ばないのに。これもまた、彼にとっては深い傷の一つなのかもしれない。
「いつも寝てるだろ」
「
……あれは、おまえが入り込んできてるというんだ」
それでも、減らず口を返せるだけは気を取り戻したようで安心した。
伸ばした手を引っ込めようとする。しかし、それを捕まえられた。そのまま引っ張り込まれて、ベッドに投げ出される。
「いつもならシャワーを浴びろとうるさいのに」
「今日はいい。いいから
……」
一緒にいて、だろう。分かってるよ。
人に甘いくせに、甘えられない男が見せた弱さを慰めるように、ローは再び頭を撫でてやった。
→覚え書き
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.