しくるの納戸
2024-10-05 22:01:37
5240文字
Public 狛日
 

雨に誓えば/ザクースカ

狛日/梅雨の小話二本立て。
コロシアイ中ではない、同居している狛日の話です。


18.ザクースカ

お題は文字書きワードパレットより指定いただきました。
使用ワード:「靴」「ワルツ」「おはよう」


 梅雨入りを告げられてからだいぶ経ったと言うのに、一向にすっきりしない曇天の下を、歩く。
 紐の解けかけたスニーカーの靴底が、昨夜の雨を踏みつける音。左手の先で風鈴がわりに揺らされる、コンビニのビニール袋がたてる音。
 腰の位置ですれちがったツバメに会釈して、ボクは帰途につく。
 寂れた商店街を抜けて、徒歩五分。
 木造二階建てのアパートの錆びた外付け階段を一段ずつ登るたび、ゴウンゴウンと大袈裟に鉄骨が鳴いて、手すりから雨粒が落ちた。
 三つしかない二階の部屋は、なんと一番奥以外は絶賛住人募集中である。
 まあ、仕方ないか。
 お世辞にしても、立地も見栄えも間取りも治安も、良いとは言えないからね。
 扉なんて、表面に塗られた白いペンキがひび割れて、まるで廃墟の様相だ。
 そこについでのように取り付けられた鍵穴へ、ボールチェーンだけが虚しくぶら下がる鍵をガタガタ揺らしながらねじ込んで、やっとのことで半回転。
 扉を開ければ、ふわりと卵の焼ける匂いが鼻をくすぐった。
「ただいま」
 恐らく向こうには届かないだろうボリュームで告げて、ボクは行儀良く揃えられたローファーの隣にしゃがみ込む。返事はない。
 スニーカーはデザインも自由だし、いくら歩いても疲れないところが好きだけれど、苦労して結んだ靴紐をほどく煩わしさは苦手だった。
 苦戦するボクの耳に、包丁の音が届く。
 トントントン、トントントン。
 木の板を叩くリズムはワルツ。
 テンポはヴィヴァーチェ。ちょっと速い。
 やっとの事で両足ともに脱ぎ終えて、長めの廊下を歩く。
 匂いが一際強くなる頃、ボクの足音に気がついた日向クンが、手元のハムからボクに視線を移した。
「おお、おかえり。ありがとな、買い出し行ってくれて」
 もうすぐ出来るから、買ったやつテーブルに置いておいてくれ。
 再び手に視線が戻る彼の命令に従って、ボクは買ってきた、六個入りのくるみパンの袋をダイニングテーブルに投げた。
 まな板の端に刻みハムの山を築きあげた日向クンの指は、それから、絶妙なタイミングで鳴りだしたケトルの火を止める。
「びっくりしたよ。いきなり叩き起こして『主食が無い!』だもん」
 ボクは棚から揃いのマグカップを取り出して、インスタントコーヒーの粉末を振り入れた。
 自分の分は濃い目に。日向クンのはボクより少なめで、その分砂糖をいれる。
「気がついた時にはお湯沸かし始めちゃってたし、俺が買い物に出るわけにいかなかったんだよ」
 準備万端のマグカップを日向クンに手渡せば、すぐにホカホカの湯気とともに返ってきた。
「まあいいけどね」
 それらを定位置に。パン用の小皿をその隣に。ボクは席に。
 そうすれば、まもなくオムレツのお皿を両手に持った彼が、向かいに掛ける。
「あのハムは?」
「昼用。今日は冷やし中華な」
「ああ、いいね」
 天気が悪いくせに気温は高いから、この頃変に蒸し暑いんだ。
 ボクは丁度夏バテみたいに、お昼は冷たい麺しか受け入れられなくなっている。
 もしくはアイスかな。
……あれ、狛枝パンしか買わなかったのか? 絶対アイスも買ってくると思った」
 空っぽの買い物袋を覗き込んで目を丸くする日向クンに、ボクは肩を竦めた。
「これでもボクなりに急いだの」
「そりゃ悪い」
「別にいいよ」
 テーブル中央のカトラリーボックスへと同時に手を伸ばしては、手の甲をぶつけあいながらフォークを取る。
「ただ、おはようって言いそびれちゃったな」
 ボクの言葉に、日向クンはさっきよりうんと瞠目して、ボクをしばらく見つめた。
 それから破顔する。
 きゅ、と眉を中央に寄せて、目尻は下げて、日向クンは時々、泣くみたいな笑顔をする。
 丁度雲の切れ間から朝日が差し込んで、銀のフォークがキラキラ瞬いた。

「今からでも間に合うだろ……おはよう」

 ──もうすぐ、梅雨が明ける。