しくるの納戸
2024-10-05 22:01:37
5240文字
Public 狛日
 

雨に誓えば/ザクースカ

狛日/梅雨の小話二本立て。
コロシアイ中ではない、同居している狛日の話です。

雨に誓えば



 肩を撫でる肌寒さに、日向は目を覚ます。
 薄暗い室内が、重たい湿気に満ちていた。今週に入ってから羽毛布団と交換した、薄手のブランケットを腹部から剥がして、フローリングに足をつける。四畳間を外から閉ざすカーテンを開ければ、街の上に鈍色が広がっていた。目を凝らすと、細い糸がポツポツと空から落ちていくのが見える。
 ヘッドチェストの置き時計に視線を向ければ、時刻は朝六時。アラームの設定時刻にはまだ早い。
 ……昨日の天気予報では、雨が降るのは午後からだと聞いていたのに。
 日向はげんなりと肩を落とす。何故なら、起きたらゆっくり、朝食と昼食の材料を買いに行く予定だったからだ。
 冷蔵庫の中には、同居人の買い込んだブルーラム一ダースと水と調味料しかない。ご飯もパンもない。
 日向はもう一度、窓の外を見る。
 迷ったところで、冷蔵庫の中身は増えない。
 同居人ならそれこそ、食べ物がないならブルーラムを飲めばいいんだよ! と言ってのけるだろうが、あいにく日向には、ドリンク剤の効果によって食欲を減退させることで飢えを凌ぐ、などというめちゃくちゃな理論を受け入れる度量は無かった。
 なんなら食料が無いことを意識して、余計に空腹感が増している。
「どうせ行くなら今のうち、だよな……
 長いため息を吐いて、日向は寝巻きを脱ぎ捨てた。
 
 
 
「一時間も経たないうちに……!」
 大きく膨らんだ買い物袋を揺らしながら、日向は帰路を急いだ。
 空から落ちてくる雨は、家を出た時のしとしとと肌を撫でるような細やかなものとはうって変わって、強風に乗って全身を容赦無く叩く大雨となっていた。
 アスファルトを足で踏み締める度、靴の中で水浸しの靴下が嫌な音を立てる。傘は骨が二本折れてその形を支えられなくなっており、一応さしてはいるが、殆ど意味のない状況だ。
 幸運なことは、日向たちの住む場所から最寄のコンビニまで、帰りは登り坂なことだろう。これが下り坂だったら、滑って日向自身の骨も何本か逝っていたに違いない。
 帰ったらまずご飯じゃなくお風呂に入ろう。
 内心で呟き、寒さで鼻を鳴らす日向は、そこで、ふ、と何気なく道の脇を見た。
 ——そこにあるのはなんの変哲もない一軒家だ。
 両隣には似たような造りの家が何軒も並んでいて、坂道を愛らしく彩っている。
 日向が気になったのは、その玄関前で雨風に耐えている紫陽花だった。
 それは確かに、紫陽花の筈だ。
 少なくとも、葉の形は日向もよく見る紫陽花のそれであった。
 ただ、違うのはその花の形と色。
 日向の知っている紫陽花は、四角く、均等な大きさをした花が、ドームの型を覆うように密集しているものである。
 けれどこの花は、まず、小さな花と大きな花の二種類で形成されていた。小さな花は、ツボミと勘違いするくらいの小ささで、房の中央に固まって咲いている。対して大きな方の花は、先の尖った花弁が互い違いに重なって星のような形を描いており、それは、小さな花たちを外側から囲うように咲いていた。
 それに紫陽花と言えば、青や紫の、つつましくも鮮やかな色をしていたと日向は思うが、目の前にあるものは白く、そして、中央だけが淡い薄紅色に染まっている。
 狛枝の髪の色みたいだ。
 そう思うとがぜん興味が湧いて、誘われるように軒先に一歩近付いた。近づいてちゃんと見れば、手入れの行き届いた花々は丁寧に剪定されており、雨の恵みを受けて生き生きと輝いていることが伝わる。綺麗だな、と頬を緩めた日向は、しかし、その足元に、枝の折れた花房がひとつ、落ちていることに気がつく。
 土の中で横たわり、枯れるのを待つだけのそれを見た瞬間、日向の視線が止まって、他に目を向けられなくなった。
 雨は降り続け、尚もシャツを、安物のデニムを濡らしている。
 衝動だった。
 そのすぐ側にしゃがみ込んで、日向は、落ちていた紫陽花の一房に手を伸ばす。
 肘に引っ掛けたビニール袋がカシャリと音を立て、本当に拾うのかと咎めるようにのしかかった。構わず、花弁についた土を指先で払い、拾い上げたそれを袋の中に刺す。
 そうして立ち上がった日向は、折れた傘を構え直して、往路と帰路のどの時よりも慎重に歩き出した。



 濡れて冷え切った身体をシャワーで温めて、触れた髪をバスタオルで拭きながら居間に戻ると、いつのまに起きていた同居人——狛枝が、ソファに腰掛けながらひらひらと手を振った。
 その指先には、先ほど拾った紫陽花が握られている。
 狛枝の手の中の紫陽花は、雨粒の雫を失ってもなお、可憐に咲いていた。
「あ、それ」
 日向は思わず声を上げる。
 狛枝は目を細めて、日向の中にイヤな予感が駆けた。経験則から、こういうときは大体無邪気にキツい言葉が飛んでくるのだ。
「日向クン、これどうしたの? もしかして坂の家で咲いてるやつかな」
……そうだ。一本だけ折れて落ちてて」
「落ちてる花……それも人の家の花を拾ってくるなんて、幼児じゃないんだから」
 想像通りの言葉に、日向はうっと顔を顰める。
 むしろ、どうして拾うときにその想像が働かなかったのか、日向自身も不思議なほどである。しどろもどろになりながらも反論を考えてみたが、あまりの正論にぐうの音も出ない。
「いや、綺麗だったから、つい」
「その言い訳で大丈夫?」
「うるさい!」
 日向は狛枝の、今手にしている花に似た色の頭をはたいたが、狛枝はおかしそうに肩をすくめるだけだ。
……でも、珍しくないか。花びらの形や色も」
 こんなの、初めて見た。
 日向が言えば、狛枝も頷いて同調した。
「日本で見るのは、大体が本あじさいだもんね。ちなみに日向クン、分かっててボクの頭脳レベルに合わせようとしてくれているのかもしれないけど、これは花びらじゃなくて『がく』だよ」
……知らなかった」
「あはは、まあ、装飾花って呼ばれてるくらいだから、花びらとして扱ってもいいとボクは思うけどね」
「良く知ってるな、花の知識なんて」
「そう? 花の図鑑はいくつか持ってるけど、写真見てるだけでも面白いよ……えっと、確か、」
 狛枝は日向に紫陽花を渡し、ソファから立ち上がる。居間の隅、テレビ台の横にある本棚を漁ると、一冊の本を取って戻ってくる。
 定位置に腰をかけ直した狛枝の手には、アジサイ専門の図鑑があった。
「こんな本あったのか」
「中央に両性花がまとまって、外側に装飾花が咲くのは典型的な額あじさいの特徴だけど……花弁が独特だね」
 狛枝の手が図鑑のページを捲っていく。『ガクアジサイ』と題字が出たところで、日向も上から覗き込んだ。
 そこには、アジサイと一括りにするには色も形もバラバラな花たちの写真が並んでいる。
「『黒姫』『花火』……わ、こんなに種類があるのか」
「品種改良も盛んだからね。セイヨウアジサイとか、ヤマアジサイも合わせたら結構な数になるんじゃないかな……っと、」
 狛枝の指先が、ひとつの写真で止まる。日向の手もとにある花と照らし合わせるように何度も交互に見つめて、それから、あったよ、と呟く。
「これか。本当だな、同じ形だ」
「うん。『ウエディングブーケ』っていう品種らしいよ」
「へえ、名前も綺麗なんだな……確かにこれなら、ブーケにしても華やかなりそうだもんな」
 日向は、紫陽花を持ち上げて照明に翳した。光で繊維が透けて、また違った繊細な顔を見せる。
 少し狛枝に似ていた——そんなキッカケが無ければ、今まで存在にも気が付かないほど、花に積極的に興味を持つことなど無かったけれども、こういうものに夢中になる人の気持ちも、少し分かったような気がした。
……そうだね」
 眩しい表情で花を見上げる日向を、狛枝もまた見上げている。
 日向はきっと気がついていないが、お風呂上がりである彼の頭にはバスタオルが、それこそ新婦のベールのような格好で掛けられている。
 ベール代わりのバスタオル。
 ブーケは人の家の折れた紫陽花。
 連想するには余りに似つかず、不格好で、しかしそこがまた彼らしく、狛枝は心の底から駆け上ってきたくすぐったさに、思わず笑い声を漏らした。
 日向が不審そうな視線を向ける。
 狛枝は構わず笑っていた。
「あーあ、お腹すいちゃったな。朝ごはん食べようよ」
「ああ、そうだな」
「何買ってきたの?」
「俺はカップの味噌汁とおにぎり。お前はミックスサンドと缶コーヒーな」
……ふふ、あはは!」
「さっきから何だよ!」
 
「なんでもないよ。朝ごはん楽しみだね、日向クン」