しくるの納戸
2024-10-05 21:59:25
7049文字
Public 狛日
 

冬たより/春たより

狛日/希望編から少し経った頃の話2本。


春たより

 
 今日のお散歩は、いつもより長くなった。
 南風に誘われるように海辺へ向かうと、波間に桜の死骸が揺蕩っていて見惚れてしまったのだ。大量に、終着点のテトラポットにへばりついている。
 ソメイヨシノからは殆ど花は散りきって、早いところだと葉桜に衣替えしていたけど、丁度アパートの裏庭にあるような遅咲きの品種は、まだまだ花盛りみたいだ。
 この頃はすっかり暖かくなって、朝でも外で過ごしやすくなった。来ない客を待ち続けている折り畳みチェアの埃を払って、ベランダで桜を眺めながらコーヒーを飲むのもいいかもしれない。丁度、この間拾い上げたばかりの本もある。
 頭の中でこれからの予定を組み立てながらアパートへ戻ると、玄関に靴が一対鎮座していた。
 息が止まりそうになった。
 動揺を押さえつけながら、何事もなかったようにドアを閉める。
 相変わらず気配が無い。けれど、耳を澄ませば細やかな物音が確かに聴こえた。
 木のまな板に等間隔で振り落とされる包丁の音。
 鍋が泡を立てる音。
 菜箸が合わさる音。
 これらの音が生み出すものを僕はよく知っているのに、聴くのは初めてだなんて、おかしな話だよね。
 なのに廊下を進むごとに大きくなっていく音たちは、それを鼻で笑うことすら躊躇わせる。廊下を抜け、小さなワンルームでその姿を実際に見ても、僕は暫く一切の声を出せなかった。
 やがて、棒立ちの僕の姿に気がついた(ように見せているだけで、家に入る前から僕の気配は知っていただろうけど)彼が、コンロから僕に視線を移す。
「おかえり、狛枝」
……ボクの台詞だよ」
 日向クン。
 僕はちゃんと、いつも通りに返せただろうか。
 家の中には、炊き立てご飯のあまい匂いが充満していた。 
 
 
 今日の朝食は菜の花入りの玉子焼きと、筍の炊き込みご飯、それから鯛のお吸物だった。吸物碗の底には、桜の塩漬がひとひら。海で見た、波間の花びらの最果てを思わせる。
 塩味の香る汁を啜って、僕は目の前で丁寧に箸を使う日向くんに問いかけた。
「ここにいて大丈夫なの」
 果たしてあれはどれくらい前のことだったか。未来機関へ偽の犯行声明を出して以来、日向くんは絶望の残党の悪玉として、年中追われる身となっていた。事実を知っている苗木くんとかは、それとなく見逃したり隠したりしてくれるけれど。それもあまり表立って行うと、今度はその人が絶望だと疑われてしまうから難しいみたいだ。
 それに日向くんは、過激派の注目を七十七期生全員から自分一人に向かうように仕向けてしまっている。
 お陰で僕らは(抜き打ちの尾行と監視付とはいえ)捕まることもなく過ごせるけれども、代わりに日向くんがいる痕跡を一切残せなくなっていた。直接会話することは勿論、文通を交わすことも出来ず、ただ月に一度部屋に置かれる料理と一通のメモが、唯一の生存確認だった。そしてその痕跡も、次の日までには消さなければならない。
 だから、こうして目の前で日向くんが僕と同じテーブルを囲っていることが、落ち着かなくてしょうがないのだ。
 大丈夫だから此処に来ているのだろう、ということは分かっていても訊かずにはいられなかった僕に、日向くんは微笑みと共に肯定した。
 彼のお皿から玉子焼きが一切れ消えて、咀嚼される。
「前の手紙に『もう少し』って書いただろ?」
「そういえば書いてたね。随分経ってるから、反故になったのかと思ったよ……ああ、ごめん、『もう少し』を一ヶ月そこらだと思い込んだボクの方がおかしいんだよね。毎日忙しく追われてるキミからしたら四ヶ月なんてあっという間か……
「悪かったって!」
 僕の謝罪を途中で遮った日向くんは、自分の髪をぐしゃりと掻いて、それから困り顔を微笑みに変えて僕に返した。
「俺にとっても長かったよ……元気そうで、良かった」
「キミこそ。もしかしたら死んでるんじゃないかと思ったよ」
 これは半分冗談だけど、つまり半分は本気だ。毎月部屋に置いてあるそれが、日向くんを真似した誰かのものだとも言い切れない。だから、こうして実際に日向くんと向かい合って、同じ味のする料理を食べてようやく、先月までのも日向くんが作っていたのだと実感できたのだ。
「そういえば、北の方に巣食ってたデカい集団、あっただろ」
「ああ、ルーン魔術で江ノ島盾子を召喚しようとしてたやつだっけ」
 その為の生贄と称して大量の誘拐・殺害を繰り返していた、無駄に人数だけは多いところ。立て直しに忙しい未来機関には手を出す余力が無く、かといって下手に僕らが動いてしまうと目立って身動きが取れなくなるなんて、ただでさえ絶望なのに低俗で厄介で、酷い集団だった。おまけに肝心のルーン文字が間違ってるんだから、いっそう救いようがないよね。
「で、それが?」
「やっと解体した」
 筍ご飯をじっくり噛み締めていた僕を、ゆるんだ瞳で見つめていた日向くんが何でもないように言い放つ。
 彼のお皿から玉子焼きが一切れ消えて、いつのまにか残り三切れになっていた。お吸物もご飯も、あと半分も残っていない。僕はまだまだ食べ進めたばかりだというのに。
 これは彼が『こう』なってからだったかと思ったけど、よくよく考えてみたら、ジャバウォック島にいる時から、日向くんは食べるのが早かった。
 なんて、今はどうでもいいか。
……キミが?」
「表向きは自滅だけどな。睡眠薬と副作用の少ない幻覚剤を仕込んだワインを流して、『絶望に至れるワイン』として儀式に使わせたんだ。眠ったところを十神に保護してもらって、今は全員、希望更生プログラムの中だと思う」
 それは随分と、手間のかかった話だ。
「それで時間掛かってたんだ?」
「そういうことだな。作るのまでは良かったけど、出処不明の噂を流して使わせるまでが面倒でさ……それに、まだ事後処理は残ってる」
 日向くんは眉を下げた。
 喋りながらだと言うのに、彼の食べるスピードは全く変わらなかった。鮮やかな玉子焼きの残り数が、そのままカウントダウンみたいだ。
「食べたら行くの?」
 彼は答えず、ただ困ったように笑った。
 それが答えだった。
 彼のお皿から玉子焼きが一切れ消えた。
……それなら全部終わらせてから来れば良かったのに。四ヶ月待たされたんなら、もう数ヶ月なんて誤差だよ」
「っはは、そうだな、悪い。でも今度のは本当に『すぐ』だ。事後処理さえ終われば未来機関も、暫くは俺たちよりそいつらの注視に忙しくなるからさ」
「すぐなら尚更、」
 言いかけた僕を止めるように、日向くんは笑った。
「忘れたのか狛枝……それとも、忘れたフリをしているだけか?」
 いつか聞いた台詞が、記憶とは違う悪戯な笑みによって投げられる。
 忘れた?
 何を忘れたというのだろうか。
 先月のメモに書かれていたことは、全て実行した筈だ。
 それ以外に思い当たる節もないし、もしかしたら僕の記憶力は、ミジンコ以下に衰退しちゃったのかもしれない。
 本気で見当がついていない僕の様子に気付いて、日向くんは一瞬虚をつかれた様な表情を見せた。それから、狛枝らしいなと声を上げて笑う。
「誕生日おめでとう、狛枝」
…………ああ」
 僕は言われて初めて思い出した。
 そして思い出してようやく、思い至る。
「キミ、もしかしてそれ言うために戻って来たの」
「そうだって言ったら?」
「呆れた。ボクの誕生日如きに貴重な時間を無駄にするなよ」
 タダでさえキミは、その才能を世界の希望の為に費やす義務があるというのに、それに。
 僕の口から、つい長い溜息が漏れた。
……帰ってくるなら、三ヶ月前だ」
 僕は、テーブルに静かに伏せられた日向くんの左手へと、腕を伸ばす。
 日向くんの玉子焼きは残り一切れだ。
 僕の玉子焼きを分けてあげたら、時計は逆さに回るだろうか。
 そうして持ち上げた手は温かかった。暫く人の体温に触れていなかったから、想像していたより熱くて目眩がした。
 形の綺麗な、骨張った指先。荒事の中心にいたというのに傷一つない。誰にも傷つけられていないことに対する正常な安堵と、誰にも触れられないことに対する歪んだ安堵が心臓を巡る。
 ぼけたピントの端に、日向くんが瞠目しているのが見えた。懐かしい。
 爪の切り揃えられた五本の指のうち、薬指だけを口に運ぶ。ほのかな塩気があった。
 根元に強く歯を立てると、唾液に鉄の味が滲む。
……っ、う」
 つけた歯形に沿って舌を這わせば、日向くんの喉から細い声が漏れた。その声に唆られて、中途半端に膨らんだ胃が空腹を訴えて鳴きだす。僕は日向くんを食べたいのだろうか。大層な悪食だと理性が自嘲したが、血を啜ることは止められなかった。
 ちらり、と上目で日向くんを窺うと、日向くんが鶯茶色の瞳をぐらぐらと揺らして僕を見ていた。僕と同じ、お腹の空いていそうな表情だった。
「こま、えだ」
 掠れた声で名前を呼ばれて、胃の奥が熱くなる。
 どうやら新しい血はもう流れてこない。
 僕は満足して口を離す。
 溢れた唾液が顎を伝って、テーブルを鳴らした。
 演技なのか分からないけれど呆然とこちらを見遣る日向くんに、僕は出来る限りの笑顔で返してやる。
「何をあげようか迷ってたんだよね」
 下手に形のあるものを置いておいたら検閲に引っかかりそうだし。
 食べ物は一応用意はしてみたけど、腐らせる前に捨てちゃった。
 だから、あげるのは傷にした。
「それで、瘡蓋が消える前には戻ってきてよ」
 薬指の根元の、拘束具を模した傷に唇を落とす。
 それから僕は僕の右手で、残りひとつの玉子焼きを日向くんの口に運んだ。
 彼の舌が一瞬だけ指先を擽る。
 日向くんは玉子焼きだけを食べて、僕の指に傷を付けることはしなかった。
「分かった、約束だな」
 表情を微笑みに戻した日向くんは、しばらく自分の左手を眺めてから立ち上がる。
 玄関からではなく、ベランダから帰るらしい。
 日向くんの手が、錆びてロクな防犯機能すら持たないクレセント錠を開けると、春の能天気な風が六畳一間に吹き込んだ。
 カーテンが光る。
 桜の死骸がぶわりと舞い上がって日向くんを包もうとするから、僕はその前にもう一度腕を伸ばす。
 彼の手を軽く引いて引き寄せて、触れた唇は玉子の甘みと、菜の花の苦い味がした。
「そうだ、お誕生日おめでとう」
 三ヶ月遅れの台詞を告げると、日向くんは破顔した。
 こんな春より、夏の日差しが良く似合う笑顔を僕に向けて、唇だけでまたな、と僕に囁く。
 それからまた、風が吹いた。
 目に砂が入って思わず目を瞑れば、再び開けた時にはもう、彼の姿は忽然と消えている。一応ベランダから裏庭を見下ろしてみたが、そこには遅咲きの桜がぼうっと立ちつくすだけだ。
 窓を閉めて部屋に向き直れば、一人分のお皿と桜の花弁がひとひら、テーブルに横たわっていた。鍋も消え、まな板も、包丁も、まるで未使用のように綺麗に仕舞われている。
 そこに今まで彼のいた痕跡は無く、先ほどまでの全てが裏庭の桜が見せた幻覚だったようにも思えた。
 幻覚ではないと、示す術を今は持たない。
「うぅん……ボクの手にも、貰うべきだったかな」
 傷。
 どうしようもない独り言と溜息をひとつ部屋に落として、僕は朝食に向かい合う。
 玉子焼きの最後の一切れを食べたら、コーヒーを淹れよう。
 君に会えるまでの一日を進めるために。
 ……ああ、そうだ。折角本人がいたのに、伝えそびれちゃった。
 
「あいしてるよ」
 
 次に会う君の左手に、薬指の根元に、ちゃんと傷が残っていたら今度こそ言おうかな。