しくるの納戸
2024-10-05 21:59:25
7049文字
Public 狛日
 

冬たより/春たより

狛日/希望編から少し経った頃の話2本。

冬たより


 毎朝の日課のお散歩は、普段より十分も早く切り上げた。
 今日は気が向いて海辺まで歩いてみたのはいいけど、冬の海になんて近づくもんじゃない。波が高くて、寒くって、頬を叩く霰が痛くって、たまに蟹も飛んできて、それからとっても寒い。
 早く帰ってコーヒーでも淹れよう。
 アパートの自室に急ぎ足で戻った僕の目に、三口コンロの右側にひっそりと置かれた土鍋が飛び込んできた。
 僕の土鍋ではない。
 こんな壊れ易いものを、僕が綺麗な形で保てている筈がない。
 鍋の蓋の通気孔から、白い湯気がゆらゆらと立ち昇っている。
 ということは、『彼』が来てからそんなには経っていないということだ。
 一応、帰路の最中は人影や物音を気にするようにはしていたけれど、まぁ、向こうが逢おうと思ってくれるならまだしも、そうで無いなら自分如きに彼の気配など見破れる筈もない。
 探しても無駄だと、諦めて目の前の鍋と向き合うこととする。
 灰色の鍋。蓋と側面に紋様が刻まれているそれはかつてなら見る機会も多かったけれど、この荒廃した今の世界で無事なものを見つけるのは難しい。
 彼のことだから、これも自分で作ったのかもしれない。
 三回も生まれ直した癖に、相変わらず趣味が地味だ。
 別に趣味でもなんでもなくて、かつての思考をなぞってるだけなのかもしれないけど。
 ……なんて。彼のことはさておき。
 ほかほかと僕の部屋に湿気を注ぎ足していく鍋に向き直ると、その横にはメモが一つ。
 
 『蓋を開けるのは席に持ってくまで我慢な。テーブルまでは直線で向かって、鍋を置くまで座るなよ。席はどこでもいい』
 
「了解」
 聞こえるはずもない返事を投げて、僕は指示に従うべく蓋はそのまま鍋を持ち上げる。メモは、この手順なら不運が起きないと、メモと鍋を置いていった彼からのアドバイスだった。
 以前、興味本位で手順を破ってみたらそれはまあ酷い目に遭った(その上、五分と経たず罪木さんが手配された)から、僕はなるべく従うようにしている。
 言われた通りテーブルまで真っ直ぐ進んで鍋を中央に置き、窓の正面に座って、それから初めて鍋の蓋を開けた。
 途端に玉手箱みたく溢れ出す白い煙の中から現れたのは、
「あ、おさかな」
 くるんと丸まった白身魚の身だ。
 他にも椎茸と、白菜と、しめじ、ネギとお豆腐と……詰め込まれていたのは、今となっては絶滅危惧種と言ってもいい食材ばっかりで、良く集められたなと僕は今更なことを考えてしまう。
 メモにもう一度目を通すと、河豚と書いてある。
 河豚。ふぐ……フグか。
 勿論、調理免許なんてクソの役にも立たない世の中だ。花村くんもフグは使わないと言っていた。河の豚だなんてアーバンさに欠ける、と言っていたけど、単に、彼の追求する家庭的な料理には不要だったということだろう。
 ということは、これを捌いたのも彼ということになる。
「楽しみだなぁ」
 高揚して独り言が増えた自覚はあった。
 だってフグを食べるのは初めてだ。
 挑戦しようとお店に入ったことはあったけど、注文したフグ刺しが中々届かないなと退屈してる間に、手違いで届けられたテーブル席のお客さんが毒に当たって死んじゃったらしい。
 彼の出す料理は安全だった。
 彼の才能で毒殺されるならばそれも本望、という意味も含めて。
 僕は魚の身を箸で摘み、口へ運ぶ。
…………
………………
……………………うん、美味しい」
 淡白な味だった。
 淡白だけど、弾力があって、昆布出汁とフグの身から出た旨味が絡んでいて凄く美味しい。
 凄く美味しい、普通の料理だった。毒もない。
 舌の充足感と、肩透かしを食らった気持ちを半々に、僕は二つ目のフグを口に運ぶ。
 二口目も変わらずに鍋は美味しいままで、笑えてきてしまう。
 彼は試食したのだろうか。
 僕のように美味しさで笑えてきたりしたのだろうか。
 美味しいと思う感情は、まだあるのだろうか。
 超高校級の俳優の才能を使ってでも目の前で色違いの目を細めて「うまい」と笑ってくれたら演技でしょと揶揄ってあげられるのに、鍋を食べ終えても湯気の向こうから彼が現れることは無かった。
「ごちそうさま」
 空になった鍋を前に手を合わせ、僕は用済みのメモを手に取る。
 鍋を開けるまでの注意書きと、材料と、あとは僕個人宛の簡素なメッセージ。
 それをもう一度読み直して、シュレッダーに掛けた。
 細切りになっていくメモだったものを横目に、僕は今度は鍋を持ち上げる。
 フローリングに思い切り叩きつければ、ガアガアと煩い機械音が陶器の割れる音に掻き消えて、耳が痛いほど静かになった。
 散らばった破片とシュレッダーの紙屑は、明日の朝、海に捨てていかなければ。
 彼がここに来た痕跡を残してはいけないからだ。
 面倒くさいけれど、あともう少しだからと、先月の彼がメモで言っていた。
 その「もう少し」までは、気まぐれに部屋に置かれる料理と一通のメモが唯一の生存確認の手段となる。
 当然、僕から彼にメモを置くことは出来ないから、これは一方通行となる。
 本当、面倒ったらありやしない。
……ボクもだよ」
 分解された五文字の残骸に残響すら残らない返事を投げつけて、僕はシュレッダーをひっくり返した。
 せめて来月くらいは、君の誕生日くらいは直接お祝いさせてよね。