雨が、降り始めた。鬱蒼とした山の中、それでなくとも月のない夜だ。手元を照らすのは、傍の木に立て掛けたたいして明るくもない懐中電灯だけである。
木下は土にスコップを突き立て、軍手を嵌めなおした。
模糊とした光の輪が風でわずかに揺れ、己の影も跳ねるように揺れる。目の端に青い紫陽花が映っている。揺れもせず蹲っていた。
◇
木下が呼び止められたのは、夕日の残滓が消えた藍色の中だった。
「ねぇ、キミ」
男の声に、仕事帰りの重い足が止まる。本心で言えば止まりたくなどなかったのだが、何故か逆らうことができなかった。
「そう、キミ。少し手伝いたまえ」
見回せばビルとビルの隙間、そこだけ先に夜に浸けられたような、とぷんとした暗がりに痩せぎすの男が立っていた。梅雨も明け、この時間でも涼しいとは到底言えないというのにクラシカルなスーツをきっちりと着込み白い手袋までしている。顔にはにこやかといっていい笑みが張り付いていた。
どうにも胡散臭い。関わるまいと目礼だけで通り過ぎるようとしたが、しかし。
「紫陽花の夢をみているだろう」
――その言葉で、視界が回った。ビルに手をつく。ザリザリと壁に皮膚が削られる。
赤い、紫陽花の海。黒い土。赤、赤、赤。濡れて纏わりつく黒。ゆさゆさと揺れる朶。腐った臭い。かき分けてかき分けて探して探して探して、ぽつんと一株だけ目の覚めるように青い――
夢の中の饐えた臭いが蘇って激しく嘔吐く。空の胃からは何も吐きだされはしないが、内臓が空気すら拒絶しているようだった。
その間、黒い革靴は動きもせずそこにあり続けた。
ようやく呼吸が落ち着いた木下が立ち上がると、男がまた声を掛けた。はじめとなにも変わらぬ笑みだった。
「おいで」
男は踵を返して路地を奥へと進んでいく。暗がりに溶けてゆく。
背中は、ついて来ることを疑いもしていない。
◇
「気を付けたまえ。そろそろ見えてくるだろうから」
自分のものでない声がして、木下は我に返った。目線を上げれば男が、黒い傘を差して立っている。明かりの輪の外に立っているせいで表情はよく見えない。声は、いつも通り(いつもとは?)だったが。
目の前には、腕で作った輪ほどの広さの穴がある。深さは、まだ大したことがない。こんな深さでは隠せないだろうに(なにを?)。
男の言う手伝いとは、穴を掘ることだった。
鬱蒼とした山の斜面、日のほとんど当たらぬだろう一角。大きな青い紫陽花の株が生えて――いや、植えられていた。
重たい緑は、そういう生き物が蹲っているようだと、木下は視線を外しながら考える。あちこちの花の房はさながら、八方を無機質に眺める複眼にみえた。
その手も足もわからぬ化け物の目の前、草の薄い部分を白い手袋が差していた。「ここを掘ってくれるね?」。手にはいつのまにかスコップを持たされていて、しかたなく、掘り始めたのだ。
掘る。
夢の中のような腐臭はしない。代わりに溺れそうなほど濃く重い水と緑の匂いがしている。
支離滅裂な夢でも見ているような浮遊感の中、また土を掘り返す。
眩暈がしていた。なんだか、もうずいぶん長い時間、掘っているような気がしていた。実際には四半時も経っていないはずなのだが。
ただただ掘って。腕を振り上げ振り下ろし地を刻み草の根を引きちぎり葉を切り土を積み上げる。繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し。
ガツ、とスコップの先が何か違うものに触れた。土をそっと脇によせると、黒く染められた木の板らしきものが現れる。
――棺。
なぜそう思ったかはわからない。だが、確信があった。
手が止まったからか、音に気づいたか。穴の縁に汚れひとつ、泥はねのひとつもない革靴が現れた。
「これ、」
思わず零した音はひび割れて落ちて、
「うん? 不安になるようなものじゃあないさ」
赤子を宥めるような手触りの声で土に埋められていく。
「ほら、蓋を開けられるようにしてくれ」
はやくはやく、と急かす声は楽しげで無邪気ですらある。その声に背を押されて、木下はまた、土を掘る。
雨が紫陽花の葉を叩く音が煩くて仕方がない。
土の下から現れたのは、やはり棺だった。死人のための寝床は、懐中電灯の灯りをてらてらと反射している。
強くなるばかりの雨が、棺についた泥も洗い流していく。
その理解できない静かさに気道が締め上げられた。
息が上がる。動悸がする。身が竦む。背を伝う冷たいものは雨ばかりではきっとない。
「開けてくれないか」
ひ、と引きつった声は、スコップを握る男の喉から。落ち着こうと繰り返した呼吸は細い風音を立てるばかり。
「なんだい、驚いたりして。大丈夫だよ、開けてくれ。さあ」
声はどんなにか待ちわびていただろうことがありありとわかるほど喜色に溢れている。
「さあ」
スコップの柄がギチリと鳴る。木下は恐慌寸前であった。
なぜ自分はこれほど怯えているのだろう。この中をみることが不吉だとか、怖いだとかいう訳ではない。ただ、見てはならない気がしてならない。黒々とした底のない穴の縁にたっている時のように足がすくむ。
無意識に後退りした背に、何かが当たって飛び上がる。
「早く。さあ」
いつの間にか隣に立っていた男の手が、背に添えられていた。そのまま押しやられる。枯れ木のように細い腕だ。力などかかってもいない。しかし、抵抗もできない。
跪く。膝が濡れるが気にする余裕はない。
震える手を、蓋にかける。ひゅうひゅうと鳴るのは風か、喉か。
カコン、と棺は軽い音を立てて開いた。
その中央。そこには木下と瓜二つの若い男が目を閉じて静かに横たわっていた。夜の中で浮き上がるほどに白い布が詰められた、その中心に。
「……お、俺?」
いや、違う。似てなどいない。自分の髪はこんな色ではないし、それに目も、……なぜ、この死体の瞳が青だなどとわかるのだろう。棺の中身は瞼を閉じているのに。
なんで。なんだよ、これ。そうだ、あいつなら何か知って……。
木下が立ち上がろうと腰を浮かせた瞬間、どん、と何者かがその背を突き飛ばした。
あ、と思うまもなく棺が、知るはずのないよく似た死体が間近に迫って――
◇
雨の山中で懐中電灯らしき光の輪がふらふらと揺れている。その下に蹲る影もゆらゆらと揺れた。
背後の闇より一段深いその影は、足元の箱を熱心に覗き込んでいた。
「うーん、思ったより増えなかったな。名前も半分同じだし年の頃も同じくらいで期待したんだが」
針金のような影は、愛おしげに箱の中身をひと撫でする。雨の滲みひとつもない純白の手袋で。
「あといくつ廻ればいいのだか。……まったく、手を掛けさせる五歳児だ」
その声に滲むのは、慈愛かそれとも人ならぬものの狂気か。
朶を折り取られては、紫陽花も答えられまい。
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