【逆さの天国】Ⅰ

『B'ASH』現行未通過×

アマリン
※宗教パロ



コトコト。トントン。


……?」


心地いい包丁の音と、甘い木苺の匂いが意識を揺らす。背中に伝わる布の感触は、少し固い。かけられた毛布は薄っぺらく、身を起こしてようやくその存在に気がつく。
まだ朦朧とする意識で周囲を見回せば、そこは小さな寝室である。らしい。ベッド、小棚、小さな机と椅子が一組。ありきたりな窓が一つと、これまたありふれた扉が一つ。扉向こうから聴こえる包丁の音が、人の気配を明白にしている。甘い香りもそちらから漂っている


……えっ?」


そこまで確認してから、彼は遅すぎる覚醒を迎える。ハッと目を丸くさせ、慌てて背中の翼を確認した。そこに生えた天使の証は、漆黒の闇色に染まっている。もはや堕天使の証明にしか使えない、立派な追放の印。天輪は既に朽ちたらしく、頭には何も浮いていない。


「(こ、これ、どういう状況なんだろう?)」


彼は、リンと呼ばれる元天使堕天使は、毛布を抱えて混乱する。翼を小さく畳んで、身体を縮こまらせて震える。必死に考えをまとめようとして、直前の記憶を漁る。


若い天使であった自分は、天上で生まれ育った。信仰深い人間に加護を与え、共に悪魔を滅して、来たるべき聖戦に備えて力を蓄えていた。数百年はそうしていたが、数日前の事故で神から離反することになった。天上から永久追放され、神へ祝福を返上した。

これは仕方ないのないことだ、“あんなもの”を見てしまったのだから。とにかくその後、地獄へ向かおうと地上の空を飛んでいた。しかし肉体の維持に必要な栄養が足りず、フラフラと何処かへ落下した……はずだ。そして、そうして、何故かこうなっている。
誰かに助けられたのか? 一体誰に? 堕天使の自分をわざわざ助けるような存在が??


そうして思考をただぐるぐると巡らせていれば、突然部屋の扉が開く。完全に意表を突かれたリンは、驚いて小さく悲鳴を上げた。

立っていたのは、重い前髪で目を隠した青年だ。翼も天輪も尻尾もない、人間の男。両手でトレーを抱えており、そのトレーには良い焼色のパンと赤いジャム瓶が乗っている。落ち着いた色合いの服装は、使い古されているのが人目でわかる。
青年は自分が目覚めていることに気が付くと、ペコリと小さくお辞儀をした。


「おはようございます、天使様。お怪我は大丈夫ですか?」

……へ?」

「驚かせてすみません。空から貴方が落ちてきたので、助けさせて頂きました。これは近くで採れるベリーのジャムです。甘くて美味しいですよ」


そう告げて、青年はベッド隣の小棚にトレーを置く。瓶以外全て木製の食器は、樹木の温かみを感じられる。食パンは程よい加減の焦げ目を纏い、焼き立ての香りでリンを魅了する。小瓶に詰まったジャムも、ツヤツヤとしていてとても美味しそうだ。縦長の木製コップには、透き通った水。トレーにはそんな、質素だが非常に質の良い朝食が並んでいる。

未だ混乱し動けないリンに、青年は首を傾げる。そしてすぐ何かに気付いたように「ああ」と声をこぼして、ベッドの傍で姿勢を正して跪く。


「すみません、天使様。貴方に名乗ることをお許しください」

「えっ!? ええと、えっと、な、名乗るくらいは、自由にしてくださって、か、構いません、よ……!」

「ありがとうございます。自分はアマヤメ。ノノバナ アマヤメと申します。この度は、このようなところに落ちた天使様に勝手なことをしてしまい

「ちょちょ、ちょっと待ってください!!」


項垂れて話を続ける青年アマヤメに、リンは待ったをかける。ベッドから降りてアマヤメの傍に駆け寄り、頭を上げるように言う。不思議そうに顔を上げた青年は、堕天使を「天使様?」と呼びまた首を傾げる。


「(ど、どうしようこの人、ボクを天使だって勘違いしてる……?)」


この黒い翼を見れば、堕天使であることは分かるだろうに。しかし目の前の青年は、本気で自分を天使だと思っているらしい。真名を告げ、真摯に対応していることからそれは理解できる。リンは暫し悩んでから、その勘違いに便乗することを選ぶ。天使だと偽装していれば、何かしらの支援を受けることはできるだろう。若干の罪悪感は在るが、これも地獄へ向かうための手段である。


「あの、ボ、ボクはリン。ホノスソ リンです。天使様ってのはあの、その、ちょっと重いので……名前で呼んでくれると、助かり、ます

「ホノスソ様ですね。分かりました、そう呼ばせていだきます」

「けっ、敬語も外していいですよ! 助けてもらったのはこっちなので!」

「流石にそれはホノスソ様こそ、自分に敬語は必要ありませんよ」

「いやいや! 本当! 助けてくれたのはノノバナさんなので!」


ブンブンと大袈裟に手を振れば、渋々ながらアマヤメは引き下がり「でも敬語は使わせてください」と言う。そしてふと思い出したように「あ」と声を漏らして、小棚へ顔を向ける。トレーに乗ったパンは、まだ温かい湯気を浮かせている。


「食事は摂れそうですか? 気に入らなければ他のものを用意しますが」

「え? あ、だ、大丈夫です。その、用意してくれたもの、食べます


吃りながら言い切れば、アマヤメは頷いてトレーを机へ移す。そしてリンを、一組の椅子へ座るよう促した。誘導されるがままに座れば、テキパキと机上にトレーの食事を並べ直していく。

食事の支度が整えば、アマヤメは「ごゆっくりどうぞ」と一言告げて部屋を後にした。残されたリンといえば、あまりにも素早く無駄のない行動についていけず呆然とするしかできない。ようやく我に返った頃には、既に扉は閉まっていた。


こ、これ……食べていい、ん、だよね……?」


不安ながらも、目の前に置かれた料理たちは魅力的だ。酷く空腹であることも加わって、我慢するという選択肢がどんどん遠退いていく。恐る恐るパンに触れれば、火傷しない程度の熱が指先から伝わる。

一度触れてしまえば、もう止まれない。食パンを裂いて、フワフワの質感を堪能する。ジャム瓶をパカリと開け、スプーンで中身を掬い上げる。果肉がまだ残った贅沢な木苺のジャムを、裂いたパンに塗り拡げる。鮮やかな赤を乗せたパンに、パクリと齧り付く。ジャムの甘酸っぱさとパンの香ばしさが口いっぱいに広がって、食感もサクサクとフワフワが融合して全身を喜ばせる。舌の上で蕩ける果肉は、しかし甘すぎすさっぱりとしている。思わず頬を押さえるほどに美味で、優しい味だ。

ゆっくり食べながら、リンは考える。腹も満たされ始めたからだろう、先を考える余裕が生まれたのだ。
アマヤメという青年は、自分を天使だと勘違いしてる。ここが何処なのかは分からないが、現状この家にアマヤメ以外に人の気配はしない。それどころか、窓の外を眺めても鬱蒼とした森が続くばかりだ。堕天使が隠れて拠点とするには、あまりにも都合が良い場所に思える。


…………


夢想する。あの日、鏡越しに見た美しい“あれ”を。何もかもを等しく燃やし、地獄を彩る灼熱を。“あれ”を手に入れられるのならば、自分は何だって行う。どんな罪も犯してみせる。そう、今更人間一人騙すことに何を躊躇しているのだ。
水を一口飲んで、深く息を吐く。最後の一口にまで減った食パンを、一度眺めてみる。少し冷めたパンの上に乗せたジャムは、見ようによっては鮮血にも見える。多くの血肉を喰らえば、悪魔と同等に堕ちられるだろうか。物騒なことを考えながら、リンは最後の一口を頬張った。