薫る煙にミラーボールの光が散乱する。燻された甘い香り、聞き取れないほどの話し声。俺の現実には何ひとつとして現れない光景。タイムスリップしたかのようなこの空間に、俺はいい加減慣れ始めてきていた。訪れるのは今夜で何度目だろうか。目的を達成できずに店を出ることを繰り返し、その惨めさに数えるのはとうにやめてしまっていた。
左のボックス席では成金の男が膝に派手な女を乗せ、右のカウンター席では女性同士がキスしている。俺の視線が奪われるのはそのどちらでもなかった。フロアの正面センター、一段あがった舞台上でスポットを浴びる男に、俺は用があった。
「ご清聴おおきに! 今夜もまだまだ楽しんでってや!」
一部の客からの拍手に送られ、男は袖にはけていった。俺は舞台から少し離れた席で、その背中が見えなくなるまで目で追っていた。今日はそのまま帰ってしまうだろうか。それとも、客と一緒に酒盛りをする日だろうか。後者ならいい。彼と話がしたい。俺はもう、彼にしか頼れない。
周辺の店で聞いた噂が本当なら、叶うならば。どうか、俺を抱いてほしい。
「おっ! 今日は真っ直ぐ帰らんのかぁ!」
俺が座る円形ソファの向かい側で、中年の男が手を上げた。視線は、俺の左斜め後ろに向けられている。
「よう! 今日も機嫌よう飲んどんな!」
ついさっきまで、マイクを通して聴いていた声だった。
「隣、連れおる?」
驚きに肩を上げて俯く俺の顔を、彼ーー白膠木簓が覗き込んだ。
「い、いえ、一人です……」
俺がぎこちなく答えると、彼はどさりと腰を下ろした。
「お兄さん、たまに来てるよな」
「あ、え、そっちから、見えてるんですか……」
「よう見えてるよぉ。右から左、前から後ろ、わろてへん奴らの顔もな。……たとえば、今日のジブンとか」
そう言って彼はにこりと笑った。上がった目尻に冷や汗が出る。
「あ、いや、決してつまらんかったとかそういうわけではーー」
「なんか考え事してた?」
「あ、いや……」
「他のことで、頭いっぱいやったんやろ」
何もかも知っている者のセリフだった。俺の思惑も下心も、すべてがあのライトの元に晒されているようだった。もう逃げ場はない。
「俺のこと、どっかで聞いて来た?」
こくりと頷いて、鼻で小さく笑われる。耳まで赤くなるのを感じた。こうなればもうヤケだった。相手にすべて見透かされているのであれば、むしろ話は早い。息が震えて言葉で懇願できない代わりに、俺は彼の手に自分のものを重ねた。
「ごめん。俺触られんの苦手やねん」
一気に酔いが覚め、その瞬間に「終わった」と思った。
「触んのは好きやけどね」
慌てて引っ込めたつもりの手は、指まで絡め取られ、気づけば仰向けにされていた。
「ーーとか、こんなん言うからアカンねやろなあ〜!」
「え……?」
俺を解放した彼は、パッと両手を上げて天を仰いだ。
「まじで! ちゃうから! 俺は実力でいろんな店の舞台立たせてもろてるし、オーナーさんらに聞いたら一発でわかるから! 誰ともねんごろンなってへんから!」
口裏はなんとでも合わせられるのでは、と思ったことは飲み込んだ。
「男娼なんて、そんな……ただ、悩んでる人ーー俺みたいな、誰に頼ればいいのか分からない人に、その、手取り足取り、教えてくれるって……」
「おーおー、そこそこええように尾ひれはひれつけてくれとんなあ」
彼は胸ポケットから煙草を取り出し、慣れた手つきでライターを構えた。その所作に、俺はうっとりと見惚れた。
「……なあ、煙草嫌い?」
火をつける寸前で、彼はそう訊ねた。口の動きに合わせて揺れる煙草の先を、俺はぼんやり見つめる。
「まあ、好きではないですけど」
「ほーか。ほなやめとこ」
彼は一式を仕舞うと、ほとんど減っていない俺の酒を一気に飲み干した。
「ここのオーナーに『お持ち帰り禁止』てキビシぃ言われてんねん」
「はぁ」
「せやからニイちゃん。絶対言うたらあかんで?」
なにを、と訊こうとした舌の自由が奪われた。ゆっくり味わうはずだったライムの香りが鼻に抜ける。息苦しさに薄く開いた視界に、また眩暈がする。
「ほな行こか」
たかがキス如きで、朦朧としている場合ではない。ぐっと引き上げられた腕をゆるく振り解き、腰は折れたままでも自分の脚で歩き出す。
「ハハッ。丈夫そうやな」
彼は俺の腰を抱いて、耳元に唇を寄せた。
ーー楽しめそうやわ。
悶々とするくらいなら、さっさと散らしたかったバックバージン。俺はその人選を誤ったかもしれない。
ワインレッドのベルベット生地に健やかな日差しが伸びている。明るく晒されたアダルトな空間は、どこへ視線をやっても居た堪れない。
その中の白いワイシャツの背中。スポットライトの下に見ていたそれとは違う、やや丸まった形。俺だけ素っ裸にされた場面と結びつく。
彼はスツールに腰掛け、ノートになにか書き込んでいる。きっとネタ帳かもしれない。覗き込んだりしたら、嫌な顔をされるだろうか。
熱心な横顔、二つ開いたボタン、左手が握るペン。そういえば、昨夜も。
利き手は左手だと言っていた。でも疑わしいほどに両手とも器用だった。彼は最後まではしなかった。その代わり、とても優しく触れてくれたのだ。自分なりに事前知識は蓄えていたつもりだったのに、指用のゴムなんて初めて見たし、知らないことばかりで、自分の体のことさえ教えられるばかりだった。
俺の方はろくになにも出来ず、彼のシャツを引き抜いただけ。そのときにふわりと、甘くてちょっと辛いような香りがした。まさに目の前の佇まいを表すような、そんな──。
「口開いてんで」
まさか観察していることに気づかれているとは思わず、肩が跳ねた。背中に目でもついてるのか、そう喉まで出かかった。
「俺視界こっからここまであるから!」
彼は頭の辺りで大きく身振りした。
「って誰が──」
「いや草食動物やないんやから」
さっき言い止まった言葉の甲斐もなく、俺は咄嗟に打ち返してしまった。一瞬空気が止まった感じがして、間違えたか、と唾を飲む。けれど彼はにんまり笑って続けた。
「でもまあ、肉食でもないやろ? あー、ナントカ男子っちゅうやつや」
「そのナントカが大事やろ、俺も知らんけど」
気安い笑顔につられて、軽口を叩く。彼も悪い気はしていないらしい。
「で、なにをジィと見てたんや?」
昨晩のことを一から順に思い出しておりました、などと言えるわけもなく、適当なことを口にしてみた。
「こういうのって普通、起きたらおらんもんやとおもてた」
「まあそんときによるんちゃう?」
「やっぱり、いつも……」
──遊んでるんや。
あろうことか俺は、指を弄り、俯いたりなどしてしまった。自分がそんな態度を取るなんて信じられない。走馬灯で一番見たくない記憶かもしれない。
「遊んでんのかて? まあ、月にいっぺんあるかないかっちゅう感じやな」
「そうですか」
「そうやあ」
彼は間延びした言い方で、少ない方やと思うけどな、と付け加えた。
「ほんで俺面食いやしな」
「は?」
その意味を理解する前に顔を上げると、至近距離に彼の笑顔があった。
「いつでもドウゾ」
彼は俺のことを気遣ってか──もしくは予定があったのかもしれないが──先出るわ、と部屋をあとにした。
眩しく青い空の下、ぼんやり帰宅しながら気がついた。
名前を聞かれなかった。聞かれなかったから、言わなかった。
連絡先ももちろん交換していない。あの「いつでもどうぞ」は、彼なりの「さいなら」なのだろう。
「まあ、そらそうか」
慰めるような風が吹く。嗅ぎ慣れないシャンプーの強い匂いは、あの体から香ったものを忘れさせてくれそうだった。
シャンプーだけでなく彼の香りもまだ少し大脳辺縁系に残るうちから、俺は同じホテルの前で陽の光を浴びていた。なんのことはなく、ただ忘れ物を受け取りにきただけである。
しかし冷静になった頭で長居できる場所ではない。誰に見られているわけでもないが、そそくさと脇道に逸れた。
俺と同じように、汚い道の端っこを向かいから歩いてくる姿があった。よれた麻の開襟シャツに、ほつれたジーンズとサンダル。
髪色さえあの緑でなければ気が付かなかった。
「あれえ?」
白膠木簓は俺を覚えていた。驚いた様子でホテルを指差し、手を合わせて耳に当て、眠るジェスチャーをして見せた。慌てて首を振りながら駆け寄る。弁明の必要など、なにもないが。
「ちゃうちゃう!」
昼の白膠木簓はいわゆる地元のツレくらいの風貌で、思わずタメ口になる。
「こないだ金庫ン中に忘れモンしたから」
印籠よろしく、定期券を見せつけた。自宅と学校の最寄り駅が書かれている、正真正銘、俺の忘れ物だ。
「金庫ぉ?」
「ワンナイトって、朝起きたら金抜かれてるっていう話を見かけたからな」
危機管理能力が備わっている自負がある。何気なく言ったつもりの俺に、彼はクスリと笑った。
「俺も前、その辺住んどったで」
「そうなん?」
「律儀に郵便物まで持ってきたんか」
彼は俺の手に握られた、役所からのハガキをめざとく見つけた。
「一応、証明に。フロントめっちゃテキトーやったけど」
「俺そんなんTSUTAYAの更新ときでも出したことないわ、緩い店員おったから」
「それ駅前のとこ?」
「そうそう」
「俺その店員さんがめっちゃ怒られてんの見てから持っていくようにしたなあ」
「エエ子やなあ」
「あのあとぐらいから、ちゃんと出せって言われるようになったし」
「あっこまだあるん?」
「あるある。その店員もたぶんまだおる」
会話のラリーが途切れることなく、気づけば繁華街を抜けていた。彼が「ちょおタバコ」とコンビニに吸い込まれていくのに、俺は何も考えずについて行ってしまった。
出てから少しのところにちょうど喫煙スペースがあって、今日は「煙草嫌い?」と訊ねられることもなく、なんとなく立ち話が続く。ほな、と手を挙げるタイミングをことごとく逃してしまった。落ち着かない心地もあるが、帰りたいほどでもない。彼が煙を吸い込むごとに短くなっていく焼けた先端を横目で見る。ついには吸い殻入れに擦り付けられ、火は消されてしまった。
「ほんで今どんぐらい進んでるん?」
さようならの頃合いかと思ったが、俺が購読していると言った分冊百科について、彼はさらに話を広げた。付録の模型が完成間近であることを伝えると、嬉しそうに笑った。
一歩二歩と踏み出してしまうと、また隣を歩いてしまう。そうこうしているうちに賑やかな通りに差し掛かった。あまりの酒盛り具合に、時計を確認する。間違いなく昼の11時だ。
「おぇヌルデ! 今やったぁ席空いてんど!」
野球帽を被った赤ら顔の男が彼に声をかけた。彼はくるりとこちらに振り向いた。
「飯は?」
野球帽の男と彼が、俺を見る。
「起きて慌てて来たから、朝はまだ」
「二人か! 一個そこの椅子取ったって!」
どやどやと知らない腕が伸びて来て、半ば強引に着席させられた。揚げ物と味噌の匂いに胃がキュウと鳴る。
「ジブンこんなん食うたことないやろ」
その物言いに少しムッとした。
「めっちゃ美味いんやで」
それは彼のとっておきを教えてくれているようだった。俺の心は一瞬でほぐれた。実際そこのホルモン串は絶品だった。彼の言うとおり、食べたことのない美味しさだった。
腹も満たされ、歩みものんびりとしたものになってくる。あてもなく、ただ雑多な通りを二人でぶらつく。恐ろしいほどに休日という感じである。
「この辺あんまり来たことないなあ」
俺がぽつりと呟くと、横で彼は「せやろなあ」と返した。どこか近くから鳥の声が聞こえる。
「昔に動物園に来たような気もするけど、ここやったかなあ」
「ああ、あっこなぁ。ワンコインで入れたら上等やわな」
天井の低いトンネルを通り過ぎると、ドーム状のネットが見えた。小さい影がたくさん飛んでいる。
「駅もきれなって、中も改装してるらしいわ。しまいに値上がりするかもしれへんなあ」
顔を見合わせ、いろんな鳴き声がする方へと向かった。
入園してすぐに、家族連れの中に突然放り出された二人組のような気分を味わう。パンフレットを一応手に取り、園内を巡ることにした。
ところがひと通り見て回るより前にベンチを見つけ、二人してうたた寝してしまった。ほどよく暖かく、居心地が良過ぎる。目を覚ました頃には太陽がテッペンから少し傾きはじめていて、目を擦った。のろのろと立ち上がった俺たちは、どちらからともなく園を出た。
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