つきのせ さぶろく
2024-08-12 17:14:40
3491文字
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海の日のイーゼル

【境目卓SS】稲妻 昊(🎐|🐰)とその後輩(🍥)の話


 学校でまたしても彼の横顔を目撃して、あれが夢ではないことを思い知らされた。自由な校風とはいえ、染めた髪はやや目立つし、高校生らしからぬミステリアスな雰囲気は隠せない。いや、きっと彼は隠すつもりなど毛頭ないのだろうけど。
 稲妻昊、一つ上の先輩であり、祖父からよく聞かされた名前だ。変に諦めが早くて、なんだか少し遠くを見ているような男の子。首にかかるカメラの重みが、今更ずっしりとプレッシャーをかけてくる。きっと先輩がこちらに少しでも視線を向ければ、ここに私がいることなんてバレてしまうだろう。足は逃げようと後ろに下がるが、それに体がついていかなかった。逃げたいのだけれど、こんなに明るいところで見る彼の横顔から目が離せない。窓の外では蝉が鳴いていて、空の青さはもはや眩しい。だけど、先輩の頬を薫風が撫でていく。初夏なんて過ぎ去って、もうこんなに暑いのに。
「あ」
 流し目に射抜かれて、思わず声が出た。
「さっきから、何ジロジロ見てきてんの」
「す、すみませーん……
 こちらに体を向けた彼の胸元で、ドックタグが煌めいた。
「先輩、実在してるんですね」
「なにそれ」
「だってー……、なんか現実味ないんですもん」
「どういうこと?」
 クラスメイトの健康的に焼けた肌を見慣れているせいか、彼の薄青いような肌に本当は異世界人なのかもと錯覚する。彼が本当に同じ高校生なのか、いまだに確信は持てない。稲妻昊は祖父だけが話す御伽話の存在などではなく、この現代に生きる一人の人間だと脳は認識しているのに。
「ねえ」
 先輩が太陽を遮って、薄い影がおちた。私はつい息を呑んで、そのまつ毛を見上げた。まばたきとまばたきが合わさって、視線の稲妻が走った様な気がする。そのせいで舌が痺れて、うまく言葉が出てこない。
「あんた、ぼくをなんだと思ってんの」
「へ?」
「なんか、珍しい動物見つけたって顔」
「え、いや、そんなつもりはない! です!」
「ふうん」
 ふいと先輩の目がまた窓の方を向いた。唐突にそれが勿体無いように思えたのはなぜだろう。
「先輩」
 いつの間にか痺れは取れていて、律儀な先輩にレンズを向けていた。逆光で消えそうな先輩の輪郭を、残しておきたいと強く思ったのだ。四角い画面に、先輩のきょとんとした顔が収められた。
「写真、撮りましょう!」
 何か言いたげな先輩を遮って、半ば見切り発車でそんな提案をした。案の定空いた口が塞がらない先輩は、何度も瞬きをして私を見ている。
「は? なんで」
 尤もな疑問だ。
「えーと、写真部なので!」
「なんで僕なんか」
「撮りたいんです!」
 これは嘘じゃないし、でまかせでもなかった。
「先輩、今の空気と非常にマッチしてるので!」

 ❖ ❖ ❖

 高台のサービスエリアから伸びる階段を降りると、すぐに砂の感触が靴裏を襲う。先輩は二、三歩歩いてすぐ、靴下までしっかり脱いで裸足になってしまった。
「広い空、裸足になればみな自由」
 濤声に混じって先輩の声がした。
「なんですか?」
……前詠んだ句。この気分は久しぶりだったから」
「あ、先輩といえば俳句。おじいちゃんから聞いてますよお」
 あ、すこしだけ眉間に皺が寄った。先輩の表情がちょっとでも変わると、少しの間ぼんやりした高揚感に襲われる。
「あの人はそんなことまで……
「おじいちゃんがお世話になりました」
「別に、お世話したつもりはないけど」
 ふいと先輩は海へ歩き出してしまった。さざなみの音の方が、先輩の心を掴んでいるのだろうか。
「ねえ、写真撮るって言ってたけど、僕はどうしたらいいの」
 太陽の光が飛び散ってはぜる海面を背中に、先輩の白シャツも眩しい。海風が金髪を撫でて去っていく。見え隠れする瞳は、この海よりも綺麗だ。それを取り逃したくなくて、私はすぐにシャッターを切った。
「それで大丈夫です! 先輩の好きにしてくださーい!」
 波の音に負けないよう声を張った。先輩はやっぱり怪訝そうな顔をしているけれど、自由な先輩を撮りたいと思ったのだ。波間に足を浸して、引く波を追いかけ、寄せる波から逃げていく。先輩のありきたりな戯れを、少しずつカメラに収めていく。納得していない顔をしていたのに、先輩は自由と海がよく似合う。
 しばらくそのまま自由でいて、疲れてきた頃の波打ち際で先輩とカメラの画面を覗き込んだ。ブレてるものやなんだがイマイチな画角になってしまったものばかりだ。
「うーん……、自由って難しいです」
「まあ、僕もなんにも考えてなかったからね」
 カチカチと写真を流し見していく。煌めきが眩しすぎたり、変に翳ってしまったり。写真は撮り続けているけど、まだまだ思い通りの一枚を撮ることはできないでいる。でも、海と先輩は綺麗だ。私の目がそれを見出したのだから、このカメラで切り取りたかった。
「あ、これ」
 先輩の声に指が止まった。髪を梳いた先輩が綺麗で撮ったものだった。少しぶれていたけど、ぼやけた海の煌めきと、はっきり映る先輩の輪郭が美しく見えた一枚だ。
「これ、いいね」
「そうですか?」
「うん、撮られてるって感じがない」
 言われて気がついた。この写真の先輩は、眉間の皺もないし、怪訝そうでもない。ただ海の眩しさに目を細めているだけだ。妙な気恥ずかしさや不必要な気遣いもない。まさに、裸足に近しい自由さだ。
「好きだな」
 カメラをもつ手にぎゅうっと力が入った。遮るもののない砂浜でもともと上がっていた体温が、さらに3度ほど上がったような気がする。ここまで来ると微熱だろう。めまいのように視線が定まらず、海を見たり先輩を見たり、写真を見たり。忙しい視界と、返す言葉を思いつかない口は真反対で、何か言おうにも口は開くだけで声帯は震えない。体温に急かされてか、心臓が早く動いている気がした。
「あんた、凪いだ海って見たことある?」
 先輩は私の早鐘に気づいていないのだろうか。
「な、ないですけど……
 なんとかしまい込んだ動揺がいつバレるのか、ざわざわと胸の内がくすぐられているような感覚。アンバランスな土台の上になんとか余裕を置いているけれど、崩れたらきっとすぐに先輩にはわかってしまうんだろうな。
「瀬戸内海、波が少なくて綺麗なんだけどさ。凪いだ時ずっと遠くまで見える気がするんだ」
 波打ち際に先輩と二人で腰を下ろしている。裸足の先をさざなみが舐めてくすぐったい。波の中で踊る砂がまとわりついてくる。でも、不思議と不快ではなかった。
「そもそも、凪ってわかる?」
「それくらいわかりますよう。風がなくなる瞬間みたいなことですよね」
「そう。海風と陸風の変わり目で風がなくなる瞬間」
 凪は陸と海の気温差をなくすために起こる現象だと、先輩は言った。風がなくなると、陸に籠る熱を一層感じて汗も出ない。音は全て遠くに行って、思考がゆっくりと透明になっていく。それって、詩的表現された熱中症じゃないのかと思ったけど、揺れる水平線を見つめている先輩の横顔は、確かに透明な思考を持っている様な気がする。
「凪も季語なんだ」
 先輩と目が合った。感じていた風がなくなって、さっきまでなら気恥ずかしさで揺れていたであろう視線も、彼の青い瞳から逸せない。ただでさえ高い外気温なのに、頬がさらに熱くなった。もう何も考えられない、なんだか思考が消えてしまったような。これが、先輩の言う思考が透明になる、だろうか。でも、先輩はその透明の中でたくさんの言葉をつかんでいるんだろうなとも思った。先輩には、透明の先にあるたくさんの光が見えているんだ。
「夕凪や、視線逸らさぬ空の赤」
 海からの風で、はっと思考が色づいた。赤くて大きい太陽が海に沈み始めていた。その光を浴びて、先輩が眉を下げて微笑んでいる。
「顔赤いよ、暑いし帰ろうか」
 そう言ったのは先輩なのに、しばらくこの波打ち際から立ち上がることができなかった。海風を浴びて揺らぐ髪、眼鏡の奥で細まる目。未だ頬が暑いのは、ぬるい風のせいだと言い聞かせた。先輩は、落ちていく赤色をずっと眺めている。先輩の中にだけあるイーゼルに飾る次の言葉を探しているんだろうか。なら、私は言葉を探す透明な彼を永遠にしたい。シャッター音は潮騒にかき消された。

 題名、海の日のイーゼル。
 私は、君を通してこの夏を知っていく。