ねずみ男が少しばかりの小銭を握って、居酒屋の引き戸を開けた瞬間、バカが視界に飛び込んできた。来たのは貂の女将の店だ。テーブルの上にはうまそうな料理が山盛り、ついでに空いたビール瓶もそれなり。うっすら頭頂部が禿げて出っ歯の旧鼠としわしわ爺の天狗の御燈。バカの二大巨頭が赤ら顔でヤンヤ、ヤンヤと騒いでいる。
「だからぁ、年上の包容力と、ちっと荒っぽい仕草がいいんだってえ。鬼太郎の奴、水木さんに振り回されて、まんざらでもないって顔してるぜ。毎日ケツに敷かれながら幸せな生活を満喫してるって」
と、御燈の言い分。一方、旧鼠はビールをグラスで一気飲みして、ぷあっと酒臭い息を吐く。
「分かってないなあ。世間体があるから、外では鬼太郎が水木さんを持ち上げているだけって可能性がある。案外、家じゃ年下の若い男にわがまま言われて、庇護欲くすぐられては転がされてる。絶対そうだって」
どういう訳か、酔っ払い共が鬼太郎と水木の関係を肴に飲み食いしている。ねずみ男はカウンターに忍び足で近寄って女将に話しかけた。
「女将さん、何だいこの地獄絵図」
女将が眉間に縦皺を寄せた顔をねずみ男に向けた。
「見ての通り、バカの宴会だよ」
「テーブルの上がえらく気前が良いじゃねえか。こいつらの財布はいつも侘しいはずなのに」
「万馬券が当たったんだよ。バカだから馬の良し悪しは分からないし、馬券の買い方なんてさっぱりだ。とりあえず適当に買ったら……大穴を当てちまった」
「へえ……バカの奇跡があるんだねえ」
なさそうで、小指一本くらいはありそうな話だ。ねずみ男は腕を組んで、旧鼠と御燈のトンチキ騒ぎを眺める。
「最初は楽しく飲んでいて他の客に迷惑かけてないから見逃したのさ。奥で仕込みをして戻ってきたら手遅れになってたんだよ」
バカというのは目を離した数秒でやらかすものだ。
宴席の議題は、鬼太郎と水木のどちらが主導権を握っているのか。御燈は水木こそが鬼太郎を飼いならしていると豪語し、旧鼠は鬼太郎が水木を縫い留めて従えていると反論する。他人が邪推したところで真実は本人たちしか知らぬのだが、酒のアテには最高だろう。底抜けのバカである。
「いや、俺は絶対に水木さんだと思う。脳天の横でトンカチを振り回される恐ろしさ……あの人がこっち見てるだけで、怖くて嬉しくなっちまう。絶対に水木さんだ!」
開けてはいけないヘキの扉を全開にした御燈。旧鼠も負けじと声を張り上げる。
「バカは休み休み言えよ! 俺は水木さんにうっかりぶつかっちまっただけで、鬼太郎に前歯削られたんだぜ。予備動作なしで指が通り過ぎて、気が付いたら三ミリ削れていた。ぎょろ目で見上げられて、震えあがっちまったよ。あの野郎、水木さんに呼ばれたら虫も殺しませんって顔になって……俺は気が付いた。絶対に鬼太郎だ!」
すべてが手遅れの旧鼠。バカなので結論が出ないと気が付いていない。
「わぁ、バカの世紀末。俺は用事思い出したから失礼しようかな」
ねずみ男はそそくさと引き戸に向かう。しかし取っ手に引いてもビクともしない。おそらく女将の術だ。振り返ると女将がねずみ男を睨みつけていた。
「待ちな、ねずみ男。アンタも世界に羽ばたくバカの代表なんだから、仲良くここにいるんだ……この後、鬼太郎と水木さんの予約が入ってんだよ」
この下世話な話で盛り上がる店内に二人が来たらどうなるか。死刑宣告にも等しい言葉にねずみ男の顔から血の気が引く。両手で力いっぱい引いても戸が開く様子はない。
「横暴だっ! 女将さん、血も涙もない仕打ちはよしてくれ。俺はこんなところで死にたくねえ!」
「ねずみ男……手向けに枡酒一杯タダで飲ませてやるよ」
女将の目が死んでいる。彼女は店と共に逝く覚悟を決めたようだ。しかし、ねずみ男は納得できぬ。まだまだやりたいことは沢山あるし、バカの二次被害で死ぬのは嫌だ。
「嫌だよぉ! タダでも最後の晩餐なんて御免だよ。出してくれぇ!」
ねずみ男の嘆きと共に引き戸が開いた。半そでの開襟シャツにチノパンの水木と、いつもの下駄にちゃんちゃんこの鬼太郎。見慣れてしまった二人組。
ねずみ男はひっくり返り、床に大の字になった。
「すみません、予約より少し早いんですけど来てしまいました。今日から蟹面を始めるんでしょ? もう待ちきれなくて」
喜色を浮かべる水木を鬼太郎が見上げる。旧鼠と御燈は話題に上げた人物の登場に、口を閉じた。正気に返ったかと思ったが、目がキラキラと輝いている。バカのままだ。二人が店に入ったら早々にどちらが主導権を握っているのか絡みに行くだろう。
「水木は蟹が好きだな」
「蟹に限らず、高くてうまいもんは大抵好きだ。特に今日は他人の金で食べる蟹だから格別だぞ」
そうか今日は蟹の解禁日だったか。終わったな、とねずみ男は覚悟を決めた。盛り上がる二人のバカ、目が死んだ女将。そこへ来てしまった噂の二人。
「なんだ、えらく人間くせえな」
予想外の来客が一人。暖簾の後ろに筋骨隆々で七尺はあろう鬼が立っている。強い妖気を隠しもせず垂れ流しにして、酒精の混じった息を吐いた。
「……おい、何で妖怪の店に人間がいる」
「金鬼……? 山から出てきたのか」
鬼太郎が自分の後ろに水木を庇った。金鬼はじっと二人を見下ろしている。水木が鬼太郎の背後から顔を出す。
「女将に許可なら貰っていますよ。僕のことは構わずどうぞ」
水木が愛想のよい笑みを浮かべて金鬼に言った。金鬼は顎下を指で撫で牙を見せて笑う。
「いいや、構うね。……お前、鬼太郎か。ははぁ……じゃあ、後ろの人間はお前の愛玩動物だな」
店の空気がぐっと冷えた。鬼太郎から恐ろしい気配が立ち昇る。酩酊した金鬼が水木を頭の先から靴まで眺めた。
「風の噂で聞いたことがある。鬼太郎が気まぐれに人間を伴侶に迎えたとか。人間なんざ低俗な生き物だ。使われるなんて腹立たしい。飼うことはあっても連れ合うことはしない。そうだろう、鬼太郎? なるほど、悪くない見目をしているが、女の方が飽きて食うとき肉がうまい」
まずい、まずい、まずい。ねずみ男は上半身を起こして後ずさる。距離を取って壁に張り付いた。このままでは、店が吹っ飛ぶなどという生易しいことで済まない。
「水木は僕の伴侶だ。これ以上侮辱するなら相応の対応をさせてもらう」
「まあ、鬼太郎。そうカッカするなよ」
水木が背後から鬼太郎の肩に左手を回す。ねぎらうように添えられた手。金鬼が獲物を見つけた狩人の顔をした。
「しかし、妖怪に飼われるとは立場が分かっている。鬼太郎は血筋が良い。媚びを売る相手に最適だろう。小さいナリに文句も言わず、慎ましく従うとは弁えたものだ」
お終いだ。何もかも。ねずみ男は両手で自身の口を押えた。心臓が飛び出しそうだ。金鬼はヘラヘラしながら、鬼太郎だけでなく水木の怒りの勘所までぶち抜いていった。
「恐縮です、金鬼さん。鬼太郎は俺にはもったいないくらい、いい男ですよ。ナリだの血筋だの、どうでもいいくらいにね」
水木が微笑んだ。にこにこ愛想よく笑って、目は氷河のように冷えている。水木の変化に気が付かない金鬼は下品な笑い声をあげた。
「見どころはあるがまだ子供。不平不満は堪えてやれ。それがお前の務めなのだから」
「勉強になります」
「どれ、鬼太郎には飼いならし方を教えてやらんといかんな。弁えてはいるが、少しばかり目を離すとバカをするのが人間だ」
バカはお前だと叫んでしまいたかった。ねずみ男は背中にぐっしょりと汗をかきながら、生き残る術を探している。恐怖で身体が竦んでこれ以上動けない。
金鬼が鬼太郎の肩に乗った水木の手を掴もうとする。
「触るな」
地を這う鬼太郎の警告も金鬼には届かない。力のある妖怪の慢心を隠そうともしないのだ。本物のバカがいる。地獄への片道をひた走っていることに気が付きもしない、手の施しようのないバカがいる。
「躾の仕方が教えてやると言ったんだ。まずは酌でもして貰おうか」
金鬼が水木の手首を掴む。途端に鬼太郎の足元から強い殺気が吹き上がった。
「鬼太郎、もう少しだけ待て」
水木が硬い声で鬼太郎を制した。金鬼は眉をひそめ水木の腕を引く。
「ほら、言っただろう。人間はすぐにつけあがる。主人への口の利き方がなっとらん」
金鬼の腕力に人間が逆らえるはずがない。水木は鬼太郎の背中から引っ張り出され、金鬼の前に立った。水木が掴まれた腕を不快そうに睨んでいる。
「……放してくれないか」
水木の言葉に金鬼が牙をむき出しにする。
「もう一度言ってみろ」
ぴくりと水木の肩が揺れた。金鬼が水木の手首を掴んだまま、人間を侮ったまま言葉を吐く。
「それとも仕置きが欲しいか?」
鬼太郎は動かない。待てと言った連れ合いに従っている。水木が冷めた目で金鬼に嘲笑を向けた。それが恐らく引き金だ。
「放せ、と言ったんだ。聞こえなかったかよ、クソ野郎」
金鬼が唸り声をあげて、水木の腕に爪を立てた。
「い……っ!」
人間の柔い皮膚に切っ先があたり、ぷつりと血の玉が浮かんだその瞬間。
「僕の伴侶を、傷つけたな……?」
地獄が現れた。鬼太郎が金鬼の腕をねじり上げ、水木の手を離させる。
「っ、鬼太郎。貴様、何を!」
鬼太郎の下駄から鈍い音がした。一陣の風を纏って、黄と黒のまだら模様が弾丸のように外へ飛んでいく。鬼太郎は金鬼と共に姿が見えなくなった。
残された水木は入口から外を確認して、なんてことない様子で店内に入ってくる。
「すみませんね、お騒がせして」
愛想のよい声音と冷え切った目の落差が恐ろしい。水木はカウンターに座ると煙草を取り出して一服を始める。店の中の誰もが押し黙ったままだった。嵐は過ぎ去ったのか、台風の目にいるのか皆目見当が付かない。だから、息を潜めて待つほかない。
「なあ、センセイ」
水木に話しかけられて、ねずみ男はひっと息を飲んだ。
「妖怪のルールで、他人の伴侶に手を出すのはご法度なんだよな?」
「あ、ああ」
水木が煙を吐き出して、わずかに傷ついた左腕を掲げる。
「傷なんて付けた日には殺されても……それ以上の目に合ってもおかしくないよな?」
「そ、そそそりゃそうさ」
頷きながらねずみ男は水木の罠に気が付いてしまった。わざと金鬼を煽って、鬼太郎が好きなだけ暴れられるよう、お膳立てをしてやったのだ。
「センセイの他に女将さんもアカシさんたちもいるし……証人は十分揃ってる」
怒りを耐えた連れ合いを甘やかす、優しくて恐ろしい人間の知恵。弱くて愚かと見下されるならば、相手の慢心を罠にかける浅ましさ。
「っふ、あはは。ああ、すっきりした」
水木が煙と共に笑い声を吐き出した。妖力の欠片もない、たった一人の人間が恐ろしくて、妖怪たちは震えるほかなかった。
カラカラと引き戸を開けて、カラコロと下駄を鳴らして、鬼太郎が戻って来た。強すぎる妖気を垂れ流しにして店に入ってくる。そこにいるだけで、息が詰まり苦しくなるほどだ。鬼太郎は袖の汚れを手で落とし、テーブルにあったビール瓶をぐっと煽った。瓶を乱雑に戻してカウンターで待っている水木に近づく。
「金鬼は?」
水木の問いに鬼太郎が答えた。
「山向こうに飾っておいた。勘違いをした連中が増えたら困るからな。ひと月もすれば……生えてくるだろう。そうすれば家歩いて帰れるさ。水木、傷を見せてくれ」
「かすり傷だ」
「それでもだ」
鬼太郎は水木の左腕を確かめて顔を伏せる。
貂の女将は壁に寄りかかったまま息を詰めている。旧鼠と御燈は二人で両手を握り合いブルブルと震えている。ねずみ男はずっと壁に張り付いて、ひたすら気配を消していた。
「水木、蟹は諦めろ」
「なんだよ、せっかく来たのに」
「水木」
鬼太郎が傷のない水木の右手を引いた。俯いた顔が髪に隠れて表情は伺えない。それでも、本能で分かる。あの下はきっと恐ろしい鬼の顔だ。
「僕と一緒に帰るんだ。無理強いはしたくない。優しい伴侶のままでいさせてくれないか」
疑問の形を取った脅しの言葉。従わなければ、どうしてやろうか。頭からバリバリくってやろうか、臓物を裂いて啜ってやろうか。強者に許された傲慢を鬼太郎が水木にぶつけている。
水木は空いた左手で鬼太郎の前髪を梳く。水木以外の誰もが鬼太郎を直視できなかった。強者と視線を合わせてはいけない。目が合ったら襲われても仕方がない。身体に染みついた妖怪の理に従って目を逸らす。
水木だけが熱心に鬼太郎を見つめていた。指で髪をくしけずって、かき上げて。隠れた表情を露わにする。そうして、一等甘い声で鬼に囁く。
「なんだ、不貞腐れたのか。まったく、可愛い奴め」
これの、どこが。ねずみ男は歯を噛みしめる。
決して逆らってはいけない化け物。圧倒的な強者。可愛い、などと言ったら胴が泣き別れてしまう。身体を万力で締め付けられるように重苦しい空気の中で、水木だけが笑っている。頭のネジが外れているのか、はたまた腹の底まで愛を詰めた結果なのか。
「いいぜ、今日は帰ろう。女将さん、すみません。また日を改めます」
女将は真っ青な顔で何度も頷いた。水木が立ち上がると鬼太郎がぴったりと寄り添う。鬼太郎は離さないとばかりに指を絡めてじっと水木を見上げている。
首元に牙を当てられて食われる直前に、あんな風に笑えるだろうか。緩んだ目元に背を撫でる指は優しく、化け物相手にすることではない。
「ありがとう、水木」
「お前は真面目が過ぎる。こういう時にとっぷり甘やかしてやらんとな」
「うん、そうしてくれ」
情念がべったり張り付く声を受け止めて水木は嬉しそうだ。年下の悋気は可愛いものだと一挙手一投足で当たり前のように、鬼太郎の伴侶であると示し続ける。ねずみ男は離れて行く下駄と靴の足音を聞きながら両腕をさすった。鳥肌が収まらず、歯はガチガチ鳴ってかみ合わずにいた。
二人が店を出て、ようやくまともに呼吸ができるようになる。女将が手拭いで汗を拭い、バカの二人組はテーブルに突っ伏した。
「おおい、そこのバカ野郎ども。お前らも金鬼みたいになりたくないなら、余計なことをするんじゃねえぞ!」
少しだけ冷静さを取り戻したねずみ男が旧鼠と御燈に釘を刺す。真っ白い顔になった二人が壊れた人形のように頷いた。
「はぁい!」
「もうしません!」
「はぁ……今日はもう店じまいにしようかね。あんたら、料理食べ終わったら帰っておくれ……いや、あの妖気に当てられて飲み食い出来ないか。折りに詰めてやるから寄越しな」
虜囚のように旧鼠と御燈が皿をもってカウンターに向かう。ねずみ男は立ち上がって服を叩いて埃を落とした。
あの二人、割れ鍋に綴じ蓋。猫かぶりする化け物と、本性までも猫かわいがりする人間がぴたりと寄り添っている。どちらが主導権を握るなどという次元の話ではない。
「なあ、女将さん。タダで飲める枡酒って話は」
「そんな上手い話があるもんかい」
ねずみ男が恨みがましい目を向けても、女将がさらっと流してしまう。気丈に振る舞っているが菜箸を持つ手が震えていた。
「畜生、とんだ厄日だぜ」
食欲はすっかり消え失せて恐怖で腹いっぱいだ。ねずみ男は暖簾をくぐり夜の町へと繰り出した。今夜は絶対にゲゲゲの森には近づくまい。ねずみ男は一夜を凌ぐ寝床を探し、人波を泳ぎ始めた。
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