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君とワルツを 5

幼いヒースクリフと囚人たちの話。
メインストーリー6章の内容を含みますのでご注意ください。


 
 
 扉の向こうは隙間風に晒されたように冷え込んでいた。どこか湿度を孕んだ冷気を感じ取り、ダンテはファウストの仮説に倣い引き伸ばされた心象風景が及んでいるのだろうと思案する。その異常は他の囚人にも察せられたようで皆どこか緊張した面持ちをしていた。ヒースクリフはダンテの手を引いて裏口を進み、ある扉の前で足を止めた。
「その扉って、ヒースクリフさんの部屋に繋がるものですよね」
〈そのはずだけど……
 彼らの後を追う囚人たちの中からイシュメールが誰に向けるでもなく問いかける。それを知っている囚人が大半であったため、誰もその言葉に対して否定しなかった。
 木製のそれは普段と変わらずそこに鎮座するだけに思われたが、時折カタカタと小刻みに震える挙動を見せた。ヒースクリフは臆することなく扉の前に立ち、ドアノブに手をかけている。
「いいんだよな? 開けても」
 ヒースクリフはダンテの方を見上げて尋ねる。ダンテが小さく頷くのを合図と捉えた彼は、意を決してその扉を引いた。
 初めに感じたのは吹き抜ける風の凍るような冷たさ。加えて雨に打たれたように全身がしとどに濡れ始める。思わず顔を両腕で覆ったダンテの背後で感嘆の声を上げたのはホンルだっただろうか。雨風の勢いに慣れたところで、ダンテは己の腕を除けて扉の向こうに広がる景色を視界に映す。
〈これは……
 思わず言葉が零れ落ちていた。それは囚人たちも同じだったようで、想定外の光景に皆目を丸くしたり溜息を吐いたりしている。
 そこはセピア色で満たされた荒野であった。空は何層もの厚い雲に覆われ、時折強く吹き付ける風が雨粒を攫いたなびく野草めがけて振り落としている。
 ダンテが一歩踏み出すと、雨に打たれた草原を踏みしめたときの触感が靴底から伝わった。そこは部屋と呼ぶにはあまりに広大で、虚像であるはずの草木に宿る生命の感触を感じざるを得なかった。そして何より、これはヒースクリフの記憶に宿るワザリング・ハイツの情景なのだということは明白だった。
 そんな、と。ただ一人イシュメールだけは険しい顔のまま呟く。
「今朝確認したときは部屋の形をしていました。薄暗い、物置のような……
 ダンテは眉を顰めて思案するイシュメールへと視線を移す。何人かの囚人は彼女が形容した物置という言葉に検討が付いたらしい。白い風が鋭い音を立てて吹き荒ぶ。気づけばヒースクリフはダンテの元を離れ、雨に打たれながら荒野へと駆けだしていた。
 少しずつ小さくなっていく背中を覆うかのように嵐は激しさを増す。空間そのものがヒースクリフの姿を攫っていくようだった。
 得も言われぬ不安と恐怖に襲われたダンテは、衝動に任せて一目散に彼の後を追いかける。その間、キャサリンを呼び続けるヒースクリフの幼い声が風の音に紛れて絶えず聞こえていた。
〈待って、ヒースクリフ! 一人で行っちゃ駄目だ!〉
 霧のように粒の細かい雨水が顔に触れ、呼吸する度に冷たい空気が肺を満たす感覚に陥る。ダンテは肩で息をしながら走り続けた。ヒースクリフは一度ダンテの方へ視線を向けたが、またすぐに背中を見せて走り出す。どうやら彼は荒野の頂を目指しているらしい。
 ふとダンテは背中越しに、囚人たちが自分を呼ぶ声を聞いた。振り返り彼らの姿を捉えようと試みたが、巻き起こった白い風に遮られ向こう側を覗けない。腕を上げ、舞い上がる草木の破片や氷のような雨粒から顔を隠す。
 その時、ダンテは視界の端を漂った欠片の一部に目を奪われた。それはこの空間で見ることのない強烈な紫色を持って浮遊している。足元に視線を落とせば、風に攫われた欠片と同じ紫色を持つ花弁が来た道をなぞるように点在していた。色褪せず、ただひたすらに待ち続ける。あの日邸宅の屋上で、この花の性分を語ったのはヒースクリフだった。
 ダンテは弾かれたようにヒースクリフの背中を探す。すると紫色のそれは轍のように続き、ダンテの行く先まで伸びていた。
 疎らに咲く花の色を目で辿っていく。その視線は徐々に丘の上を登っていき、とうとう一心に走り続けるヒースクリフの足元へとぶつかった。彼が一歩足を進めるたび、草原の上に紫の斑点がちりばめられる。意識的に、あるいは意図しないところで花を芽吹かせていたのはヒースクリフであるらしい。風にあたって揺らめくそれは彼の居場所を伝えるには十分すぎた。姿の見えない囚人たちに後ろ髪を引かれつつも、ヒースクリフを追ってダンテは再び走り出す。
 丘の上まで駆け上がったと思えば、彼の足がぴたりと止まった。彼は俯きがちに自身の足元で咲く花を見ており、その表情はダンテには伺い知れない。花の傍らにはヒースクリフが愛用するバットが落ちていた。草木に隠れてすべてを読むことはできないが、そこには確かにあの出来事を超えて刻み直された言葉が浮かんでいる。
「キャシー!」
 突如、ヒースクリフの足元から花弁とともに竜巻のような風が吹き抜ける。それに呼応したかのようにヒースクリフは彼女の名前を叫んだ。
 ダンテはよろめきそうになる体を僅かに屈め、両脚で土を踏みしめる。そうしてバットから視線を外し、ヒースクリフの方へ向き直った。彼は吹き荒れる白い風の中へ向け、小さな右手を翳す。彼の視界は風の向こうに捉われ、期待と戸惑いの中、どうにか確信を掴もうと宙を泳いでいた。
 彼の右手は空を切るかのように思われた。少なくともダンテは無意識のうちにそう予感していたが、その手首は風の中でぴたりと静止する。ダンテの目には空気の波にぶつかって、ヒースクリフの右手が空へ向け弾かれたように映った。まるで何者かに手首を掴まれているようだ、とも思った。
 それが錯覚でないと気付いたのは、脈略なくヒースクリフの上体がつんのめった瞬間のことだった。あ、とダンテが声を上げるより早く、白い風の中で掴まれた手首は勢いに任せて手繰り寄せられる。ヒースクリフは目を見開き、己の身が地面へ打ち付けられるビジョンを眺めていた。
 だが彼の体は地に伏せることなく、それどころかふわりと宙を跳ねた。驚いた様子のヒースクリフは自身の右腕の先を凝視する。雨雲と荒野を潜り抜けるように走る白波がヒースクリフの左頬を撫ぜた。途端、その頬は歓喜に染め上がり、見開かれた瞳が微かに揺れ動く。そうして僅かに開かれたヒースクリフの口から切望の滲む声が溢れ出た。
……キャシー、なんだよな?」
 すると彼は空いた左手を宙へ運び、嵐を抱き寄せる仕草を見せる。気流は草原に咲いた紫の花弁を巻き上げ、ヒースクリフのもとに色付いた祝福の雨を降らせていた。
「ダンテ!」
 渦中のダンテは自分の名前が呼ばれたのだと気付くと、背後を振り返り声の主を探す。それはロージャからの呼びかけだったようだ。彼女をはじめとする囚人たちは肩や髪を濡らしながらも、ダンテと同じように紫の斑点を頼りに丘の上へと辿り着いたらしい。
「ねえ、ヒースはどこ?」
 ロージャは開口一番に問いかける。ダンテは口を閉ざしたまま自身の背後へと視線を向けた。彼女が息を呑む音が聞こえる。他の囚人も同じように、目の前の光景に圧倒されていた。
 ヒースクリフは紫の花弁が舞う嵐の中、空へ両手を掲げながら草原の上でひとり舞踏している。時折吹き抜ける風に翻弄されると、ヒースクリフは手を引かれるまま辿々しく足を踏み出していた。
 その挙動は自分の意思とは裏腹に動くマリオネットのように心許ない。しかし彼の瞳はただ宙に浮かぶ一点に夢中だった。その表情からは徐々に幼さが抜けていく。
「キャシー……オレ、うまく踊れてるか?」
 ヒースクリフが吹き抜ける白光を抱きながら軽やかに身を翻す。風に触れたせいか彼の頭に巻かれた白い包帯は結び目を失ったリボンのように解け、ふわりと舞い上がった。
「一度でいいから、君とこうして手を繋ぎたかったんだ」
 私もよ。ふと、ダンテは脳裏に浮かんだ声を知覚して目を見開いた。驚きを隠し切れぬままにヒースクリフが見つめる虚空を視線で追いかける。このとき確かにダンテは、荒野を駆ける白い風にキャサリン・アーンショウの姿を幻視した。
 彼女が柔和に微笑をたたえたと思った瞬間、ヒースクリフの右手が彼女の方へ優しく引き寄せられる。彼女はヒースクリフの手のひらを己の口元まで運び、小さな手の中から人差し指を選んでそっと口を寄せた。すると小さなヒースクリフの体が彼女の唇が触れた部分を起点に、殻を破るように少しずつ剥がれていく。そうして零れ落ちたヒースクリフの欠片は、紫色の花弁となって荒野を吹き抜けていった。
 すると、ヒースクリフの瞳は陽光を散りばめた水面のように輝きを宿す。彼の視界は自身の右手を捉えており、その人差し指には鈍い銀色を放つ指輪が据えられていた。
「私の愛したヒース。私が記憶したように、どうか私を覚えていてね」
 キャサリンはそう言って目を伏せると、ヒースクリフを繋ぎ止めていた手をぱっと離す。支えを失ったヒースクリフは、剥がれ落ちていく自分の姿を視界に入れたまま後ろ向きに頽れていく。それは人差し指の付け根から始まり、腕や胸、胴や肩へと広がっていき、紫の花びらを巻き上げながら彼本来の姿へと再生しているように見えた。
 そうしてヒースクリフは荒野の風に身を任せてゆっくりと倒れていく。草原の上で空を仰ぐ彼は囚人たちのよく知る大人の姿をしていた。降りしきっていた雨はとうに止み、雨雲は鳴りを潜めている。凪いだ空間の中、ヒースクリフの名前を口々に叫ぶ囚人たちの足音だけが響いていた。