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君とワルツを 5
幼いヒースクリフと囚人たちの話。
メインストーリー6章の内容を含みますのでご注意ください。
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2
ダンテが寝具を持って座席へ戻った途端、か細い悲鳴を上げるグレゴールが視界に映った。彼の腹の上にはヒースクリフが横たわっており、狼狽するグレゴールとは対照的に規則正しい寝息を立てている。泣き疲れたのかヒースクリフはグレゴールの腕に抱かれたまま眠ってしまったらしい。彼は座席の背もたれに肘を置き、ひとり腕に触れさせまいと奮闘していた。
「旦那、頼む。退けてやってくれないか」
グレゴールはダンテを見つけた途端顔を引きつらせ、焦りを隠すことなく懇願する。杞憂であることは百も承知だが、これ以上は彼のトラウマを刺激しかねない。そう判断したダンテは頷いて彼の元へ歩み寄った。
そうしてヒースクリフがダンテの腕に抱かれようとしたタイミングで裏口の戸が開き、中からロージャとイサンが顔を覗かせる。あら、とロージャが声を上げた。
「随分仲良しじゃないの」
「おかげ様でな」
緊張から解放されたグレゴールは詰まらせていた息を整えて言う。ロージャの背後で薄く微笑むイサンは件の用箋鋏を携えていた。意識のない子供は見た目以上に重く感じる。ダンテはヒースクリフを片腕で抱えたまま、もうひとつの手で乗車口のそばに大きめの毛布を敷く。その上に座り込むとヒースクリフを両腕で抱き直し、彼の小さな肩や背中を覆うようにブランケットをかけた。
「よく眠ってるね」
ロージャがダンテの肩越しにヒースクリフの寝顔を見ている。疲れちゃったみたいとダンテが言えば、そっかという返事が聞こえてきた。
「ヒースってば、なんでちっちゃくなっちゃったんだろ」
ダンテはロージャの片腕がこちらへ向けて伸ばされたであろうことを感じ取り、横目で彼女の表情を覗く。彼女はヒースクリフの頭へそっと掌を重ねると、包帯を避けて優しく撫で始めた。そんな彼女の表情は暖かいものであったが、瞳は物憂げに揺れている。彼女の後ろでグレゴールが自分の座席へ腰かけ、肘を付いていた。
「さてなあ。ちゃんと戻ればいいけど、俺は今のヒースクリフもそれなりに可愛げがあると思ってるよ」
そう言うグレゴールにイサンは小さく頷く。それからグレゴールに持っていた用箋鋏を手渡して、ダンテの向かい側へと座り込んだ。
「管理人殿、ヒースクリフ君! まだおりますかな?」
突如裏口へ続く扉が開いたかと思えば、ドンキホーテのはつらつとした声が飛び込んできた。普段のそれと比べれば幾分控えめな声量ではあったものの、彼女は元来よく通る声質をしている。その呼びかけは穏やかな水面に投じられた小石のように車内の空気を波打たせた。
〈ドンキホーテ、静かにね〉
「あっ、す
……
すみませぬ」
ダンテに注意されたドンキホーテは両手で口を覆うような仕草を見せる。そのときダンテは彼女がナイトキャップを被っていること、自身の脇に枕を挟んでいることに気が付いた。
〈君もこっちで寝るの?〉
そうダンテが尋ねたとき、ドンキホーテの隣に寝間着姿のシンクレアが立ち並んだ。彼もまた部屋から持ち出したのであろう寝具を両腕で抱いている。
「実は僕も
……
いえ。ヴェルギリウスさんやファウストさんに相談して、今日はみんなで寝ようってことになったんです」
シンクレアは話しながら度々ダンテの腕の中で眠るヒースクリフへと視線を向けていた。それからダンテと目を合わせ、恥ずかしそうに肩をすくめてはにかんで見せる。その口振りから、発案者はシンクレアなのだろうか。ダンテがそう尋ねる前に、ドンキホーテの口から前述した通りの事情であることが告げられた。良いじゃん、とロージャの肯定を受けシンクレアは胸を撫で下ろす。
「ダンテ、重たからむ? 交代せむや」
ふと、ダンテの向かい側に腰かけていたイサンが口を開いた。ダンテは当初その申し出を断るつもりでいたが、壁に凭れかかりながらこちらへ両手を広げる彼を見て思わず頷いてしまう。
〈そうだね。任せてもいい?〉
ダンテは彼に従い眠ったままのヒースクリフを預けた。イサンの腕に抱かれたヒースクリフは僅かに眉をひそめたが、すぐにあどけない子供の寝顔へと戻る。静かに寝息を立てるヒースクリフの顔を覗き込み、イサンは穏やかな笑みを浮かべた。
それからシンクレアの言うように、寝支度を終えた囚人たちが疎らに座席へと集まり始める。文庫本を持ち込む者やマグカップを片手に入室する者など、それぞれ就寝前のルーティーンは崩さない様子であったが、皆一様に扉をくぐったその足で運転席の方へ向かい、ヒースクリフの様子を確認してから寝床を見繕い始めるのであった。
ダンテは車内を見渡して囚人たちの様子を伺う。いつも使っている座席に腰かけて夜を明かそうとする者が多いようだったが、ダンテの傍に座り込んだイサンやドンキホーテは床に寝具を敷き始めている。空席ができたことでシンクレアは長椅子をベッドに見立てて横たわることにしたらしい。またムルソーは当初普段の席で黙々と読書をしていたが、ページをめくる音が気になるらしいイシュメールを気遣ったのか運転席の方へ移り、椅子と椅子の間へ座ることに決めたようだ。
最後に座席へ戻ってきたのはファウストだった。入浴後のためか両頬がほんのりと色づいている。だが彼女は普段通りの涼しげな表情をたたえ、迷いなく最後列の空いた席へと腰かけた。例外的にヴェルギリウスやカロンが座席へ戻ってくることはなかったが、謎の多い二人のことだからと追究する者はいなかった。
ダンテは囚人のうち多数派に倣い、自分の座席へと腰かける。穏やかな時間が流れた。早々に眠りについた者の妨げにならないよう声を潜めて談笑する囚人たちの囁きや等間隔で転がる本のページをめくる音、良秀が燻らせた煙草の香りとすぐ後ろから聞こえた用箋鋏の上を走るペン先の音。ただひとつ、バスの車体を叩く雨と風の音だけは鳴りを潜めることなく、ダンテの心をざわつかせるのだった。
「ん
……
」
ふと、イサンの腕の中で眠るヒースクリフが身じろいだ。イサンもそれに気が付いたようで、小さく彼の名前を呼ぶ。近くで本を読んでいたムルソーが顔を上げた。
「あれ、オレ
……
」
ヒースクリフは右手で両目を擦り、自身を抱くイサンと目を合わせている。先ほどまで寝息を立てていたドンキホーテが徐に上体を起こし、ヒースクリフの顔を覗き込んだ。ダンテは彼らのやりとりを眺めようと乗車口の方へ体を向ける。
「ヒースクリフ君、おいでなされ」
ドンキホーテは被っていた布団の端を持ち上げ、ヒースクリフをこまねいている。彼女らしからぬ落ち着いた声色にイサンは目を丸くさせたが、すぐにヒースクリフを膝の上から降ろして毛布の上へと横たえた。それから彼もまた同じように寝転がると、ブランケット越しにヒースクリフの肩をぽんぽんと叩く。
「いま一度眠りたまへ。おどろきしには、バスはかの丘の上ならむ」
イサンはヒースクリフの丸みを帯びた肩に手を置いて数度撫でると、低く穏和な声で呟いた。ヒースクリフはイサンの顔を見上げていたが、ふとドンキホーテの肩越しにダンテの炎を見つけたらしい。今にも閉じてしまいそうな瞼をまた擦り、ダンテの方へ視線を送った。ダンテは席を立ちヒースクリフの傍へ歩み寄る。それから寝具の傍にしゃがみ込むとヒースクリフの頬に右手を添えた。
〈大丈夫だよ。皆ここにいるから〉
カチ、と時計の針が鳴る。ヒースクリフはゆっくりと瞬きを繰り返したが、彼の瞼が開くまでの間隔は徐々に延びていった。うつらうつらするヒースクリフの様子を、ドンキホーテは頬杖をつきながらまじまじと見つめている。
「随分と機嫌が良さそうに見える」
一部始終を近くで見ていたムルソーが口を出した。寝具の中、ムルソーと目を合わせたドンキホーテはむふふと笑う。
「それはもう、またとない機会でありまするから」
そう言うとドンキホーテは頬杖を止めて枕に頭を埋める。そしてヒースクリフの横顔を眺め、彼女もまた瞼を閉じて眠りに落ちる準備を始めた。
「
……
あったかい」
ふと、微睡の中にいるヒースクリフが呟く。はっきりと認識することはできなかったが、ダンテは彼が僅かに微笑したような気がした。
〈それはよかった〉
そう返事をして、ダンテは再び彼の頬を撫でる。その様子を見て、イサンが口を開いた。
「ヒースクリフ君にとって、こは一時の夢のごときものなり。せめて彼が穏やかなる時をふるべくば
……
と思へり」
その後ウーティスが消灯したことで、お喋りや読書を楽しんでいた囚人たちも少しずつ活動を止めて就寝し始めた。一部の囚人は未だ眠り落ちることなく、ぼんやりと時間がたつのを待っている。ダンテもまた自分の席から窓の外を眺め、眠気が訪れるまでの静寂を無為に味わっていた。
「ダンテ。少しいいですか」
少し間を置いて、名前を呼ばれたのだと気付き後ろを振り返る。最後列へ座るファウストがダンテを真っ直ぐに見つめていた。こちらへ来るようにと誘い出されているのだと分かったダンテは座席から立ち上がり、彼女の座る席へと移動する。裏口へ続く扉の前に立つと、向こう側から冷え込んだ空気が流れ込んでくるのを感じた。
〈こんなに寒かったっけ〉
ダンテの呟きを独り言と受け取ったのか、ファウストはただ目を伏せるだけだった。それからダンテが彼女の隣に座ったことを確認すると淡々とした口調で話し始める。
「ファウストは以前、囚人たちの個室の仕組みついて説明しましたね」
そう問われダンテは迷いなく頷く。説明があったことを記憶していた上に、個人的に付けていた記録の中にも個室に関することを記述していたからだ。同意の意味を込めて時計の針を鳴らすと、ファウストは再び口を開いた。
「これらの扉を潜る際、社員証を通して入退室の履歴が記録されます。内、昨夜から今朝にかけてのログを確認しました。ファウストが把握している限り囚人たちの例外的な入退室はなかったはずですが、不寝番だったヒースクリフさんの入室記録が彼の個室に残っていました」
〈
……
入室記録だけ? 退出記録は無かったの?〉
ふと浮かんだ疑問を口にしたダンテに対し、ファウストは頷いて見せる。
「ええ、その通りです。以降彼の個室をイシュメールさんが確認しています。ですが、そこにヒースクリフさんの姿は無かったと言っていましたね」
その言葉をきっかけにダンテは今朝の出来事を振り返る。確かに皆でヒースクリフを探していたとき、ヒースクリフの個室について言及していたのはイシュメールだった。ファウストは組んでいた腕を解き、一呼吸置いて言葉を続ける。
「ファウストの見解はこうです。ヒースクリフさんは昨夜、何らかの理由で自身の個室
――
言い換えれば彼自身の心象風景へと足を踏み入れ、空間の一部を引き剥がし取り込んでしまった。その後ヒースクリフさんは幼少期の姿と記憶を纏った状態でこちら側へ戻ったのでしょう。
……
纏ったと口にするのは容易ですが、実体化した個人の記憶や思い出が扉を潜り抜けること自体がイレギュラーです。故に、こちら側まで引き伸ばされた空間は切り離された風景の一部を取り戻さんと、今もヒースクリフさんを呼び寄せているはず」
その瞬間、ファウストの姿が白い閃光に晒された。すぐに地を這うように轟く雷鳴が壁や床、窓ガラスを揺らす。ファウストの話を食い入るように聞いていたダンテは急速に現実へ引き戻される感覚を覚えた。
するとダンテは車内の前方で揺らめく人影の存在に気が付く。それは今しがた目を覚ましたばかりのヒースクリフで、彼は欠伸をしながらダンテたちの方へ歩いてきた。「起きちまったか」というグレゴールの呟きが聞こえてくる。
「もう着いたのか?」
ヒースクリフはきょろきょろと辺りを見渡しながらダンテへ問いかける。
〈着いたって、どうして〉
「だって嵐が
……
」
ふと、ヒースクリフの目が見開かれる。ダンテの問いかけに答えようとした彼の唇は突如ぴたりと動きを止めた。少しの沈黙が訪れる。そうして次に紡がれたのはダンテやファウスト、ましてや他の囚人へ向けた言葉でもない、彼が何よりも求め続けていたその人へ向けたものだった。
「
……
キャシー?」
己の口からまろび出た言葉を自覚したヒースクリフは、突如弾かれたように窓際へ向かい両方の掌でガラスに触れる。椅子の上で転がる良秀を避け、続いてホンルが眠る座席の隣をかいくぐり、そうしてあらゆる窓に触れ向こう側を覗き込みながらその名前を叫び続けた。
「キャシー、どこだ? キャシー!」
「ひっ! ヒースクリフさん?」
飛び起きたシンクレアは、自身が横たわる椅子の上をよじ登り窓を叩くヒースクリフを見て面食らう。他の囚人も同様に目を覚まし、ヒースクリフの異変を察すると直ちに起き上がるのだった。
「急にどうしたんだ」
「キャシーが呼んでるんだ。オレのことを」
ウーティスの問いかけに毅然とした態度で答えると、ヒースクリフはバスの乗車口へ向かって駆け出す。しかしウーティスが彼の腕を掴み、そのまま己の方へと引き寄せた。
「やめておけ、外には誰もいない。それに貴様を呼ぶ声など聞こえないだろう」
そう厳しく言い放ったウーティスへ、ヒースクリフはあり得ないと言わんばかりの視線を向ける。しかしそれも長くは続かず、ヒースクリフは再び何かを感じ取ったのか再び周囲の様子を伺い始めた。
「
……
違う」
そうしてぽつりと呟かれた言葉に、ウーティスが首を傾げる。
「何が違うと言うんだ」
「外、じゃない。キャシーがいるのは」
そのときだった。コンコン、と誰かが戸をノックする音が聞こえダンテは顔を上げる。それは隣に座るファウストも同じだったようで、彼女らしからぬ驚きの表情が貼り付いていた。雨音から連想されるそれではない、確かな質量を持って構内に響き渡る。その音は間違いなくメフィストフェレスの裏口から鳴っていた。
ウーティスの腕から離れると、ヒースクリフは扉の向こうを食い入るように見つめる。そうして彼が指さした先にキャシーはいるのだとヒースクリフは訴えた。
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