夜之 夢
2021-07-18 20:07:18
14914文字
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ハートフル5daysレシピ(1/5)

※アズジェイ。アズールへの気持ちを自覚していなかったジェイドが、気持ちを自覚したうえで失恋したと勘違いして、料理しながらそのショックを落ち着けようとする話。全部捏造。性別不詳の監督生が出ます。ハッピーエンドです。
月曜から金曜まで、1日ずつ更新し、最終的には支部にまとめて投稿予定です。



 乾いた木材がぶつかりあう音が、談話室に満ちていた静寂を揺らした。音がした方へとジェイドが目を向ければ、ふくよかな姿のゴーストが1人、談話室の暖炉へと薪をくべている。オンボロ寮のゴーストだ。薄く透けた白い手は2本目の薪をしっかりと掴み、生きた人間では出来ぬほどの丁寧な手つきで、それを暖炉へと入れていた。からん、こん、と木材がぶつかる音がごく小さく鳴って、パチ、と小さく火花が散った。
 ゴーストが丁寧に火の面倒を見ている通り、室内は充分に暖かかった。オンボロ寮、と称されてはいるが、この建物は寮としての機能を維持して健在で、監督生によって片付けられている談話室は談話室としての体裁を保っている。
 学園の教室を思い出させるような、少し古い木の匂いと、火によって熱を含んだ空気。それに抱きこまれるようにして、ジェイドは談話室のソファに座っていた。
「夕飯はうまくいきそうだね」
 火を見守ったまま、ゴーストが言った。
 このオンボロ寮の談話室には今、ゴーストとジェイドしかいない。遅れて、ジェイドは自分に声を掛けられたのだと理解する。何と答えるべきなのかを少し迷って、その間にゴーストが言葉を続けた。
「キッチンから漂ってくる匂いだけでわかるさ。美味しそうだ」
 柔らかな声と共に、暖炉には3本目の薪がくべられた。新しくよく乾いた薪をくわえ込んだ火は、少しの間ひるんだように小さくなって、それから、新しい食事を得たかのように薪を舐め始めた。
 火の匂い、としか言い表せぬかおりが――実際のところそれは火の匂いなのではなく、何かが燃えていく際に断末魔のように放つ匂いなのだ――ジェイドの鼻先をかすめて、それに混じって、ミネストローネの香りが漂っている。
 そうだスープを作ったのだった、と今更のように思い出して、ジェイドはようやくゴーストへと答える言葉を見つけた。
「ええ……監督生さんの手際が思いのほか良かったものですから。味は悪くないはずですよ」
 そうかい、と頷くゴーストは、その横顔に満足げな微笑みをあらわしていた。充足感。慈愛。安堵。そういった感情がそこに込められている、とジェイドは察する。オンボロ寮の監督生は、存外にここのゴースト達に愛されているようだった。
「キッチンの火は止めているのかい」ゴーストはそう問うが、その言葉に不安の気配は無く、確認の意図しか無いのだと知れた。
 実際、スープを煮込んでいた鍋の火は止めている。談話室の隣にあるキッチンでは今、6人分ほどのミネストローネが入った鍋が一つ、キッチンのガスコンロの上に乗って、熱さが逃げるのを待っているはずだった。
 はい、とジェイドは頷いた。
 暖炉に薪を足し終えたゴーストが、やっとまともにジェイドを振り返って問いを重ねた。
「監督生はさっき出て行ったようだけど……あの子はどこに行ったんだい」
 もう夕飯は出来たんだろう、外は寒いのに、とゴーストが言う。談話室の窓を振り向いたゴーストを脅すかのように、途端にびょう、と風の音が強くなって、窓がガタガタと震えた。
「購買部に……パンを買い足すために行くと。お止めしたのですが……今日の夕飯にはどうしても欲しい、と言われて」
 答えながら、ジェイドはソファから立ち上がった。窓へと歩み寄り、そのカーテンを閉めようと手をかける。
 窓の外は既に青色が混じり始めていた。空は白みを帯びた灰色で、いかにも寒空らしい。夜には雪でも降るかもしれなかった。「止めたんですけれどね」言い訳のような呟きがこぼれ落ちたが、それが自分に対する言い訳なのか、ゴーストに対する言い訳なのか、ジェイド自身もわからなかった。
 ゴーストが笑う。
「友達と一緒に料理を作るなんて、初めてだったからね。嬉しくなって、はりきったんだろうさ」
 ひょっとしたらグリ坊のツナ缶も増えるかもしれない。そう言ってますます笑ったゴーストの穏やかさに、ジェイドは何も言えなくなる。苦笑して、窓のカーテンを閉めた。代わりにと、談話室の出入り口へと向かう。
「夕飯の支度を。……監督生さんが戻ってきた時に、すぐに温かい料理をお出し出来るように」
 言葉はやはり言い訳のようになったが、ゴーストは気にしなかったらしい。そうしてあげてくれるかい、と言って、ゴーストは暖炉の火に向き直った。火かき棒を中に突っ込み、灰をかき出し始める。
 暖かくしておかないとなぁ、と幸せそうな呟きを背中で受け取って、ジェイドは談話室を出た。

   ◇

 良ければ一緒に夕飯の支度でも、と今日突然に言いだしたのは、監督生だった。
 ついでに簡単な料理を教えてもらえますか、それで一緒に夕飯にしませんか、と言われて、ジェイドはそのとき瞬きをするしかできなかった。
 確かに、監督生に話のきっかけを作ったのはジェイドであったけれど。
 ジェイドが監督生に言ったこととは「ヒトというのは、何かショックなことがあった時、それを消化するためにどう行動するのでしょう」ということであったので、監督生がそこで「自分なら料理をします」と返してきたことが意外であったし、そこからまさか「良ければ一緒に今日の夕飯の支度でも」と続くとは思ってもいなかった。
 言われるまま了承してしまったのは、ジェイドの今日の放課後の予定が何も無かったからだ。正確に言うならば、何も無いことにしてしまった。もとよりモストロ・ラウンジのシフトが入っていなかったのは事実だ。その代わり植物園にでも行こうと思っていたのだが、どうもそういう気分ではなかった。ジェイドの頭の中には、2日前に起きた『ショックなこと』がまだ残っている。
 ジェイドは自分のその事情を詳しく話しはしなかったが、監督生は「せっかく料理をするんですから、レシピを教えてください」とすっかりジェイドを活用する気らしかった。
「まさか異世界に飛ばされて暮らす事になるとは思ってませんでしたからね。必要最低限ていどの料理は出来ますけど、元いた世界で料理のレシピなんてまともに覚えてなかったんですよ。そういうわけで、ジェイド先輩おすすめの、簡単なレシピでも伝授してもらえますか」
 そう言って明るく笑う監督生に、何だか少し救われた気持ちになったのは確かだ。
 それを悟られぬようにして、ジェイドは苦笑して頷いた。
 そんなわけで放課後、ジェイドは監督生と共に購買部で材料を買い足して、その足でオンボロ寮を訪れた。

 ジェイドが他人に教えられるレシピはいくつかあったが、今回は簡単なものが良いと判断して、教えるレシピはミネストローネとなった。ほとんど『材料を切って煮込んでしまえば終わり』というシンプルさで、材料もそれほど『決まり』に縛られるものではない。寒さが厳しい今の季節のことを考えても、ちょうど良いと思ってのことだった。
「ではミネストローネを」とジェイドが告げて、監督生も喜んだので、オンボロ寮の今日の夕飯のメニューはミネストローネ、サラダ、白身魚のムニエルとなった。「これでグリムには『焼いた魚の切れ端と葉っぱだけ』なんて言われずに済むな」と監督生が笑い、ジェイドによる簡単な料理講座は始まった。
 材料の分量を伝え、野菜の切り方を指示し、調理の手順を教えながらも共に手を動かす。
 感情の整理のために料理を、というのは監督生の案だったが、なるほど、料理というのは簡単な作業の積み重ねでありながら単調ではない。一昨日、昨日、今日とあったことを脳内で振り返りながら野菜を切り、半ばぼんやりとしながらも鍋をかき混ぜるうちに、ジェイドも、自分が何をどう感じてどう考えていたのかは無理なく客観視できた。料理というのは確かに感情の整理に向いているのかもしれない。ただ、ジェイドが『何をショックに思ったのか』は冷静に受け止めることができたとして、そのショックはまだジェイドの中に傷をつけていたが。
「ジェイド先輩、ショックなことがあったんですか?」
 突然にそう問われたのは、その時だ。ジェイドの指示のもと鍋に蓋をした監督生が、キッチンの窓越しに外を見ながら言った。
 ジェイドは言葉に詰まる。
「言いたくなければ、聞かないようにしますけど」
 付け足された言葉は最初からそう言うつもりだったようだ。慌てた様子が無い。
 ジェイドが監督生へと顔を向けると、その気配を感じとったらしい監督生もまた、ジェイドへと顔を向けた。落ち着いた様子でジェイドへと笑いかけるさまが、子供に言葉を促すようだった。
 それに観念する気持ちで、ジェイドは口を開いた。
……そうですね。最初はそうとは気付かなかったのですが、はい、ショックだったようです」
「何があったのか、聞いてもいいですか? 言いたくなければ黙ってて大丈夫ですよ」
 違う言葉で二度同じことを言って、監督生はジェイドからゆっくりと視線をはずした。窓の外を見て、それからコンロの上に置いていたフライパンを持ち上げる。魚はまだ焼き始めていないので、ただのからのフライパンだ。何気無いふうを装おうとした、意味の無い行動だと知れた。
 キッチンには鍋の火によって温められた空気と、ミネストローネの匂いが満ちている。それを少し吸い込んで、ジェイドはそろりと口を開いた。
……先週の土曜日……今日は月曜日ですから、2日前、ということになるのでしょうか」
 はい、と監督生が相槌を打った。
「アズールと……いえ、アズールに言われたことが、少し……
 少し、何なのだろう。自分で口にしておいてその先に何と続ければ良いのか、ジェイドはわからなくなった。
 不自然に言葉が消えたことに気付いたらしい監督生が、ちらとジェイドを見る。その手が持ち上げていたフライパンをコンロの上に置き直し、その唇が開かれた。
……ショックだったとか、傷ついたとか……びっくりしたとか?」
 選択肢として並べられた言葉を一つ一つ受け止め、ジェイドは数秒のあいだ黙してから答えた。
……ショックだった、のだと思います」
 そう判断していたことだが、改めて自らで明確な言葉にすれば、途端にその時のことが脳内に甦る。
……――土曜の夜に……
 土曜の夜に。その一言がこぼれ落ちれば、あとは言葉がのろのろと出た。

 土曜の夜のことだった。先週最後の営業を終えたモストロ・ラウンジのVIPルームにて、何気ない会話の末に、その話題は生まれた。その日アズールは1人の客に契約を断られ逃げられており、そのことをジェイド達がからかったのがきっかけだった。
 どうしてあれで断られたのだ、と不機嫌になっていたアズールは、しきりに自分のことを笑う双子を睨みつけて「もう少し協力的な友人が欲しいものです」と言ったのだ。
「おや、僕たち以外の友人を?」
「お前達は『友人』じゃないだろ」
「えー、ひっでぇの。今はまだ友達じゃんね」
「ええ、少なくとも僕たちはそのつもりでいますが」
「よく言う……
「それに、アズールに協力的であったつもりなのですが」
 しくしく、と目元を押さえる素振りをして見せたジェイドの傍で、アズールはしびれを切らしたように声を発した。
「ああ、ジャミルさんが友達になってくだされば良いのに」
 アズールまたそれ、と笑ったのはフロイドで、ジェイドはそのとき何も言い返せなかった。ウソ泣きをやめて手を下ろせば、アズールのスカイブルーの瞳と視線が合った。
「なぜそれほどジャミルさんにこだわるんですか?」
 問いは自然であったはずだ、とジェイドは自負している。少なくともジェイドは上手く微笑んでいたし、声を震わせることもなかった。アズールもいつも通りの、落ち着いた様子でサラサラと答えた。「ユニーク魔法があるでしょう」
「ジェイドの『かじりとる歯』は本心を引きずり出すものですが、ジャミルさんの『蛇のいざない』は他者を操るものです。それも、精神にお構いなしに肉体を操る。実に便利だと思いませんか。契約書にサインするその数秒だけでも操れたなら、充分だ」
 きっと、アズールには何の悪意も無かった。実際、アズールが言った言葉は単なる事実でしかない。誰が見ても明らかな事実。反論の余地も必要も無い。
 けれどその瞬間、ジェイドは自らの胸中がさぁっと冷えたように感じた。怒り、と錯覚したが、それは怒りではなかった。動揺、失望、あるいは悲しみ、衝撃。まさに『ショックを受けた』状態だった。
 思わず一瞬強張った表情を、アズールはきっと気付かなかった。それがジェイドにとって唯一の救いだった。フロイドだけがジェイドを見やって、それによってジェイドは咄嗟に微笑という仮面をつけることが出来た。
「さすがアズールです。悪どいですね」
 嫌味っぽく笑ってわずかに首を傾げれば、アズールはジェイドを一瞥して鼻を鳴らした。つまらなさそうな横顔がジェイドの嫌味をはねのけて、それきりだ。
 おそらく衝撃的すぎたのだ。ジェイドにはその日のそれ以降のはっきりとした記憶が無い。店の片付けを口実にしてVIPルームを出たが、何をしてどう自室に戻ったのかがどうも不明瞭だった。ただ、アズールの言葉だけが脳内をぐるぐると巡っていた。
 ――ジャミルさんが友達になってくだされば
 ――ジェイドの『かじりとる歯』は引きずり出すものですが
 ――『蛇のいざない』は他者を操るものです
 ――実に便利だと思いませんか
 それは、とジェイドは思う。それはつまり、と考える。
 アズールが求めるものに、ジェイドは成れていなかったということではないか。

「ひどい人でしょう。僕はそれなりにアズールに協力してきたつもりなんですよ。……ですがそれでも結局、僕のユニーク魔法は使えないと言われた気がして」
 実際そうなのだ、と自分で答えを出して、それでも湿っぽい空気にならないよう意識して、ジェイドは苦笑して見せながら言葉をくくった。
 土曜の記憶から戻って来た今、ジェイドはオンボロ寮のキッチンに立っており、隣では監督生がポカンとした表情でジェイドを見上げている。
 それに少し振り向いて見せれば、監督生はハッとしたように瞬きをして、ゆるく握った手を自らの口のあたりに当てた。
……なるほど、それは……うぅん……なるほど……
 珍しく難しい顔をして呟き始めた監督生に、ジェイドはふふと笑いをこぼした。意識せず、ごく自然に生まれた笑いだった。
「部屋に戻るまで、おそらくは茫然自失といえる状態だったのだと思います。やっとはっきりとした自我が戻ってきたとき、僕は電気を消した自室でベッドに入って天井を見上げていて。面白いことにきちんと着替えていたんです」
 監督生の前にある鍋から、コトコトと控えめな音がたち始める。鍋の蓋のふちから湯気が溢れて、空気に溶けていった。
「でも、」
「でも?」
「アズールに言われた時はまだ、自分がショックを受けた、とも理解できていなかった気がします。暗い部屋で天井を見上げてようやく、自分は今ショックを受けているのだ、と理解してしまって」
 ショックを受けたとも気付いていなかったのだから、ショックを受けたことすらも自分で誤魔化せれば良かったのに、とジェイドは思う。思っている。しかし生憎と、一度わかってしまったことを無しにすることは出来なかった。
 うぅん、とまたうなった監督生に、ジェイドは言葉を繋いだ。
「少し前には、アズールのほうが僕たちと一緒にいたいと言ってくれたのに。ひどいものですよね。しくしく」
 わかりやすいウソ泣きをして見せれば、監督生はやっと難しい顔をやめたようだった。
「あ、ジェイド先輩たちってそういう成り立ちだったんですか?」
 ぱっと顔を上げてジェイドへと視線を向け、そんなことを訊いてくるものだから、ジェイドのほうが思わずきょとりとした。
「なりたち」
 表現が面白く、繰り返したジェイドもふきだしそうになる。
「そうですね……なんとなく3人一緒になりましたが、一度だけアズールからはっきりと好意的な言葉をもらったことが」
 言いながらも、その時のことを思い出せば途端に胸のあたりが痛むようだった。
 ああ本当に、あんな風に好意を言葉にしてくれていたというのに!――そんなことを虚空へぼやきたくなる。
「へぇ……
 監督生は意外そうに曖昧な相槌を打って、けれどジェイドの様子から何かしらを感じ取ったらしく、それ以上は尋ねてこず、じっと黙った。
 誰も話さなければキッチンは静かだ。ささやかな物音だけがさわさわと空気を揺らめかせて、営みの温度ばかりがある。
 なるほど、とジェイドはもう一度思った。たしかにキッチンという空間はよほどのことが無い限り、ある程度は静かだ。料理をするというのも感情の整理にはちょうど良く、監督生が言った『感情を消化するために料理をする』という手段は間違っていなかったらしい。少なくともジェイドはそう感じた。
「監督生さんも、ショックなことがあった時は料理をするんですよね」
 ふと確かめるように問えば、監督生は「そうですね」と頷いた。
「動揺とか、落ち込みとか……そういうときにも何となく料理をします。シチューとかカレーとか、材料を切って煮込むだけの料理が多かったかな。黙々と材料を切って、その全部を鍋に放り込んで、あとは火にかけて……コンロの火をぼうっと眺めてると、良くも悪くも感情の整理がつくような気がします。……そういう時に、自分は必要最低限の料理が出来て良かったなぁって思いもしますね」
「あぁ……確かにそうですね」
 料理という手段自体が使えなければ出来ない対処法だ。そのことを改めて思い出して、ジェイドは頷いた。
「そういやジェイド先輩が料理できるのって、やっぱりアズール先輩の影響ですか?」
 話の流れで思いついたらしく、監督生が訊いてくる。無邪気なだけのその問いがジェイドの胸中のやわらかなところを不意に掴んだようで、ジェイドは一瞬、密かに息を飲んだ。
 緊張の走った体を宥め、ゆっくりと唇を解き開く。
……はい。本当に基礎的な、必要最低限のことは訓練学校で教わりましたが、その後に陸での……火を使う料理を本格的に教えてくれたのはアズールでした」
「あぁ、訓練学校。あるらしいですね。この前聞いてびっくりしましたけど、納得もしました」
「はい。とても有意義な学びでしたよ。とはいえ、訓練学校で習うことはあくまで『人間として陸で生きていくためのこと』です。料理人になることが目標ではありませんから、料理について学んだと言っても、訓練学校で習うのは本当に必要最低限のことといった範囲で……たとえば煮る、焼く、といったことや、調味料の計り方、使い方……包丁の持ち方なんかでしたね。包丁については、陸とは少し違いますが海の中にもありましたし、僕も母の手伝いをするくらいのことはしていましたから、戸惑いはありませんでしたが。火加減のことだとか、肉は基本的に中まで火を通すこと、などということは僕も訓練学校で初めて知りました。初めて陸の料理を口にしたのもその時ですね。……アズールがとても感動していて。彼はそこから独学で、一気に自分の料理のレベルを上げていきました」
 一つを思い出せば、それに繋がって様々な記憶や情報が呼び起こされる。興味深げに耳を傾ける監督生へと、ジェイドはゆっくりと言葉を連ねた。
「アズールはもともとご実家がリストランテであり、彼自身も絶対的な味覚を持っていますから。彼は海での料理には慣れていましたし、陸でも『方法』さえ知ってしまえば後は簡単だったんでしょう」
「なるほど。想像に難くないですね」
 ええ、と答えて、ジェイドは力無く苦笑した。
「僕もフロイドも、料理らしい料理については訓練学校ではなくアズールに教わったようなものです」
「へぇ……でも、ジェイド先輩もそこからたった2年くらいで、今ではこんな料理上手に……
「僕に料理を教えた人は、酷評はしませんが味にうるさい人でしたからね」
 ふっと事実をこぼせば、監督生がちらとジェイドを見やった。気づかわしげなその視線はジェイドの横顔を撫でたあと、何事も無かったかのように前を向き直す。
「でも、すごいと思います」
 ぽつりと呟いた監督生は、それから再びジェイドを振り向き見上げた。
「料理上達のコツってありますか?」 
「そうですねぇ……
 言葉を繋ぎながら、ジェイドは何と答えるかを考える。きっと正解は無い問いであるので、『ジェイドが思う答え』を探す必要があった。
 料理上達のコツ。理由。ジェイドにとっては何がいちばん良かったのか。
 初めてキッチンに立った時から今に至るまでをスキップ再生のように思い出せば、それは僅かな痛みと共にジェイドに答えを見せた。
――失敗しても、怒られないこと」
 そう答えたジェイドの声は落ち着いたものだったが、ジェイドの答えを聞いた監督生はハッとした表情を見せた。それに視線だけで応じ、ジェイドは微かに笑う。監督生と合わせていた視線を鍋へと戻せば、その時に監督生が口を開いた。
「それって……その、もしかして」
……そういうことですね」
 みなまで言わせないようにしてジェイドが頷けば、監督生はますます目を丸くさせた。
 アズールに料理を教わったジェイドがそうであったのだと、正しく伝わったのだろう。
 監督生は呆気に取られたようにジェイドの横顔を見つめていたが、しばらくしてからそろりとその視線を自らの前の鍋に戻した。ジェイドと同じものを眺めるようにして、ぽつりとその唇が声を発した。
……意外です」
「そうですか?」
 問いながら、ジェイドは鍋の蓋を開けて、そばに用意していたレードルで――監督生はこれを「おたま」と呼ぶと今日知った――ゆっくりと鍋の中をかき混ぜた。
 その様子を見て、それからジェイドを見上げ、監督生が口を開く。
……アズール先輩は、料理が出来るからこそ、その……料理初心者に苛立ちそうなイメージがあって」
 ここで言う初心者とは、その頃まだ火加減もろくにわかっていなかったジェイドのことを指すのだろう。監督生はまるで自分が怒られることを想像したかのように、そう言いながら肩を狭めて見せた。
 ジェイドはそれに答える。
「そうですね、内心は苛立っていたかもしれません。ですが少なくとも僕はアズールから苛立ちの気配を感じませんでしたし、終始、懇切丁寧に教えてくれましたよ」
 そう話すうちに、ジェイド自身にもそのときの記憶が甦った。ああそうだ――あの頃は火の、中火と強火の境目も納得がいかなかった。ガスコンロの火を少しずつ少しずつ調節して「どこからが強火か」と尋ね、アズールさえも悩ませてしまったことは今となっては笑い話だろう。
 アズールはけっして投げやりにならず、どこまでも真面目にジェイドに応じようとしたものだから、そんなふうにして思わぬところで躓き二人で首を傾げることは度々あった。その「中火と強火の境目問題」だって結局、しびれを切らしたフロイドが「どこから、じゃなくて、これが中火、これが強火でいいじゃん」と指摘してあっさりと解決したのだが、それら全てが訓練学校のキッチンで行われたことだと考えると本当におかしな話だった。
 思い出せば思い出すほどに笑えてくる。こみ上げる笑いを噛んで眉尻を下げれば、監督生はそんなジェイドをじっと見た後、自分の手を動かし始めた。
「アズール先輩って、料理については優しいんだ……
 横のシンクのあたりに退き、まな板を出して、そこにサラダ用の野菜を置き始めた監督生が、驚きを消化しきれない様子で呟く。
 優しいというのは少し違う。そう否定して、ジェイドは言葉を連ねた。
「いずれ僕を使えるようにしよう、と目論んでのことだったのか、単に怒っていなかっただけなのかはわかりません。ただ、アズールは……相手がふざけていない限りは、誰に対しても真摯に向き合う性格ですから。それが理由なのかもしれません」
「なるほど……?」
 監督生は理解を示す言葉を返したが、その表情は訝しげだった。少しだけ首が傾げられ、明らかに「納得できません」と主張している。だが言葉だけでも理解しようとしている姿勢だけは見てとれたので、ジェイドもそれを指摘しようとは思わなかった。
「卵一つ満足に割れない僕を、笑うことも馬鹿にすることもなかった」
 代わりにと、たった今思い出されたことを告げれば、監督生はまた目を丸くさせてジェイドへと振り向いた。ジェイドもまた、それに顔を向けてやる。口を開いた。
「訓練学校では、卵を割ってそれを焼く……ということは教わりますが、先程も言ったとおり、それはあくまで必要最低限の知識としてです。それが成功しようが失敗しようが、その授業はその1度きりで終わってしまうんですよ。訓練学校は料理学校ではありませんからね。卵をきちんと割れるか、といったことはさほど重要ではありません。概要と手順を学んだら、必要そうであれば練習しておくように、と言われるだけで終わってしまいます。ですから、その授業の中で卵をまともに割れなかった僕に、その後アズールが直々に教えを。……その時ですら、アズールは僕のことを笑いもしませんでした。困ったような顔はされましたけれどね」
 あれは心底『困って』いる様子だった。卵1つ割れないジェイドに対して困っているのではなくて、卵の割り方をどう説明しようと悩んでいたさま。ジェイドが何度も力加減を誤っても、アズールはやはり怒らなかったし、ジェイドを叱りもしなかった。途中、耐えきれなくなって「もうやめておきましょう」と漏らしたのはジェイドのほうで、「もう少し」と言ってそれを引き止めたのはアズールだったのだ。「僕も最初はそうでした」横顔で言ったアズールのその言葉が、はたして本当のことだったのか、ジェイドを宥めるための嘘だったのか、ジェイドは今でも知らないままだ。
……アズール先輩が、親御さんからそういう風にご教育されたんでしょうかね」
「そうである気がします」
 監督生に答えながら、ジェイドはコンロの火を止めた。
 ――あのとき、卵の殻だけを綺麗に割ることは卵10個目で成功して、12個目でアズールからの合格をもらったのだ。大きなボウルに12個分の卵液を入れた後、そこから見つかる限りの殻を取ってアズールがオムレツを3人分作ったが、3人で食べたそれはやはりまだところどころジャリジャリとしたものがあったのを覚えている。きっと言いたいことはたくさんあっただろうに、フロイドは無言でそれを食べ切った。賛辞がなかった代わりに文句も無く、静かな食事の最後に、アズールが一言だけ「味はどうでした」とジェイドに聞いてきたことを覚えている。
 美味しかったです、と答えた声は震えていなかっただろうか。確かに味だけは美味しかったので、それは嘘ではなかったのだけれど。
 あの後しばらく卵料理は口にしなかった。
……しまった」
 不意に監督生が呟き、ジェイドはそれへ振り向いた。
「パンが無い。さすがに今日のメニューに米はちょっと」

   ◇

 一度置いていたスープが温まり直すころ、監督生は鼻をすすりながらオンボロ寮に戻ってきた。
「寒い寒い」と全身を縮こまらせながら、それでもその腕にしっかりとバゲットを抱えて戻ってきたものだから、なんだか子供がおつかいに行っていたようだった。
 それを迎えたジェイドが、おかえりなさい、と言葉をかけたのは形式上のものだったが、その言葉がこの場面に妙に合っていて、同じようなことを感じたらしい監督生がふきだすようにして笑った。
「買ってきました!」
 大切な任務を果たしたかのように、監督生の弾んだ声と共にパンが掲げられる。おそらくその声で起きたのだろう、先程まで談話室でうとうととしていたグリムが廊下へと出てきた。「やっと飯かぁ?」眠たげな目と声だ。それを一瞬だけ振り返り、ジェイドは監督生へと告げた。
「では僕はこれで」
「えっ! 一緒に夕飯を、って約束だったじゃないですか」
「ええ、はい。ですがやはり遠慮しておきます。大切な食糧なのでしょうし」
「別にオンボロ寮は食べることにも困っているわけじゃないですからね!?」
 急いで訂正するかのように監督生が声をあげ、ジェイドは思わず笑った。
「ええ、はい」
 わかっていますよ、と穏やかに返したジェイドの感情を、おそらく監督生は理解した。
 数秒の間じっとジェイドを見つめた監督生は、それならせめて、と慌てた様子でキッチンに駆け込んだ。
「ちょっと待っててください! 絶対ですよ!」
 遅れてそんな叫びだけが聞こえてくる。
「はあ……
 何事かと思いながらもジェイドが立ち尽くしていれば、どたばたとした物音と数分の後、監督生は何かを手にキッチンから飛びだしてきた。
「あの、これ! せめて持っていってください」
 そう言って差し出されたのはランチ用の小さなトートバッグで、中を覗けば円筒状の容器と、蓋付の保存容器が入っている。円筒状のものの中身は知れなかったが、蓋付のほうには切られたパンが3切れ分ほど入っているのが見えた。
「あの、これは……
「パンとスープです! こっちの大きな水筒みたいな方の中にミネストローネを入れましたから。保温機能つきなので、数時間はあったかいはずです。夕食の足しにでもしてください」
 言って、監督生はトートバッグをジェイドに押し付けるようにした。この状況であれば遠慮も抵抗も無駄と判断して、ジェイドはそろりとそれを受け取る。
……ありがとうございます」
 戸惑いはあったが、礼の言葉はするりと出た。監督生が笑う。
 また料理教えてくださいね、と屈託なく言われて、ジェイドは苦笑してそれを了承した。

   ◇

 ジェイドがオクタヴィネル寮に戻った頃には、もう夕飯の時間だった。
 モストロ・ラウンジでの勤務がある者はまかないにありつき、そうでない者は学園の食堂にでも行っているだろう。あるいは購買部で買ったものを自室で食べる者や、料理が苦でなければ、モストロ・ラウンジのキッチンの隅を借りて自分で用意する者もいる。
 ジェイドはと言えば、監督生からの「おすそわけ」があるため食堂に行くこともせず、かと言ってモストロ・ラウンジの勤務があるわけではないのでまかないにありつく機会も無く、自分はどこへ行くべきかを迷っていた。
 いくらスープとパンがあるとは言えど、それだけで夕食を済ます気も無い。となれば必然的に「他は自分で用意する」しかなく、結局少し考えた後、ジェイドは従業員用通路を通ってモストロ・ラウンジのキッチンへと向かった。
 従業員用通路の突き当り、モストロ・ラウンジの『裏口』とされている扉は、キッチンから見て一番奥にある。通常、食材や何か大きなものが運ばれる際に利用される場所だ。
 その近くには一番古い設備である二口のガスコンロと、小さめの調理台もある。双方とも日常的には使われていない設備で、そのため、本来はそういうためのスペースではないのだが、1人2人程度ならばそこで食事を取っても問題が無いので、キッチンスタッフ達がまかないをつまむスペースとなっている。
 そこでスープとパンを胃にいれつつ、足りない分は自分で適当に用意しようと考えてのことだった。
歩みを進め『裏口』からキッチンへと入れば、休憩時間でも何でも無い時間であるため誰もいなかった。ちょうどいいと思いながらも、ジェイドは監督生から持たされた容器を置き、容器の蓋をあけ、立ったままで簡単な食事を始める。もとが休憩場所のように使われているので従業員用のカトラリーが傍に立てて置いてあり、ジェイドもそれを使った。
 保温機能があります、と監督生が言っていた通り、スープはまだ十分に温かかった。まだ「熱い」とも言えるそれを少しずつ口にしながら、ジェイドはぼんやりと思考を巡らせた。
 先週の土曜日にショックを受け、それを飲み込みきれないまま月曜を迎えたが、先ほどまでの監督生との料理の中で、たしかにジェイドの動揺はわずかに消化され始めたようだった。完全な納得というわけではないが、えづいて咀嚼すらままならなかったものを、ようやく一度二度と噛み始められたような心地。
 相当にショックだったのだな、と他人事のように思ったが、正直なところ、なぜ自分がこうもショックを受けているのか、ジェイドはそれをまだ理解しきれていなかった。
 ショックを受けている、という事実と、なぜそれほどまでにショックを受けたのか、という理由が、ジェイドの中でまだ結びついていない。
 だって、とジェイドは思う。冷めたような思考で判断する。
 アズールが言った言葉は事実だ。
 ジェイドは自分の能力を卑下する気など無いが、ジェイドのユニーク魔法とジャミルのユニーク魔法、そのどちらのほうが便利か、と考えたならば、それは当然ジャミルのユニーク魔法が勝る。それをはっきりと言葉にされたところでショックを受けるほうが馬鹿げていた。何を当然のことを、というのがジェイドの考えだ。
 だというのにどうして。
 自問するが、その問いかけに対する答えは無かった。
 今日、監督生に昔の話をしたせいだろう。考えこみつつ熱いスープを口に含めば、ジェイドの脳内には、今まで気にも留めずに放っていた過去の記憶がやたらと甦った。
 過去に一度だけ、アズールがはっきりと「これからも一緒にいてほしい」と言葉にしてくれたこと。
 一緒にキッチンに立った中で、アズールは本当に一度もジェイドの失敗に怒ったことはなかったこと。
 ジェイドが料理というものに慣れるまで数々の失敗作が生まれて、それを無言で食したことと、その期間の短さ。
 ナイトレイブンカレッジへの入学、寮長の座を得るまでの計画、モストロ・ラウンジの立ち上げ、それからのありとあらゆること。
 アズールは、ジェイドにとって常に新鮮で鮮烈で、おかしくて綺麗だった。見ていて飽きない。一緒にいれば常に何か面白いことを思いつき、巻き起こしてくれた。そういう存在だった。
 だからこそジェイドも、そんなアズールの助力になれたらと思っていたのだ。
 たまらなく綺麗で面白くて、そんなアズールのことが好きだったから、だからこそ力になりたいと——
……、」
 そこまで思考が至った瞬間、ジェイドは喉にパンを詰めらせかけた。んぐ、と一人呻きながらも、無理矢理にスープでふやかし押し込み、何とか飲み下す。口の中にはカッとした熱さが過り喉が一瞬痛んだが、それだけだ。火傷はしなかっただろう。したとしていても今はそれどころではなかった。
 ジェイドにとってはとんでもない発見が今、この瞬間にあったからだ。
……好き、だったんですかね……
 ジェイド以外に誰もいないキッチンの奥。当然、それに答えてくれる者はいない。
 ただ言葉にしてぽろりとこぼしてしまった後、ジェイドの身の内からは一瞬だけカッとした熱が湧きあがり、そうしてそれが愕然とした思いに飲み込まれ、そして――それだけだった。
 後はただ、首を絞めるように、血の気の引くような感覚がジェイドを包み込んだ。
 何かを恐れたのではない。何かを危惧する『余白』すらジェイドにはもう無い、と理解したからだった。未来に期待することも危惧することもないともう知れていた。だって、好きだったのだとして、それが今さら何になるだろう。
 アズールはもう、ジェイドの能力に魅力を感じていないというのに。
 別に、だからといって今すぐに追い払われることはないだろう。しかし、かと言って期待されることもない。使える限りは使う。アズールからすれば、ジェイドという価値はそれくらいに違いない。
 そこから先などもう無いのだと知れていた。
 つまりジェイドは、恋を自覚すると同時に失恋したようなものだった。
……――……
 力の抜けきった手を内心で叱咤しながら、ジェイドはのろりとスプーンを動かす。じっと黙って、ただ機械的にミネストローネを口に運んだ。
 それが美味しいのかそうでないのか、もうわからない。これを食べきるだけで夕飯は充分だ、としかわからなかった。




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(月曜日に恋を知って、)