柳堂知羽@一次創作
2024-07-10 11:42:11
4324文字
Public ⬛︎飛ぶ鳥
 

時折、はねやすめ【飛ぶ鳥】

飛ぶ鳥は、つかの間を楽しむ。



最後にビアガーデンに行ったのはいつだったか、伊織はもう覚えていない。ばたばたと熱風に煽られ揺れているビアガーデンへのお誘いの旗を見やりながら、脳内の記憶を辿る。やはり、一番新しい記憶でも大学生の頃だ。あの頃は、ことあるごとに飲み会を開いていたような気がする。社会人になってウン十年とは経っていないものの、何故か大学の頃の記憶が遠いことのように思えるのが不思議だった。
そうだ、ビアガーデンにいきたい、と社会人になってすぐの頃に友人らはよく言っていた。それこそ、女性を誘って大々的になんてどうだろう、なんてことも言っていた気がする。でも、これは実現しなかった。ただの一回も。
何やかんやと夏は忙しいのだ。友人らと飲み会を計画しても、やれプライべートがどうだとか、仕事がどうだとかで流れに流れ、気が付けばビアガーデンの期間が終了している。ここ最近はそんなこんなだったように記憶していた。会社の先輩曰く、これが社会人というものらしい。なるほど、そうやって途切れる縁もあれば、繋がり続ける縁もある。だから面白いんだよと笑っていた先輩をへどんな返答をしたのかを伊織はもう覚えていなかった。

十八時を過ぎると、街は姿を変える。特に今日は金曜日。夜に向かっているはずなのにやけに明るい色の夏の空の下、暑いあついと言いながらもすれ違う人々はみな、どこかうきうきとしている。やはりこの時間にビル群の合間を縫って歩くもんじゃない。周囲とのテンションの差を嫌でも感じ取ってしまい、うんざりしてしまうのだ。こんな都会の中で解放感なぞ、感じるものか。吐き捨てはしないが、溜息が漏れそうになる。いくらガンガンに音楽を鳴らしていようと、うだるような暑さと共に溜まりこむ靄は晴れてくれないのだ。
こんな時は、近場でもいいので人が少ない場所に行くのがいい。そうして、四方八方から吸収せざるを得ない人間の感情を放出するのだ。なんて、今は流石にそんなことはできない。いくら伊織であったも、だ。そうだ、これから伊織は友人と酒を飲む。いつも通り、突然決まる飲み会。最近はビアガーデンにいきたい、と言わなくなった友人らによる、日常のうっぷん晴らしの会。今日は珍しくワインを飲む会にしよう、となったのでイタ飯屋に伊織は向かっている。さて、今日はいくらほど使うのだろうか。来週に少し高めの金額が動く旅行の予定があるので、伊織としてはほどほどを希望しているがきっとその願いは見事に打ち砕かれるのだろう。金が無理だとしたら、せめて明日の日帰り旅行に響かない程度のアルコール摂取量に抑えなければ。これだけはなんとか守れそうだ、と一人頷く。
まくり上げたシャツの袖の分厚い部分にじわりと汗が滲む。ああ、本当にクールビズというものには感謝するしかない。一昔前は、真夏でもネクタイをしっかりとしめ、かっちりとしたジャケットを羽織って客先に出向いていたというのだから、気が遠くなる。できればティーシャツで仕事をしたい、と思ったが伊織は緩く首を振る。それは、伊織の勤める会社にとって「普通」ではない。だからきっと、何かのきっかけがあるまでは伊織はワイシャツを着続けるだろうし、事務の人々は時代に逆行した制服を着続けるのだ。

友人らからの連絡に返答する間に赤から青へ信号が変わる。それと同時に大勢の人が交差点を行きかう中、伊織もそのピースの一つに成り下がる。
お目当ての店にはあと数分で着く。それまでの間にうんざりするほどの人とすれ違うのだ。そうだ、ここにはビルとアスファルト、少しの木々しかない。あとは全て人で埋め尽くされている。そんな場所に伊織はいる。これがこの街の普通であり、伊織の人生の大半をこの場が占めていた。
何不自由もない当たり前の日常を享受するのが穏やかな人生のためにも必要なのに、ほんの少しだけ息苦しい。
不意に、瞬きした先に以前訪れた冷たい湖が見えた。もちろん、気のせいだ。そんなことくらい伊織にも十分分かっている。だが、どうしてもこの涼やかさに導かれそうになる。だが、白鳥が優雅に泳ぐその湖は、一つ、二つと瞬きする度に薄れていき、最終的には雑踏に消えた。脳みそが見せたただの幻影だとわかっている。分かっているのに、伊織の胸には拭いきれない焦燥感だけがこびりついてしまう。
小さく吐いた息は熱がこもっていた。歩む足は止まらない。


■■■

「イオ、こっちこっち」
指定された店は伊織の想像以上に広い空間だった。大衆居酒屋以外だと、こじんまりとした静かな店を好む友人のチョイスにしては賑々しい空気にたじろぐ伊織に声をかけたのは、今日の飲み会メンバーの一人である光太郎だった。社会人になっても大学生の頃と変わらないしっかりとした体型を維持する光太郎は、この騒がしい空間にしっかりと溶け込んでいる。だが、伊織は光太郎という人間を認識しているからこそ、景色として消費しなかった。
それに、席を立ってわざわざ入口の方まで来てくれた友人を景色と認識するほど、伊織も人でなしではないのだ。
「久しぶり」
「お前いつもそれ言うよな」
予想通り、ここを選んだのが席で待つもう一人の友人ではなく、光太郎であったと分かり、一人納得する。そんな伊織を呆れたように、そしてどこか懐かしむように見つめる光太郎こそ、社会人になってからいつもそうやって自分を見つめてくるのに。なんて、伊織は言わない。言ったところで本人には少しも自覚はないのだ。だったらそれを言わないのが優しさだし、伊織も伊織で態度を変えることもない。
薄暗い照明の中で、様々な人が思い思いに金曜日を楽しんでいる。反して、フロアを忙しく行き来する店員たちは笑顔を絶やさないものの若干の疲弊を滲ませる。同じ人間でも、こうも表情が二分される空間はなかなか珍しいのではないか。なんて、どうしようもないことを考えているうちに伊織はテーブルに辿り着く。デキャンタの白ワインに白身魚が乗ったサラダ、チーズ等、すでに飲み会は緩く始まっていたらしい。
「いおりんやっほー」
「こいつ、俺が来た時にはすでに始めてたんだよ……
なるほど、確かに席についている友人、もとい、謙太の皿からは何度か食事が乗せられたような使われ具合の気配を察することができる。まあ、謙太なら先に始めるだろう。ある意味納得のいく光景だったし、そんな謙太に肩を竦める光太郎の姿もまた、すとんと胸に収まるものなのだ。
謙太が促す席に座りながら、額に滲んでいる汗を腕でぬぐう。カバンにしまったハンカチを使うのはどうにも面倒だ。無論、目の前に座っている光太郎はそんな伊織の所作を信じられないという顔で見つめている。自分だって運動の最中はタオルを使わないくせに、とはもちろん言わない。アルコールの場で親のような小言を言われるのは少しばかり煩わしいのだ。
何かを言葉にしようと開きかけた口を封じるため、伊織は光太郎に飲み物の追加を聞く。酒が好きだけどそんなに強くない光太郎にワインは少し強すぎる。それに伊織も一発目にワインを胃に入れるとちょっぴり不味いことになるので、まずは甘めのカクテルを頼むことにした。横でかぱかぱと酒を呷る謙太の勢いについていける人は、この場には存在しないのである。


「みてみて、この前の合コンで会った子、めっちゃかわいーの!」
「ったく、仕事が忙しいからしばらく女はいいって言ってたじゃねえか」
「それはそれ、これはこれ!」
薄暗い照明の下で、謙太のウェーブかかった明るい髪が揺れる。前回会った時よりも髪色が明るい気がするが、これは伊織の気のせいである可能性が高い。だいたい、伊織が人の髪型に言及する時は外す。つまりきっと、今回もそうだろう。それに今日は労働からのアルコールをと、余計に意識がぼんやりしがちなのだ。
結局、どんな店に入ろうとジャガイモの類の料理を頼み、それを延々をつまみ出す。これはこの面々に限らない。楽しくもない会社の飲み会でもそうだ。冷めてしなしなになっていくジャガイモを伊織は存外気に入っているのだが、胃にも限度というものがある。いまだに学生の頃のように飯を食らう光太郎とは話が違うのだ。今回も早々に食べることを諦めて飲みに走る謙太と、バランスよくどちらも楽しむ光太郎、全てのスピードが落ちてもそもそとジャガイモとチーズだけを咀嚼する伊織との三者三様の姿があった。
謙太曰く、この前出会った女の子は違うとのことだ。この子ならきっと、オレの仕事のことも理解してくれる。拳を握って目を煌めかせる健太を呆れたように見つめる光太郎という、学生の頃から変わらない姿を視界の端に置きながら、伊織はサングリアを飲み干した。あまり飲まないように、と思っていたのにな、と思ったもののもう遅い。これは明日の朝、想定している電車に乗れないかもしれない。まあ、目的のないぶらり旅の計画だったからなんの問題もないだろう。
「いーおりん、聞いてる?」
「あまり」
素直に答えれば、謙太は愉快そうに笑い、光太郎は失笑する。仕方ないだろう、アルコールをとってしまったのだから。それに古くからの友人らとの飲み会だから、どうしたって気が緩む。無論、そのことを伊織以外の二人はしっかりと分かっているからこそ、スマホ画面に写し出した風景写真を見つめる伊織を覗き込んでははしゃぐのだ。
いつまでも騒がしい店内なのに、伊織がいつもよりも緊張感を覚えないのはきっと、二人がいるからだ。伊織が纏う「普通」の帯を少しだけ緩められる存在は貴重だ。それも無自覚に。だが、それに伊織が気付いているかは分からない。二人のことを好いている、というカテゴリーに分類している数少ない人間であることを、伊織がどこまで自覚しているかはわからない。
「わたし、ねむいや」
ぼんやりとした目を二人に向けて、伊織は控えめに笑う。そして、少し舌足らずに伝えられた伊織の言葉に謙太と光太郎はきょとんと目を瞬かせたが、ほぼ同時に噴き出したのだった。