薙屋のと
2024-06-29 15:03:23
2457文字
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朝方五時の心拍数

カブミス
朝方目覚めた隊長の独白。

 窓の外で小鳥の囀る音がする。
 ミスルンはぱちりと目を覚ました。
 朝の五時、少し前。早朝と言って差し支えない時間の筈だが、カーテンの向こうは白く完全に陽が昇ってしまっていて、夜の気配は微塵も残っていない。初夏の明るい朝。
 ミスルンの心は未だ眠気を感じる事はないが、目も頭もすっきりと冴えていることから身体の睡眠欲求は満たされていると理解した。昨晩は風呂上がりにマッサージをされて、そのまま少し早めに就寝した為だろう。それかもしくは――隣で眠るぬくもりに、安眠効果でもあった為か。
 いつもなら目が覚めればそのまま起き上がるのに、何となくそんな気分になれなくてミスルンはころりと寝返りをうった。半分の視界の先では黒い巻き毛が枕に埋もれて、すやすやと気持ちよさそうに寝息をたてている。少し前までは眠りから覚めても抱きしめられたままだったり、またミスルンの方が抱き着いていることもあったりしたものだが、ここ最近は気温のせいか目が覚めると身体が離れていることが多い。寒ければ互いの身体で暖をとり、暑ければ適度な距離を取る。この食べ残された心と頭は未だに己の欲求を知覚できないというのに、眠っている身体の方が要不要の判断ができるらしい。
 シーツの上に放り出されているミスルンより幾ばくか大きな手のひらに、何となく指を置いた。指の付け根や縁の皮が分厚い、日常的に剣を振るう手だ。この男はトールマンの中では小柄な方らしいが、エルフから見ると充分立派な体躯をしている。よく鍛えられた、しなやかに動く為の筋肉と長い手足。指の長さも太さも、ミスルンのそれより随分と大ぶりで、手を合わせてみるとまるで大人と子ども――トールマンであれば『男性と女性のよう』と形容しただろうが、ミスルンは性差の少ないエルフであるので――のようだ。尤も、年齢だけで言えばより子どもに近いのは自分より彼の方であるのだが。ミスルンは彼がトールマンとしてはとうに成人を越えた年齢であると正しく理解しているし、そのように扱っているつもりだ。しかし今まで自身の周りにはエルフしか居なかったミスルンにとって、エルフより遥かに大きく立派に成長するこの種族が、自分たちの成人の年齢にも満たず寿命を迎えるということがひどく不思議に感じるのだった。
 ――そんなに、生き急ぐ事もないだろうに。
 ミスルンの白い指先がハリのある褐色の肌を撫で、手首の辺りで止まる。指先に微かに伝わる振動に、彼の内側に流れる赤を思った。それだけでは何となく――何となく物足りなくて、もぞもぞとシーツの波を掻き分けて彼の胸元に耳を寄せる。眠っている彼の温度は日中のそれより幾分高く、薄い布と肉の下で骨に守られている心臓も、穏やかな脈動を刻んでいる。
 トールマンはエルフより体温が高く、心拍もはやい。眠っている今の鼓動はいつも抱きしめられた時に感じる音よりゆったりとしていて、自分と同じくらいか少し遅いくらいだろうか。大抵生きものは大きいほど脈は遅く、象と鼠なら象の方が長生きをする。それなのに人間は、身体が大きい方が寿命が短いなんてちぐはぐだな、とミスルンは思った。
 心臓は、鼓動する回数が決まっているのだという。
 起きている時よりゆっくりとした心音を感じながら、いつもこうであれば良いのにとミスルンは何となく思った。何となく、だ。先ほどから感じるこれが新たな欲求であるのかそうでないのか、彼にはまだ判別がつかない。生きているものには等しく終わりが訪れるし、命もこの世界も有限だ。無限は異次元からやってきた悪魔だけ。その悪魔も居なくなってしまったのだから、この世界に永遠など存在しないのだ。その終わりの訪れが百年なのか四百年なのか、その違いでしかない。
 ――それでも、カブルーが自分の世界から消えてしまうのは、きっと、寂しい事だ。
 自分が見送る側になることは承知している。故郷を、肉親を喪ったこの男が、これからの人生で手の平から零れ落とすものが、一つでも少ないことを願っている。それは未だ欲求の覚束ない自分が、自覚できている数少ない欲の一つだ。かつて想い人に向けていた身を焦がすような想いとは随分と違うけれど、ミスルンは確かにこの隣で眠る男を――カブルーを愛していた。彼女に向けていた激情が、例えば己も周りも焼き尽くす炎であるとするならば、カブルーがミスルンに与えてくるそれはあたたかな水のようなものだった。空っぽの器を満たすように、干上がった土に沁み込むように。とくとくと心音のリズムで注がれるそれは恐らく、過去の自分がくだらないと嘲笑い馬鹿にしていた癖に、妬み嫉みに狂いながらも欲したものだ。
 全ての願いが叶うはずの迷宮で、終ぞ手に入れることのできなかったもの。
 カーテンの向こう、陽の光が強くなるのを感じる。薄暗かった部屋が少しずつ明るくなり、にわかに人の動き出す気配がする。きっと今日も暑くなるのだろう。もう少しすれば彼の瞼も開いて、空に愛された海色の瞳が「おはようございます」と寝起きの掠れた声で笑いかけてきて、それから。彼の青い瞳が、朗らかな声が自分の名を呼ぶのを早く聞きたいと思った。それは身の内に確かに湧いた、泡のように小さな欲求で。
 ――でも、それはもう少し後でも良いかもしれない。
 適切な睡眠は、健康で長生きする為に必要なものらしい。彼も自分と一緒で大概眠る事が得意ではないけれど、最近は少し改善されてきたと言っていた。
 彼が健やかに眠るだけ、彼の心拍がゆっくりな時間が伸びるだけ、共に在れる時間が増えるのであれば。ならばこの早朝に湧いた少しの欲求くらい、我慢してしまえばいい。どうせあと一時間もすれば叶う願いなのだから。
 あどけない寝顔と、穏やかな呼吸と、ゆるやかな鼓動。この愛おしい身体の内側にある心臓が、一秒でも長く動くことを願っている。
 ミスルンは窓の外の白さを厭うようにカブルーのあたたかな胸に顔を押し付けると、ゆるりと瞼を閉じた。