高台にある家の窓からは、メリニの美しく広大な麦畑がよく見える。青々とした葉が気持ちよさそうに風に揺られ、耳をすませばしゃらしゃらと波の音まで聞こえてきそうだ。秋になれば見渡す限り一面黄金の海になり、重く撓る穂先は国民の腹を満たしてくれる。自分たちが長い時間をかけて、心血注いで作り上げた光景。千年前に黄金郷と呼ばれた国は、本来と意味を変えて今もなおそう呼ばれ続けている。黄金の海に囲まれた、誰もが食うものに困らない国。大切な誰かと食卓を囲み笑い合える理想郷。
カブルーは先日、九十と幾許か目の誕生日を迎えた。
トールマンとしてはかなり長生きした方だ。かの悪食王が唱えた『毎日三食バランスのとれた食事』『生活リズムの見直し』『適切な運動』は正しいと身をもって立証してしまったらしい。三十年ほど前に宰相の位を退き、私財を擲って設立した孤児院も順調に運営されている。隠居の身となった今はこうして、のんびりと余生を過ごしている。
ゆらゆらと揺り椅子に揺られながら、視界を揺らぐ波に思いを馳せた。白いレースのカーテンがふわりと靡き、心地良い風が緑と夕餉の匂いと、子ども達が家路を急ぐ笑い声を運んでくる。この時期は日が随分と長くなって、夕食時になっても外が明るい。
かつて迷宮に故郷を奪われ、波瀾万丈な人生を生きた男のとびきり穏やかで、幸せな老後。
「……冷たい風は身体に障る」
窓辺に腰掛けてじっとしていた彼が、顔にかかったレースを払いのける。その白い手が開け放たれていた窓の木枠に掛かり、ぱたりと音を立てて風が止んだ。「ああ、残念」カブルーは苦笑しながらその細い背中に声を掛けた。
あなたの伸びた銀髪に光があたり、きらきらと風にそよぐのが波のようでとても美しかったのに。
墨色の左目がカブルーをちらりと一瞥し、フンと鼻を鳴らした。夕方の明るい陽の光が彼の髪に天使の輪を描く。
「七十年も見たのにまだ飽きないのか」
「七十年間、見るたびに毎回その美しさに新鮮な感動を覚えていますよ。それにエルフのあなたには大した歳月ではないでしょう?」
「減らない口だ」
「老い先短い身の上なもので。思ったことは全部伝えておこうと決めているんです」
カブルーの言葉に、ミスルンが呆れたような顔をする。かつてその身の内にある欲求のほとんどを喰われたこのエルフは、この七十年の間にいろんな顔をするようになった。欲求は生きている限り生まれ続ける――あの時彼を奮い立たせた時に吐いた台詞は間違ってなどいなかった。カブルーはそれが何よりも誇らしかった。
「今日の夕食は何でしょうね」
「アスパラと鶏のスープと、トマトのサラダがあると言っていた」
「わあ、それはおいしそうだ」
窓辺に佇む美しい彼を手招きして呼び寄せる。カブルーはこの歳にしては未だ頑強で足腰もしっかりとしているが、やはり座ったり立ったりする動作が少し億劫になっていた。その点彼は出会った時とそれほど変わらず、むしろあの頃よりもよっぽど健康そうで艶のある見た目をしている。同じだけ歳を重ね、彼の方が百六十も歳上であることは変わらないのに、見た目はすっかり追い越してしまった。自分が墓の下に居住を移したとして、彼には自分が生きた歳月よりも長い寿命が残っている。
我ながら酷い男だと思う。
どうしたって置いて逝ってしまうのに、想うことを、この人を欲することをやめられなかった。
それを赦してくれるこの人はあの頃からずっと変わらず優しい人だ。その不器用だけれど確かにある優しさに、甘えて救われてきたのだと思う。
カブルーの前までやってきたミスルンの丁寧にくしけずられた銀の髪が、はらりと一房肩を滑って零れ落ちた。エルフは長寿でトールマンよりゆっくりと歳をとるためか、髪が伸びるのも遅いと言う。カブルーは手を伸ばし、その細く美しい髪を掬うように撫で、そのままミスルンの顔に手を伸ばした。白磁の肌は滑らかだけれど、左右非対称の顔は右側だけが少し弛んで柔らかい。すっかり皺くちゃの老人になった、色も相まって枯れ枝のような自分の手とは大違いだ。嗚呼でも、この手の先に咲く花が彼だというのならば、幹や枝になるのも悪くない。
笑うは咲うとも書き、語源は蕾が綻び花が咲く様なのだという。彼への恋のはじまりを思い出す。彼と共に過ごす日々の中で、いつの間にか惹かれて焦がれどうにもならなくなっていた想いの芽吹きは、きっとあの涙を拭いながら咲う顔だった。全てのはじまりの春。
黙って撫でられていた彼が、その薄い唇を開いた。
「冥土の土産に、一つ教えてやろう」
「おっと、縁起でもないな。まだその旅券はいらないですよ」
カブルーの軽口に、ミスルンがくすくすと笑う。目尻の笑い皺がくっきりと深くなった。年齢を重ねてもなおきめ細やかで、皺やシミが出来難いとされているエルフの肌にできたそれは、カブルーが人生の大半をかけて刻みつけたものだ。
「エルフにとっても、七十年は決して短い歳月ではない」
目尻を撫でる枯れ枝の指に、ミスルンの白く冷たい手が重なった。七十年前に彼に言った台詞は、今でも鮮明に覚えている。
『ミスルンさん、賭けをしましょう』
『賭け?』
『あなたが悪魔に奪われた四十年と同じ時間を俺にください。俺は今二十と少しで、トールマンの寿命は大体六十年。俺の残り人生全てを懸けて、あなたにあの時俺の手を取って正解だったと、生きる事を選んで正解だったと思わせてみせます。あなたが幸せだと感じることができれば、そうすれば俺の勝ちだ』
『……やってみるといい』
どこか挑発的な、薄くカサついた唇を塞いでやろうとキスをした。あの時の彼は、その目を閉じるどころか瞬き一つしなかった。
「お前の勝ちだ、カブルー」
そう告げた花びらのような唇が近付いてくる。咲いた花から与えられる勝利の口付けを、カブルーは満ち足りた思いで受け止めた。瞼は閉じなかった。
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