つきのせ さぶろく
2024-05-25 19:17:29
5933文字
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仄々明けとはこのことか

【境目卓SS】🌃🌅 ド・えっち(R18ではない)【BL要素あり】


 電話が鳴った。前までは聞き慣れていたコール音に、肩がびくりと跳ねた。
 dopeでの全てを失って数ヶ月経った。その間に携帯が着信音を鳴らすと言えば、一ヶ月ほど通った精神病院からの連絡くらいで、あとはいっさい通信を絶っていた。いや、通信を絶ったのは自分ではなく世間の方だ。精神異常者だの、サイコパスだのと罵って、そのくせ人が向き合う過程を面白おかしく騒ぎ立てるだけの世間。最近までは神みたいに扱っていたくせに、今となっては手のひら返しだ。
 のそりと布団から重い身体を起こした。着信元の名前を確認する。
……くらべいし、さん」
 すぐに電話に耳を当てた。少し枯れた喉が、もしもしと声を絞り出すと、懐かしい男の声が聞こえてくる。
『葛巳』
……どうして」
『迎えに行こうかと思って』
「迎えって、今マスコミが……
 カーテンの閉まった窓を見遣る。落ちかけた陽がちょうど白いカーテンから光をすかしている。そして微かに、部屋の主に声をかけ続ける人の声がした。
『まあそうだろうね。……あいつらはハイエナみたいなもんだからなあ』
 電話の奥で男は別の人間の名前を呼んだ。何かしら相談しているような話し声が数分続いた後、またはっきりと名前を呼ばれた。
『葛巳、多分なんとかなりそう。じゃあノックは四回……いや、きっかり五回だ。荷物まとめて待ってな』
 なんでと尋ねる前に、電話はプツリと沈黙した。少しの間呆然としていたが、ようやく鞄を引っ張り出して、最低限の生活用品を詰めた。洗面用具に手を伸ばした時、まだ半分は残っているであろう抗不安薬の袋が目についた。一挙一動に震えがまとわりついている今、迎えが来るとしてもまともな心理状態で外を歩くことはできないだろう。そんな考えが頭をよぎって、その白い紙袋を鞄の中に突っ込んだ。灰色の陰気臭いスウェットを脱いで数週間ぶりにまともな服装になる。ただ、眠れない日が続いているせいだろう、久しぶりに見た自分の顔、目元のクマや肌荒れが目についた。dopeがあった頃、少しでも肌に荒れがあるとマネージャーにひどく叱られたことを思い出した。
 玄関に荷物を置いた時、ふと外の喧騒が消えていることに気がついた。息を潜めてドアスコープを覗くと、あれだけいたマスコミの面々がいなくなっていた。見えるのは、コンクリートの地面だけだ。
 急に体の力が抜けて、二、三歩後ずさって腰が落ちる。今は、静かになった家の中で、自分の呼吸と心臓の音だけが聞こえている。ドクンと脈打つそれは、意識すればするほど気管を押し潰すようで、だんだんと呼吸が浅くなっていく。肺が痛い、喉が渇いて恐ろしくなる。揺れる視界がぐらぐらと目眩を与えてきて、立ち上がる気力を削いでいく。暗い家の中のはずなのに、全てが眩しく思えて顔を覆った。
 立ち上がれない無気力さと、ぐるぐると回る感覚と戦って数分。鉄製の扉が、きっかり5回。ノックの音がした。
 勢いよく顔を上げる。今確かに、5回ノック音がした。そこをついた体力を振り絞るように立ち上がって、鍵を回し、薄くドアを開いた。
「葛巳」
 電話越しに聞いた声が、今はっきり聞こえた。



 高層マンションの玄関。俯きがちにあたりを見回しても、人はいない。少し前で、双石慎夜がオートロックのパネルを操作している。キーのタッチ音の後、静かな機械音の中自動ドアが開いた。
「いこっか、葛巳」
 握っていた手にするりと手が重なった。顔を上げると、双石がこちらを見て薄く微笑んでいた。ぎこちなく指を開くと、やわく空間が作られる。それにつられて指を伸ばすと、間に割って指が入って、手と手の温度が共有される。
 玄関ホールに踏み入ると、受付に人がいた。咄嗟に目線が床に落ちた。繋いでいた手が、少しだけ力を込める。隣を見やると、双石の優しい顔があった。言葉はなくともわかる。止まりかけた足が、震えながらも歩みを進めた。
 自動ドアよりも静かな音を立てて、エレベーターがその門扉を開いた。そこに入って扉が閉まると二人だけの空間は上に登っていく。
……あの、なんで、迎えなんて」
「ん? ほら、俺言ったでしょう。葛巳が抜かれる時さ、何かあったら迎えに行くって」
 絡んだ手に伴って、今は遠くにあったはずの双石慎夜がすぐそばにいた。
 双石慎夜。アイドルグループadamantのリーダーだ。整った顔と190超えの長身。さらに王子様系ともてはやされるキャラクターでファンの年齢層は女子高生など若い女性で多くを占められている。自分が元いたグループのリーダーが、こんなに眩しい人が、どうして。
……俺にはもう、なにも」
「無いなんて言わせない。あるんだよ、葛巳は俺を虜にしてるんだからさ」
 数字から数字へ移り変わっていたオレンジの光が停止し、金属音と共に頭上から慣性に従った重力がのしかかる。エレベーターの扉が開いて、また双石に手を引かれた。降りたフロアにも、人影さえ見受けられなかった。
 少し分厚い玄関の先には、一直線の廊下と、すりガラスの施された扉が見えた。重苦しい施錠の音がした、ついで軽い金属がぶつかり合う音。全てが終わると、双石が笑って靴を脱いだ。完全には止まっていない震えをどうにか押し殺しながら、彼に続いて靴をそろえて振り返る。
「おかえり。どうする? ご飯かお風呂か、それとも俺?」
 くすりと悪戯っぽく笑うそれは、adamantにいた頃のものとそのまま同じだった。名前、彼の名前が呼びたい。そう思って息を吸った、口から一音節、飛び出そうとしていた。しかし、それは音にならず、あえなく空気が入っただけのものになってしまった。空腹の音に図らずも邪魔されてしまったのだ。
「あはは、お腹空いてるんじゃん。いいよ、先にご飯食べよっか。ここなら俺以外いないし、時間もたっぷりあるし」
 何かを言う間も無く手を引かれて、すりガラスのドアの先へと赴いた。広いフローリングの床に、毛足の長いカーペット、二人掛けのソファとガラス張りのローテーブル。入って左側には、キッチンとダイニングらしい空間が見えた。
 双石はキッチンの方へ向かった。シンクに水の流れる音がする。そわそわと足は動くが、どこに落ちついたらいいのかわからない。
「葛巳、座ってていいんだよ」
「で、でも」
「どうしたらいいかわかんない? ……じゃあ、俺んとこおいで」
 キッチンカウンターでは、双石が戸棚からマグカップを出しているところだった。
「コップとかお皿はここ。で、箸とかはこっちね。自由に使っていいから」
……うん」
 差し出されたマグカップを両手で受け取ると、そこに白い液体が注がれて、カップはまた双石の手に戻った。オーブンに入れられたそれは、少しの操作ののち機械音と淡いオレンジの照明にさらされてぐるりと回り始めた。
「甘いの、好きだよね葛巳は」
 電子音が鳴って、光も回転も止まった。湯気のたつマグカップはキッチンカウンターへと移動し、個包装のココアの粉が注がれては、くるくるとかき回されるを繰り返す。チョコレートと砂糖のちょうど合間のような香りがキッチンを満たす。
「どーぞ」
 白から茶色へと変わったそれを受け取ると、指先からじんわりと温度が侵入してくる。飲んでみて、と促されて一口含むと、チョコレートよりは甘くない、それでもやさしい味が口腔から喉へとするりと落ちていった。
 その一口を飲み下したのを見届けた双石が、思い出したように口を開いた。
「そうだ、これはおまじない」
 彼の顔が不意に近づいて、反射的に目を閉じた。ぎゅっと結んだ唇に、やさしい唇が一瞬重なって離れた。離れていったそれを、少しだけ顔を出した舌先がぺろりと舐める。
「冷えるからねえ、ゆっくり飲んで待ってて」
 声も出せずにただ頷いて、すぐそばのダイニングテーブルのほうへ腰を下ろした。指先に佇んでいた温度が、急速に腕を伝って心臓まで到達していた。
 程なくしてトントンと軽快な音がキッチンを支配し始める。赤、緑、白、水の香り、少しの刺激臭、酸味と塩味の混ざった匂い。それらがしだいにまとまって、油の跳ねる音と共に、ヘラがフライパンを突く音が聞こえてくる。ぼんやりとそれを聞いていると、いつしか音はおさまって、ヒビの音を皮切りにカシャカシャという菜箸の音が始まる。その後、また油の音がして、じゅうという音がキッチンを支配した。しばらくすればその音も止み、食器が擦れ合う音が聞こえてくる。マグカップの中身は半分になっていた。
「お待たせ、葛巳」
 双石はナイフを片手に一皿テーブルに置いた。バターとトマトの香りが胃と心にじわりと手を伸ばす。今にも崩れそうな黄色いかたまりにナイフの刃が音もなく侵入し、縦にそれを裂いていく。すると、表面を保っていた皮はあまりにも簡単に張力を失い、くたりと開いてそのはらわたを晒した。増したバターの香りに喉が鳴る。どうぞと双石がスプーンを差し出してくる。
「空腹では隣人を愛せないってね」
 呆然とその匙を見つめていると、その様子に笑みをこぼした双石が、オムライスの端をそっと掬った。掬った先でたつ湯気を、ふうと数回吹き消して口元に差し出してくる。近くなったバターの香り。それを吸い込むように呼吸と共に口を開く。金属の曲面が歯にかチリとあたり、熱と酸味とまろやかな塩味が流れ込む。口を閉じると、それに合わせてスプーンが引き抜かれた。ゆっくり咀嚼していく中で、それは甘みを帯びていく。
「おい、しい」
 食物を飲みこんで空になった口から、言葉が出た。同時にほろりと、目尻から熱い滴が落ちる。
「それは良かった。あらゆる悲しみはパンがあれば少なくなるとも言うし……今日はオムライスなんだけど、ゆっくり食べてゆっくり幸せになっていこう、ね」
 スプーンを受け取れば、双石の指がくいと雫を拭って離れた。



 空になった皿にスプーンを置いた。最後の一口を飲み込んで、ごちそうさまと手を合わせる。
「お腹はおっけー。じゃ、次はこれだ」
 双石が布団を抱えて手招きをしていた。幾分か震えの止まった足でそれについていくと、先ほどいたリビングよりは少し狭い寝室に通される。二人で十分使えそうな広さのベッドには白いシーツがかけられていた。そこに双石が掛け布団を置き、マットレスの上に座って「おいで」と微笑んだ。
「いいよ、葛巳。名前呼んでよ」
 隣に座る。今、双石慎夜に一番近いのは自分だ。
「双石さ、……。しん、や、俺、dopeが、その」
 また、また言葉と共に涙が出る。つまる言葉に俯きながら、袖で雫を拭う。拭っても拭っても、もう止まることを知らないそれは、ただただ頬を濡らしていく。
「わかってる、わかってるよ葛巳。……大事なものだったもんね」
「そう、だよ。dopeは俺の、俺の愛してるみんながいたんだ」
 とん、と額が双石の胸に当たる。そのまま縋るように彼の二の腕を掴むと、煙の混じった香りに包まれる。
「だから、汚されたくなかった。dopeは俺の希望、愛、大事なものだった。誰にも触らせない、触らせたくなかった!」
 言葉は堰を切って流れ出す。息継ぎで喉が詰まり、激しく咽せる。
「みんなみんな大好きだったんだ! だから、俺、みんな愛してた。なのに、なのに、それがなくなったら、俺、どうしたら……
 濁流のように流れ出ていた言葉は、最後には掠れて小さくなった。息が詰まる。また、喉の底から咳が出た。
「ねえ、慎夜……。おれ、ちゃんと、うまく、できてた、よね……?」
 静かになった部屋に、ひとりの咽びだけが微かに聴こえる。双石の袖を握る手が、小刻みに震えていた。
「まず一つ、絶対言えること、言ってあげよっか」
 優しい声に顔を上げた。
「俺は、葛巳の全てを肯定するよ」
 自分より少し背の高い身体が、ぎゅっと抱きしめてそのままベッドへ倒れ込んだ。
「大事なものは独り占めしたいもんね、正しいよ。dopeのリーダーとして守るべきものを守ったんだもの、そんな葛巳を否定できる人間、ほんとはいないのさ」
 視界は胸で塞がれた。呼吸をすれば、煙とかすかな薔薇の混ざった甘くて苦いものが鼻をくすぐる。そして、トン、トン、とゆっくりとしたリズムが耳に入る。
「ねぇ、葛巳。人間は常に迷っていて、そして迷っている人間は常に何かを求めてるらしい」
「何かを、求めて……
「うん。……今、葛巳が求めてるものって何?」
「俺が、求めてるもの」
 パッと思いつかなかった。愛するdopeはもう無い。ファンも功績も信頼も消え失せている。そんな自分に、求めていいものがあるのだろうか。
……いきが、したい」
「うん」
「今は、息苦しいよ。誰も、分かってくれないから。情報には群がるくせに、知ろうとしないんだ、俺のこと。……だから、誰かに、わかってほしい」
「じゃあ、俺と息しよっか」
 顎がぐいと上に向けられて、暗闇にぱっと光が差した。その時に目に入ったのは、自分を迎えに来てくれた時と同じ、優しくて、溶けて消えてしまいそうな微笑みだった。瞬間、唇が重なって思わず目を閉じた。視界がまた暗くなる。柔らかい肉と肉が重なる感覚が、消えてまた現れてを数回繰り返された。
「ねえ、葛巳。今ここに、俺の温度があるでしょう」
 右手がきゅっと握られた。少し低い温度が手のひらに伝わって、そのなかで熱となって心臓まで侵入してくる。また唇が重なる。今度は、先ほどよりも少し長い。
「誰も理解してなくたって、俺が理解してる。見てもらえなくても、俺が見てる。愛されなくても、俺が葛巳を愛してる」
 呼吸が止まったかと思えば、すぐに口が開いて、しかしまた閉じられる。その間に心臓が熱を上げ、痺れるような感覚を末端まで発信していく。自分の鼓動で、脳はゆっくりとまどろんでいく。
「葛巳、俺に縋って? 俺なら、一生葛巳と息、できるよ」
 微睡の中にいる脳はひどく従順だ。快・不快の判別さえなく、ただ言われるままに頷いていた。
「愛してるよ、葛巳」
 双石慎夜の、少し煙たい腕の中。じっと微睡んでいた。全身の力が抜けて、今はもう震えもない。温度と、息遣いと、腰に回された腕の感触をただじっと、全身で味わっていた。