薙屋のと
2024-05-24 21:50:14
2835文字
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爪先に銀色

付き合ってないシスミス
お互いの爪を塗っているだけ

「あら。」
 露店の先で偶々目についたそれに、シスヒスは足を止めた。
 色とりどりの小さな小瓶と、絵を描くには短く細い小さな筆。それは中央で占い師をしていた頃によく目にした、爪化粧用の染料だった。
 まだ法整備どころか衣食住も覚束ない、この国とは名ばかりの未開の地で売れるものではないだろう。興味深げに眺める子女も、書かれた値段を見て名残惜しそうに去っていく。シスヒスは並んだその内の一つ手に取って、瓶をくるりと回して眺めてみた。どうやら粗悪品でもなく品質は確かなようだ。せめて隣のカーカブルードにでも行けば買い手もあるでしょうに。そう思いながら彼女が指で摘まんだそれを戻そうとすると、隣から伸びてきた白い手がそれを遮った。
「あら、どうされましたか隊長」
……欲しいのか?」
 シスヒスより幾分低い位置にある黒い左目が見上げてくる。抑揚の薄い掠れた声に問われて「こんなところで見かけるなんて珍しいと思っただけです」と微笑んだ。光を通さない目が数度瞬きをした後、小瓶を持ったままのミスルンがドワーフの露天商に高額硬貨を一枚渡す。シスヒスの掌に買ったばかりのそれを置き、途端に興味を失ったように歩き出した。
「よろしいんですか?」
「うん」
 数歩遅れたシスヒスが彼に追いついて尋ねると、いつもの簡素な返事が返ってくる。
 ミスルンの中であの出来事以降、大きな心境の変化があったことは理解している。
 彼は時折こうして、自分たちに欲するものを尋ねて買い与えるようになった。欲求を失っている彼は金銭への執着もない――そもそも名家出身で金への苦心などしたこともない――のだろう、元から財布の紐が緩く、口の上手いフレキ辺りに細々とした何かを買わされていたりすることはあったが、そうではなく彼の意志で周りの人間の欲しいものを聞くようになった。
 きっと良い変化であるのだろう、他人の欲求に興味を示すようになった彼は、いずれ自分の欲しいものも分かるようになるかもしれない。少なくとも自分の食べたいものが選べるようになれば、睡眠欲を認識できるようになれば、彼はずっと生きやすく、そして周りの者も世話がぐっと楽になるだろう。まあ最も、自分はあとひと月もすれば迎えの船で中央に戻ってしまうのだけれど。
 買い与えられたばかりの銀色の液体の入った小瓶を握りしめて、シスヒスはこっそりと溜息を吐いた。

 迷宮探索が控えていた為にここ最近は爪を染める事も無かったけれど、手入れは怠ったことがなかった。綺麗に磨かれた長い爪は特に処理を必要とすることもなく、シスヒスは小さな筆に適量とった染料を爪の上に置き、器用に塗りはじめた。その様子を向かいの椅子に座ったミスルンがじっと見つめている。
 手慣れたもので、あっという間に左の五枚の爪を銀色に染めたシスヒスは、爪にふっと息を吹きかけながら風術を唱える。魔術の使えないドワーフやトールマンの女性は爪を塗った際、乾くまでひたすら待つ必要があるらしいと聞いたことがある。お洒落は我慢とは言ったものだが、せっかちな彼らにその我慢はきついだろうなとシスヒスは何となく思った。何度か角度を変えて光に翳し、完全に乾いたかどうか確認する。シスヒスの見立て通り買い与えられた染料は上等で、混ぜ込まれた鉱石の粉は泥のようにきめ細かく、彼女の爪先をきらきらと銀色に彩っていた。中央でもここまで質の良いものはなかなかお目にかかれない。さすがドワーフの露店のものだけある。会心の出来栄えに、思わず笑みがこぼれた。「とっても素敵なものをありがとうございます」目の前の彼に爪先を見せびらかしながら素直に礼を言う。彼女の言葉にうんと頷いたその視線は、ずっと指先に注がれている。続けて右手の爪を塗ろうとするシスヒスの操る筆先をじっと見つめ、目で追うミスルンの姿は、どこか玩具に跳びかかる前の猫を髣髴とさせた。
 もしかして、何かしらの興味がわいたのだろうか。
 他種族から性差が少ないと言われるエルフにとって、装飾や化粧も特に男女で違いはない。男性でも化粧をするものはいるし、爪先を整えるものもいる。だからシスヒスは何の気なしに、彼も身嗜みへの欲求が湧いたのかと思い声を掛けた。
「興味がおありなら、やってみますか?隊長」
「うん」
 シスヒスはあくまで、彼が興味を持ったのならこの上等な爪染料の礼も兼ねて彼の爪くらい塗ってやろうと思っただけだった。しかし彼は予測に反して、伸ばした手でシスヒスの左手から筆を抜き、彼女の右手を取った。彼の白く長い指が存外丁寧に自分の手を包むので、シスヒスは柄にもなく、一瞬心臓の音が高鳴るのを感じた。伏せられた長いまつ毛も、骨ばった体格よりも大きな手も、欠けた部分があってなお彼は男前だということを思い知らされる。
 些か覚束ない筆運びで、それでも丁寧に親指の爪から色を乗せてゆく。瞬きも忘れてじ、と爪先を見つめる真面目な姿が少し可笑しい。彼はこう見えて別段不器用なわけでもないので、するすると順番に塗り終えていく。途中「あ」と小さな声がした。
「どうかしましたか?」
……少しはみ出た」
「あら」
 薬指の爪から、僅かに染料が溢れて爪の周囲を汚していた「すまない」という彼に「構いませんわ」と笑う。折角彼が塗ってくれたのだ、多少不格好でも構わないと思った。小指まで塗り終えた彼が、シスヒスの手を口元に近づけると彼女がしていたように風術を唱えながら吐息を吹きかけた。爪先にもう少しで触れそうな程近くにある、薄い唇。まるで御伽噺のような光景に、くすくすと笑みが零れた。
 自分がうら若く純粋な少女であれば、危うく恋に落ちていたかもしれない。
 ミスルンが塗ってくれた右手の爪を光に翳すと、乾かす術は完璧だがシスヒスが塗った左と比べて表面にムラがあり、凸凹としている。それでもなんだか無性に嬉しくて、先程はみ出て滲んだ部分にさえ愛おしさを感じたシスヒスは、後で爪染料が長持ちする塗り薬を上に塗ろうと思った。確か旅の荷物に入れていたはずだ。
「それじゃ隊長、次はお手を貸していただけますか?」
「?うん」
「お礼に、隊長の爪を塗って差し上げますね」
 差し出した掌に載せられた爪先を丁寧に磨いて、同じように銀色で彩った。
 露店で目に留めた時から、彼の髪と同じ色だと思っていた。自分やリシオンの白に近い白銀とは違う、灰に近い濃い真の銀。彼の白い指の先によく馴染む色。
 はみ出すことなく塗り終えたシスヒスは恭しく彼の手をとると、息を吹きかけながら風術を唱える。銀の爪染料が乾いたことを確認して、その薬指の爪先に掠めるように口付けを落とした。反射で彼の白い指がひくりと跳ねる。とても愉快な気分だった。
「ふふっ」
「?」
「お揃いですね、隊長」
「うん」
 満足げなシスヒスの顔を見て、ミスルンは一つ頷いた。それだけで、彼女にとって充分だった。