夜明 奈央
2024-05-06 13:20:37
3589文字
Public 中太SS
 

特別じゃない日に

太宰の誕生日 中也16歳の誕生日全てが裏目の数年後
2023年6月19日初出

 冷たい雨が降り注ぐ夜だった。雨は夕方から徐々に激しさを増し、窓の外には滝のように水が流れ落ちている。
 雨は、それ以外の音を覆い隠し、紛れさせる。だから、外廊下にコツコツと靴音が響くまで、来訪者に気づくことができなかった。
 聞き覚えのある靴音に、あ、と思った時にはもう特徴的なノック音が響いていた。リズミカルなそれが示すのは、元相棒の来訪だ。兼、恋人でもあるので、そう呼ぶべきかもしれないとは思っているけれど、何年経ってもその呼称には慣れなくて、普段はあまり考えないようにしている。忘れたわけじゃないし、どちらかが違うなんて言い始めたら、きっとお互い怒るけれど。
 時計を確認すると、あと30分もしないうちに日付が変わろうとしていた。
 来るかもしれない、とは、思っていた。でも、予想が外れれば良いとも思っていた。
「なあに? こんな時間に」
 チェーンを掛けたまま扉を開け、隙間からちらりと顔を覗かせる。如何にも「歓迎していません」という態度はいつも通りだ。恋人になったところで、変わることではない。非常識な時間であることには違いないのだ。
「よう、良い酒が手に入ったんだ。どうだ? 一緒に」
 恋人――中也は扉の隙間から見えるように右手に握った一升瓶を掲げて見せた。ラベルをちらりと確認する。なるほど、良い酒と言うだけはある。
「それだけ置いて帰ってよ」
「そう硬いこと言うなよ。蟹缶も買ってきたんだぜ」
 今度は左手に提げた買い物袋を掲げた。中也の言う通り、中には私の好物である蟹缶がうっすらと透けて見える。
 中也の服は、全身がしっとりと濡れていた。傍らには、ここまで差してきたのだろうずぶ濡れの傘が立てかけてある。
 こんな土砂降りの雨の中、わざわざ来なくても良かっただろう。酒なんて、いつだって飲める。今でなくてはならない理由なんてないはずだ。追い返しても良いけれど、特別追い返す程の理由はなかった。
 逡巡する振りをしてから、チェーンを外してやる。すると、当然のように私の横をすり抜けて上がり込み、勝手知ったるとでも言わんばかりにすたすたと奥へと向かっていった。しかし、中也がこの家に上がったのは、まだ両手で数えられる程度だ。今更遠慮するような関係でもないけれど、実際はまだこの家の勝手なんて知りはしない。案の定、すぐに「ここお猪口とかあんの?」という声が飛んできて、慌ててその背を追いかけた。
 その前にタオルとか着替えとか、他に要求するものがいくらでもあるだろうに。

 ぽつりぽつりと会話をしながら、ちびりちびりと舐めるように酒を飲む。しばらくしたらどちらからともなく仕掛けて、セックスに雪崩れ込む。社員寮の壁は薄いから、声を殺しながらそれでも満足するまで貪りあって、それから代わりばんこにシャワーを浴びる。その頃には夜明け間近だ。
 去年も、一昨年も同じだった。普段は私が中也の家に行くのに、この日だけは中也がこの家に来る。もちろん私が呼んだわけではない。勝手に来るのだ。だからといって何か特別なことをするわけでも言うわけでもない。去年も、一昨年も。
 心当たりはひとつだけある。あれから日付が変わって、今日は私の誕生日だ。私はそれを中也に教えたことはないし、知られないようにしているから、最初は偶然かと思っていた。けれど、今年で3年目。偶然では片付けられない奇行の理由なんて、それぐらいしか心当たりはない。
 祝いの言葉なんて、死んでももらいたくない。昔、誕生日を尋ねられた時にはそう答えて突っぱねた。中也から祝われたことは一度もないし、今だってその気持ちは変わらない。
 中也に祝うつもりはないようだから、それならそれで良かった。ただの日常の延長線なら、いつまでだってこのまま黙って付き合ってやろうと思っていた。余計なことを言わない、しない、中也の態度は、それなりに好感が持てたから。

 だけど、3年目の今年は、そう上手く事は運ばなかった。
「なあ、今晩、うち来る?」
 食い散らかしたままのつまみを片付けていた中也がそう言った。中也は私より先にシャワーを浴びたから、まだ包帯を巻き直している私とは違ってとっくに身支度を終えている。片付けを終えたら出ていくつもりだろう。日が昇る前にはここを去るはずだ。誰かに見られるわけにはいかないから。
「なにかあるの?」
 ただの雑談のつもりだった。行くか行かないかは基本的にはその時の気分で決める。それは中也だって知っている。けれど、今日は来ないでほしいとか、来てほしいなんてこともあるから、たまにはお伺いを立てたり立てられたりする。ここまでは、なんでもない、いつも通りだった。
 なのに、中也は如何にもしくじったとでもいうように顔を歪めた。
「あー、悪い。聞かなかったことにしてくれ」
 それきり押し黙ってしまって、重い沈黙が落ちた。いつの間にか弱まっていた雨が優しく地面を叩く音が部屋に満ちる。
 私たちの喧嘩は大抵騒がしい。それは多くの時間を共に過ごした今でも変わることはなかった。真面目で重い話題だって、馬鹿みたいに騒がしく言い争うのが私たちだった。今は静かに過ごすことだって多くなったけれど、こんなにも重苦しく感じたことはない。
 全然全く、いつも通りじゃなくなってしまった。いつもみたいに、適当に言い訳を並べ立てれば良かったのに。
 呼び出すのに大層な理由が必要な関係じゃない。でも、呼び出しに使う定番の理由は、今日は全部使えないことも知っていた。酒もセックスも今使ってしまったし、今晩は仕事が立て込むはずだから、大した夕食も作れない。「会いたい」なんてことを言われたのは、こんな関係に収まった後3ヶ月以上まともに顔を合わせる時間が取れなかった1度だけだ。
 崩れてしまったのなら、もうどこまで崩れても同じな気がした。
「君さ、毎年、何が目的なの?」
「目的って、恋人に会うのにそんなの必要かよ?」
「そうじゃなくて、君、毎年この日はうちに来るじゃない」
 俯いたままの中也の横顔を、じっと見つめた。包帯を巻く手も、ゴミをまとめる手も、止まっている。
 しばらく見つめていると、中也はゆっくりと目を閉じた。次に現れた瞳は、かちりと私の瞳に焦点が合っていた。
「だって、この日だけは来ねえじゃん」
 恐る恐る、とでもいうように、ゆっくりと右手が伸びてきた。拒否はしなかった。したいようにさせると、まだ洗い立ての湿った髪に指が通された。
「もう、わかってっと思うけど、今日誕生日なんだろ? 恋人の誕生日に会いたいと思うの、そんなにダメか?」
 やっぱり知っていたのか。ずっと確かめないままでいた疑惑が確信に変わる。
「ダメじゃないけど、祝われたくないって言ったでしょ」
「だから祝ってねぇじゃん。会いに来てるだけ。いつもと同じ」
「どこが。いつもはうち来ないじゃない。そういう今日だけ特別みたいなの、やめてよ」
「ならいつも通りうち来いよ。特別みたいにしてんのは手前だろ。ほとんど毎日入り浸ってるくせに、誕生日だけ来ねえなんて」
 そんなつもりはなかった。だけど、中也がわざわざ会いに来て、その時に私が自宅にいるということは、つまりそういうことだ。
 意識していたつもりがなかったからこそ罰が悪い。目を伏せると、中也の温かな胸に頭を引き寄せられた。顔を見たくなかったから都合が良くて、そのままぐりぐりと額を押し付ける。
「なあ、俺はやっぱり誕生日には会いてぇんだけど」
 私が初めて祝った中也の誕生日を思い出す。
 一般的に誕生日は祝うものだという知識ぐらいあったから、初めて一緒に迎える誕生日は私の精一杯で祝ってあげた。祝うというのは普通は本人の喜ぶことをするものだ。だから、毎日「顔も見たくない」と言う中也のために、その日は大人しくしていた。なのに中也はそれが不服だったらしい。日付が変わって会いに行った私は予想外にも怒られてしまった。そうして言われたのだ。「誕生日には会いたい」
 あの時はまだ、恋人なんて関係じゃなかったのに、今思えば何を言っているのかという話だ。
「それ、君の誕生日の話でしょ」
「俺は自分のに限定したつもりはねぇけど」
 顔を上げさせられて、額にキスを落とされた。至近距離で得意気な瞳に見つめられてなんだか悔しい。
「で、今晩来んの?」
……気が向いたらね」
 悔しいので、数センチの距離を詰めて中也の唇に自分の唇を押し当てた。すぐに離れると、中也が満足そうに目を細めたのがわかって、呼応するように私は口元を歪ませる。
 今晩中也の家に行くかはその時の気分で決める。けれど、気分じゃない日の方が少ないから、たぶん、きっと。
 東の空は徐々に明るくなり始めていた。


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