夜明 奈央
2024-05-06 08:13:28
18589文字
Public 中太小説
 

温めるだけじゃ足りない

添い寝する中太の16歳〜現在まで。温めての太宰視点の続編
*太宰が先代首領と寝てた(描写なし)
*太宰がモブ女と寝てる全年齢程度の描写あり
*織←太っぽい描写あり
2023年1月8日初出

 任務で遠出した帰り道だった。
「温めてやるから、うち、来いよ」
 中也は確かにそう言った。中也の家に誘われて、「誘うならもっと上手くやりなよ」と揶揄ってやった直後だった。正直なところ、がっかりした。中也は違うと思っていたのに。
 残念ではあったけれど、それならそれで存分に利用してやろうと思った。だから了承した。
 けれど本当に同じ布団に入って温めてくれただけだった。まさかここまできて怖気付いたのかと思ってわかりやすく誘ってあげたのに、素気無く断られた。自分の手管を否定されたようで少しだけ悔しかったけれど、それ以上にただ優しく抱きしめる中也に、ほっとした。中也にとって、太宰はただの相棒だった。これからも相棒でいられる。その事実が嬉しかった。
 本当は、それだけで良かったはずなのに。太宰を抱きしめる中也の身体の温かさと、とくとくと静かに鳴る鼓動の心地良さを知ってしまった。
 ただ一緒に眠るだけがこんなにも心を満たすものなのだと、その日初めて知った。

 実のところ、太宰は寒いのには滅法強かった。確かに手足はすぐに冷たくなってしまうけれど、霜焼けにはならないし、風邪も滅多に引かない。もっと言えば、あの部屋にはストーブや電気毛布があって、昨年の冬はそれで十分乗り切った。だから中也の気遣いは完全に無用なものだった。
 ただ、寒さに強くたってどちらが良いかと問われればもちろん温かい方が良いに決まっている。何より中也の生物としての温かさが忘れられなかった。1回きりで終わらせるつもりだったのに、どうにも誘惑に勝てなかった。
 もう1度だけ。そう言い聞かせてもう1度誘ったら、あっさりと了承してくれた。中也は冷たい手をぎゅっと握りしめて少しでも温めようとしてくれる。自分が冷え性で良かったと思ったのはこの時が初めてかもしれない。
 こんなに簡単で、よく今まで悪い大人に引っ掛からなかったものだ、と妙な感心を覚えた。ここにいるのは悪い“子供”に引っ掛かった結果だけれど。

 中也は思っていた以上に簡単で、思っていた以上に優しかった。なんとその2回で終わらなかったのだ。しかも、太宰のことなんて大嫌いなはずなのに、気づけば寝るだけじゃなくなっていた。
「ついでだから」と太宰の分まで夕食を用意し、当然のように一緒に食べる。お風呂を出ると「布団に入る前にこれでしっかり身体を温めろ」と温かいココアを渡される。寝付けない日には他愛のない話をして夜を過ごした。
 最初の日はさっさと帰ってしまった太宰も、朝の時間を中也と過ごすようになった。もう、なかったことにする必要はなかった。お互い、今更そんなことできやしなかった。
 外の気温が低くなるのに比例するように、中也との距離も縮まっていくように感じた。
 相変わらず喧嘩は絶えない。なのにふとした拍子にただの友達のようだと感じた。幼い子供じゃあるまいし、普通は友達同士で同じ布団に入らないことぐらいはわかっていた。それでも、少なくとも太宰は友達のようだと思っていた。きっと中也は認めやしないけれど、他に適切な名前など思いつかなかった。

 それに変化が訪れたのは、この関係が始まって半年が経とうとしていた頃だった。なんのことはない。夏が近づいてきたのだ。
 暖房は随分前から使っていない。寝台には薄い毛布が1枚だけ。朝晩は少し肌寒い日もあるけれど、日中はもう半袖でも十分過ごせる。太宰の手足だって、真冬のような冷たさを示すことはなくなってきた。ちゃんと血の通った生物だとわかる。
「温めて」なんて言い訳が馬鹿馬鹿しいことは2人してとっくに気づいていた。それでも、やめられずにここまできてしまった。カレンダーはもう6月を示している。そろそろ潮時だろう。
 本当は、もう言い訳が必要ないことぐらいわかっていた。なのに、ただ「行ってもいい?」とだけ言って、断られることがずっと怖かった。

 作戦会議の後、中也は他の参加者がぞろぞろと退室していくのを見送ってから、太宰の元へと近づいてきた。
「なあ、今日、温めてやろうか?」
 久しぶりの中也からのお誘いに驚いた。近頃は太宰が押しかけてばかりだったのだ。すぐさまその誘惑に乗りそうになって、なんと答えるべきか悩む。その一瞬の逡巡に気づいて、中也は声を低くした。
「なんか都合悪い?」
「そんなことは……
 咄嗟に正直な返事が漏れて、語尾を濁す。失敗した。嘘を吐くのは得意だったはずなのに。
「俺、なんかした?」
 心配そうな瞳と視線がかち合う。窓から射し込む爽やかな初夏の木漏れ日には似つかわしくない暗い顔だ。
 確かに、しばらく中也の家を訪れていなかった。それはただ、誘う勇気が出なかったからだけれど、自分の所為で来なくなったとでも思っているのだろうか。中也も寂しいと、そう思っていてくれれば嬉しい。
「もう、寒くないから、」
 その続きを言うより前に、がしりと手首を掴まれた。その拍子に抱えていた資料がばさばさと落ちる。中也の視線にぎろりと睨まれ、その場に縫い止められた。
 2人の間に沈黙が落ちた。静かな部屋には、廊下を歩く誰かの足音がよく聞こえた。
「寒くなくなったら俺はもう用済みってことかよ」
 中也は吐き捨てるように告げ、舌打ちを落とす。それにムッとして言い返した。
「そうは言ってないでしょう」
「だって、今」
「じゃなくて、その、ごはん、食べに行ってもいい?」
「は?」
 結局飛び出したのは言い訳じみた言葉だった。けれど、これぐらいは許されたい。ただ一緒に過ごしたいのだと言うのは今の自分たちにはハードルが高すぎる。
 中也にまじまじと見つめられ、なんだか顔が熱くなってくる気がした。あまりに沈黙が長くて、心臓の音がうるさい。
「ねえ、いいの? ダメなの?」
「ダメなわけないだろ」
 縋るような声が出て、しまったと思った。でも中也がほっとしたように笑うから、気にしないことにした。
「じゃあ今晩行く!」
 その日から、言い訳が必要なくなった。

***

 ほどなくして、本格的な夏がやってきた。日中はミンミンジージーと暑さを助長するように蝉が鳴く。夜になると蝉は落ち着きを見せるけれど、日中上がり切った気温はあまり下がらない。
 コンテナのある廃棄場はコンクリートジャングルにあるマフィア本部よりは幾分ましだ。それでも冷房どころか窓もないコンテナは、夜になっても過ごしやすいとはいえない環境だった。コンテナ自体は熱しやすく冷めやすい金属だが、換気も満足にできない室内の空気はそう簡単に冷えやしない。空気が通らないから湿度が高い。不快指数はかなりのものだろう。
 まして太宰が日中過ごしているのは冷房が十分に効いた室内が大半だ。外に出るのさえ億劫で、昨年は秋になるまでほとんど本部で寝泊まりをしていた。シャワーも仮眠室も食堂もあるので、生活を送るのに不都合はなかった。
 それを知った中也には馬鹿みたいに叱られた。いつもは太宰がちょっと揶揄ってやれば瞬間湯沸かし器のように怒り狂って簡単に煙に負けるのに、その時ばかりはそういかなかった。結局可能な限り中也の部屋に来るよう厳命され、了承するまで解放してもらえなかった。
 ちょっとばかり面倒ではあったけれど、いちいちお伺いを立てる必要がなくなったので、却って楽になったともいえた。

 だから、その日だって太宰は中也の部屋に転がり込むつもりだった。
「おい、大丈夫なのかよ。首領の稚児なんかに手出して」
「あぁ? 誰だよ稚児って」
 マフィア本部ビル内。太宰は自分の執務室へ戻る途中で足を止めた。聞こえた声はこの曲がり角の先からだ。
“首領の稚児”
 聞き覚えはあるけれど、森に代替わりしてからはめっきり聞くことのなくなった言葉だ。
「太宰だよ。知らねぇの? あいつが出世頭なのは首領に足開いてるからだって話」
 話しているのは2人。1人は中也、1人は中也と最近同じ部隊に所属するようになった若い男。噂好きなのは女性ばかりとは限らないらしい。
 中也と話している男はまだ何か続けようとしていたが、それを待たずにバンっと壁を蹴る鋭い音が響いた。しばらくして、苦しそうな息を吐く音。
 一体何をやっているのか。確かにここを通る人は少ないが、こんなところで構成員同士が派手に喧嘩しているのを見られれば処罰は免れないだろう。
 現に太宰は、ここにうっかり居合わせてしまっている。
「手前、それ本気で言ってんの?」
 怒りを湛えた中也の声が静かな廊下に落ちる。相手の男の返事はない。代わりにか細い呻き声が溢れた。おそらく首を絞められている。
 しばらくして、どさりと大きくて重い物体が落ちる音。中也が手を離したのだろう。
「あいつの出世は実力だっつの。僻む暇があったら働け。次そんなこと言ったらこれぐらいじゃすまねぇぞ」
 程なくして、バタバタと情けない足音が遠ざかっていった。それがほとんど聞こえなくなったのを確認して、太宰は角から顔を出した。
「こんなとこでそんなことして、上にバレたら面倒なことになるとか思わないの?」
「手前、さっきの聞いてたのか」
「君、話聞いてる?」
「あー、まあ……。手前が言わなきゃバレねぇだろ」
 中也は罰の悪い顔をして俯いている。誤魔化し方でも考えているのだろうか。太宰にとってはあんなもの、もう慣れっこだというのに。
 実のところ、あの噂は全てが嘘というわけではない。先代首領とはそういう関係だった。俗な言い方をすれば飼われていた。先代首領の側近やその周辺にいた人はそのことを知っている。太宰が森と知り合ったのはその繋がりだから、もちろん森も。
 森と知り合っていなければきっとマフィアには入っていない。今のように最初から重用されるようなこともなかっただろう。森は優秀な人材を遊ばせておくような無能ではないから、そのうち出世はしただろうが、少なくとも今程のスピード出世は叶わなかったはずだ。
 中也はあの噂を嘘だと信じている。それはきっと太宰への信頼の証だ。太宰が自分との出世争いを正々堂々と行っていると思っているのだろう。あれは出世のためではなかったけれど、結果的に出世に一役買っているのは事実だ。
 中也との出世争いに明確なルールはない。中也を“嵌めて”やったことだってもう数え切れない。元々ルールなんてあってないようなマフィアの世界だ。バレなければなんでもあり。なんならバレても結果次第でお咎めなし。中也だってそれはわかっているはずだし、それは当然太宰相手に限った話でもない。
 自分以外の周りの人間全てが、使える手はなんでも使う。そのつもりで生きていないとすぐに足元を掬われるのがこの世界だ。中也がヘマをして落ちぶれるのは中也の勝手ではあるけれど、できるなら自分の手で直接中也を蹴落としてやりたい。そのためには、その辺の凡愚どもに簡単に嵌められてもらっては困る。
 中也に思い知らせてやろうと思った。
「あんなの、言わせたい奴には言わせとけばいいよ。君が気にすることじゃない」
「はあ?あんな侮辱そのままにしとけるわけ」
「残念だけど、あの噂は嘘じゃないよ」
 言葉を遮るように告げると、中也は押し黙った。太宰は畳み掛けるように続ける。
「完全に真実とも言えないけどね」
 一歩、また一歩と近づいていく。中也はこちらを凝視するばかりだ。
「君、僕が本当に真っ当に今の地位を掴んだとでも思ってる?」
 中也の首筋に手を這わせ、吐息がかかる程の距離に近づいた。あの頃磨いた、男を誘う笑み。下から中也の瞳を覗き込むと、動揺に揺れていた。
 そこでパッと手を離して背を向ける。
「軽蔑した?」
 そのまま立ち去ろうと思った。けれど一歩踏み出すより先に中也に腕を掴まれて、それは叶わなかった。
「しねぇよ。……するわけねぇだろ」
 腕を引かれて振り返った。中也は顔を見るなり困ったように眉を顰めた。
「そんな顔するならやるなよ。手前なら他にいくらでも手段あんだろ」
 そんな顔なんて言われても、自分がどんな顔をしているのかわからなかった。ただ中也が自分を心配してくれていることだけはわかった。
 心配されるようなことなんて、何もしていないのに。
「今はしてないよ」
 それだけ言うのがやっとだった。
 外で1人で生きるより楽だった。耐えられないほど嫌なことはされない。衣食住に困らない。だからあそこにいた。
 誰に後ろ指差されても気にならなかった。なのに、何故だか傷ついたような顔をする中也に、心の奥底がちくりと痛んだ。
「そうか」
 中也がほっとしたように強張っていた顔を緩めた。釣られて太宰の顔からも緊張が解けた。
 それを見て、あの時の行動は軽率だったかもしれないと、ほんの少しだけ後悔した。

***

 中也が最近、取引先の令嬢と懇意にしているらしい、という噂を聞いた。懇意なんてオブラートに包んでいても、結局することは一つだ。相手は太宰も会ったことがある。
 太宰たちよりも1つ歳上で、少女めいた笑顔が似合う、可愛らしい女性だった。女性、というより女の子といった方が適切かもしれない。ふわふわの髪に花柄のワンピースがよく似合っていた。受け答えはしっかりしているのに少し抜けているところがあって、計算か天然かは知らないが男受けしそうだと思ったのを覚えている。
 中也が好きそうなタイプだ。小柄な彼女は中也と並んでも違和感がない。お似合いだろうと思ったし、そう噂している声も聞いた。
 胸になんだかわからないもやもやが湧いてくる。たまに感じる嫌な予感とは違う。正体のわからない感情に支配されるのが不快だった。
 探りを入れると、情報はすぐに手に入った。「その取引先がうちに隠れて武器を集めていて、クーデターを疑っている」らしい。要するにハニートラップだ。
 中也の意思ではないらしいと知って、ほっとした。ほっとした自分に腹が立った。内から湧き上がる腹立たしさに耐えているうちに、方々への怒りが湧き上がってきた。気づけば中也にこの仕事を回した奴をどうやって陥れるかが脳内を高速で駆け巡っていた。引き受けた中也にも腹が立った。自分にはやるなと言ったくせに。
 自分でも感情が制御できなかった。こんなもの、絶対に誰にも知られたくなかった。特に中也には、会いたくもなかった。今会ったら、自分が何を仕出かすか自信がなかった。
 だというのに、間の悪い男はそんな時にばかりやってくるのだ。
「太宰、入るぞ」
 間髪入れずに扉が開いて、ずかずかと入室してくる。いつもなら「この駄犬は返事も待てないの?」とかなんとか揶揄いの言葉を3つや4つ重ねてやるのだが、そんな気力も今は湧いてこない。一刻も早く1人にしてほしかった。
「こないだの仕事で捕まえた捕虜が情報吐いたらしいぜ」
「聞いた」
「手前が知りたがってた件も吐いたって」
「うん」
……手前、なんかあった?」
「なんでもない」
 今は顔も見たくない。だからそんなくだらない用件ならさっさと帰ってくれ。そういうつもりだった。部下たちが怯える冷たい返事をしているのに、慣れた中也はちっとも怯みやしない。
「なんでもないって面してねぇだろ」
 腕を掴まれて、顔を覗き込まれる。目を合わせたくなくて顔を逸らしたけれど、代わりにふわりと女物のシャンプーの匂いが香って、カッとなった。
 女を抱いた足でここに来たのか。
 苛立ち紛れに腕を振り払って立ち上がる。けれど中也は太宰が何に怒っているのかなんて見当もついていないようで、不思議そうな顔で太宰の顔を見つめるだけだった。
 そのすっとぼけたような顔が怒りを助長した。中也は仕事で女が抱けるのだ。あの日、抱かれるつもりだった太宰の誘いは無視したくせに。太宰には「やるな」と言ったくせに。
 あの日、中也が誘いに動じなかったことに、太宰は確かに安堵した。なのに、今心の中を占拠するのは、自分が相手にされなかったという悔しさだった。プライドが傷つけられたと思った。
 もう、とうに日は落ちていた。今日する予定だった仕事はまだ終わっていないが、とてもじゃないが今から進められるとは思わなかった。幸い急ぐものもない。
「中也、今から君の家に行こう」
「は? 今から?」
「今から」
「手前、仕事は?」
「今日はもう終わり」
 中也はしばらく値踏みするように太宰を観察していたが、やがて諦めて駐車場へと去っていった。

 中也の家に着くと、いつものように2人で寝台に入る。太宰の様子を不審気に窺ってはいるが、警戒心は感じられなかった。馬乗りになるのは簡単だった。キスをしようと顔を寄せる。だがそれは、あっさりと中也の手に防がれた。
「何のつもりだよ」
 ここまでしているのに、中也はやはり警戒する素振りは見せない。ただ困惑しているだけ。まさか男同士ではセックスをしないとでも思っているのだろうか。そんなはずはないだろうと思うが、てんで検討もつかないとでも言いたげな顔をしていた。
「セックスしよう」
 端的に提案したが、中也は黙って聞いているだけだった。冷静に太宰の様子を観察している。全く意識されていないことが悔しくて、早口で捲し立てた。
「もしかして、男相手に経験ない? なら君が突っ込む方でいいよ。準備も僕がする。君はただそこでちんこ勃たせときなよ。それなら問題ないでしょ」
「あるに決まってんだろ。馬鹿にしてんじゃねぇ!」
 はっきり拒絶されて唇を噛む。太宰が怯んだ一瞬のうちに、マウントポジションをひっくり返された。抵抗するより先に手足の関節を押さえ込まれて、身動きが取れなくなった。
 悔しくてぎろりと睨みつけるが、中也は怒っていなかった。そこには心配と困惑が浮かぶばかりだった。
「なあ、やっぱなんかあったんだろ?」
 押さえつける手足の力はちっとも緩まないのに、声だけは優しかった。泣いている幼子をあやす親のようだった。
 太宰は今、中也を襲おうとしたのに。中也にとっては癇癪持ちの子供を宥めるのと同じようだった。途端に惨めな気持ちが溢れ出してくる。
「何もないよ」
 声が震えないようにするのが精一杯だった。
 太宰が抵抗をやめたのを感じ取ったのか、そろそろと力が抜かれた。そっと頭を撫でられて、何かが込み上げてきそうになるのを目を閉じて堪えた。
 しばらくそうしていると、布団を肩まで掛け直して抱き寄せられる。
「今日はもう寝ろ。疲れてんだろ」
 子供にするみたいにぽんぽんと背中を叩かれる。
 子供扱いが悔しかった。だけど、中也が誘いに乗らなかったことに、どこかでほっとしている自分にも気づいてしまった。どうしたいのか、わからなかった。

***

 中也のハニートラップはあの後しばらくして終わりを告げた。クーデターは疑惑ではなくて本当で、中也自ら処刑を行ったらしい。太宰は参加しなかったが、情け容赦なく破壊作戦を実行していたと参加していた構成員から漏れ聞いた。
 何を期待してわざわざ探りを入れたのかは、太宰自身わからなかった。

 それと前後して、中也と一緒に行う仕事が目に見えて減っていった。最初は中也が太宰と顔を合わせるのを嫌がって森に進言したのかと思ったが、そうではないらしい。森の采配であることは間違いないが、違う思惑によるもののようだった。
 その証拠に、中也の態度は何ひとつ変わりはしなかった。一緒にする仕事が減っても、本部で顔を合わせる機会はある。そのうち何度かに1度は家に来るよう誘われる。
 きっと中也はあれをなかったことにしようとしている。そうすることは簡単だった。けれど、なかったことにして今まで通りの関係に戻る気にはなれなかった。それが襲おうとしたことによる負い目なのか、相手にされなかったことによる悔しさなのか、はたまた全く別のものなのか、わからなかった。
 だから誘われる度に断り続けていたら、流石の中也も徐々に何も言わなくなってきた。なにか言いたげにはするが、それだけ。

 いつの間にか、次の冬が近づいてきていた。気温が下がってくるにつれて中也の腕の中への恋しさが増す。手足が冷たい。布団が温まらない。一昨年はこれぐらい、どうってことなかったはずだった。
 もう、戻れやしないのに、中也の存在が浮き彫りになるようだった。

 その気持ちを誤魔化すように、ルパンへ通う頻度が増えた。
 織田や安吾とルパンで飲むことはそれまでにもあった。約束したり、せずにふらりと訪れたり、まちまちだった。頻度だって決まっていなかった。だから1人でいたくない夜に、ふらりと訪れるのに都合が良かったのだ。気づけば都合がつく日はほとんど毎日足を運ぶようになっていた。それに気づいた織田と安吾もなるべく顔を出してくれるようになった。
 心配そうにしながらも、理由は聞かないでいてくれている。太宰が彼らを好ましいと思う所以だった。

 そんなある日のことだった。連日の睡眠不足の所為か、珍しく酔い潰れてしまったようだった。本当は帰って眠った方がいいとわかっていたが、どうしてもあのまま1人の布団に入る気になれなかったのだ。
 そうしてルパンで飲んでいたはずの記憶が次に繋がったのが、織田の部屋だった。
 多少アルコールが抜けたのか、幾分脳内はクリアだった。ぼやける視界を何度か瞬きを繰り返してはっきりとさせると、こちらを覗き込む織田と目が合った。
「起きたか」
「うん」
 太宰が起きあがろうとすると、織田は慌てたように身を引いた。その動きに違和感を覚えて、織田が先程まで手をかけていた部分を見やると、ベルトの金具が外されている。
「すまん、そのままだと寝苦しいかと思って」
 言い繕うこともせずに謝るのは織田の長所だろう。
 謝らなくても、織田になら抱かれてもいいと思った。今までそんなこと、考えたこともなかった。でも、織田にはずっと前から好感を抱いているし、実直な男だからきっと優しくしてくれる。太宰の気持ちだって尊重してくれる。
 そう考えると悪いところなんて何ひとつ思い浮かばない。唯一引っ掛かるのは「そんな顔するならやるな」と言った中也だけだ。結局“そんな顔”がどんな顔かも、何を「やるな」なのかもわからないままだ。
 織田はじっとこちらを見つめている。吸い寄せられるように織田の頬に手を伸ばした。そのまま引き寄せると、幾許もしないうちに手で制された。
「何をしようとしている?」
「そういうことを聞くのは野暮ってものだよ」
「そうか」
 織田はいつもの無表情のままじっと太宰を見つめるので、太宰もそれを見つめ返した。なんだか心臓が柄にもなく大きく打っている気がした。
 けれど結局織田はそれに応えてはくれなかった。
「そういうことをする相手はきちんと選べ」
 頬に添えていた太宰の手は、織田の両手に包み込まれた。
「私は織田作を選んだんだよ」
「酔ってるだろう」
「酔ってない時ならいいの?」
「ダメだ」
「なんで? さっきと言ってることが違わない?」
「お前は俺“が”いいんじゃなくて俺“でも”いいんだろう。悪いがそういう不毛な誘いには乗らないことにしている」
 頭を優しく撫でられた。織田の手は大きくてごつごつしている。大人の男の手だった。
 わがままを言う養い子を宥める時と同じ扱いだった。けれど織田は「太宰が子供だから」とは言わなかった。 
「はは。最近の私は振られてばっかりだ」
 するりと口から滑り出た。それを聞いて「やっぱり酔っているのかもしれない」と思ったし、「そうか、あれは振られたのか」と妙に納得もした。
 織田はきょとんと目を丸くして、「そうなのか?」と驚いて見せた。それから少し考えて、励ますように頭をぽんぽんと叩く。
「抱いてやることはできないが、慰めてやることはできるぞ」
 何の気負いもなく告げられて、太宰は息を詰めた。起き上がって織田の胸に顔を寄せても、今度は拒絶されなかった。
「君さぁ、人たらしだよね」
「そうか?」
 中也のとは違う大きくて優しい手が太宰の頭を包み込む。織田の腕の中は温かかった。久しぶりの人肌は心地良かったけれど、やっぱり中也の腕の中の方が良かった。ずっと見ない振りをしていたその理由も、わかってしまった。
 織田に頭を撫でられているうちに、気づけば眠っていた。

 翌朝、朝の冷気で目を覚ました。危惧していたような二日酔いもなく、頭はすっきりとしている。カーテンの隙間からうっすらと陽の光が照らすが、まだ薄暗い。
 太宰を抱きしめていたはずの織田は冬だというのに布団から外れた床の上で眠っていた。
 同じ布団で良かったのにな、と申し訳ない気持ちで手を伸ばす。届く前に織田はぱちりと目を開いた。
「おはよう」
「お、はよう」
 慌てて伸ばしていた手を引っ込めた。
「朝飯、食べるだろう?」
 織田は朗らかに笑った。

 用意されたのは簡単な朝食だった。トーストにバター、ベーコンエッグ。インスタントのコーヒーはびっくりする程苦くて不味くて、口に含んだ瞬間信じられない思いでまじまじと見つめてしまった。それを勘違いしたらしい織田がクリームと角砂糖を差し出した。ちょっと違うんだけどな、と思いながらありがたく頂戴する。なかなか飲める味にならなくて、最終的に5つずつ入れた。
 コーヒーを飲む振りをして、ちろりと織田を盗み見る。織田は昨晩のことなどなかったかのように以前と変わらず接してくれている。中也に拒否されたあの夜ほどの惨めさはない。中也だって、態度はちっとも変わりやしないのに。全然違うこの気持ちがどこからくるのか、理解してしまった。できれば気づかない振りをしていたかった。
「ああ、そうそう」
 黙々と朝食を口に運んでいた織田が、急に声を上げた。
「別に振られたからってそう簡単に諦めなくていいと思うぞ」
 太宰はぴしりと固まった。てっきりなかったことにする流れだと思っていた。だがそんなことはお構いなしに織田は話を続ける。
「気がすむまで好きでいればいいさ。その方が引きずらなくて済む」
 これで話は終わりだとでもいうように、コーヒーをひと口啜った。織田の分にはクリームと角砂糖が1つずつ入っている。
「そうなの?」
「経験則だけどな」
「そっか」
 織田にもそういう経験があるというのは意外だった。聞いてみたくて堪らなくなったけれど、聞けやしなかった。
 朝食を終えて外に出る。起き抜けは薄暗かった空も外に出る頃には日が昇っていた。とはいえまだ昇ったばかりだ。2月の冷気が頬を突き刺す。コーヒーで温めた身体の熱もすぐに外気に侵食されてしまった。
 だというのに、まあ、なんだか悪くないなと思ってしまうのは、久しぶりに迎えた1人じゃない朝のお蔭だろうか。

***

 桜の蕾が膨らみ始めて、春が近づいているのを感じた。天気が良い昼間は暖かいけれど、日中でもまだまだ冷え込む日も多い。朝晩は言うまでもない。まだまだ冷えた手足を電気毛布で人工的に温めて眠る日々だ。
 結局、この冬は中也と同じ布団で眠ることは1度もなかった。顔を合わせてもくだらない軽口と罵倒を浴びせあうばかりで、誘われることさえもうなくなった。けれどあの心地良さを忘れたわけではなかった。ぶち壊したのは自分だとわかっていても、忘れられるわけがなかった。
 織田の言葉が頭に浮かぶ。「諦めなくていい」そう言われて少しだけ楽になった気はした。

「先方がどうしても双黒に会いたいと言ってねぇ。お得意様だからこちらも無碍にはできなくて」
 森に呼び出され、中也と2人で訪れた首領室で、そう告げられた。森は、如何にも困ったものだというように肩を竦めている。その割には然程困っているように見えない。
 昨今は先代派との諍いも落ち着いていて、勢力も拡大傾向。組織は軌道に乗っていた。そんなポートマフィアに真っ向から対立しようとする組織もいなかった。要するに暇だったのだ。
 全面窓から明るく射し込む春の日差しに照らされて、優しく微笑む。
「よろしく頼むよ。粗相のないようにね」
「承知いたしました」
 森の前では完璧な笑みを作ったが、首領室を出て1人になると意図せずため息が溢れ落ちる。
 中也と2人での仕事は、随分と久しぶりだった。せめて、殲滅任務とか、偵察とか、明確な目的があるものなら良かったのに。
 目的があれば、お互いそれに向かって行動すれば良い。けれど今回はただの会食だ。新規契約を取ってくるとか、不穏分子を探るとか、そういった裏の任務もなさそうだった。そうするとどうしたって余計なことが頭をかけ巡る。
 脊髄反射のような軽口を叩き合っていればまだましだ。だが、対外的に不仲を露呈させるわけにはいかない。余計な敵を作り出すことになってしまう。仲良くする必要はないけれど、太宰が怒らせるようなことをしなければ基本的に中也は優しいのだ。調子が狂ってしまう。まだ必要以上に優しくされたくはなかった。

 嫌な予定ほどすぐにやってきて、なかなか過ぎ去ってくれないものだ。双黒として呼ばれた会食の日は、瞬く間にやってきた。
 こんな時に限って、空はどんよりと厚い雲に覆われている。吹く風もここ数日の陽気からは考えられないほど冷たい。
 集合場所に着くと、中也は既にそこにいた。その姿を視界に入れることに躊躇いを覚える。上手い対応策などあるはずもないのだ。会うなり目を逸らす太宰に中也も顔を顰めたが、余計なことは言わずに車に乗り込んだ。
 しっかりと温められた車内の空気に無意識に息が漏れた。建物を出て車に乗り込むまでの僅かの間に、手はすっかり熱を失ってしまった。車内がいくら暖かくても、冷えてしまった手を温めるのには時間がかかる。悴む手で安全帯を締めようとして、中也と手が触れた。その手はなんでもないように離れていったけれど、冷え切った手には火傷しそうなほど熱かった。

 今日の会食の相手は取引先の会長で、太宰のことを大層気に入ってくれている。森に連れられて、または部下を引き連れて何度も会ったことがあった。双黒に会いたいなどと言った割には中也に話を振ったのは最初の2〜3度ぐらいだった。中也は初対面だったから、本当に噂の双黒を見てみたかっただけなのかもしれない。
 会長は太宰にばかり話しかけてくるし、中也も空気を読んで余計なことは言わなかった。にこにことわざとらしい愛想笑いは中也には似合わなかったが、太宰にとってはありがたかった。
 会食が終了するまでの間、中也のことはそれほど意識せずに済んで、ほっとした。

 あとひと息だと気合を入れた帰りの車内だった。行きと同じで会話はない。けれど安全帯を締めてすぐ、太宰の左手に温かい手が被さった。
 どきりと胸が高鳴る。手の持ち主なんて、たった1人しかいない。振り払うべきじゃないかと頭に過る。けど、それが何故か、はっきりとした理由は思い浮かばない。
 中也は真っ直ぐ前を向いている。運転手を務める優秀な部下は、後部座席で起きた上司のあれこれは見て見ぬ振りするよう十分に教育されているはずだ。
 屋敷は建物の中まで車が乗り入れられるように設計されていた。温かい屋内から車内へ乗り移っただけの太宰の手は、行きほど冷たくはなっていない。だから、中也に温めてもらう必要なんてなかった。
 そろそろと指を絡めてみる。以前と同じように緩く力を込められる。本部に戻るまでの間、ただただそうして手を握っていた。

 本部の敷地に入り、車が速度を緩める。停車に合わせて中也の手はあっさりと離れていった。太宰はつい追いすがりそうになって、慌てて留める。それを中也は一瞥するだけで、さっさと車から降りていってしまう。
 なんだったんだ、と思いながらも、なんと問えば良いのかわからない。仕方なく車から降りると、中也はそこで太宰を待っていた。普段ならさっさと自分1人で行ってしまうのに。
 風は相変わらず冷たい。慌てて建物へ歩を進めると、中也は横に並んで太宰の手を取った。
「なあ、まだ仕事残ってんのか?」
 中也の意図がわかってしまった。誘っている。以前と同じように。今度こそ振り払うべきかもしれないと思った。でも、やっぱりその理由はわからなかった。あの頃のように中也に抱きしめられたかった。それは、ここで太宰が拒みさえしなければ叶えられる。
 仕事は残っていない。ここのところあらゆることが落ち着いているのだ。
 肯定も否定もしなかったけれど、結局手を引かれるまま中也の車に乗せられた。
 一緒に寝たのは随分と久しぶりだった。中也の腕の中は春の陽だまりのようだった。記憶にあるよりずっとずっと心地良かった。胸に顔を寄せると抱きしめてくれる。手を握れば握り返してくれる。頭を撫でる手の重みも、ゆったりと打つ心音も、鼻腔を擽る体臭も。
 全てが太宰のために誂えられたようだった。
 余計なことをしなければ、中也は太宰の望むほとんどを与えてくれる。そこに対価は必要ない。それが何故かはわからないけれど、それだけは間違いようのない事実だった。
 望んでも与えられないものは、たったひとつ。それはやっぱり少しだけ残念だったけれど、それよりもずっと、与えられるものの大きさを感じていた。こんなにも許された場所は他に存在しない。
 そして、それを拒絶していたのは太宰だ。

「ねぇ、また来てもいい?」
 翌朝恐る恐る口にすると、呆れたような目を向けられた。
「ダメなわけないだろ」
 いつか聞いたのと同じ台詞だった。望むたったひとつを、他のたくさんと天秤に掛けて、諦めることを決めた。余計なことを言いさえしなければ、太宰が腹の中で何を考えていようと、中也は決して見捨てないから。きっと、大丈夫だと思った。

***

 それから、また度々中也の家に通うようになった。それによってルパン通いも減った。太宰は何も言わなかったけれど、織田も安吾も何かを察したようだった。2人には顔を出す頻度が減ったことを歓迎されて、なんとも複雑な気持ちになった。

 その日、太宰はルパンで2人を待っていた。けれど閉店まで粘ってもどちらも来なかった。
 まあ、そんな日だってあるさ。
 自分で慰めてはみるけれど、つまらないな、という気持ちがなくなるわけではない。なんとなくそのまま家に帰る気にはなれなくて、夜の街を当てもなく歩いた。誰かと話がしたい気分だった。その所為か、気づけば歓楽街に入っていた。
「ありがとうございます。またのお越しを」
 近くで聞こえた声に釣られてそちらへ目を向けると、声の主と目が合った。客らしき男の見送りに出ていたようだった。男の方は明らかに水商売だとわかる女に腕を取られて歩いていく。
「ご無沙汰しております」
 目が合った女は、客が十分に離れていくのを待って、太宰に声を掛けた。それは太宰がまだ幹部に上がるより前に担当していた店の店長だった。その時の店舗とは場所が異なるが、そういえば大盛況で3つ目の店を出したと風の噂で聞いた。
「幹部に昇進なさったとお伺いしております。おめでとうございます」
「君こそ順調みたいだね。3店舗目だと聞いたよ」
「お耳に入れていただけているとは光栄です」
 お急ぎでなければ、と控えめに勧められ、厚意に甘えることにする。あまり意識していなかったが、このところ女性とあまり縁がなかった。勧められると身体の奥から急に欲が湧いてくるようだった。
 女性は好きだ。美人は見ていて癒されるし、みんな太宰には優しくしてくれる。甘い香りと柔らかい肌は言うまでもない。まして、この店はポートマフィアの傘下だ。最年少幹部ともなれば、皆こぞってサービスしてくれる。
 我こそがとアピールしてくる女性たちの中から好みの女性を1人選んでホテルに入った。
 太宰の選んだ女は、大層上手かった。プロの女の中でもかなり上位に入るだろう。技術もさることながら、気分を盛り上げるのも上手かった。しばらくご無沙汰だったから、本来なら太宰だって十分満足しただろう。
 けれどなぜだか気分は最悪だった。行為が進むにつれて機嫌の悪くなる太宰を気遣ってか、様々なサービスをしてくれた。なのに一向に気分は晴れなかった。太宰にだって理由は全くわからなかった。すっきりしたのは身体だけだった。
「またぜひ」
 彼女は最後まで愛想よく笑顔を振りまいて、先にホテルを去っていった。プロの鑑だろう。太宰は別れの挨拶をする気力すらなかった。悪いことをしたな、と毛先ほどしかない良心がちくりと痛む。
 今まで、こんな気持ちになったことはなかった。気持ち良くなって、気分良くお別れしていた。満足させてくれた女性にはチップだって弾んでやった。美人とするセックスは好きだ。相手が上手ければもっと良かった。なのに、どうして今はこんなにも、気分が晴れないのだろう。
 いつまでもホテルの寝台に寝ていたくなくて、のそりと重い身体を起こした。シャワーを浴びる元気もなく、散らばった衣服を身につけた。
 外に出た途端、芯まで凍るような心地がした。思わず自分の腕を掻き抱いた。日が昇るにはもう少しかかりそうだった。
 そこから早く逃げたくて、目的地も決めずに歩き始める。自分の部屋には帰りたくなかった。ルパンはもうとっくに閉まっているし、織田の家に押しかけて迷惑をかける気にはなれない。安吾も同じだが、そもそも家を知らない。本部には行きたくない。1人になりたくなかったけれど、余計なことを聞かれたくなかった。
 気づけば中也の部屋の前に立っていた。その頃には、空はうっすらと明るくなり始めていた。
 中也ならきっと、許してくれると思った。けれどチャイムを鳴らすには、どうにも腕が重かった。重くて、ドアノブまでだって上げられなかった。ここまでやってきて力尽きてしまったのか、足も床にぴたりと張り付いたように動かなかった。
 どうしよう。帰ることも進むこともできずに立ち尽くす。
 すると、中から扉が小さく開いた。不審そうな顔をした中也が顔を出す。太宰の顔を見るなり顔を顰めて、扉を大きく開いた。
「手前、なんつー顔してんだよ」
 何かを言おうと思ったが、か細い息が抜けるばかりで、声帯を震わせることは叶わなかった。どんな顔をしているかは、やっぱりわからなかった。
「とりあえず入れ」
 中也が太宰の手首を掴んで引っ張る。そうすると、さっきまで重くて全く動かせなかった足がするりと動いた。靴を脱ぐのに手間取っていると、文句も言わずに手伝ってくれた。腕を引かれてソファに座らされる。
「どっか怪我でもしてんのか?」
「してない」
 今度はちゃんと動いた自分の舌に安堵する。
「なんか飲むか?」
「いい」
「風呂は?」
「いい」
 中也に握られたままの手首から、中也の熱がじんわりと伝わる。触れているのは手だけのはずなのに、それは血液を伝って心臓まで到達し、少しずつ太宰の身体全体に広がっていく。それが脳に到達して、理解した。“誰か”じゃなくて、“中也”がいい。
 中也の手に指を絡めて握り返すと、中也の腕が背中に回った。中也の首筋に顔を埋めた。中也に触れる全ての箇所から熱が伝わる。凍りついたように動かなかった身体を溶かしていく。もっと触れていたくて握っているのと反対の手で中也の背を抱いた。
 ただ、抱きしめ合っていた。それだけでじわじわと熱が身体を巡っていった。
 そうしてしばらくすると、遠慮がちに寝台に誘われた。抵抗する理由はない。寝台の手前にくると、外套や上着を脱ぎ落とすのを中也は静かに待ってくれた。先に寝台に入った中也は、横になって太宰の場所を空けてくれている。促されるままに空いた場所に潜り込むと、いつものように抱き寄せられた。
 シングルサイズだ。痩せた太宰とちびっ子の中也でも、2人で眠るには狭い。精一杯離れて寝ても、中也の体温を感じる距離だ。くっつかないと、寝ている間にどちらかが落ちてしまいそうなぐらい。
 初めて一緒に眠った時だって十分狭かったけれど、あれから2年近くが経った。太宰の身長は10cmは伸びた。中也だって多少は伸びただろう。少なくともあの頃より筋肉はみっちりと質量を増した。
 変わらないのは、太宰を抱きしめる慈しむような手つきと、ぽかぽかと心の奥底まで温める体温。それから、太宰がどんなに望んでもそれ以上は与えられないこと。
「ねぇ、抱いてくれない?」
 どうせ断られるだろうことはわかっていた。それでもつい、口をついて出た。
「抱いてほしいのか?」
 初めてのまともな返事に驚く。頷いて見せると、「本当に?」と念押しされた。
 中也の意図がわからず戸惑っていると、布団を肩まで掛けられた。それから、抱きしめる腕に力を込められる。
「手前、好きだろ? 俺とこうやって2人で寝るの」
 返事の代わりに中也の胸に自分の顔を押し付ける。中也はわかっているとでも言うように太宰の頭を引き寄せる。
「抱いたら、たぶん、今までと同じってわけにはいかなくなるけど」
 そこで1度言葉を切った中也は、太宰にゆっくりと顔を上げさせた。
「どうする?」
 瞳の真ん中を覗き込まれる。中也はもう、今までみたいに逃げるつもりはないようだった。きっと太宰がそれでも抱いてほしいのだと言えば、抱いてくれる。
 最初はただの勘違いだった。次はプライドが傷つけられたからだと思った。それがいつの間にか、ただ抱かれたいと思うようになっていた。でもそれと同時に、何度誘っても誘惑に乗らない中也に安心していた。この腕の中を捨てる。それは簡単なことではなかった。
 きっと中也の言う通りだ。自分たちはずっと、一緒に寝るだけの関係だった。だから中也の腕の中は、ずっとずっと太宰が安心する場所だった。
 中也の瞳に映る太宰の顔は、不安に揺れていた。
「迷うなら、今はやめとけよ。やっぱり嫌だって言われても、進んじまったら、後戻りできねぇから」
 気がつけば太宰の首は上下に動いていた。
 先程と同じように中也の胸に頭を抱えられる。中也の心臓の音が子守唄のようにとくとくと響く。中也の匂いが鼻腔を擽る。太宰を柔らかく囲う腕は朝まで離さずにいてくれると知っている。
 中也に抱いてもらえたら素敵だろうと思う。想像すると、今までにした誰とのものよりも良さそうだった。けれど、こんなにも近くにいて、太宰の心を支配するのは欲情ではなくて安心だった。今までだってそうだった。心は馬鹿みたいに中也を欲するようになっていたけれど、身体は最初の頃のまま。刷り込みみたいに安全地帯だと認識していた。
「ねえ、いつかやっぱり抱いてほしいって言ったら、抱いてくれる?」
 胸に顔を埋めたまま囁く。聞き取れるか不安だったけれど、中也の耳にはきちんと届いたらしい。
「いいぜ、約束する」

***

 あれから、4年以上の月日が流れた。中也との関係は、太宰が離反するまで続けられた。
 何度も中也に「抱いてほしい」と思ったし、散々悩んだ。けれど結局、あの幸せの揺籠みたいな腕の中を手放す気になれなくて、そのままだ。抱かれたって完全になくなるわけじゃないことはわかっているけれど。
 そうこうしているうちに太宰はポートマフィアを離反した。ほどなくして中也は幹部に昇進した。姿を眩ましている間も裏社会の情報は適宜仕入れていたから、中也が元気にやっていることは知っていた。離反したって、あの約束を反故にしたつもりはなかった。中也がどう思っているのか知らないけれど。
 先日、正式に再会を果たした。ずっとマフィア関係者から逃げ続けていたけれど、もういいかな、と気を抜いた途端に、街で出会すようになった。同じ街に暮らしているのだ。今までだって紙一重の瞬間は何度もあった。
 ほら、噂をすれば。左手から歩いてくるのは中也だ。
「やあ、こんなところで会うなんて、今日は随分運が悪い」
「そう思うなら今までみたいに隠れてろよ、裏切り者が」
 出会い頭に挨拶代わりの嫌みが飛び交う。そのくせ歩く速度も向かう方向も同じだ。
「なんでついてくるのさ」
「うっせぇ、俺はこっちに行きてぇんだよ。手前こそついてくんな」
 冷たい風がびゅーと吹き抜ける。海が近いから風が強い。ほんのりと潮の香りが混ざっている。風に誘われるように、中也の手が太宰の手に触れて、すぐに離れていった。
「相変わらず、冷てぇんだな」
「そうだね、もう温めてくれる人もいないし」
 中也はぴたりと足を止めた。振り返ると、目を見開いてこちらを見つめている。言い出したのは中也なのに、そんな顔をするのはやめてほしい。馬鹿なことを言った気になってしまう。
 撤回しようかと思ったら、先に中也が口を開いた。
「それ、もう俺じゃダメなわけ?」
 中也の顔を見られなくて、再び前を向いた。置いていこうと思ったけれど、どうにも足が上がらない。そうこうしているうちに中也が追いついて横に並ぶ。躊躇いがちに取られた手は記憶にある通り温かかった。中也の熱がじんわりと血液を介して身体全体に広がっていく。
「私がこんなこと許すのは、後にも先にも君だけだよ」
 立場も所属組織も、目指すところも変わってしまった。握った手だってあの頃より硬く筋張っている。だけど、変わらないものだって、ここにある。
 太宰は応えるように握られた手を握り返した。もうすぐ、何度目かの冬が来る。


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