takisaka
2024-05-02 22:56:48
3836文字
Public ネハムゲ
 

夜の愛咬

さわりっこしてるだけのネハムゲ(きもちR15

……動くな、」
「うごく、ない。――どうして?」

◇◇◇

 巨体のわりにちんまりと寝台に座って、もぞもぞと落ち着かない。
 しばらくそうしていたムゲンは、ついと身体の位置を離した彼のことばに、ぱちんと大ぶりの瞳を瞬きする。長いつきあいの巨躯のドラフであり、それはネハンにとっては殆ど童子をいつくしむ年長者にも似た関係性であるのだが、じっさいのところ、ほんとうにそうなのかはわからない。彼じしんがムゲン当人にその気持ちを聞いてみたことがないからだ。家族――そうであればうれしいと、どこか祈るような口ぶりを聞いたことがあるきりで。かれのそのいとけない希望のほかに、この名前のない関係性の是非をその口から聞いてみるだけの勇気を、彼は絞り出せていない。まだ。

……口を切ると危ないだろう。俺の牙はお前のよりもずっと鋭いし、お前の皮膚は頑丈だが、口蓋内の部分の粘膜は常人と変わらないからな」
「えー。ほんと?」
「さわってみるといい。ほら」

 あ、と口をあけてみせると、荒びた指の背でもって、白く粒だった歯の先にふれる。なぞるように、そうっと、おそるおそるとしたしぐさ。こういうときの彼は近頃、ぐるぐると、かってに喉が鳴る。たとえば、いままで毛並みをくすぐられることを知らなかった狼のように。せかすように、ゆるく歯に力をこめてやる――

「わ、」

 と一度、おおきな肩がはねた。それから、「わぁ」と感心したような声を出し、

――ほんとう!」

 くすくすと、互いのあいだにひそやかな笑い声がたつ。たとえば葉擦れのささめきのように。

「そう。だから動くな。そのほうが安全だ」

 そう言い聞かせて、こつんと額と額をあわせる。それはふたりのあいだでは、いつしかすっかり習慣化された夜のあいさつだ。かれらはそれを時折する。枕をわけあった寝台のうえで、子守歌や絵本のような、入眠の儀式として。或いは、そう、たとえば、――たとえば、もっとべつのなにかが必要なときに。片方にとっては名もしれぬそれを埋めあわせるように、いつからか互いに、髪や角や耳、或いは背や腕の傷、動きの鈍い左半身のひきつれをそっと撫であう。いたわりをこめて、てのひらや指さきや足の重みでふれあい、ときに口の粘膜のやわらかい部分をすりあわせ、ときには甘噛みをする――彼にとってそれは、後ろ暗い、甘く重くしびれるような感覚だった。

「うん、わかった。あんぜん、だいじ……ネハンも、どうぞ」

 あ、と。

 ムゲンが口を開けてみせるのは、ネハンが今しがたしてみせた安全確認の、ただの真似ごとであり、なんの意味もない――だから、けっしてなんらかの意味を見出してはいけないのだ。ネハンは、そう堅く信じて疑わない。
 そう思いながらも、彼は目を離せないでいる。かれの歯は、エルーン族のような、噛み切るための牙ではない。しかしながら頑丈そうな顎の人中、うす桃いろの健康的な歯肉、それらは彼をそわついた、落ち着かない気分にさせる。全体的に草食のけだものめいた口腔と、その喉奥から内臓に落ちていく仄暗さ――あまりの無防備さに、喉が渇く。

―――………

 彼は見様見真似のムゲンとは違い、つとめて落ち着いた、冷静な医者めいた手つきで、ゆっくりとその歯列をなぞる。巨躯がその刺激にびくりとはねようとして、次の瞬間にはその膝上に乗っている体勢である彼を振り落とさないためにぎゅっと力をこめ、痙攣に似た動作に収斂した。口を閉じようとしてすぼまった口唇から、そっと指を引き抜く。かれはその口でもって、ほうっ――と長い息を吐く。

……どう? ネハン、だいじょぶだった?」
「ああ」

 お前が楽しければいいと思う。
 みじかく吐いたこの息に籠もったこの熱に――肉の芯に息づく重く湿ったこの熱に、気づかれなければいいのだが。

「そっか。よかった! ムゲン、あいさつつづき、したい。ネハンよい?」

 ぎゅっと力強く、しかし、けっして苦しくはない。異形の腕のそんな抱擁のさなかにも、かれがむじゃきな響きで『つづき』と呼ぶ、軽いくちづけが降ってくる。頬、鼻先、髪、獣の耳の先端。それはたとえば、花降る夜の甍に積もる花弁のように、絶え間なく降り注ぐ。その間から、彼は諦めに似た吐息とともに囁いた。静かに散り落ちつづける花の斑に足踏み入れることをためらう人の吐息だった。人並み外れた大きさの指の隙間をすりぬけて、痩せたてのひらで頬を撫でる。その指は、わずかに濡れていた。

……お前が楽しいなら、そうするとしようか」

 ――お前が楽しければいいと思う。

 そしてそうならば、そうであってくれるなら、この熱もこの甘やかさも、俺はきっと、何ひとつつらくはないんだ。

 ことさら頑丈なドラフのためのサイズのマットレスで、身を傾け寄せると、かれの輪郭に自分自身の影が落ちる。その体重の移動に、スプリングがぎしりと軋む。つね明晰であることを意識する獣の耳もつエルーンの頭の中には若い血潮がのぼり、それは、甘く暖かく湿ったなにかが溜まるような心地がする。
 くちづけの続きをするためにうすく開いた口腔で、牙のつけねがしくしくと疼いた。

◇◇◇

 ちくん、と舌の先を痛みがかすめていった。

 口と口でのあいさつと、そのあいさつの続きの長さ――ムゲンはそれをふしぎと思ったことがない。白い粒立った歯の先がつとかれの肉に埋め込まれ、はっとしたように身を引いたそのときに生まれるその摩擦からこそ、その痛みが生まれるということも知っている。
 夜と夜のはざまで、誰かとこういう時を過ごすというのがどういう意味なのか。それについては、まだ知らない。かれに対して語られてはいない。
 だから、かれはただ、とどめをさされるのを待つ獣のように静かにしているのだ。
 およそ獣と呼ばれるものは、弱肉強食の頂点に近い場所にいるものほど断末魔の悲鳴を挙げるという挙措をしない。だからかれも、自分自身の挙げる悲鳴に対して助けがあるということを、ことに彼の手以外がもたらす助けがあるということを、いまだ芯に近いところでは深く理解し切れずにいる。
 それに、彼に施されていることが悲鳴を挙げるほどのことでもない、というのも規格外の肉体をもつかれにとってはほんとうだ――
 臆病な牙の刻む痛みはかすかに表面をひっかく程度で、そしてそれはかれにとって殆ど心地いいと言える範囲内の刺激だ。たとえば小鳥が世話を焼いてついばむ鰐の背中のように、かれ自身のからだはとても頑丈に出来ている。よいことだと思う。この若いエルーンがひそかに気にかけ、そして気に病んでいるように、傷つく必要がない。
 臆病な彼の牙は、もしかしたら彼じしんよりも正直だ。
 鋭く、白く、すこし反りを帯びて頑丈なそれは、かれの好きな部分のひとつだ――この若いエルーンの生来の美点を巨躯のドラフはほかにいくつでも指折り数えてあげられるけれど、これは、まだ言ったことがない。誰にも。ネハン自身にも。すこしむずむずとして、すこしうつむいて、それから、いちばん最初に彼にこそ告げてあげたいと思っている類いの事柄だからだ――最近はどんどんこういうもの思いの数が増えていって、ことばにすることもまだじょうずにできなくて、いつか自分じしんのからだがはち切れてしまいやしないかと不安になることもある。ひとより大きなからだをしていてよかったと思う。大きいぶん、ネハンにきちんと教えてあげられるようになるまで、めいっぱいことばを溜めておくこともできるだろう。多分。おそらく。
 かわりに、眼前で萎れた花弁のように下向きになっている耳の先にふれる。それから頬、髪、鼻先に。複雑な理解と発音を要する言葉の準備運動に。ことばを発する以外にも、口には、このようなこともできる。ぴんと立つ毛先と、生来の白皙の底を赤らめる血潮が、次第に耳奥のうすい桃色を仄かに濃くした。
 あいさつと、これをずっと呼んできた。或いは、その続きと。
 最近は、これにはちがう名前があるのかもと思うことがある――苦笑のような吐息を吐き、片方のまぶたをしばたたく瞳の色をのぞくときには、特に。

……お前が楽しいなら、そうするとしようか」

 ぎこちなく、彼の片手が伸びる。しびれがある手と違って、動きの不自由はないはずなのに。それでも、ムゲンは、いまはそれで構わない。執拗に閉ざしたままのくちびるは、その白い牙とともに、ことことばでないあいさつに限って雄弁だ。とどめをさされるのを静かに待つ獣の所作で、かれはその巨躯をうしろに倒しながら、そっと異形の腕を彼の不自由なほうの手に添える。

 待っているのだ。

 たとえば或るひとつの高波が頂点に達し、崩れ落ちて頭上に打ち寄せてくるように。その瞬間は必ず訪れるだろう。世界に満ちあふれる無数の神秘と不可思議に目を見張る童子の目で、かれはそれを見るだろう。あたたかい季節の雨に打たれながらしぜん歌い出すように、歓喜に溢れているだろう。それをこうして、互いに手を握り合いながらともに待つことができるというのは、かれにとって喜びだった。彼にとってもそうであればいいのだが。ほんとうに、そうであればいいのだが。

◇◇◇

 そうやって、白い牙はふたたび静かに肉に沈められていく。
 祈るように。