薙屋のと
2024-05-02 11:24:43
2132文字
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寓話◆Rotkäppchen

付き合ってないカブ→←ミス
 昔読んだ絵本の一小節だけを思い出す





おばあちゃんのお耳はどうしてそんなに大きいの?

それはね、お前の声がよく聞こえるようにだよ

おばあちゃんのお目目はどうしてそんなに大きいの?

それはね、お前のかわいいお顔をよく見るためさ





「ミスルンさん」
 名前を呼ばれて振り向くと、そこにはカブルーが立っていた。何の用かと首を傾げると「ライオスのところに行くんですよね、ご一緒してもいいですか?」と言うのでうんと頷いた。メリニ城の長い石畳を、革靴の底が叩く音が並ぶ――ああ、まただ。とミスルンは思った。
 このトールマンの男は自分の隣にくる時、大体右側に立とうとする。恐らくミスルンの視界が欠けている事を気にして、気を回しているのだろう。別に構わないというのに、律儀で世話焼きな男だと思う。そもそもミスルンには、右目が欠けている事をやや不便だと思う感情はあってもそれを補助して欲しいだとか――あるいは、元のように見えるようになれば良いのにだとか。そういった欲求がない。失った銀の瞳も、ぴんと尖った両の耳も、悪魔の腹の中に収まってしまったそれらは治療したところで戻ってこなかった。それを惜しむ欲求は彼の中に無い。
「それでですね、トシローから届いた手紙を見たライオスがはしゃいじゃって……
 右上から降ってくる言葉に、無意識に耳がぴょこりと揺れる。本来の長さの半分ほどになった耳は髪の中に隠れているので、それが相手に見えることはない。時折トールマンの女性と間違われる事があるが、原因はエルフ特有の長い耳が無いからだとミスルンは予測している。他種族からするとエルフは大体小柄で華奢で男女の見分けが付き難いらしく、ミスルンが喋ると大体相手は少し驚いた顔をする。隣のカブルー曰く、女性だと思って話しかけて男性の声が返ってくるからだそうだ。他の種族からどう見えていようとミスルンは極々普通の一般男性なので、声が低くて吃驚すると言われても首を傾げる他ない。トールマンやドワーフにも声変わりはあるだろう、そう返せば隣の男は「そうですね」と笑っていた。
「そうだ、城下にエルフの焼き菓子を出す店ができたんですよ。俺はエルフのケーキはあんまり好きじゃないんですけど、そこの木の実がたっぷりのクッキーは結構美味しくて……
 ミスルンと違って、カブルーの声はやや高めだ。少年のようなあどけなさの残る声なのに、話術が巧みで耳触りが良く、他人に話を聞かせるのが巧い。彼はトールマンとしてはとっくに成人している年齢で、体格も自分達よりずっと良いが、ミルシリルがいつまでも子ども扱いするのも分かる気がする。形の良い大きな青い瞳に、褐色の肌と黒い巻き毛、ふっくらとハリのある頬と、少年のような声。もしかしたら彼には声変わりの期間が無かったのかもしれない。ふと、遥か遠い記憶が思い起こされた。
 遠い遠い昔、まだミスルンが物心つくかどうかの幼い頃、兄が何度も読み聞かせてくれた絵本。舌ったらずな幼い声で紡がれる、その一節。
 ぴたり。不意に足を止めたミスルンに遅れて反応したカブルーが二歩ほど先に進むが、彼が歩みを止める前に再び歩き出して隣に並ぶ。先程より視界に映るようになった顔が、ミスルンの左側から覗き込んでくる。
「っと、どうかしましたか?」
「右に立たれると、顔が見えない」
 少し上を向き目を合わせてそう答えると、青い瞳が不思議そうに瞬いた。やはりこの方がよく見える。ミスルンは満足した。
「顔が見える方が良かったんですか?」
「うん」
 ミスルンの返事に、カブルーが何かを堪えるように口元を抑えた。見える方が良いと言ったのに、そうされては顔が見えない。少しむっとした気持ちになったが、それに気付いたらしいカブルーがぱ、と手を離した。何やら嬉しそうな顔をするので、今度はミスルンの方が首を傾げた。
「俺も、こっち側の方がミスルンさんの表情がよく見えて良いです」
「? そうか」
 耳触りの良い声が「今度の夜は何を食べに行きましょうか、最近ワ島の交易品も増えたので港の方に行ってみるのはどうですか」と言うので「うん」と答える。コツコツと石畳を叩く二人分の靴音と、楽しそうな声。途切れることのないその声は、まるで上手な歌のようにミスルンの耳を擽り通り抜けていく。
 耳介の役目は、周りの音を耳に届けることだと言う。ミスルンの半分しか残っていない耳でもそれはちゃんと機能していて、特別聞こえ辛い、不便だと思ったことはなかった。それでも。ミスルンはふと思った。
 この両耳が欠けて居なければ、この声は違う響きに聴こえたのだろうか。
 この右目が失われていなければ、彼の顔はもっと良く見えたのだろうか。
 悪魔に食われて、もう半世紀程になる。
 ミスルンの失った銀の瞳も、ぴんと尖った両の耳も、悪魔の腹の中に収まってしまったそれらは治療したところで戻ってこなかった。それを惜しむ欲求はなかった――今までは。
 今でも、そこに詰まっていた虚栄心や尊厳を取り戻したいとは大して思わない。その欲求はない。
 そうではなく、単純に機能として。

 ミスルンはこの半世紀で初めて、失われた右目と両耳がここにあればと思った。