薙屋のと
2024-05-02 11:09:40
4316文字
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差し出された手のひらの温度の話。

三途の川の向こうで手招きされているタイプの話
+にょろにょろ蛇足。

 気が付くと、どこまでも続く広い広い草原に立っていた。
 ミスルンは直感的にこれは夢だと理解した。
 草原は地平線の先まで続いていて、ゆるやかで心地良い風が青々とした草を撫でさらさらと波の音を立てている。空は綺麗なセレストブルーで、遥か上空に白い雲が幾つか浮かんでいるのが見えた。天上の青、あれが話に聞く天国とするならば、どうやら届きそうもない。歩き出す事も、あるいは座り込む事もせず、ミスルンはその場にただ立っていた。
「やあ、ミスルン」
 いつまでそうしていたかわからないが、自分の名を呼ぶ声にミスルンは振り向いた。
 初めて聞くような、遠く昔に聞いたような、不思議な声。金色の豊かな鬣、立派な角、大きな翼、複数の目――翼獅子――悪魔が、そこにいた。
 少し前のミスルンであれば、その姿を目にした瞬間に苛烈な感情の渦に飲み込まれ、有無を言わさず襲いかかっていただろう。
 かつての自分から欲求を、両耳を、片方の瞳を奪った悪魔――それを殺す為だけに、這いずり生きていたつもりだった。だが今のミスルンの心は不思議と凪いでいて、その姿を認めても、以前のような激情は抱くことができなかった。
……ヤギではなく翼獅子か」
「おや、あちらの私の方が好みだったか?」
「ヤギの首はまだ落としていなかった」
「相変わらず物騒だな」
 前脚で口元を撫で、大きな猫がころころと笑った。金色の鬣が風に揺られ、まるで稲穂のようだった。メリニの民が塩の土を蘇らせ心血を注いで作り上げた、豊かな秋の光景。
「私は死んだのか」
 なんとなく、そう思った。それでも良いと思った。
「いいや? だがちょうど、その間といったところかな」
 だから、と獣が両腕を広げる。そしていかにも芝居臭い、仰々しい仕草と穏やかな声で「迎えにきたんだ」と言った。
「悪魔の次は死神に転職か」
「お前はいつでも失礼だな。最初に会った頃は可愛げもあったのに」
「そんなものはとっくにお前の腹の中だ」
 こんな三流詐欺師に騙されるとは、当時の私は随分純情で素直だったらしい。そう言い返すと悪魔はまたころころと笑った。何がそんなにおかしいのか。
「今の私はただ世界を揺蕩う塵の一つに過ぎない。人の欲望を叶える喜びも、それを食べる楽しみも、全てあの男に食い尽くされてしまった。もはや私自身に望みも何もない――……だが、かつての私の唯一の心残り、それがお前だ。ミスルン」
 獣の右腕が差し出される。黄金の毛並みに包まれた、ヒトのような五本指を生やした歪な手の平が、ミスルンの前で待っていた。
「私のとっておきの最後の一口。長い間待たせてすまなかった。あの男に邪魔をされたばかりに、またしても食べ損ねてしまった」
 『後でいくらでもお前の望みは叶えてやる』そう、言っただろう。
 悪魔が目を細めて笑う。それは甘い毒のような響きを持ってミスルンの鼓膜を揺らした。
「今の私はもう空腹をおぼえることは無いが――おいで、ミスルン。さいごに、君の欲しいものをあげよう」
 悪魔が、憎かった。
 望むものを望むだけ与えて、偽りの幸せを植え付けて、育てて、それらを全部食われて放り出された。
 残されたものは腹の中で渦巻くどす黒い激情だけで、それはあまりの深さに底が見えない、憎しみだと錯覚するほどだった。
 突き動かす衝動だけが自身をどうにか生かしていた。
 それなのに。
 世界ごと悪魔に食われた時のことを思い返す。それはとても心地の良い――心地の良すぎる夢だった。
 優しくてあたたかなものに包まれて、全てが満たされていた。かつて自身が作り上げた、あの迷宮のように。
 そうだ、私はあそこにかえりたかった。だから、放り出されてゆるせなかった。
 再び吐き出された時、そのことに気付いた。
 私はただ、完食されたかった。
 残された「私」は不味くてとても食べられたもので無いなど、認められなかった。
 この手をとれば、再びあのあたたかな場所にいけるのだ。
 そうすれば、私はもう残飯でも野菜屑でもない。この心に空いた穴も満たされるのだろう。
 ただ、この手を取ればいい。それだけで、
「いらない」
 目の前に差し出された手を払う。ぱしっと小気味の良い音がして、目の前の獣の複眼が全て丸く見開かれた。まるで断られるなどと思っていなかったというのだろうか。それはそうかもしれない。この口が上手い悪魔に囁かれて、その手を取らなかったものなど存在しない。いつだって人間は甘美な誘いに弱く、その先にあるのは破滅の道しかないというのに慢心する。自分だけは大丈夫だと、この強大な力を上手く扱ってみせると、かつての自分がそうだったように。
「おかしいな。君はまだその欲求を持っているんだろう?」
「うん」
 悪魔に対する執着は失っていない。それはつまり、自分にはまだ完食されたいという願いに未練がある。
 自分は皿に食べ残された残飯、若しくは萎びた野菜屑だ。
 かつての私はそれを認められず、自分の価値を取り戻したかった。
 今の私はどうだろう、相変わらず芯に穴が空いたままであるし、欲求が取り戻せたとは思わない。自分の世話一つろくにできないままだ。
 それでも、
「野菜屑であっても、水を与える奇特な者たちがいる」
 だからもう、お前は望まない。
 そう言って、ミスルンは笑ってやった。清々しい気分だった。
「ふぅん? まあ、お前がそういうなら構わない。今のは私にはもう、どうでも良いことだからね」
 獣の前脚が、ある一方を指し示した。ミスルンがそちらの方を振り向くと、何故か強烈にそちらに向かって歩かねばならないという欲求に駆られた。足が自然とそちらを向き、歩き出そうとする。私は、まだ歩くことを望んでいる。「行くといい」後ろから翼獅子の声がした。

 ミスルンは振り返らなかった。




 ◆◆◆



……ッ隊長! ミスルン隊長! ああ、良かった」
「全くあなたは……! どれだけ心配させたら気が済むんですか」
 目を覚ますと二対の瞳がミスルンの顔を覗き込んでいた。水の膜に覆われた青い瞳はさっきまで見ていた夢の空とは違う色だ。生きた人間の色。
 顔を真っ赤にして今にも泣き出しそうな顔のパッタドルと、眉根を下げてほっと胸を撫で下ろしているカブルーの二人。ミスルンは何度か瞬きをして、辺りを見回そうとしたが失敗した。手足どころか首を動かすのも酷く怠い。末端の感覚は存在しているので、どうやら五体満足ではあるようだ。
 二人の間から僅かに見える、石造の壁と木の柱。ミスルンはこの部屋に見覚えがあった。メリニ城の地下、王の妹を蘇生した部屋だ。さすがにもう魂を肉体に縛り付ける呪いは霧散しているが、この城が迷宮であった頃の深部にあたるこの場所は特別濃い魔力を残している。
「まだ意識が少し混濁しているみたいだけど、問題はなさそう」
「良かったー!」
 ミスルンからは姿が見えないが、すぐそばでファリンとマルシルの声が聞こえた。昏睡していたらしい自分を治療したのは彼女たちなのだろう。意識ははっきりとある気がするが、何せ身体中が重たい。
「酷い出血だったんですよ。よく生きてましたね」
 なるほど、この身体の重さは貧血状態か。身体を清めて着替えまで済まされているらしく、血の匂いも感触もしなかったが、カブルーの言う通り相当の血液を失っているらしい。
「あなたのおかげであのハーフフットの女の子は無事でした。本当は無茶を怒りたいところですが……ありがとうございます、大事な国民を救ってくれて」
 城下の大通りでの事故だった。
 この国の王は魔物が好き。そんな真から出た噂を聞きつけた他国の商人が、荷物を偽って小型の竜種を荷馬車に詰めて運んでいたらしい。何を馬鹿な事を、と思うが欲に目の眩んだ人間は大体己を過信し目測を誤る。案の定催眠と拘束の魔術が切れ、檻を壊した魔物が暴れ出し――そこに偶然居合わせたのが、自然迷宮の探索から戻り、城へ報告に向かう途中のミスルンだった。
 小型とはいえ竜種だ、この国では王に掛かった呪いのおかげで、街中まで魔物が侵入してくることはない。突然現れた魔物と、逃げ惑う人々、倒壊する露店。人の多さに思う通りに転移術が使えず苦戦したが、何とか隙を見つけトドメを刺そうとしたその時――竜の足元に、蹲って怯えるハーフフットの子どもを見つけた。
 咄嗟に転移術で子どもの真横に飛び、抱えたところで竜の一撃を受け、大きく吹っ飛ばされた。鉤爪が肩を大きく抉り、激痛の中で近くにあった瓦礫を掴み竜の首に転移させたところまでは覚えている。首と胴体が露店の屋根と思しき板によって分断され、ゆっくりと倒れ落ちる竜の姿を最後に、意識を失った。
……どうやら死に損なったらしいな」
「ちょっと。そんな言い方しないでくださいよ、こっちがどれだけ焦ったと思っているんですか」
 大変だったんですよ、と眉が吊り上がる。カブルーが次の言葉を紡ぐ前に、パッタドルの連絡用妖精がくるくるとミスルンの周りを舞いだして、やがてぱかりと口を開いた。
『よぉ隊長! お目覚めの気分はどうだ!』『お前もう少しまともな言い方はないのか』『隊長、蘇生術もないのに無茶しちゃ駄目ですよ』『ご無事で良かったです』表情がくるくると変わって、たくさんの声が同時に流れる。本国で服役中の元一班のメンバーの声だ。「呼びかける声は一人でも多い方が良いかと思って繋いでもらったんですよ」とカブルーが笑った。妖精はこちらが聞いていようと聞いていまいとお構いなしに喋り続けている。賑やかだ、と思った。
 不意に胃の辺りに違和感を覚える、腹がきゅぅと音を立てた。
……腹が鳴ったな」
「治療術はカロリーを消費しますからね」
 ファリンとマルシルが食事を持ってくると部屋を出ていった。連絡妖精が肉を食えだのいや消化に良いものにしろだのと騒いでいる。
『隊長、ご飯はちゃんと食べてくださいね』
これはシスヒスの声だ。「うん」と返事をすると向こうで笑う声がした。
「隊長、起き上がれますか?」
「食事の前に水を飲みましょう」
 両サイドから同時に伸ばされた二つの手のひらに、差し出した本人達が目を合わせて気まずそうにする。
 その様子が無性におかしくて、ミスルンはくすくすと笑った。幸い腕は目や耳と違って欠けておらず、ちょうど二本ある。
……お前たちは、悪魔より口が上手いな」
「「えっ?」」
 取った手はどちらもミスルンより体温が高く、あたたかかった。