氷紀
2024-04-10 02:53:12
4700文字
Public とある息子たちの話
 

とある放蕩息子の独白

ゲ謎派生パラレルワールドの〓×6期の👹 『とある~』シリーズの続き。過去への未練と面影。

 薄闇の中に浮かぶ白い手に、傷跡はない。
 声を堪えようとして噛んだ痛みは覚えていて、そいつににじむ血を舐めとられたことも記憶に新しいのに、まるでそんなことなどなかったように、僕の手は白い肌を取り戻している。
 傷跡なんか一つも残っていない――お義父さんの、あの体と違って。
 かつて砕かれた左足にさえ、もう、何の痕跡もない。どれだけ深い痛みを負っても、体は勝手に治ってしまう。その事実が突き付けてくるのは、僕がどう足掻いても人間ではないということ。

 夜の街を彷徨っていて、何度か暴力沙汰に巻き込まれたことはある。それに、行きずりの情事に暴力を持ち込む奴も多かった、というか好きこのんで僕を相手にしようという男のうち、七割くらいはそういう手合いだった気がする。だから相応の目に遭ってきたけど、噛みつかれても叩かれても、縛り上げられて殴られても、手ひどく内臓を抉られても、今の僕の体には何も残っていない。
 何も。
 物理的な痛みの記憶と、時々あった酷い快楽の記憶は、混ざり合ってぼんやりとした塊になっているだけだ。人間だったらどこかで死んで終わっていただろう。でも僕はまだ生きている。生きのびて、しまっている。
 こんなのはいつか死ぬまでの暇つぶし、と何人目だったかの男が言っていたのを思い出す。もう顔も名前も覚えてないけど、その言葉だけは。
 僕だっていつかは死ぬんだろう、でも――もって百年少々の人間と違って、幽霊族の命の時間は、もっとずっと長い。
 もう随分昔の記憶だけれど、幽霊族の寿命について父さんに聞いたことがある。幽霊族にとって天寿と呼べる年がどれくらいなのかは、父さんも知らなかった。父さんの記憶にある同胞は皆、殺されるか行方不明になり、多くは哭倉村に捕らえられて殺され、父さん自身も独りで彷徨っていたから、天寿を全うできた同族というのを知らないのだそうだ。

 ただ、ひとつだけ確実なことがある。
 少なくとも頭を砕かれただけでは、僕の魂は消えないのだということ。
 今腕の中で眠っている、そいつの記憶が教えてくれた。

 この魂に終わりがあるのだとすれば、それは全てを手放したくなったとき、だろう。今まで生きてきた記憶にも、この先に待ち受ける時間にも、何の願いも未練も抱けなくなったそのときが、幽霊族の魂の『終わり』なんだという気がする。だから、あのとき髪から伝わってきたそいつの絶望感は、もうほとんど死そのものと言っていいだろう。
 それでも、たった一つだけ残った『人間への希望』がそいつを駆り立てたことも、同時に髪から伝わってきた。その一番底にあったのは、お義父さんの記憶で間違いない。だから、その希望を捨てれば楽になるだろうと言われても――それは、死んだら楽になるだろう、というのと同じこと。

 どんなに痛くても、辛くても、この命ある限り捨てられない。
 『鬼太郎』以外には絶対に分からないこと。

 腕の中で眠る体の、半端に青い服がまとわりついたちいさな背中。
 まだ伸びっぱなしの髪をそっと避けて、脱げかけだった服を直してやっても、寝息の速度は変わらない。ひと束だけ絡めた髪から伝わってくるのも、今は静かな眠りの気配だけだ。
 布越しに背中を撫でてやれば、奧の方で張り詰めていた力がすっかり抜けて、緩んでいるのが分かる。背中の肩甲骨から背骨のあたり、首筋も、肩も、触れれば分かる――何日か前までずっと、そいつの体は無意識に、心臓を守るように力を入れていたんだと、緩んではじめて気がついた。
 力の抜けた体と、深く静かな寝息。
 深く焼き付いてしまった痛みと絶望の記憶から、少しだけでも離してやれた証だと思っていいだろうか。抱きしめて、力を分けて、体を暴いて欲望の熱を教えて、今やっとそいつは深く眠っている。
「良かった……のかナ」
 囁くように呟いても、そいつの寝息は静かなままだ。
 そういう状態に持っていくまでの手段に、多大な問題がある気はしたけれど、どれだけ考えてもやっぱり、僕には他の方法が浮かばない。そいつの中に刻み込まれた絶望は、声や言葉や優しいふれあいだけで溶かしてしまえるような、生半可なものではなかった。
 だからといって、妖力を注ぐ感覚と、体から引き出せる即物的な快感を故意に混ぜた、劇薬のような快楽を教えてしまったのは……それも、あんな形でやりかえされるくらいに教え込んでしまったのは、さすがにマズい気が、という認識は一応ある。もしこんなことをしてるって、お義父さんが知ったとしたら、怒鳴られる程度じゃ済まないだろう。
 ……でも。

 真っ当な良い子を貫いて、まともに眠れもしないまま世界の全部に絶望するよりは、この方がいくらかマシなんじゃないか。僕にとっても、こいつにとっても。

 髪を繋いだまま目を閉じる。
 無意識の力が緩んでほどけているそいつの体と同じくらいに、僕の心もほどけてしまっていた。転がり込んできたそいつを僕が助けた形ではあるけど、それ以上に、僕の心が何か救われている気がする。
 僕独りでも、他の誰がいたとしても絶対に届かなかった、心の深いところに沈んでいた痛みに、やっと手が届いた。同じくらいの傷を負ったそいつが、引っ張ってくれたから。お互いの『一番求めているモノ』でないことは分かっていながら、それでもそいつは帰り道の雷雨に背を向けて、僕を抱きしめ返してくれたから。

 痛みが消えることはなくても、触れあって慰めることはできる。
 傷のなめ合いと言ったらそれまでだけど、この痛みが分かるのは『鬼太郎』しかいない。たった独りで耐えるのと、少なくとももうひとり、確実に分かってくれる奴がいるのとでは――違うんだ。
……ありがとナ、鬼太郎」
 僕がそう呼びかける相手は、腕の中のそいつだけだ。