takisaka
2024-03-30 19:57:46
3507文字
Public ネハムゲ
 

永遠の椅子

IF演算世界の試行回数すごい最初あたりのネハムゲ(概念)

 ああ、あるべきものがあるべきところにあることは素晴らしい。
 願わくば、この軌道もそのように。

◇◇◇

 彼は、たとえば、椅子に凭れているようにも見えた。

 ありとあらゆるものがくずれ去った廃墟であるところで育ったかれは、椅子という概念をさえよく理解しないのだったが。朽ちた木材、腐り落ちた布地、そのなかに点々と転がる遺骸――文化というものも文明というものも、ここにはその概念自体が存在しない。
 鉄火のにおいをまとって飛来する、個人用の小型艇――そのたぐい自体は、野生を生きるかれの生活のなかにも時折あらわれる。上空から激しい火線を吐き、魔物の群やかれを森や草原から追い立てる。脅威であることはきちんと理解していたものの、それが密猟という行為であること、とらえられた個体が競売にかけられてゆくこと、その行く先が魔物使いの饐えた塒、見世物小屋、或いは多くの島で法に触れる実験所……そういう場所であることは、かれの知識の外にしか存在しない。この滅び果てた島とそこを囲む空ばかりが、かれの世界だ。この世界でただひとり獣として生き、獣として死ぬだろう。
 そんな日々のさなか、草原から仰ぐ空の黒点として、かれはそれを目にしたのだ。蒼い空のさなかに目立つ、その異物。大ぶりの目が見開かれた先で、小型艇の翼端は炎を纏っており、機関部は黒煙を吐いていた。かろうじて平衡を保っていた飛行が、やがてさだめられた軌道に耐え切れず、きりきりと回転と落下を始める。そして轟音。森の枝々から、幾羽もの小鳥が飛び立った。

◇◇◇

 危険なものであることを理解しているからこそ、かれは慎重にあゆみ寄った――
 艇というものはときにかれがいつも相手どる大型の魔物と同じような大きさであったし、魔物のように火炎を吐くこともある。密猟のために近づく艇は、そう学んだかれが育つにつれ、巨躯の異形のてのひらがむんずと掴んだ石くれにその多くが撃ち落とされていった。ゆえにこの時代、この空域で、この島を含む一帯は魔の航路という名を持ちつつあるのだが。
 季節は冬だ。かれは、冬という名前を知らないが。
 立ち枯れた草色がたなびく野面、そこを歩むかれは、あしもとにほつほつと灯る炎の色に大ぶりの目を瞠る。墜落時の衝撃がもたらした炎は埋み火のようにしぶとく、しかしもうすでに燃え尽きつつあった。罅割れたキャノピーは蜘蛛の巣のようでそのむこうは視認できなかった。艇を閉ざすくろがねの扉を、かれは無造作に掴む。熱と摩擦を浴びてもろくなっていた鋼材は、その人並み外れた膂力の下、あっさりと外れた。

……お前が、俺の運命か? それとも、俺が、お前の、運命なのか?」

 運命。
 かれはそのことばにぱちりと瞬きをする。獣のように。獣が興味と親愛を示すときと同じに。
 そしてぐったりと背もたれに身を倒し、彼はそこに深遠めいた銃口を構えている。深い蜘蛛の巣の罅のむこう、たとえば、誰にも意図しがたい運命のむこうに。
 そして一瞬のためらいもなく引かれた引き金が、獣めいた巨躯のドラフを仕留めるために撃鉄を鳴らした。

◇◇◇

 結論から言えば、弾丸はすでに尽きていて、彼はすでに瀕死だ――

 若いエルーンは、一瞬だけはたりと耳を揺らした――死に至るための長いながい苦痛を散らすための彼の手になる薬の薬効はすでに尽きようとしていて、そしてなにもかもがもうすべて手遅れだ。そういったことが、この長い単独での飛行と墜落のあと、彼にはいま、ようやくすべて腑に落ちた気がする。彼の内臓は小型艇に乗り込む前に受けた弾丸で傷つき、彼の背骨はすでに墜落時の衝撃で砕けていて、彼に残されていたのはたったひとつ、先程不発に終わった引き金を引くための指先の力だけだ。長い旅路だった。或いは、たとえば短い人生と、ひとはそう言うのかも知れないが。

……なんだ。誰だ、お前は?」

 人生の最後に投げかけるには、あまりにもありふれた言葉だった。それでも彼は何度か瞬きし、曇り空めいた瞳を眇めて自身の人生の最期に訪れた相手を見る――末期に至るその蒼色に、かすかに光が射した。

……ダレ。だれ――?」

 そうしてかれは、大ぶりの瞳を瞬きし、口の中でそう繰り返す――たとえば、新鮮な、はじめての水の飛沫に触れたひとのように。生まれてはじめてふれた音の響き、そしてそれを繰り返す事自体に、かれは怯えた。はじめての未知に接する、あらゆる獣と同じに。

――いや。誰でもいい。たとえば弾丸が離れたところに辿り着くように、あるべきものがあるべきところにあることは素晴らしい。それこそが運命の軌道であり意味なのだから。お前、なあ、お前はどう思う?」
「いみ。い――み? う、んめい?」

 とまどいとともに、かれは耳についたいくつかのことばを繰り返そうとする。ふふ、と、彼は笑った――故郷の森のそよぎのような、蓮咲く沼の水面を撫でるような、暗い無常の風のような声音だった。

「お前が俺の運命ならば、そうならば、少なくとも俺は、そう、……ひとりで死ぬのではないのだな――それは、こんな身の上にしては、ああ、ほんとうに、ずいぶん上等だ……

 困ったように、かれは手にしたままだった鋼の扉のかけらを投げ捨てた。冬のわずかな陽射しが白皙のおもてに射し、彼はすでに明度と輪郭を失いかけているうす青い瞳を瞬いた。強い獣のにおいがした。

「お前、俺を食いたいか?」

 彼の意識はすでに死の末期の譫妄に辿り着きつつある。その思いつきは、そう、きっとそう悪くはない末路だ。滅びた一族の末裔であるこの血肉が、何処にも辿り着けぬまま、どこかに朽ちていくだけよりも、ずっと。まだわずかに動く手が、眼前の巨大な輪郭の頬のあたりを撫でる。骨のように痩せた手だった。

………………

 ふう、と巨大な肺の鞴から吐き出される息の音が、彼の獣の耳に届く。
 今まで数十年と触れる機会がなかった、そんな遠く離れた人の世界の言葉の意味をかれは理解しない――それでも、頬を、それから鬣めいた髪を撫でられるのは心地よかった。
 答えるべきことばを、かれは知らない。まだ、誰にも教えられたことがない。
 痩せた手は、そのままゆっくりと、繰り返しかれを撫でていた。かれがその生のうちで、いままで知ることのできなかった慰撫だった。くう、と仔犬めいた吐息がしぜんと洩れた。
 ほんのわずかな時間だった。陽射しが傾き、白皙のおもてに落ちるひかりが翳るころ――その時点で指の動きは止まり、手はだらりと垂れ、若いエルーンの呼吸はもう止まっていた。

◇◇◇

 ふれていた手の皮膚からぬくもりと弾力がすっかりと失せていくのを感じ、かれはずっとごく低く伏せていた身体を起こす。
 それから、死体を載せたままの小型艇のまわりを歩いて回った。なぜかその場所から離れがたかった。その理由を教える誰かは、もうこの世界にいない。
 扉の壊れた艇、その操縦席には、となりに空席がある――視界の補助、操縦の補佐、空図読み、或いは救難信号を出すための助手を乗せるための席だ。
 その席の意味を、しかし、かれはこれから先、ずっと知らない。

 かれはしばらく考え、やがて巨躯をできるかぎりちいさく屈め、扉を綺麗にもぎとった入り口から入り込むことを思いついた。
 それはなかなかいい塩梅だった――思い切りちぢこめた丸太のような脚は操縦席の下に入りきらず、ほんのすこし動いた拍子に、螺子のはじけた計器類はただの鉄くずとなって永遠に沈黙した。
 人並み外れた体重に、その席を支える金具はぎしりと軋む。それでも空を渡るために頑丈につくられた艇の外郭は、けっきょく崩壊することはなかった。かれは朴訥な顔だちを綻ばせ、にっこりとする。誰も目にすることのない、それでも頑是無い赤子のような、無垢な笑みだった。

 窮屈で、身動きひとつすることもままならない椅子だが、それでもなかなか悪くなかった――そのとなりで、若いエルーンの死体は睫を閉ざしたまま、もうずっと動くことはない。時間の経過に従い死後硬直から緩み始めた肉、そしてそのまぶたの片隅からは、涙のような体液がこぼれはじめている。やがて、甘やかな腐臭がこの鋼の棺を満たすことだろう。
 そのかたわらで、この獣はその概念すら知らない自分自身の年齢を永遠に凍結するだろう。
 となりどうしで、この椅子の意味は、もうこの小さな世界以外の誰にも知られることはないだろう。しかし、この椅子そのものは永遠だ。