柳堂知羽@一次創作
2024-03-19 14:26:59
2529文字
Public ⬛︎少女たちは
 

とてもきれい【少女たちは】

少女たちはうつくしい。



遠くから歓声が聞こえる。 沸き上がる音はまるで波のようで、ぼんやりとしていた心を無遠慮に叩いていく。
そうして、また気が付いてしまうのだ。無意識に三つ編みの先を弄っていたことに。はあ、と溜息を吐いたところで無意識の行動は収まらない。それを苦々しく思って何年経つだろう。唯一の救いは、この無意識は母親の前では顔を出さないことであろうか。きっと、この癖を見咎められたら厄介なことになる。なんとかして、この無意識を封殺しなければならない。
また、歓声が聞こえる。今度ははっきりと、質量を伴う音として鼓膜に届いた。大多数は黄色の気配を含んだ音に誘われて窓の外へ目をやれば、カナは思わず笑ってしまった。ああ、あれはまるでアイドルのようではないか、と。
陸上部には他にも格好良い男子がたくさんいるのに。まあ、確かにあの子は男子よりも格好良いけれど。そうだ、あの子が走ると、つい目で追ってしまう。真剣な眼差しで前だけを向くあの子の姿はどこまでも凛として美しい。だからこそ、ファンもとい、追っかけが増えるのも分からなくはないのだ。陸上を始める前からモテる子ではあったが、今ではもう、学年が上がるごとにどんどん酷くなっていく。そのうち、同じ室内にいる人全員があの子に魅了される日もそう遠くないのかもしれない。なんてカナは嘆息混じりに考えるが、その顔はどこか面白そうだと言わんばかりの色に満ちていた。事実、カナは面白がっている。このことをあの子、もとい、アキが心底困っているのを知りつつも。
グラウンドに群がっている女子達の視線は、周囲へ曖昧な微笑みを向けているだろうアキへ一身に注がれている。やはり今年もか、と思うようになって何年目だろうか。いつまでこんな感想を抱き続けるのか、カナには皆目見当もつかない。面白いものの、ある種のループもののようだ。いずれ、面白いと考えることにも飽いてしまうのかな、なんてありもしないことを考え、カナは苦笑した。そんなこと、絶対にありえないのだ。ちなみに、きらきらした視線には一部邪な男子の視線も混じっている。分からなくもないのだ。だってあの子はうつくしい。髪が短いからこそ剝き出しになっている首筋につう、と汗が流れ落ちることすらうつくしい。そんなうつくしい生き物を前に、男という生き物が正気でいられるわけもないのだから。
だが、それをカナはとうの昔に捨て置くことができるようになっていた。あの手の肉欲混じりのどうしようもない視線なぞ、気にするだけ無駄なのだ。生き物というものの性だと思えば、いっそ哀れにも思う。故に面白くもある。人間はどこまでも、本能を切り離すことなんて出来ない生き物である。
生徒会室に続く廊下は薄暗く、長い。春という季節が訪れ、世間はどこか浮足立っているにも関わらず、アキがいる場は寒い時期の残り香が漂っている。だが、視線の先は明るく、春の暖かさに満ちていた。それが酷くまぶしく感じるのはきっと勘違いではない。どこまでもあの子はまぶしい。それは過去から現在にかけて、そして死ぬまでずっと。カナはアキをそのように思うのだ。
鼠色の埃がこびりついた錠に手を伸ばし、一瞬戸惑う。汚れている。そこは汚れている。そう意識するとむずむずと同時に嫌悪感が沸きあがってしまう。そうだ、ポケットにウェットティッシュを忍ばせておいたじゃないか。そう自身に発破をかけてゆっくり触れ、錠を引き上げた。生徒会室のものよりも重さを感じるのはきっと、内側にも埃がついているからであろうか。普段、この窓が開いているところを見たことがないから仕方ないのだろう。動きのない物体にはどうしたって汚れが溜まっていく。停滞する気持ちは沈殿して、地層となっていく。
人気のない廊下に、錠が開く音と同時に軽やかに窓が開く音が響いた。廊下はどこまでも薄暗く、陰気さすら覚える。だが、窓を開けたことでそれもほんの少しばかり薄れていくのだ。
ああ、やはり気になってしまう。埃が手に、指についてしまった。なんて汚い、悍ましい、きたなすぎる。近くにゴミ箱がないものの、早く、はやく手を拭きたい。ポケットにウェットティッシュを忍ばせておいて本当に良かった。汚いのはよろしくない。綺麗でなければいけない。きれいに、きれいに。ああ、なんて、汚いのだ。
―― そう思っていた。
先ほどまでカナは確かにそう思っていたはずだった。
「アキ」
無意識に零れていく音が春風に掻き消される。だけれども構わないのだ、カナは。この声があの子に、アキに届かなくても。
アキは今日も美しい。トレーナーの話に真剣に耳を傾けている顔も、額に滲む汗を拭う仕草も、周囲からの多大な感情を捌ききれずに戸惑っているその表情も。全部ぜんぶがうつくしい。春の柔らかな陽の光に照らされた髪が輝いているから眩しいのだ。そう思って目を細めているうちに、カナは先ほどまで自身の中を暴れ回っていた清潔の蟲がいなくなっていることに気が付いた。この、薄汚れた体内を駆け巡る蟲を治められるのは、いつだってあの子だけだった。
「カナ!」
随分離れた場所から、大きな声で自身の名を呼ぶ声がした。ずっと昔から呼ばれ続けているその声は、いつもいつだってカナの心を浄化して、密やかな熱を生む。あの子の、アキの声はいつだって、カナの光であった。
取り巻きを全員の視線もこちらに集中することにカナは苦笑しながら、こちらに向かってぶんぶんと手を振るアキへ手を振り返す。きっと満足のいくタイムを出せたのだろう、アキの表情はいつも以上に明るい。今日、一緒に帰る時にはその話も出るだろうからしっかりと聞かなくては。
……晶、私は」
眩しい光を纏うあの子は、カナの網膜を滲ませるように焼いていく。そうして、その熱は胸を、喉を焼いて、カナの声を奪うのだった。