そいつが跳んできてから、十日ほど。
最初からある程度は分かっていた話だけど、そいつの消耗は本当に深かった。本来、使った妖力はある程度は自然に回復していくものでもあるけど、元の器が大きければ大きい分、癒やすのに必要な力も大きくなる。今のそいつは、器に対して回復能力の方が明らかに追いついていない。だから、足りない、欲しいとそいつが感じてるうちは、まだ帰しちゃいけない
――と、僕の魂の底から響く何かが教えてくれる。
だから僕とそいつはこの十日ほど、なんというか、堕落しきったような時間を過ごしていた。食べるのと寝るのとヤるの以外ほぼ何もしてない。強いてそれ以外を挙げるなら、散歩がてら必要なものを買い出しに行ったり、半年くらい前にまなが忘れていったリバーシで遊んだり、あと料理とも言えないような簡単な料理を一緒に作ったり、まあ、その程度。
バイトの予定も入れてないから、本当にそいつにべったりだ。
一緒にいるのが他の誰かだったら、そろそろ息苦しくなってくる頃合いだろう。なのに一向にそんな感覚はやってこない。むしろ、僕の本能は『そいつを離しちゃだめだ』と叫び続けている。それはもう、焦燥感とか危機感とかに近い勢いで。
確か五日目を過ぎたあたりで、ちょっとまずいんじゃないかこれ、と思って少し離れようとしたこともある。でもそういうときに限ってそいつがくっついてくるんだ、それもすごく控えめに。
その手を一度でも振り払ってしまったら、二度と伸ばしてこなくなるに違いない
――これだけは確信がある、何しろそいつはほとんど『僕』なので。同時に、そいつにとって最後の逃げ場がここなのは、それこそ最初に跳んできた頃から分かっている話、でもある。
だったらもう気の済むまで、僕がそう居直ったのは八日目のこと。
そういうのは言葉にしなくても伝わるんだろう。僕が居直ったその夜、そいつの体から完全に強張りが抜けた。単純に力が抜けるというのとは、似ているけど少し違う。体の内側で、ずっと心臓を守るように入り続けていた力が、緩んで開いたような
――肌に直接触れて初めて分かるくらいの深い部分から、そいつ自身も気づいていなかったような緊張が解けたのを、僕は掌で感じ取った。
声も違った。それまでの、ためらいがちに上擦る声じゃない。はっきりと甘くて蕩けきった音で、そいつは啼いた。もしあの状態で髪までつないでいたら、魂の境界線を今度こそ破っていたかもしれない。それくらい無防備で剥き出しだった。
それが無性に愛おしくなって抱き合って、眠って、目が覚めたら水だけは飲んで、そのままもう一度
……とやっていたら、気がついたら本当に丸一日が過ぎていた。僕は元々これくらいどうってことないし、そいつも妖力はともかく体力の方はまあ大丈夫だし、気がついたらそいつが来てから十日目の明け方を迎えていた、というやつだ。
「
……さすがに腹減ってきたナ」
「その前に、シャワーを
……」
そいつの声からは、まだ甘い余韻が消えてない。半分うわごとのような声を聞きながら、あとシーツ変えないと
……とぼんやり思ったまさにそのとき、唐突に。
「あ、あれ?」
結構な惨状になっている体をそのままに、そいつの目から涙が零れるのを見た。そいつ自身は何が起こっているか分からない、という顔で
――瞬きと共に二つ、三つ、次々と涙の雫が頬を伝っていく。
「ど、どう、し
……て?」
拭う手が追いつかない。そいつの表情は混乱しきっている。顔から伝わってくるのは、くるしい、悲しい、辛い、みたいなので
――怠惰な情事のあとの甘い時間にはあまりにも不釣り合いな感情だったけど、そいつの内側で何が起こっているかは、だいたい想像がついた。
やっと体と心がまっすぐにつながったから、だろう。
僕にも覚えのあることだった。
バックベアードと戦った直後、森の家に帰ってきた夜。
はじめて体を取り戻した父さんが、まだ今のそいつと大差ない体格だった僕を、抱きしめてくれたことがあった。
当時、父さんの力はまだ不安定で、翌日の朝には再び目玉の姿に戻っていたけれど、その一晩の間、僕は涙が止まらなかった。初めて知った父さんの手の温度で何かが緩んで、言葉にならない感情が吹き出して、泣く以外にどうしようもなくなってしまったんだ。大きな戦いの直後で、今のそいつほどではないにしろ、かなり消耗していた所為もあったと思う。
父さんが元の姿を取り戻したのと、抱きしめてもらえたのは本当に嬉しくて、でもそれだけじゃなかった。どうして今まで、なんで今更、そんな気持ちも混ざり込んでいた。父さんは何も悪くない、僕の一方的な八つ当たりなのは分かっていても、それまでに堪えてきたものが多すぎた。苦労をかけたなあ鬼太郎、という声はまだ耳の底に残っている。その声で、また涙ががあふれてしまったことも。
あの父さんの手が、僕を抱きしめる手のままだったなら
――
僕はまだあの森で暮らしていたのかもしれない、けれど。
やりなおせない過去を思いながら、僕はまたそいつの背に手を回した。汚れている体のことは敢えて意識から外して、涙を受け止めるように。
「我慢しなくていい、
……泣いちまえ」
いつかと同じ言葉を繰り返す。
そいつは、ごめんなさい、とは言わなかった。ただただ言葉もなく、引きつるような息と共に涙を流し続けている。もう具体的な理由も忘れてしまったような、過去に置き去りにしてきた感情が、体につながって吹き出しているんだろう。
いつものように背中を撫でて、もう片方の手で、まだ伸びっぱなしの茶色い髪を梳いてやる。最初の頃よりは少し縮んだけれど、まだ背中全部を覆うくらいには長い髪。自分の腕で自分の肩を抱きしめることは出来ても、自分の背を撫でることはできない。弱ったときに伸びてしまうこの髪は、無意識の慰めみたいなものなんだろうかと、僕は勝手に思っている。
そいつの呼吸が落ち着いてきた辺りを見計らって、抱き上げてシャワールームへ連れて行った。家賃の割に広いバスタブの中、まずは長い髪を洗ってやる。
……この二十年ほど、結構な時間を『美容師見習い』で通してきた所為で、そういう仲になった相手の髪を洗ってやるのは、実は随分慣れていたりする。そいつには言う必要もないことだけど。
コンディショナーまでしっかり流してやった頃、やっと言葉が聞こえてきた。
「なんで、
……泣いてるんだ、僕」
まだ涙声だった。掠れてるのはまあ、丸一日散々ヤってたからって理由もあるに違いないけど。
「感情のツケ払い、みたいなもんじゃないかナ
……多分。泣きたくても泣けなかったこと、今までいっぱいあっただろ?」
そいつはすとんと頷いた。本音そのままの、何も繕うことのない動き。そうと分かるのはやっぱり、お互いにとても近い存在だからだろう。家族より兄弟より、おそらく親子よりも。
「我慢した分、後からくるもんサ。そのときは耐えられても、理由は忘れても、
……悲しいのや辛いのが、消えてなくなるわけじゃない」
「そう、みたいですね。理由、何も浮かばない
……」
そのあとは、大した話はしなかった。お互いに背中を流し合って、丸一日ぶりに服を着て、そいつが髪を拭いてる間にケトルにお湯を沸かして、あとシーツも換えて。
今更ながら、普段使いの白いシーツの下に、防水シーツを仕込んでおいて良かった。前に別のアパートに住んでいたとき、妖怪絡みの荒事で負傷して寝込んで、布団どころか部屋まで血で汚してしまったことがある。布団は処分、部屋も掃除して見た目をごまかすことはできたけど、幽霊族の血というのはそれなりの代物だ。別の事情で僕が引っ越したあと、その部屋の上下左右の四部屋が、『出る物件』と化して噂になってしまったのだ。あれはちょっと申し訳なかった。
以来、引っ越し先の状況が許すときは、白い木綿のシーツの下には防水シーツを仕込んでいる。もっとも、ちょっと変わった性癖の相手と同居してたときは、仕込むんじゃなくてそのまま使ってたけど
――というのはさておき、これだけ長生きしていると、何が幸いするか分からない。本当に。
コンビニで買っておいたカップのきつねうどんを二人で平らげた頃、そいつがうとうとしだした。ちいさな体がなんのためらいもなく寄りかかってくるのを感じて、少し嬉しくなる。こうやって寄りかかれる相手は、僕にはいなかった。だから過去の自分をそのまま受け止めるつもりで、肩を抱き寄せてやる。触れた髪はまだ湿り気を残していて、今転がって寝たら朝大変だよなあと、どうでもいいことを考えた。
夢と現実の境目を漂いながら、そいつはやっぱり泣いていた。一回感情の蓋が飛んでしまうと、なかなか元に戻せない。無理に戻せば、その下にあるため込んだ何かが、いずれまた吹き出すだろう。
だから、僕はそのまま黙って抱き寄せていた。時々そっと髪を梳いてやるだけ。
置き去りにしてきたものを全部吐き出して、そいつ自身の心が納得するまで泣けばいい。僕は咎めも慰めもしない。そういうのはきっと、邪魔だから。
どこにも持って行けない感情は、自分の腹に収めるしかない。
そいつがただただ泣いていられる場所になれるなら、今の僕の状況も、少しは意味あるものになってるだろうか? 言葉もなく、夢現の境で泣いている呼吸を聞きながら、苦い記憶を思い返す。
森にいた頃の、最後の記憶。
妖怪同士の諍いが人間を巻き込んだ武力衝突になって、その戦いで僕は脚を砕かれた。寝込んでいた僕に、父さんはひたすら優しかった。髪と掌で力を分けてくれて、僕が生きていて良かったと半泣きで
――でも僕は、癒える体とは裏腹に、心の中ではずっと泣いていた。苦しかった。
僕がやられた所為で、父さんが血まみれになってしまったから。
人間も妖怪も、見境なく殺し尽くす姿を見てしまったから。
頭では分かっているつもりだった。父さんは元々、人間が大嫌いだった、って。
父さんが人間を愛するのは、お母さんがそうしていたからというのと、水木さんがいたから。今はもういない二人。
その二人がいてくれて、僕が生まれて育つことができて、だからこそ父さんは『恩返し』として人間を愛してきたんだろう。そうでなければ、父さんにとって人間とは、父さんの親や家族や仲間たちを、一人残らず滅ぼした存在でしかない。
だから、その人間が我が子までも害するというのなら
――父さんにとっては、殺しても飽き足りないもの、になって当然なんだ。
その結果が、人妖問わずの殺戮だった。
本来の姿を取り戻した父さんには、それくらいの力がある。そのときの僕には、止めてくれと叫ぶ力すら残っていなくて、ただ、父さんが血にまみれていくのを見ているしかなかった。怒りで我を忘れた父さんの力は、もはや一種の災厄だった
――たった一人で、本当に、攻め込んできたものたち全てを殺し尽くしたらしい。失血で気を失った僕は半分くらいしか見ていないけど、あとから青ざめた顔のねこ娘が、震えながら教えてくれたのを覚えている。
生き残ったあと、僕は怒れば良かったんだろうか。水木さんの願いを踏みにじったなと叫んで、父さんの首を絞めてやれば良かったんだろうか。でもあそこで父さんが人間を殺さなかったら、僕は間違いなく死ぬより酷い目に遭っていた。それに、そもそもは僕の自業自得と言っていい。父さんの怒りの原因は、僕が人間にやられたせい以外の何者でもない。そこを都合よく無視して父さんを責めたら、それこそ、助けられておいて言えた義理か、だ。
それでも父さんは、僕にはずっと優しかった。下駄を返して、森を出て行くと言ったときに、ちゃんちゃんこだけは持っていけというくらいには。今も僕にはとても甘い、こんな放蕩生活を許してくれているくらいには。
でも、僕はまだ、父さんのところに帰る気にはなれずにいる。顔を見ればどうしても、あの血まみれの姿がよぎって、苦しくなってしまうから。
水木さんが知ったら、僕になんて言うだろう。父さんにはどうするだろう。
いくら問いかけても答えは返ってこない。
「
……お義父さん」
寄りかかっていた体が離れるのを感じて、自分の声が出ていたのに気がついた。ちいさな手が伸びてきて、僕の頬に触れて、僕は自分も泣いていたことを知る。
そいつの目元にもまだ、涙のあとが残っていた。それを指先で拭ってやったら、そいつは一瞬だけくすぐったい顔をして、また目を閉じて元の姿勢に戻った。
お互いに、何も言わない。涙の重さが分かっているから、その理由を喋れとはとても言えないんだ。
まだ伸びっぱなしの茶色い髪が乾くまで、僕とそいつはずっと肩を寄せ合っていた。
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波箱
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