takisaka
2024-03-03 13:02:23
10212文字
Public 俺屍
 

「往春」―ゆくはる―

俺の屍を越えてゆけ一族。冬見家七代当主六道の来訪時1024年3月の話。

 温む水の描く光の輪と、名も知れぬ花の匂い。
 天界より届けられた先の、古寂びた社であったと思う――朽ちかけた祠にはひっそりと冬の名残の落葉が溜まり、かがみこんだ目にうつる揃えた足袋の爪先、そして磨かれぬ鈍色の鏡のような池の水面を埋める、いちめんの淡色。
呪を享けた一族の末葉として人世を訪うた子が、そのときの風景を覚えていることはむしろ希少なことだろう。まだ乳離れもすませずに天界から降ろされることもある。そのころの冬見の子の齢相は人それぞれの育ちぶりにより、ねんねこに包まれた赤子から、すでにしゃんと口の利ける幼子まで。その中でも、来訪時の記憶のある幼子は指折り数えるほどだ。ただびとでも赤子のころを覚えている者が少ないのと同じ、いつから己がここにいるのか覚えている者がいないのと同じ。
だがかれは、その風景をはっきりと記憶している。
物憂げに鎮もる水面に音も無く降りしきる、無数の花弁。桜という名もやがて己に付けられるはずの名も何ひとつ知らずに見た、その無名の風景。

◇◇◇

 たのむ、と当主に頭を下げられたのははじめてのことだった。
 たのむ、と。

 1024年、三月弥生――
 来る御前試合にむけ、使者の接待や詰所と家を行き来して戦物具の準備に追われる兄や姉とひきくらべ、七生は暇なものである。
 槍の力量はすぐれ、すでに試合一党の要員ときめられてはいたものの、暇だった。要するにこの弟、直接のいくさに関わらぬ采配については、てんから当てにはされていないということだ。
 それで愛用の片鎌八角槍の穂先を磨いたり、或いは詰所に迷い込んだ猫の仔をおいかけまわしたり、たまには手伝おうといらぬ手を出しては兄やに小言をくらったり。
 で、時間が空いていたのは七生だけだったのだ――齢下の夕斗もおなじ場にいたが、こちらはべつに暇だったわけではない。三日星や睦月の手伝いに忙しく立ち働いていたものの、とくべつの話がある、と呼ばれてきたのである。
 詰所の中庭には残んの梅がはらはら散りかかり、空は淡やかにやさしい花曇。その中庭に立ったまま、広庇にすわる相手へ、
「なに、青さん」
 何の用――ぶっきらぼうな物言いに、五代月爾こと青切は武者人形めいた凛々しい眉尻をちょいと下げて苦笑する。異母兄の三日星が居合わせたなら懇々と半刻ばかり正坐説教するところだろうが生憎、冬見家五代当主にはそんな無駄をする趣味もなければする暇もない。単刀直入に、ずばり言う。かたわらに無造作に書簡を積んだまま、
「ああ。きょう俺の子が来るそうだが、見ての通り手が空かん。お前暇そうだから迎えにいってくれ」
 ぼりぼりと蓬髪を掻きながら七生はいやそうな口ぶり、
……イツ花は、」
「手が足りんと言ってるだろう。ここの賄いだけでもてんてこまいなのに何でも、すっ転んで並べた膳部に顔から突っ込んで被害甚大だとか……今は罰当番で此処の廊下の雑巾掛け。乾拭きで十周。」
 聞くだに足腰の鍛えられそうな話だ。信賞必罰はこの五代当主の極めて明確な方針で、それは一族のみならず日々の世話をする家人にも適用されていた。
……で、おれ?」
「お前だ。夕斗をつけてやるから行ってこい」
 ぶつ切りの会話に、青切はうなずく。名指しされた夕斗はげえっ、と牛車に轢き潰される蛙のごとき声を出した。だが当主は間髪入れず、「夕斗、行ってきてくれたら、御前試合の面子に入れてやる。三日星が代わってくれるそうだ」
「え、本気?」
「本気も本気だ。此奴のお守りなぞ只でやらせると思うか」
 つまりそれだけ大変だということだった。
 当の七生は己の鼻先を指さしてゆるく首をかしげていたが、やがて、ぽつんと、
……青さん、行かないんだ」
 じぶんの子どもなのに、おれが行くんだ。
「そうだ」
 そうして七生は、眠たい猫のように翠の眸を、少しだけ細める。
「怖いんだ」
 七生は青切に対して、いつもそのようにした――ぼんやりと虚空に蝶でも追うような無関心から、ふいに抜き身で人の懐に斬り込むように。
「そうだ」
 動揺ひとつ見せず、ふしぎと鷹揚な笑みを浮かべ、青切はつと立ち上がる。
 一体、青切とは、傍目には非のうちどころない当主であった――初陣直前の当主襲名から、弓取りの奥義のひとつに名を残し、戦場にて挙げた鬼の首級は数知れず。遂には前年霜月、初代以来の悲願であった大江山。結果は如何あれ、それらの戦を捌ききったのは紛れもない、この五代当主の手腕である。
 いくさのわざに長け、ものごとの機微に通じ、人望篤い当主。たたずまいはさながら名にし負う、青竹のもつしなやかさと清冽さ。
 青切は足袋のまま、敷き詰められた砂利へと足を降ろす。姿勢のよい男だった。そのせいで、上背のある七生と並んでも見劣りはせず、むしろ格段に見栄えがする。
 その男が、「たのむ」と、頭を下げるのだった。
 ふいに。
 何かが折れるように。
 感情の読めない声音だった。表情は深く頭を下げた角度にかくされていたが、やはり笑んだままではないかと思われた。あのふしぎと鷹揚な、古びて塗りの金箔も剥がれた仏像めいた笑み。
 七生が青切に頭を下げられることは、これより先もこれより後も、絶えて無い。
「いいよ」
 とだけ、七生は答える――平坦な、矢張り感情の読めない声音だった。

◇◇◇

 夕斗は木戸を抜けてすぐ、七生の腕をつかんで脇の小路に引き入れる。かれの肩口でそろえた赤髪も、七生の蒼味を帯びた白髪も、大道では目立つことこのうえない。この齢上の従兄だか再従兄だかはまったくそういう視線に気を配ることをしないので、夕斗のほうが逆に気にかけるようになっていた。
春といえ疫病のうわさもちらほらと聞く昨今、冬と同じく戸を閉ざしたままの家々も多い。通りをひとつ折れるだけで人通りも人目もぐんと減った。
「なあ、前から思ってたけどさ、ナオちゃんと当主って仲悪くね? 何で?」
 ついぞ尋ねたことはない疑問であった。七生は長すぎるきらいのある前髪の下、くりっと瞳を動かしてこう答える。
「べつに?」
 別に、と来やがったかこの野郎。
 思わず額をおさえて唸る夕斗を尻目に七生は、悪い、ううん、悪いかなあ――とひとしきり首を捻ってから、
「うん、べつに悪くないよ。ただ、」
「ただ?」
「良くもない。」
「同じだよそりゃ」
 夕斗は返す手刀で七生の肩先をはたいた。「そうかなあ、おれは違うと思うんだけど」等と七生は呟いては顎に手を当てる。その茫洋とした表情はごくごくまれに、学者のように沈思しているように見えなくもない。ような気もする。七割がたは気のせいだ。
 あかい髪にのびやかな体つき、数ヶ月ちがいの七生と連れ立って歩いても、夕斗の体格はまるで遜色ない。元より育ちぶりがよかったのが、年を越してはすっかり肩が並ぶほど。気楽で気の置けないつきあいだ――齢上の割には裾子よりよほど童めいた槍つかいと、磊落で快活な笑声を挙げる拳法家。
夕斗は当主に渡された地図を片手に、
……まあいいや。そっちの角を右、あとそのまんまずーっと上がる、と」
 ちなみに付き添いされている七生であるが、べつに方向音痴だとかそういうわけではない。そもそもこの男、勘だけはおそろしく良いのだ。目隠し籠でぐるぐる市中を引き回された上でぽんとそこらに放り投げられても、日暮れまでには帰ってくるんじゃないかと夕斗辺りは踏んでいる――それよりそこらの猫を構いたおして、挙句に用事を忘れて帰ってくる、というほうがよっぽどありそうだ。
「疎水のほう?」
「あーあのへんあのへん。若王子の近く。ぼろいから見落とすな、ってよ」
 正直神様が一族との子どもをくれるにしたってもうちょっとわかりやすく、たとえば家にある産霊屋なんかに届けてくれたっていいと思うのだ――じっさい、親になる一族のほうはそちらに入って、そちらから帰ってくる。子のほうがそうはいかないのは、矢張り生まれるまでは神のうちということか。日のめぐり星のめぐり、方位やら親神のもつ四大やらに左右され、天界からの授かりものが届けられる場所はその子によってまちまちだ。
「白山社? 古い池と井戸があって、いい匂いのする水が湧く、」
「それそれ。……なに、知ってんの、ナオちゃん」
「触らせてくれる猫がいる」
 それなら、こっちの裏を抜けたほうが近道。
 かつてないほど自信に満ちた一言であった。指さす様がこれまた凄い説得力であった。思わずうなずいて先導をゆずってしまった夕斗であるが、まさかこれから通る道筋で自分が犬に吠え立てられて逃げ回るはめになるなど、今の時点では当然だが予想もしていない。ちなみに七生は「なんだか楽しそうだったから」との理由で犬といっしょにその後ろを追いかけ回した。川越えを経、ようやっと追っ手を撒いて汗みずくの再従弟に「面白かったねえ?」とやって著しく信用を損ない、とりあえず一発殴られた。

◇◇◇

 ひとり、樹下で膝を抱えている。

 ここで待てばいいのか。いつまで待てばいいのか。
 おろしたての白い手甲、白い脚絆、顎にかかった紐を解いて、かむっていた笠をかたむける。降りつもった白い花弁がさらさらとこぼれた。その下からあらわれた墨字は、何と読めばいいのか、まだわからない。退屈しのぎ、その六字の題目を繰り返し指でなぞった。
 座り続けで痺れた尻に耐えきれなくなって腰を上げたのは、待ち始めてからおおよそ一刻半。零ヶ月の幼子にしては、極めてよく辛抱したというべきだろう。立ち上がると少し目の前が暗くなったが、すぐにおさまった。
 ここで待てばいいのか。いつまで待てばいいのか。
 迎えなんて、こないのかも知れない。ずうっとここで、骨になるまでひとりなのかも知れない。不安に胸を噛まれ、シュク、と鼻を啜った――何かに追われるような手つきで笠を取り上げ、被り直す。顎の紐を結びなおそうとしたが、うまくできなかったのでそのままにした。
 そうして歩き出す。
 社の縁の下にはてろりと伸びたかたちで寝転ぶ猫がいて、手を伸ばすとそのまま触らせてくれた。ふかふかの毛の下には熱い体温、かっちりとしながらしなやかな筋肉。喉を鳴らす震動が指先に伝わってくる。ちいさな桃いろの口を開いてにゃあ、と鳴く。するりと手から逃れ、またもう一度鳴く。その先には花の降りしきる石段、甘やかな色合の空。午を回り、春のひかりは瞼の裏に白い。

◇◇◇

 当主の口から聞いた話では、午の九ツちょうど、という約束だったのだ。それに間に合うように早めに詰所も出た。小腹も空こうし子どもと一緒に虫やしないでもと、多少の駄賃ももらっていた。
「いないの?」
「いねえよばか! おまえのせいだちくしょう、いや一瞬でも信じた俺も悪いけど!」
「追っかけられたの夕さんじゃない。夕さん怖がるから犬が吠えるんだよ」
「うっわ正論むかつく。一人ぴんしゃんしやがってばーかばーか体力ばかー。おまえの父ちゃん変な頭ー。」
「うん、実はおれも常々そう思う。頭ぐらぐらしないのかなあの飾り物。……にしてもいないねえ、雉さんもいない」
 雉さん、というのはここの神社によくいるという猫である。毛色が雉猫なので七生はそう呼んでいる。
 ああもうどうすんだよ。夕斗は頭を抱えて髪をかきむしった。
 古びて小ぢんまりとした、社の一隅である。
 早咲きなのか狂い咲きなのか、暦を早回ししたような桜花の下、鎮もる水面の古池。社伝に拠れば十万億土の深みとも伝わる苔むした井戸と、冬の名残の落葉が溜まる祠。
 そして迎えるはずの、子どもはそこにはいなかった。
「もしかして、まだ来ていないってことは……ねえよなあ」
 一縷の望みであったが、泡より儚い望みでもあった。語尾は魚が吐く泡粒のような溜息になった。
「来てたよ」
「なんでわかるよ」
 思わず語調が粘っこくなる夕斗であった。何でもいいから絡みたい気分だったのだ。しかもそれがこの状況の元凶ともいえる再従兄であれば尚の事。
「跡」
 石畳にしゃがみこみ、長い指でとんとん、とその上を叩いてみせる――かれのいうのは、桜の白く柔い葩だった。地面に落ちて描いた文様は謹厳な石庭めいて、いっそ儚い。
そのわずかな空白だった。
「ここに座って、こう――
 そのまま膝をつき、手をかざす。低くなった目線には石段のようすが入ってくる。「ここで待って、待ってもこなくって。だったらとりあえず降りるかなあ、下に茶店あったよね、あそこで聞いてみよ?」
――なあナオちゃん」
「なにかな夕さん」
「俺は今おまえを信じるべきか否か非っ常ーに迷うわけだが」
 それはもう目一杯の疑惑とともに。七生は首をかしげ、
「どっちでも」
 と答える。
……とりあえずこの先腹が立つことを前提に、もう一発ぶってもいいか」
「やだよ。夕さん近頃砂利ん中に拳つっこむ鍛錬してるじゃない。凶器反対」
「了解。とりあえず茶店で聞いて、行き先わかんなかったら当主には全てをナオちゃんのせいってことにして申し開きしよう。ほぼ事実だし」
 うーん、でも、と七生はもう一度首をかしげる。
「人さらいとかに遇ってたらどうしよう」
……いやな想像させんな! 極力考えないようにしてたのにその可能性!」
「でも、迷子で都の外に出ちゃってたらとか、そっちよりかは人さらいの方が簡単だよ? おれがどうにかできるもの」
「どうにかって、どうする気だよオイ」
 夕斗は反射的にも一度肩口に突っ込みを入れ、七生は口元にひとさし指をあてて、ふふ、と笑う。
「ないしょ」
 むろん夕斗は、この糸切れ凧の大人子供が外遊びの延長でうっかりそこらの賭場に出入りしているとか、そこの兄哥たちにそこそこ顔も知られあまつさえ色んな意味で恐れられているとか、結果的にかれはかれなりの人脈を有していることなど知るよしもないのだが。
 歩けば汗ばむ春の陽気の中、いつもと何変わらぬその笑みに、凩に背筋を吹かれるような一瞬の寒気を感じたのは確かなことである。

◇◇◇

 茶店の主人は額の抜け上がった中年の男性で、いたって人の良さそうな笑顔を見せて冷やし飴をふるまってくれた。
「これはこれは、可愛い六部さんだねえ、巡礼於鶴みたいだ」
 白装束に杖代わりの錫杖、旅支度の筈のこのよそおいは、どうも人目にはそう見えるらしい。
「親御さんは? はぐれたのかい」
「いいえ、それで、卒爾ながらものをおたずねしたいのですが……
 冬見のお屋敷には、ここからどう行けばよろしいのでしょうか?
 こののち子どもはこの問いを幾度となく繰り返し、結果的には自力で我が家に辿り着くこととなる――そして家人には只者でない目の輝き云々と誉めそやされることにもなるのだが、子供ごころにもそれは眼力とはちょっと違うのでは、と思ったとか、思わなかったとか。

◇◇◇

 およそ一刻ののち。
「ははは行き先の見当もつかねぇ・……詰所戻りたくねぇ……
 当主の容赦ない折檻に思いを馳せては乾いた笑い声を洩らす夕斗と、
「夕さんがんばれー」
 てくてく歩きながらまるで無関係無責任のような応援を飛ばす七生の二人は、めぐりめぐって己等の屋敷前まで辿り着いていた。あちこち聞き回った挙句偶々通りかかり、足は棒だし水の一杯も飲みたくなったわけである。
「にしても疲れた……顔も名前も知らねえ餓鬼んちょを探すのがこんなにしんどいとは」
「まぁねぇ。これが青さんだったら奥さんから顔とか教えてもらってるかもだけど」
 生憎探しているのは命名もまだの幼子で、いっそ鉦でも叩いて呼び回ろうにも本人に判らなくてはそれも詮ない。
「こんな無茶振り聞いたこともねえ……何? これ。何のネタ? 下げは何処よ?」
 いっそ何処かの喋り芸人に小咄の種として売ってもいいかも知れない。但し、一族にしか通じない辺りが難だが。
「こうなったら一遍戻って、青さんに聞いてみた方がてっとり早いね。少なくとも、髪と目の色位はわかる」
 通例、冬見の子の親ならばまだ生まれないうちでも、その子の顔を知っている。神に通じて子を為す不可思議のひとつとして、夢枕なり何なりで感得するのだと云われていた。
「最初に言えよそういうこたぁ!」
「御免、てっきり聞いてると思ってた、地図貰ってたの夕さんだったし」
「畜生、戻ったら当主に意見具申してやる。今後子どもに迎えを寄越すときにゃ、足元に立て看板の一つも立てて下さいってな!」
 実にもっともな意見である。
 しかしその後の冬見家二十一代、子の来訪に際してここまで気を揉むような事例はなく、またここまで家人に用が立て込んで迎えに行けぬような事態もなかった。ので、この妙案が実行される機会は、ついぞない。
 午を回ってやや西へと傾きかけた日射し。牛車の轍と乾いた土埃と、甘やかな花曇の空。門の閂を押し開けて中で休もうにも、その一手間が既にものうい。夕斗がずるずると門前の段差に座り込む。七生もそれに付き合った――こちらはそんなに息が上がっているわけでもなく、只、何となく。どちらも年の割には大きな背で、そうして紅白の頭を並べていると仁王の一休みと見えないこともない。しかし一方はぼんやり顔にもう一方はふくれっ面では、随分と締まらない。
 りん、と。
 澄んで高い錫杖の音。廻国巡礼でも通るのか。しかし低く唸るものがなしい御詠歌もなく、それらしい姿も……いや、居た、居た。にしても、随分とまあ、幼い巡礼もいたものだ。
「何だァあれァ。あのちっちぇの」
「あーうん。かわいいねぇ、ふふ、ちょこちょこしてる」
 肘をつつく夕斗に、着眼点のずれた返答をする七生。或いはこの男の目には独楽鼠か何かの一種のように見えるのかも知れない。
 器用に道ゆく人の間をくぐり抜けるたび、小さな身の丈に合わせた長さの錫杖がりん、と鳴る。手甲脚絆の白ぞろえも清々しい巡礼装束、笠に書かれた六字の名号。たびたび辺りを見回す風情は何かを探すそぶりにも見えた。時折、人の袖を捕まえては熱心に何事か尋ねている。
 よく見ると、それは顔見知りの漢方薬屋の爺さま――当主や三日星のため、夕斗も何度か薬を取りに行ったことがある――で、目が合うとなぜか、大仰に手を振り回して手招きするのだった。
「何だいじさま。どうしたってんだ、」
 よっこらせ、と立ち上がる。ぶらぶら近づいていくと、
「如何したもこうしたも。こんな小さな子を放っといて!」
 凄い剣幕で叱られた。え、え、と目を白黒させている夕斗に、武家のお子ともあろうに無用心な、とか、生き胆取りにさらわれたら如何する気だ、とか説教がつづいた。
 七生はその脇を悠々通り抜け、ひょいと子どもの前にしゃがみこむ。巡礼すがたの菅笠をついと持ち上げると、若葉の艶の黒髪がさらさら零れ、全体小づくりな目鼻立ち。長ずれば触れれば切れる刃物めくだろう風貌は幼時のこの時分、幼さなりの円みや柔らかさにくるまれて、桜の蕾のように上気した頬とともに、桜の蕾のように愛らしかった。そうして額にいただく、不吉な翠いろの宿世の星が。
 びっくりして、しきりに金睛をまたたかせるその子に、七生はゆっくりとほほえむ。しろい、柳の花の柔毛のような、感情の読めぬ笑み。
「ここまで、ひとりできたの?」
 子どもはなぜか気圧されたように一度唾を飲み、そうして必要以上に声を張って、「はい、」と答える――力みかえって幽かに震えるちいさなこぶし、まだ大人の腰ほどにも届かぬ身の丈。不安に耐えて、縋る当てすら知らぬ。

 冬見家当主青切が一子、おん名とおつとめを賜りたく、此処に罷り越しました。
 父上は御在宅でしょうか。――

道中ずっと胸中で繰り返してきたろう口上。
「ええっ」と夕斗が子どもの方に体ごと顔を向け、「こりゃ、まじめに聞け!」薬屋の翁に叱られ、「そう、」と七生はつぶやく。
ただ、そう、と。

◇◇◇

 薬屋のじさまに――なぜか自分だけ――こってりと叱られて、夕斗は大層機嫌が悪い。しっしっ、と見えないように腰の後ろで追う手振りをするかれのことなど眼中にないようすで、よかったねえ坊や、とくしゃくしゃに笑みくずれ、幾度も子どもの頭を撫でて、翁はようよう店に帰っていった。「はい。いかい御世話になりました、若輩者ですが、後日きっと御礼に参じます」
 大人顔負けの口上とともに、子どもはぺこりと頭を下げてその後姿が見えなくなるまで見送った――そして見えなくなってすぐの、「大体俺らが来るまできちんと社で待ってりゃあ、こんな手間にならなかったのによぉ」という夕斗のぼやきに肩をちぢめてしゅんとなる。七生はしきりに首をかしげては子どもの方をためつすがめつしていたが、
「この子、なんか、ちっちゃくない?」
 いきなりへんなことを言う。
 はあ? と夕斗は目を剥き、子どもはおろおろと己の手足を見回した。
「ちっちゃいって……こんなもんだろ。まあ確かに小粒な方だろうが」
「でも、初めて会った夕さんもっとずっと大っきかった。おれと同じくらいあった。この子、おれたちの半分っきゃないよ。ちっちゃいよ」
「ねーよ! 初陣前でそれじゃ何だ、今の俺はねぶたの人形か。大体あン頃はおまえだって五尺ぽっきりだったろうが。柱の傷見ろ柱の傷!」
 ちなみに、七生のこの勘違いには、一応の理由はある。昨秋、大江山に備えて討伐三昧の日々に追いまくられていた七生含む今の家族と、来訪が遅れた夕斗との初顔合わせは日程がずれこみ、一月近くは顔を合わせずじまいだったのだ。生まれたときから体の大きい方だった夕斗はその間にそれはもう、雨後の筍のように育った。その御蔭かこの二人、四ヶ月違いという年齢差がまるで意識されずによくつるむ訳だが、これは主に七生のほうの人格に問題があるという説もある。
 ひとしきり怒鳴って、小さいといわれてつくねんと己の手を眺める子どものほうにちらと目を走らせ、夕斗はふん、と鼻を鳴らす。
「行くぞちび。……しょげんな鬱陶しい、」
 これからでかくなりゃいいだけの話だろうが。
 笠の緒を首に回したままの、ちいさな頭。中腰になってようやっと撫でるのにちょうどいい位置。「ひゃっ!?」ぐしゃぐしゃっと乱暴に髪を掻き回され、子どもはしゃっくりのようなおかしな悲鳴を挙げる。だが外見の割に鼻っ柱は強いようで、すぐに気を取り直し、
「ちびなどと仰らないで下さいまし。もうじきに、父上に名前をいただくのですから」
 と、こうだ。
 夕斗はふーん、と意地悪く鼻で笑う。
「だけど、今はまだちびだもんなァ。他に呼び方もないしなあ、ちび。口惜しかったら鴨居に頭ぶつけてみやがれ、ちーび」
 大人げないにも程がある。
 ちなみに夕斗が六尺に届いたのもつい最近である。まだ慣れないため、油断しているとしょっちゅうぶつける。寝惚け眼の朝など、てきめんにぶつける。凄く痛い。
……!」
 色白の頬を湯気が立ちそうに真っ赤に染め、言い返そうと必死で言葉を探す子どもを、七生は後ろからひょい、と抱え上げる。片手である。
「こうしたらすぐだよ。ねえ? 肩車のほうがいい?」
「あってめえ。ずるだろそんなの。反則だ!」
……いえ、あの。それ、頭ぶつけないとだめなんですか?……
 出来れば遠慮したい。
 それももっともな言葉であった。勝手に熱くなる齢上ふたりに挟まれ、ひとり冷静な子どもであった。
「そーお? じゃ、肩車は今度ね。」
 既に決定事項なのだろうか。反対意見は聞き入れられないのだろうか。
 抱え上げられた懐からひょい、と降ろされながらも子どもはひっそり悩んでいる。楽しくなかったわけではないが、父上の前ではされたくない……とはちょっと思う。
 夕斗は頭のうしろで手を組んで、空に向かって溜息する。とりあえず当主の仕置きは免れて気も抜けた。
……で、このまんま詰所戻んのか? 一息入れてからにしようぜ、ちびも疲れたろ」
 だからちびと言うなというのに。
 つぶらな目を半眼にして、じっとりと下からねめつけてやる。後年の迫力には未だ及ばないものの、またも頭に伸ばされようとする手を防ぐ役には立った。
「うん。――じゃ、行こっか」
 苦笑して、ひらりと返される掌。その影が、ひときわ早い花吹雪のひとひらと、子どもの眼裏でなぜか重なる。生まれて初めてこの眸で見た、この現世の風景。

 あの花は、何というのだろう。
 己の名は、何というのだろう。

 子どもはあらためて、その手を握り返す。あたたかく骨張った大きな掌、それでも爪のあいだに詰まった土の粒が幼子のような。そうして手を引かれ、無骨なつくりの門をくぐり抜けてゆく――小さな背をせいぜい大きく見せようと、出来る限り胸を張って。石畳に踏む跫音、甘やかな色の空、名も知れぬ花の匂い、
 その全ては、この往き過ぎる春の日のひととき。
 この全ては、往きては帰らぬ幼き日のひととき。