takisaka
2022-04-12 18:57:07
6637文字
Public ネハムゲ
 

手と脚と

いかがわしい話をかきたい気持ちによるネハムゲ

 くすんでおおきな手が木漏れ日の下で清流を掬いあげる都度、新鮮なしずくがはねる。
 笑い声がする。
 風の遠吠えや、海の遠鳴り。そういうものに似た、深い低い響きの、それでいてうまれたての赤子のような声だ。
 空域の、と或る辺境に位置する名もない島――その森の河辺である。
 植生の調査のかたわら、彼が手慰みに言葉を教えはじめたこのドラフは案外と身綺麗に保つならいがあるようで、たびたび河辺で水浴をする。考えてみれば当たり前のことで、この地に生息する魔物や大型の獣を相手どって狩りをすることで漸く日々動くだけの食事に足りるような体格の持ち主なのだ――獰猛ないきものはおおむね、鼻が利く。血や汚れを洗い流してできるだけ清潔であることが狩りの成功に繋がると、しぜん経験として知っているようだった。言葉としては知らないままに。
 もっとも、襤褸のような衣ごと全身で水に浸り、汚れを落としたらそのまま陽だまりに転がってそのくろがねの毛並みめいた髪を乾かす――というような手順のそれを、一般的な入浴とひとくくりにしていいのかは迷うところだが。伸び放題にみえる濡れた髪はこれもまた、伸びすぎたあたりを手入れする習慣がある。これは森の枝などに絡むと痛いからだろう。石片を擦り合わせて丹念にひとふさずつ摘んでいくので、かれの水浴は存外長くかかるし、そのくろがねの毛先はいつも方々にはねるのだった。

 ――鋏をもたせてもいいものだろうか。

 ネハンはすこし迷って、それからまだ止めておくことにした。応急手当のために彼の鞄に入っている道具だ。使い方を教えるのはすこしも構わないのだが、かわりがないものだった。うまく力加減のきかないこのドラフに壊されても困る。……
 廃村の跡から、ムゲンという名前がようよう知れたばかり。それすらも、正しい名前かどうかはわからなかった――本人の記憶があいまいで確認しようがないので、じっさいのところ、これはこの島、或いは村、もしくは廃墟となった施設などの名前であるのかもしれない。
 ことばも、力加減も、まだあまりうまくない。そんな時代だ。
 若いエルーンは派手に水しぶきをはねかす巨躯のドラフからはすこし離れた場所で、しかしおなじ流れに痩せた足を浸して涼んでいる――夏がはじまろうという季節だった。黒革の上着は手近の樹の枝にあずけ、革靴は河原の砂利に揃えられている。街中に相応しく整えた濃い灰色のスーツという身形も、草木が獰猛に生い茂るこの季節には意味をなさない。どうせ自分と、この忘れられた島に暮らすドラフしかいない場所だ。
 足の指のあいだを漣が通り、せせらぎの音と笑い声とが獣の耳にやさしく触れるひるまごろ。手慰みにいままで書きつけた手帳の記録を辿り、痩せた指があてどなく頁を捲った。ひらきかけた空白の頁はまっさらな紙の白がまぶしく、ネハンはその隈ある目を眇めた。

 やがて血汚れを落とし、身震いして盛大に水飛沫を飛ばし終えたムゲンがとなりにやってきた。並外れておおきな体をしながら、どこかちんまりとした座り方。近頃は、呼んでも呼ばなくてもそばにくる――そのこと自体に、ネハンはすこし落ち着かないような心地になる。まだ。やがて彼の曇り空色をした瞳が息をするように視界のどこかに大きな影を探してしまうようになるのも、かれが道の先に落ちる痩身の影を巨獣めいたくろがね色の毛並みを靡かせて子どものようにいっしんに追うようになるのも、もうすこし先の話だ。
 その日は、しきりにこちらを覗き込んでなにかを見比べているようだった。髪の毛がかわきかけるほどの時間を経てもちっとも飽きないようすで、ネハンは手の中の手帳をぱたりと閉じて、ようやく口を開いた。

「どうした?」
「んー……ネハン、ムゲン、ちがうある、かんがえるしてた。……たとえば、て。あし。」

 かれとおなじ手の持ち主など、はたして全空を探してもほかにいるか、どうか。
 皮膚自体が熱にも衝撃にも強い、あさぐろいてのひらをしている。骨格が大きいのに加えて、指の節は獲物ごと大地にうちつける狩りを繰り返した結果として山脈のように盛り上がっていた。そのこぶしひとつで島ひとつの生態系の頂点にいることも頷ける威容であり異様だ。
 気まぐれでかたわらに自身の痩せた手を差し出して並べてみると、それは例えば、騙し絵のような印象にさえなるのだった。エルーンとドラフは種族としての体格自体が異なるといえ、こうして見ると違いが顕著だ。木漏れ日が、大きな手と小さな手に斑に映る。

「ね? そうだ。あし、みる? ……あし、あし、……あっ」

 ううん、と手をのばして自身の足首を引き寄せようとして、そのまま倒れた。ずしん、とちょっとした小山が崩れたような音とともに、衝撃に河面が揺れて、魚が何匹か跳ねる。柱のような水飛沫が立った。滑り落ちてしまった当のムゲンは、きょとんと川の流れの中で目を見開いている。自分自身の尾を追いかけまわし捕まえそこねて転んでしまった、そんな仔犬めいた風情の表情だった。その大きさにも関わらず。

「しっぱいした……
「いいさ。何度失敗しても、そのうち成功するのなら、そう無駄でもない」
「そっか!」

 水の流れに、青白いすあしの影がゆらめく。怪我のあるなしを確かめてやろうとして逆さにこちらを覗き込んできたネハンに、ムゲンは笑う。幾つもの漣が、互いの手や脚の間をやわらかく通り過ぎていく。
 もう一歩だけ近づこうとして、若いエルーンのあしうらは水底にころがる石のまるみをとらえ損ねて滑った。

 そしてのどかな午後の河辺に、先程のよりはずっとささやかな水柱がもうひとつ。

◇◇◇

 ムゲンはもとより、ネハンにとってもさして水深の深い河ではないから、当然のように足は立つのだ。
 力を抜いてぷかりと水面に浮かぼうとした若いエルーンの水越しの目に、ぬうとおおきな手が伸びてくる――間髪入れずに力強く引き上げられ、おろおろとした表情のムゲンと、ごく近く目が合った。河の流れから起き直ったドラフの膝に乗り上げるようなかたち。水に落ちた瞬間に止めていた息を大きく吐くついで、彼は、ふは、と気の抜けた声を出した――笑い声をあげるなど、久し振りのことだった。それも、自嘲でもなく笑い声をあげるなどと。
 いまはネハンと呼ばれているカルムの子どもは成長につれ、いまや苦の深いほどに嗤笑し、楽について感じることが殆どない。この方が、生きるのに楽なのだ。ずっと。
 そんな身の上でも、成る程、いまのは滑稽だと思う――

「ネハン、ネハン。だいじょぶ? くるしい、ない?」

 しきりに心配した声音を出すムゲンも、たまたま足を滑らせただけの自分も。

 ――滑稽で、間が抜けていて、平和。

 きっと自分たちにはなにひとつ似合わないのだろう単語たちを思い浮かべて、それでも、もう一度息を吐いた。笑ったように見えたかもしれない。ムゲンも、ほっとしたように笑ったから。

「ああ。大丈夫だ」
「そっか。よかった!」

 濡れた髪からしたたる水のしずくをてのひらで拭い、ふいに思いついた――この頃のこのドラフは、言葉だけで説明するよりはひとつずつ触れて示すほうが、ずっと理解が容易いようだったから。

「そうだ。そうだな……さっき、ちがう、と言っていたな。確かに、俺とお前は種族が違う。が、それでも同じところも沢山ある」
「えー。ほんと?」
「ああ。そうだ。たとえば目がふたつで、鼻はひとつ。おなじだろう?」

 そう言って、ついと指で鼻先に触れる――このドラフは、こうやって人の手がふれること自体にきゅっと身を縮める。馴れないことなのだ、かれにとっては、まだ。幼時の記憶もどうやら殆どないらしく、これほどに大きくなってからはおそらく、一度もない。

「おんなじ……いっしょ? ムゲン、ネハンいっしょ? ほんとう?」
「人の――ヒューマン、ドラフ、エルーン、ハーヴィン、この四種族でいうと、からだのつくりは大体同じだ。例えばお前のように並外れて大きいものもいるだろう――が、手や足の数は決まっている」

 笑い声をどうにかがまんしようとして、ぎゅっと縮めた手足がむずむずしているのがわかる。声をあげて手足をばたつかせてしまえば楽だろうに、そうはしない。温順なたちなのだ。腕のひとふりもすればそのつもりがまるでなくても体重の軽い彼など跳ね飛んでしまうことを、ムゲンは出会ってまもないこの頃にはもうすっかり理解してしまっていた。
 手と手をあわせ、そうすると痩せた指の骨のような白さと、そして荒れて節くれ立った土のにおいのする指との違いが際立った。
 その一本ずつの違いと、そしてその数の同じさがあらわになる。

「ほら。いくつだ?」
「いち、に、さん、し、ご……あ。ほんと!」

 手と足の大きさをくらべ、教えはじめたばかりの数を使って指を数えあう。勉強と一緒だ。

「でも、ここ。ちがう」

 そう言って自身の耳に手をあて、ムゲンはふしぎそうに首をかしげた。「ああ――耳は、ほかの種族と違う。エルーン族独特の特徴だからな。島や地方や血筋によって、似る獣の系統も違う。ハーヴィンは小柄な体格に比してヒューマンより耳殻がやや大きくなり、ドラフ族は先端が尖る。ほら、このあたりが、ヒューマンなら丸みを帯びている……

 滔々と流れるような説明とともに、きゅっと片耳をつまんでやる――
 頑健なからだのどこもかしこも河原で日射しにあたためられた石のようだと思う反面、仔細にふれればきちんと柔らかい軟骨を感じる。そのことに奇妙な感慨を覚えながら、その尖りにかかる、うすい皮膚でできた溝をなぞった。自分のふれかたがあまりにも無造作で、ともすれば無遠慮であるということにそのとき、ネハンは気付かなかった。だって、それまでのムゲンはまるでくすぐりあいをがまんしている子どものような表情で、彼の手を避けるようなそぶりを少しもみせなかったから。

「あ、」

 ふいに水にはねる魚のように、語尾がはねた。
 拙いことばを扱う深い森のような声音は、掠れると存外に甘いのだった。遙か北の空域で樽ごと燻し、長い時間をかけて深く醸した酒のような複雑な甘さがその奥にあるのだと、そのときはじめて知った――そしてそれはまた、舌が痺れるような酔い心地に違いなかった。白く尖った犬歯の根が、なぜかひどく疼いた。それがなぜかはわからなかった。
 つと耳もとから頸へと滑った左手の指が、そのはずみに大樹のような首筋に走る太い脈をとらえて、それは駆け足のように拍動している――つられたように、耳鳴りのような感覚でおのれの獣の耳もとにも血が昇るのがわかる。ネハンの知るかぎり、それは胸騒ぎのする不安にも似ている。

 ――ここを切れば殺せるだろう。非力でひ弱な、己の手であっても。

 人体に精通した暗殺の知識が囁き、そのこと自体にぎょっとした。かれはあまりに無防備に、しかもなにも知らないまま、いまこうしてこの血塗られた一族のひとりの手にその命の熱量を預けきっている……

 ぱた、と。

 互いに動きをとめたまま、濡れた灰白の髪のひとすじから落ちたしずくがしたたった。
 それを頬に受けとめて、ムゲンの大ぶりの瞳がふしぎそうに瞬く。ふたりともせせらぎに半身を浸しており、陽光が視界のあちこちに乱反射する。ひどくまぶしかった。若いエルーンの特徴的な毛色は、その表情とともに殆ど色をなくして見えた。
 そうしてかれは、いま自分になにが起きたのかを理解しかねている。それはたとえば、体の暗い洞のうちを走る、かすかに光る火花のようなものだ。痛みのようで痛みでないものだ。強いて言えばそれは、ひとり暗い嵐の夜、鳴り響く雷鳴を聞くときにも似ている。低い気圧にからだの内側がひとりでにざわめき、血液は血管を泡立ちながら流れる――その感覚を嵐が過ぎ去るまで膝に額をおしつけ、ひたすらじっと耐えるのにも似ている。外敵のもたらす痛みを堪えるのはたやすいというのに、このただふれるだけの指さきは、それほどの鋭い違和感だった。他者の手というものがそれだけの威力ある感覚を与えるということを、ここまで誰にふれられることもせずに育ちきったかれは、このときはじめて知った。
 手は、濡れているのにどこか熱かった。これまで襲われたことのなかったその未知から、体を捻り逃れることはたやすかったろう。ただ、それをしようという思いつきがかれには最初からなかった――なぜって、ネハンはそれまで、ムゲンに痛いこともひどいこともしたことがなかったから。一度も。
 だから、かれが急にからだをこわばらせたネハンにしたことといえば、困った声で名前を呼んだくらいだ。それから、その背中をぽんぽんと優しく叩く――例えば、いつもネハンがムゲンの腕にしてくれるように。ムゲンを落ち着かせるために、彼はよくそれをする。その真似だった。できるだけやさしく、そっと。そう心がけてはいるけれど、力の強いムゲンには、どれだけうまく真似できているのかわからない。痛いことがなければいいのだが。

「ネハン。ネハン?」

 痩せた肩が、びくりと大きく震えた。拙いことばに呼びかけられるにつれて、歯の根が、無性にむずついた。肉を押し上げる、生えかわりかけの幼い牙のように。暗い土の粒にひそむ、蒼褪めた隠微な芽のように。自覚する熱は熱というよりも、背筋に走る寒気に似ていた。これは、一体なんというのだったか。――痛みがわからないのと同じく、感覚が鈍いネハンにはその理解が遠い。ただ強いもどかしさと、或る種の不安と、無性な恐ろしさとがこの、お互いのふれあった皮膚と皮膚とのあいだに存在している。……

「ネハン。だいじょぶ? ネハン?」

 ――なにをしているんだ、俺は、一体。

 おおきな掌が、そっと彼の背を叩く。ひたぶるにしがみついて泣き喚く子どもをあやして落ち着かせるときのようなしぐさだと思った。けれど眼前にあるのは、急に説明をやめてしまった相手に困惑する、おさなごめいた表情なのだった。

「あ……ああ、すまない。ぼんやりしていた……

 我に返ったネハンは身を捻って、添えられているだけの掌から離れようとする。大人ぶった表情を取り繕い、さも頑是無い幼子の手からすげなく離れるように。全部うそで、全部ごまかしで、全部自分ひとりの勝手な思い込みだ――いまなにを感じているのかさえ詳らかにできない俺自身が、一体この正体不明の熱量にどんな名前を与えられると言うのか。

「そう? ……さむい、よいない。ムゲンはこぶ!」

 気が付けば午後の陽は傾きかけ、水中にゆらめく互いの手も脚もしっとりと冷えていた。巨躯のドラフがざぶりと音たてて清流から立ち上がる。彼をかるがると抱えあげたムゲンはいつものようににこにこと笑っていて、ため息とともにこわばっていたネハンの表情から力が抜けた。こうして彼の近くにいるというただそれだけが、ムゲンにはいつでも楽しいのだ。
 水面から持ち上げられ、もどかしさも、恐ろしさも、不安も、急激に遠ざかる。
 ついさっきまでふれていた大樹のような首もとがごく間近にあり、そのことにまたすこし犬歯が疼く。ネハンはしらず目を逸らして、深く俯いた。例えば、潔癖な少年のように。

「あ。とり! あれ、なまえ、なに? ネハン」

 あたりは先刻となにも変わらない、うららかな初夏の河辺だ。

「ああ……カワセミか。水辺に棲む小鳥だ。嘴が黒く羽毛が鮮やかな青をしているのが雄、雌は――

 なにも変わらない。なにも変わらない。なにも。

 ムゲンが変わらぬ拙い問いかけをし、ネハンの説明におさなごのような表情で耳かたむける以上、きっとそうなのだ――

 指さきにじんとした熱がまだ残っている。この若いエルーンがやがて自身の思うように動かない手に視線を落としその正体について考えるようになるのは復讐の途次と長い眠りとを経てまだずっと先の話だし、星屑の街で過ごすようになった巨躯のドラフが自身の耳もとを押さえて時折ふしぎそうに首をかしげる癖については、彼以外の誰も長らく正体を知らないままだった。