takisaka
2021-08-31 18:35:26
1331文字
Public ネハムゲ
 

言語辞典:翻片

こくしん直前ネハムゲでムさん側のをちょろっと。

来る[く-る]:
動詞。
遠方から己へと向かう、もしくは向かっていることを指す。
言い換えれば、彼は今、ここにはいない。
過去形[来た]は、遠方から己へと辿り着き終えたこと。
言い換えれば、彼は今、ここにいる。

◇◇◇

 泣き疲れて眠りに落ち、そして目覚めたとき、曇り空の色をしたエルーンの姿はもうなかった。日はとうに暮れていた。

 ――ゆめ。

 ここにない、眠りの中にしかない、手が届かないもののことを、夢という。
 ならば、全てが夢であったのかもしれなかった。
 うつぶせになって眠るのにはかれの角は重すぎるので、こうやって目覚めると、いつもすこし頭が痛い。その頭で、ぼんやりと考える。

 ――ゆめかな。ぜんぶ。ネハンも。ムゲンも。……

 出鱈目の、在るはずもない、会うはずもない、ずっと名付けられないままでいた子どもの、未生の夢であったのかもしれない。或いは返事などない、こだまひとつ返らない、深い森にひとり歌うだけの夜のさなかに一匹の獣が垣間見た、夢の話であったのかもしれない。
 ないことは当たり前だった。ずっと。いつでも。
 飢えに対して食べ物がないこと、自分というものに名前がないこと、幾ら声を涸らし呼び続けても返事がないこと。
 渇きに対して水がないこと、襲い来るあらゆる痛みに対してなすすべがないこと、血の痕を引き摺りながらも大きくなり過ぎたこの身を隠すための場所がないこと。
 いつだって、それは、かれにとって息をするように当たり前のことだ。ずっとそうだったのだ。それに戻るだけだ。夜にだけ咲く花を葉ごもりに探すような、そんな果敢ない夢を見たのだ、きっと。

 ――たのしい、やさしいゆめ。ある、あった。たくさん。……

 それでももう一度そこに戻りたくて、ゆるゆると目を閉ざそうとする――

 ――おやすみ、ネハン。……

 そう呟いてから、かれははっと目を見開く。

(知らないのか――……そうか。挨拶、だ。いまのは。おはよう、は朝。こんにちは、は昼に使う。夜眠るときには――

 まだ覚えている。
 まだ思い出せる。
 挨拶も、自分の名前も、それを呼んだ人の名前も。
 世界には、すでに言葉があった。ならばそれはそのまま、彼がここにいたことの証明でもあった。
 とび起きようとして背中の痛みに呻き、そしてそこに巻かれている包帯もまた、夢ではない。かたわらには人の座ったらしき跡があり、幾らかの草が折れたままに残されていた。だからそこにうずくまり、巨躯のドラフはもう一度、心ゆくまで泣いた。

◇◇◇

 いまでは忘れられて久しい、そんな航路で辿り着いた辺境の島である。
 そこでその日その貨物艇が乗せた負傷者はドラフ族男性一名、意識はあるものの茫洋としている様子だった。
 失血は激しかったようだが、人並み外れた体躯であり、体力はすぐ戻るだろう。艇が辿り着く前に、負傷は誰かに応急手当をほどこされていた。商会の契約に基づいての救護であるから、針路はもっとも近くの島ではなく負傷者の希望を容れることになっていた。
 乗員たちにすこし怯えながらも、おどおどと不器用な喋り方で、かれは自分の目的地を、星屑の街、と言った。