らい
2024-02-12 13:39:03
12703文字
Public こはひめ
 

秘密の銃弾

こはひめ(バトラーパロ)/2021.4.1




 わたしが日記をつづるようになったのは、小学生のころからでしょうか。毎日、欠かさずペンを握りしめてきました。内容は、その日によって、さまざまです。「雨の日はどこにも行けないから、ひどく退屈だわ」の一文で終わることもあれば、「今日は、久しぶりにお父様が帰ってきたのよ!」と、心が踊ったその瞬間を、ページの隅まで埋め尽くすこともあります。紙に記した言葉の数は、日ごとに変動しましたけれど、きっと今日の出来事は、いままでのどんな日常よりも、濃厚な文章となるに違いありません。


 昨日まではどしゃ降りの雨でしたのに、今日は、雲ひとつない晴天の空が広がっていました。窓を開けると吹き込む風の温もりは心地よく、春のにおいがします。空を駆ける鳥たちの鳴き声も、こころなしか歌っているようでした。絶好のおでかけ日和です。このような日に外で食べるお弁当は、きっとほっぺたが落ちるほどに、おいしかったことでしょう。
 けれども、今日のわたしは、残念ながらお外に出ることが、かないませんでした。なぜなら、お勉強の先生がいらっしゃるからです。わたしは、いまの生活におおむね満足していますが、七歳のころから十七歳の現在に至るまで、お勉強の日を強いられるのが、唯一の不満でした。お友達からはよく驚かれるけれど、わたしは机に向かって、ジッと座っているのが苦手なのです。
 屋敷に従えている、五人の執事に訴えかけたこともあります。晴れの日にお勉強なんて、残念だわ。お庭でクッキーを食べながら、みなさんとお茶会できたら幸せですのに。わたしの、能天気な願望に対する反応は、執事によって異なりました。真面目なソワレは、「将来のお嬢様ご自身の為、いまはご辛抱くださいませ」とわたしを丁寧に説得します。優しいニュイは、「疲れたときは、甘いものがよく効きますよ」とこっそりお菓子をくれるけれど、いつだって美しいマタンが眉を歪めて、「お嬢様を甘やかさないで」と、お小言を垂れました。そして、執事長のオーロージュは、「お嬢様の辛さ、このオーロージュにも痛いほど伝わります」と理解を示しながらも、「ですが、若いうちの苦労は、必ず糧となるはずです」と居心地が悪そうに告げるのでした。立場上、毅然と振る舞わなければならないでしょうから、致し方ありません。それ以上を求めるのは、酷な話でしょう。むしろ板挟みにしてしまって、わたしのほうこそ、申し訳ない気持ちでいっぱいです。
 しかし、ミディだけは、他の四人とは違いました。一見、品行方正の完璧主義者に見える彼ですけれど、意外とやんちゃな一面があるのです。例を挙げるとキリがありませんが、幼いころ、脱走計画を企てたわたしに「秘密のルートがあるのです」と耳打ちしてくれたり、お父様への直談判にあたって「いっそ脅しましょうか。お勉強の日を減らさないとセクシーな不良になってグレますよ、と」なんて、助言してくれたことがありました。もちろん、露出度の高い服装をするのはそれなりの勇気が必要でしたから、ミディお得意のセクシーにはなりきれませんでしたけれど、実際、週に五回も入っていたお勉強の日が、週三回まで減ったのです。ミディのおかげです。ミディは「お嬢様とミディが計画する、秘密の大作戦。無事に、成功したのです」と、お茶目に笑いました。マタンも、ソワレも、ニュイも、オーロージュも、子どものころからずっと大好きですけれど、ミディとの「秘密」は、わたしにとって、とくべつなものでした。


 お勉強へのストレスは、そう簡単にはなくなりませんが、逃亡を計画しない程度には、解消されたはずでした。しかし、最近ではふたたび不満が募りはじめています。七歳のころから教えて下さったお勉強の先生が、ご懐妊で、しばしの休暇を取ることになったのです。ずっと子どもが欲しいと願っておられましたから、わたしにとっても喜ばしい出来事でしたけれど、どちらかといえば、心にぽかんと穴が開いたような、なかば喪失にも近い感情を覚えました。お勉強は好きではありませんが、先生とは長い付き合いでしたから。
 後任の方は、お父様の知り合いから選ばれました。いままでの先生のように、物腰が柔らかくて、丘に咲く花のように微笑んでくれる……わたしは、そのような方がいらっしゃるものだとばかり考えていました。ですが、現実はそう甘くありません。新しくいらっしゃった家庭教師の方は、たった一問でもつまずくと、辛らつな言葉を浴びせて叱る、とにかく厳格な方でした。何人もの教え子を、名門大学に送りだしているそうですから、実績はまさしく本物なのでしょう。けれども、お勉強の時間が訪れるたび、ひどく精神がえぐられるのです。窓の外できらめいている太陽が、モノクロにかすむぐらいに憂うつになります。
 わたしはもう十七歳です。昔のように無鉄砲に脱走を企てるほど、幼い子どもではなくなっていましたが、「なぜ、このような簡単な問題さえも解けないのか?」「きみの脳みそは、置き物か?なにも詰まっていないのか?」と首をひねる先生に物ともしない、強じんな精神を持った大人でもありません。わたしの周りには、優しいひとたちばかりでしたから、これが世間のふつう、これまでが甘え、と言われたら、そうなのかもしれません。恥ずかしい話、わたしは、傷つくことに慣れていなかったのです。これだからお嬢様は、と揶揄されても仕方のないことです。
 それでも、温かい春風のような、優しい言葉がほしいときがあります。真っ先に向かったのは、ミディの元でした。他の四人が頼りない、というわけでは決してありません。屋敷に仕えている執事たちはみんな優しいけれど、わたしと「秘密」を作ったあの日から、ミディはもっとも信頼のおける存在だったように思います。
 家庭教師の先生がいらっしゃる前に、わたしはミディとお喋りをしたくって、広い屋敷を歩きまわりました。なんでもいいから、はなしを聞いてほしい。昔みたいに、脱走計画を始動するわけにはいきませんけれど、きっとミディは「先生の背広に、カエルを仕掛けましょうか?」なんて、いたずらに微笑むでしょう。お父様のお知り合いに、無礼を働くわけにはいきませんから、もちろん冗談なのですけれど。そんな茶目っ気にあふれるミディのそばにいたら、おてんばな少女時代に戻って、底抜けの元気を取り戻せるような気がしたのです。
 ですから、執事長のオーロージュに声をかけました。花瓶の水を差し替える彼に、「ミディは、いま、どこに?」と、早口で尋ねました。ミディと一分一秒でも長くお話したいから、少しでも早く返答を聞きたかったのです。オーロージュは、「ミディなら、お客様と大事なお話をされていますよ」と申し訳なさそうに告げました。ああ、なんてこと。頭のなかで思い描いた妄想にひびが入って、柔らかな笑みを浮かべるミディの破片が、砕け散っていきます。粉々になった夢のかけらは、わたしの心臓に突き刺さって、じくじくと染みました。会いたいときに限って、会えない。胸のうちに、どんどん膿が溜まっていくようでした。心の底から、がっかりしたのです。
 でも、このときは知りませんでした。心には、もっと底があるということ。ほんとうの衝撃は、こんなものでは済まないということに。


 わたしは、わがままな少女を卒業したつもりでした。お勉強が嫌だと、足をバタバタと震わせて駄々をこねません。お外で遊びたいからといって、逃亡ルートを考えたりしません。お勉強の日が減らないなら不良になるといって、お父様を困らせることもありません。でも、ああ、嫌だなぁ、また、こんな問題も解けないのかと怒られるのかなあ、冷たいまなざしに耐えながら鉛筆を握るのかなあ、と不安になる気持ちを吐露することだけは、許してほしいのです。「どうされましたか?」と心配そうに顔を覗きこむオーロージュに、なんでもないわ、ありがとう、と微笑んで、わたしはその場を後にしました。
 お客様との用事って、一体なんでしょう。いつ終わるのでしょう。それが終わったら、ねえミディ、わたしの話を聞いてくれる?甘い期待を抱きながら、応接室の前を通り過ぎようとしました。ところが、ドアが少しばかり空いていたので、わたしは思わず足を止めたのです。
 わずかに開かれた扉のすきまから、お客様とおぼしき声が聞こえます。わたしはほんの出来心で、そっと、お部屋に歩み寄りました。むろん、「ミディ!わたしの話を聞いて!」と乱入するほど常識知らずではありませんから、こっそりと聞き耳を立てて、どれくらい商談が進んでいるか、確認する……ただ、それだけのつもりでした。もしも、説教好きのマタンに見つかったら、「覗き見という行為自体が、マナー違反ですよ」と厳しく叱られるでしょうけれど、このときのわたしは、ほんとうに疲れていたのかもしれません。もしも、ミディの用件がすぐに終わるようであれば、ドアから出てきたタイミングで捕まえられるかもしれない。だとしたらラッキーだわ、なんて、楽観的に考えていました。


 昔、ソワレに読み聞かせてもらったニンジャの絵本を思い返しながら、わたしは忍び足で、息をひそめながら、お部屋のなかを覗きこみました。しかし、薄桃色の髪が、ちらりと見えたので、慌てて壁にすり寄りました。
 ミディと会話していたのは、なじみのお客様。オウカワさん、という男性の方です。わたしが幼いころから、定期的にやってきて、なにやらミディと商談しているようでした。以前はミケジマ、と名乗る、森の熊さんのように丈夫な身体つきの男性も付き添っていましたが、ここ数年は、もっぱらオウカワさんしかいらっしゃいません。
 オウカワさんは、屋敷を守るセキュリティの保全や、銃器の販売をしている組織の、武器商人だと聞いています。実物の銃は見せてもらったことがないけれど、森の夜を思わせるほどに真っ黒で、ずしんと重たいものであることは、本の知識を通して、知っていました。時と場合によっては、尊い命を奪う凶器であることもわかっています。わたしは、そんなもの要らないわ、と感じているのですけれど、ミディは「お屋敷の安全、そしてお嬢様の平穏を守るためには、必要なものなのですよ」と言い聞かせてくれました。資産家のお父様と、その令嬢であるわたしの命がおびやかされないための、魔除けのようなものだということも教えてくれました。


 オウカワさんの背丈はあまり大きくなくて、どちらかといえば庇護欲を掻き立てる、小動物のような顔つきをしておられます。けれども、あじさい色のまなざしには鋭いトゲがあり、どこか影がありました。ひなたぼっこをしながら傘を広げて、雪だるまの横でひまわりの束を抱えているような、矛盾するふたつの顔を持っている。掴みどころのない方です。
 第一印象は、最悪でした。わたしが幼い少女だったころ、あれは十年ほど前になるでしょうか。お勉強よりもお人形あそびがしたくって、屋敷内を駆けまわっていたときの話です。怒りんぼうのマタンから逃げまわり、かくれんぼで籠城作戦を決行するために、応接室に侵入したのです。ちょうどミディが商談している最中で、そこには当然、オウカワさんもいらっしゃいました。
 ところが、オウカワさんは切羽詰まった形相で、ミディの細い腕を、ソファーに縫いつけていたのです。幼い頃のわたしは、宇宙からわるいひとがやってきて、だいすきなミディを傷つけようとしている!とショックを受けました。
 ミディは、硬直してしまったわたしを見るなり、「大丈夫ですよ、お嬢様」「オウカワは、仕事がたいへんで」「眠れない日々が続いていますから」「ミディを、抱き枕にしようとしたのです」「まだまだ子どもなのですよ」と優しく微笑みました。当時の記憶はおぼろげですけれど、そう告げたミディの表情は、はっきりと覚えています。
 一方で、「なんやそれ」「まぁええわ」「堪忍なぁ、お嬢さん」と続けるオウカワさんは、果たしてどうだったでしょう。眉をゆがめて睨みつけたのか、頬を赤らめて笑ったのか、あいまいな記憶ばかりが脳裏をよぎります。その時のわたしは、ミディを抱き締めて、「宇宙人さん!あっちに行って!」と生意気に泣きじゃくり、両手をくじゃくのように広げて、子どもなりに守ろうとしていたものですから、オウカワさんの表情を、ちっとも気に留めませんでした……いまになって、思い出したことが、もうひとつあります。ミディの首筋に、赤い跡がついていました。何年も経った今でこそ、武器商人のオウカワさん、で済んでいるけれど、当時は「ミディが、かまれちゃった!」と恐怖を覚えたものです。
 あのときのオウカワさんは、紛れもなく、屋敷を侵略しにやってきた宇宙人でした。
 さんざん騒ぎ果てて、疲れて寝てしまったのか、気が付いたときには朝でしたから、その後のことは、よく覚えていません。


 遥か昔の記憶を呼び覚ましていると、ふいに「お嬢さん」と声を掛けられました。輪郭はぼやけているのに、それでいて色濃く残り続ける思い出にひたっていたわたしは、ヒッ、と喉を鳴らして、後ずさりました。いつのまにか、オウカワさんが目の前に立ち尽くしていたのです。その背後から、「いけませんよ、お嬢様」とミディが現れました。幼いころに読んだ、絵本のニンジャには決してなれません。姿を隠すことができなければ、逃げることもできない。わたしは、興味本位に覗き見をしようとした自分自身を、ひどく恥じました。
 しかし、オウカワさんはわたしをとがめることなく、「お嬢、ぬしはんに話があるんとちゃう?」とミディに視線を投げたのです。なんと、わたしの期待どおり、ちょうどよいタイミングで商談が終わったのでした。「お嬢様、どうかしましたか?」と首をかしげるミディに安心して、わたしは広い胸に飛びこみました。
 あのね、ミディ。わたしね、あなたに話したいことがたくさんあるのよ。
 ミディは、「おやおや」と困ったように笑って、「お勉強の時間まで、ミディはお嬢様の貸し切りなのです」と頭を撫でてくれました。オウカワさんは、その横で「お嬢はいくつになっても、甘えん坊やねえ」と爽やかに笑いました。きっと誰もが、好青年の振る舞いと表現するでしょう。ですが、どうしても違和感をぬぐえないのです。
 いくつになっても?わたし、オウカワさんの前で、何度もミディに抱きついたことがあったかしら?
 疑問をかき消すように、ミディは「美味しいお紅茶を、ご用意いたします」と一礼しました。額から垂れる前髪は、雨のはごろものようにつやめいています。女のわたしでも、おもわず見惚れてしまうぐらいの美しさです。ずっと一緒にいるわたしさえも魅了されるのですから、はじめて会ったひとは、恐らく釘づけになってしまうことでしょう。隣のオウカワさんは、ずっとミディの横顔を見つめていました。なぜ?どうして?……熱っぽいまなざしに、うっかり火傷しそうになって、わたしはすぐに視線を反らしました。


 オウカワさんは、お父様とも大事なお話をするそうです。「ほな」と立ち去るオウカワさんの背中を見送ったあと、わたしはお勉強の時間まで、ミディと楽しくおしゃべりしました。新しくいらっしゃったお勉強の先生に慣れなくって、辛い。お外が晴れているのに、おうちに缶詰状態なのは悲しい。わたしばかりが愚痴をこぼすのはつまらないから、ミディにも、なにか話したいことはない?と話を振りました。
 先日、わたしが学校に通っているあいだ、マタンの知り合いと自称する作曲家がとつぜん屋敷にやってきて、床一面に楽譜を散りばめながら、好き放題に暴れたこと。ソワレが目の敵にしているコランダム・K・財閥のご子息がやってきて、あやうく乱闘騒ぎになりかけたこと。眼鏡をなくしたニュイが階段からすべりおちて、お父様が大切にしている花瓶を割ったこと。焦ったオーロージュが状況を説明してくれたけれど、肝心の部分を噛むものだから、結局なにが起こったのかスムーズに把握できなくて、事態の収束に時間が掛かったこと。「皆さん、自由すぎるのです。毎日、ゴチャゴチャとうるさいのですよ」と呆れるミディがおかしくって、わたしは気品もなにもかも投げ捨てて、けらけらと笑いました。
 ミディは、執事たちのエピソードだけではなくて、オウカワさんのことも喋りはじめました。「最近、オウカワがお気に入りのケーキ屋さんを見つけたようなのです」「オウカワは、生クリームの甘さが控えめでちょうどええだの、使うてる苺の産地が知りたいわだの、延々と話していましたよ」「オウカワの無垢な一面は、昔から変わりません」「オウカワを止められなかったミディにも、非がありますが。あまりにも無邪気に話すので、仕方なく……最後まで、聞いてあげました」「挙句の果てに、オウカワは……。今度ミディはんも行こ、と誘ってきたのです」「ミディも、暇ではないのですよ。はぁ……。オウカワは、一体なにを考えているのでしょうね」………オウカワが、オウカワに、オウカワの、オウカワオウカワオウカワオウカワオウカワオウカワオウカワオウカワオウカワオウカワオウカワオウカワ、呆れたそぶりを演じながらも、その声は、甘い蜜が垂れたハニートーストのようでした。ミディが、オウカワさんの話題を振ってくるのは、いまに始まったことではありません。嬉しそうにお喋りするミディを見ていると、わたしも温かな気持ちになります。けれども年々、いえ、日に日に、オウカワと呼ぶ声の音色が、柔らかくなっているように感じられるのです。
 わたしは相づちを打ちながら、「お嬢はいくつになっても、甘えん坊やねえ」と笑ってみせたオウカワさんを思い出していました。ほとんどお話したことがないのに、わたしの素性を知っているのは、きっとこんな風に、ミディがわたしのことをお喋りしているからに他なりません。わたしがこうして、ミディと一緒にお茶を飲むように、ふたりだけの時間が、あるのでしょう。だから、オウカワさんは、わたしのことを知ったふうに評価したのです。


 ミディとのお茶会は、あっという間に終わりました。塞ぎこんでいた心が、温かく溶けていく一方で、わたしの脳裏にはオウカワさんの姿が焼きついて、離れませんでした。そうして迎えたお勉強の時間にも、余計な考えごとをしていたために、先生がお出しになられた問題をひとつ、間違えてしまいました。でも、先生は、いつもみたいに厳しく叱りませんでした。それどころか、「これまで、傷つけてしまって、すまないね」と詫びたのです。きっと、わたしの話を聞いたミディが、それとなく伝えておいてくれたのでしょう。厳しい指導方法には変わりありませんでしたけれど、それなりの人情はあるようです。わたしの性格に合わせて、言葉を選んでくださっているのがわかりました。お勉強の日は、いつも心臓が破裂しそうなぐらい緊張していましたけれど、今日は、少しばかり肩の力が抜けました。ミディのおかげです。
 穏やかなこころで問題を解いていると、とつぜん雷が鳴りました。そして、けたたましい雨音が窓を叩きつけるのが聞こえました。さきほどまで晴れていたのに、急激に天気が崩れはじめたのです。ざああ、と降りしきる雨は、昨日以上に強くなっていきます。先生は、「橋は、大丈夫だろうか?」と、しきりに外を確認しておられました。屋敷までの道のりは、川を隔てた一本道です。雨が強くなれば、当然ながら、水位が上がってしまいます。そうなると、橋が沈んで、先生は帰れなくなってしまいますから、心配するのも無理はありません。早く、止むといいのですが、とだけ願って、わたしは問題集に記された数式に、ゆっくりと視線を下ろしました。
 いやな予感は、的中するものです。お勉強の時間が終わった直後のことでした。凄まじい雨の影響で、橋が封鎖されたとの一報が入ったのです。お父様のご厚意で、先生は一晩、屋敷に泊まっていかれることになりました。ホッとした表情で、お父様に「ありがとう」と告げる先生の後ろ姿を確認しながら、わたしも胸を撫で下ろしました。
 先生の指導はあまり得意ではないけれど、決して嫌いではありません。遠方はるばる来てくださっているのです。しばらくのあいだお世話になるのですから、わたしも相応の努力をしなくては。
 気づけばわたしは、前向きな気持ちになっていました。


 オーロージュに案内される先生を見送って、わたしは早速ミディのもとに向かいました。もちろん、ミディにお礼を伝えるためです。屋敷を進むステップは軽やかで、まるで天使の羽が生えたようでした。一分でも、一秒でも早く、「ありがとう」と、伝えたかったのです。一流シェフがお夕飯をこしらえているキッチン、夜空に浮かぶ月のようなシャンデリアがぶら下がっている大広間、もぬけの殻になっている応接室、お屋敷のなかをひたすら渡り歩きましたが、ミディの姿は、どこにもありません。この雨ですから、美しい花々が咲き誇る庭園にもいないでしょう。
 残念だわ。わたしはため息をついて、書斎に向かいました。お勉強の時間は苦手ですけれど、本を読むのは大好きです。しょっちゅう足を踏み入れては、お気に入りの一冊を探索するのに明け暮れていました。執事たちが忙しいときは、よく本の世界にのめりこんでいます。ページをめくるだけで、別の世界に飛ぶことができる……ただのお嬢様であるわたしが、ワンピースを脱ぎ捨てて、勇者の剣を持ち、ドラゴンと戦えるのです。わたしにとって、本は、素敵な旅に連れていってくれる魔法のじゅうたんでした。
 そういえば、ミディも、寝る前にはよく本を読んでいると話していました。特に、ミステリー小説が好きで、わたしにも、「おすすめの本があるのですよ」と教えてくれたことがあります。犯人の詳細を伏せながら、熱心にあらすじを説明してくれるミディに嬉しくなって、わたしはさっそく、ミディのお墨付きであるそれを取り寄せました。
 でも、途中で読むのをやめてしまいました。ふだんは冒険ファンタジーばかりを読んでいるものですから、単純にわたしには合わなかったというのもありますけれど、なにより、いくつもの秘密を抱えながら嘘をつき、騙しあいを繰り広げ、それでいて友人という関係性を主張しつづける登場人物たちに、ちっとも共感できなかったのです。胸に詰まった想いをさらけだし、真実を打ち明けられる間柄こそが、ほんとうの友達でしょう。わたしは、心底そう信じていました。わたしが子どもたるゆえんは、そこかもしれません。こっそり脱出計画を練って、「お嬢様と、ミディだけの内緒ですよ」と耳打ちしあうような、遠い日の約束だけが、秘密の定義だと考えていたのです。


 書斎に入ったわたしは、一番奥のスペースに向かいました。紙のにおいが充満する書斎は、いつだって落ち着きます。経済学、社会心理学、今のわたしには到底、縁がない並びを通り過ぎたそこに、わたし専用の本棚があります。お父様は屋敷にいないことが多いけれど、わたしが喜びそうな冒険小説をたびたび買ってきては、こっそり置いてくれるのでした。
 さっそく見慣れない背表紙がありましたから、わたしは頬を緩ませながら、指を伸ばしました。しかし、その時でした。強引にドアを開く音が聞こえたのです。わたしは、肩をすくませながら振り返りました。なんと、驚くことに、入室してきたのはオウカワさん、に、手首をひかれるミディでした。
 なにか、見てはいけないものを見てしまったような気がして、わたしは、とっさに物陰に隠れました。どうして、オウカワさんがまだお屋敷にいるのでしょう。お父様との密談が、長引いたのでしょうか。そこまで考えて、そういえばいまお外は、豪雨に見舞われているということを思い出しました。帰り道の橋、川にのまれて、身動きが取れず、とんぼ返りせざるを得なくなったのかもしれません。
 わたしはどくり、どくりと泡立つマグマのごとく跳ねあがる心臓を、両手で押さえつけました。そして、息をひそめながらもういちど、オウカワさんを確認して……素っ頓狂な声が出そうになりました。オウカワさんが、ミディを壁に追い詰めて、細い手首を、乱暴に押しつけていたのです。
 わたしが七歳の少女だったなら、宇宙からやってきたわるいひとだと勘違いして、きっとこの場を飛び出していたでしょう。ミディになにするの!と、手当たり次第に本を投げていたかもわかりません。でも、十七歳になったわたしは、黙って眺めることしかできませんでした。だって、ミディは、嫌がるそぶりをひとつも見せないのです。やめてください、とすこしでも首を振ってくれたなら、いますぐにでも飛びだしていくのに。

 オウカワさんは、くちびるが接触してしまいそうなぐらいに近づいて、頼りなさげに眉を下げました。ややあって、「わし、十年も待っとったんやで」と、幼子のように告げる彼に、わたしの思考回路が、片っ端から断線していくのがわかりました。十年。じゅうねん。いったい何年のことで、わたしが何歳のころの話でしょう。単純な計算すらもおぼつかなくなるほどに、混乱してしまいます。胸の鼓動も、やかましく跳ねあがりました。静寂なひとときが漂うこの書斎に響きわたっていないかどうか、心配になるくらいに。
 ミディは、続けました。「さすがのミディも、降参なのです」とオウカワさんのあごをなぞり、首をかしげて、耳元で囁きます。そして、ぴくり、と身体を震わせるオウカワさんに、「本気で想ってくれているのですか?」と、いたずらに微笑んだのです。わたしが知っている、ミディのお茶目な部分でした。それなのに、どこか異次元のまぼろしに感じるのは、なぜでしょう。顔の輪郭に触れるミディの指を、ねっとりと絡めとって、オウカワさんは拗ねたように頬をふくらませます。お互いに、ビジネスの関係であるはずですのに、仕事仲間の一言で片づけられないなにかが、悠然とただよっていました。なにひとつ理解できないままに、ふたりの会話が流れていきます。


「相変わらず、いけずなお人やわ。わしの気持ちは、十年前から変わってへんっちゅうに」
「確かに、十年後に出直してください……と切り出したのは、ミディなのですが。十年前は、貴方のことを子どもだと思って……子どもゆえの暴走だと判断し、丁重に断ってあげたのです。律儀に約束を果たすとは、まさかミディも想像していなかったのですよ」
「二個しか違わへんのに、幼子扱いしおってからに。本気やっちゅうとるやろ、ああ?」
「ふふ。たんかを切るなんて……やはりオウカワは、お子様なのです。ああ、愛おしい」
「真面目に聞いとん?」
「ええ、ミディはいつでも真剣ですよ。ですから、もういちど教えてください」
「何回、言わせんねん……
「何回も、言わせたいのですよ。さあ、大人として見てもらいたいなら、はやく言うのです。今の、オウカワの言葉で」


 わたしは、ごくりと唾を飲みました。すこしばかりの沈黙を置いたあと、オウカワさんは、愛おしげにミディを見つめたあと、薄いくちびるを開きました。そして、低い声をしっとりと浸透させながら、「ぬしはんが、好きや」と、まっすぐに告げたのです。
 その後、ふたりの顔がおもむろに近づいたので、わたしは、目を背けました。空から降る雨とは異なる、水の音……書斎に広がる紙のにおいを切り裂いて、わたしの鼓膜いっぱいに響きわたりました。ミディが、「まだ、仕事が、残っているのです。続きは……夜にでも、また」と意味ありげに制止するまでの時間は、そこまで長くなかったかもしれません。しかし、わたしには無限を感じさせる時間でした。

 わたしは、これまでの記憶を、二周、三周、いえ、それ以上、両手では数えきれないほどにたぐり寄せながら、がむしゃらに呼吸を整えました。
 宇宙からやってきたわるいひと、オウカワさんと初めて会ったあのとき、首筋に赤い跡をくっつけたミディは、泣きじゃくるわたしに言い聞かせました。「オウカワは、仕事がたいへんで」「眠れない日々が続いていますから」「ミディを、抱き枕にしようとしたのです」「まだまだ子どもなのですよ」と、困ったように笑いましたけれど、今、ようやくわかりました。あれは、全部ぜんぶ嘘です。一人ひとりの人生はきっと大変でしょうし、眠れなかったのも事実かもしれませんが、仕事が原因ではありません。オウカワさんは、ミディが好きで、すきで苦しくて仕方がなくて、あの日、無理やり大人になろうとしたのです。

 ひとつの結論に至ったとき、ドアがばたりと閉じられた音がしました。短いようで長い時間です。秘密のひとときがようやく終わったことに、わたしは安堵しました。
 ところが、物陰からひょっこり顔を出すと、扉の前には、まだ、オウカワさんが立ち尽くしています。いつか遠い日に読んだ絵本のニンジャの心得を、頭のなかで繰り返しながら、わたしはふたたび息を殺しました。
 オウカワさんは、一足先に出ていったミディの余韻を確かめるように、ふう、とため息をつき、耳たぶを引っ張っていました。わたしは額ににじむ汗の粒を、手の甲で拭いながら、はやく外に出ることだけを考えていました。お部屋に、帰りたい。ベッドに、横になりたい。そして、みだれた心を整理するために、日記を書かせてほしかったのです。
 わたしの願いが通じたのか、オウカワさんはようやくドアノブに手を掛けました。わずかに扉が開かれ、廊下の向こうから光が射し込みます。見慣れた日常のひとかけらに触れて、安心しかけたそのとき、オウカワさんは振り返ることなく、ぼそりとつぶやきました。「お嬢、堪忍な」……静寂のなかから解き放たれたその声は、まるで銃弾のように、わたしの胸をまっすぐと撃ち抜きました。


 わたしは、幼かった少女のころから、ミディを知り尽くしてきたつもりです。いろんな秘密を共有しては、「内緒ですよ」と耳打ちしてくれるミディとの時間を、とくべつだと思っていました。でも、そんなのきっと秘密のうちに入りません。わたしが知っている秘密というものは、妖精たちが舞い踊る、おとぎ話の世界でしか通じないものでした。ミディに勧められたミステリー小説を読んで、どうしてみんな嘘をつくんだろうって、本当のことを打ち明けないんだろうって、友達ならばなんでも話せるはずなのにって、そう信じていましたけれど、まったく違いました。
 ほんとうの秘密は、だれにも言えないんです。ひと知れず、ふたりきりで温めていくものなんです。わたしは、知りませんでした。十年ものあいだ、ずっと。