らい
2016-02-21 14:55:18
6167文字
Public りついず
 

エゴとエゴにさよなら

りついず版ワンドロ・ワンライ企画様/テーマ「ありがとう」/プチ喧嘩するりついず



 チョ~うざい。チョ~ありえない。チョ~ムカつく。
 泉は唇を引き結びながら、歯磨き粉のチューブを絞り出す。濃白のペーストが万遍なく行き届いたところで、ブラシの先端を咥内の奥歯に招いた。ミント味の清涼感が歯茎を覆い尽くしても、頭の隅々に浸食している憤怒が消え去ることはない。脳全体を犯し尽くす憤激の荒波が、眉間の裏側でマグマのように渦巻いている。

 化粧水、乳液、ヘアウォーター、ワックスが整然と並べられた洗面台は、手垢も埃も影すら残さないほどに入念に掃除されている。純麗の概念のみが存在を許された空間で、ただ一つだけ、歪に映るものがある。鏡の向こう側に佇んでいる、泉自身の姿である。鏡の中の泉は、忌々しげに曇り切っていた。常にカーブを描いているはずの口角は斜めに引き下がり、切れ長の瞳は怒気に溢れた蒼に濁っている。


 泉ちゃん、落ち着いて。そんな風にイライラしていたら、せっかくのキレイな顔にシワができちゃうわよぉ。
 夢ノ咲学院時代、鳴上嵐に口酸っぱく受けていた指摘がここぞとばかりに思い返される。自身の意に反する出来事や想定外の事象に遭遇した際、例えば、チョ~ウザイとか、チョ~ありえないとか、チョ~ムカつくとか―――鬱憤にまみれた負の臭素を輪郭全体から滲ませてしまったとき、嵐にしょっちゅう「泉ちゃん、”億の価値”をマイナスの大赤字にしちゃダメよ。ファンの子たちが幻滅しちゃうわ。ほら、笑顔っ笑顔っ!」と頬を突かれていた記憶がリフレインする。気安く触らないでよ、気持ち悪いなあ!あの頃は、そんな風に手を跳ねのけていたけれども、いま思えば嵐の親切心はありがたい助言であった。

 学院卒業後は嵐と接する機会が減り、以前ほど”イライラしている時の顔”にダメ出しされることは無くなった。その代わり、ふと鏡を見やった時、自身の歪んだ表情に気付くことが多くなった。今がまさにその時である。『人気モデルの瀬名泉』とは似ても似つかない。縄張り争いに敗北を喫した猫のような、不機嫌な瀬名泉が鏡に映り込んでいた。原因は分かり切っている。今から数えること五分前、”同居人”とのやり取りに、余計なエネルギーを消費してしまった所為である。


 ジャケットは椅子の背もたれじゃなくてハンガーに掛けてよね。靴は脱ぎっぱなしにしないで箱の中に収納してよ。洗い物は雑菌が繁殖するから速攻で片づけて。再三注意しているのにも関わらず、”同居人”が返す言葉は大抵、決まっている。ごめん忘れてた。さっきまでは覚えてた。あとでやろうと思ってた。―――同居人との共同生活から、早二ヶ月が過ぎようとしている。それなのに、同居人の悪癖はてんで治りそうにない。今日も今日とて、仕事を終えて家に帰宅した直後に見せつけられた光景が、『やったらやりっぱなし』のワンシーンだったのだ。

 トーク番組の収録時間が長引いたうえに、共演タレントにしつこく連絡先を聞かれて。おまけに、同居人の怠惰な一面をわざわざ再認識させられて。最終的にはこれまでの我慢が連鎖式の起爆剤となり、泉はついに激昂した。

 ふざけるのも大概にしなよ、俺はあんたの世話係じゃないっての!

 今月号の表紙を飾った雑誌、スマートフォンの充電器、テレビのリモコン、引っ越しの際に購入したクッション―――泉は視界に入った全てのものを、”同居人”に投げつけた。そして痛った、と呻き声を上げる同居人の横を通り抜け、現在に至るというわけである。


 同居人の生活スタイルに怒りをぶつけたことは幾度もあったけれども、物に当たるという暴挙に出たのは初めてのことだった。ドラマや映画で所構わず物を投げつける人物に、冷静さを欠いていると辟易していた昔の自分が懐かしい。それと同時に、短絡的な行動に走ってしまったことにひどく嫌悪する。客観的に分析してみても、癇癪以外の表現方法が見つからない。単純にかっこ悪い。

 チョ~ダサイ。―――泉は唇の奥に突っ込んでいた歯ブラシを取り出した。口内をゆすぐために自身のコップを手にしようとして、その隣に仲良く並んでいるもう一つのコップが目に映る。今の家に引っ越す前に、同居人とともに新調したものだった。



 ちょうどいま目の前にあるしさあ、どうせなら引越しと同時に歯みがきコップも一新しようよセッちゃん。万が一、女を部屋に入れたときもこれで「なんだぁ彼女いるんじゃん」って誤解させられるもんねえ。ん、入れるわけないって?ふふ、嬉しいこと言ってくれるじゃん。……あ、そうそう。あとでクッションも見に行っていい?今うちにあるやつでもいいけど、もう一個、欲しいんだよね。そうだ、セッちゃんにも買ってあげる。あれね、すんごい気持ちいいんだよねえ。抱きしめるとさあ、よく眠れるの。えっ要らない?そういうの食わず嫌いならぬ使わず嫌いっていうんじゃないの。ねえ、いいでしょ。さっき、スマホの充電器コーナーに付き合ってあげたんだからさあ。それくらい、いいでしょ。ああ、そんでもって、テレビも見に行かないとねえ。うわ、改めて口に出すと、買わなきゃいけないものって大量にあるんだねえ。ぶっちゃけ面倒くさいけど、猛烈に眠いけど、まぁ、今日ぐらいは俺がんばるから、うちに帰ったらいっぱい褒めてね。こういうこと言うの柄じゃないけど、これから一緒に住むんだからさあ。ねえセッちゃん。あのねセッちゃん。セッちゃん。セッちゃん。セッちゃん。


 ふいに思い出す一つひとつの瞬間が鬱陶しい。別れられない女の典型みたいで、チョーうざい。泉はコップに入れた水を一気に含んで、排水溝に洗い落とした。




 洗面所を出ると、同居人はソファーの上でうつぶせに寝そべっていた。泉が投げ散らかした数々の被害者たちは、テーブルにまとめて拾い上げられていた。つい数分前まで笑い声が流れていたテレビは消灯していて、無色の静寂だけがふたりのあいだに漂っている。同居人の手にはリモコンが力なく握りしめられていた。


ちょっと。……そんなところで寝ないでくれる?」


 ソファーに歩み寄っても、同居人は微塵も反応しない。もしや、不貞腐れているのだろうか。再び湧き上がる憤りの波を抑え込むように、泉は親指を拳の中にしまい込む。『どうせ、こいつのことだから』と流してしまえば、それで済むことなのに。綺麗さっぱり、忘れてしまいたいのに。棘だらけの言葉たちが、意図せず音となって現れる。


……ねえ。……そこで寝るなって言ってんの。……歯磨きもとっとと済ませてくれないと困るわけ。俺、もう寝るんだから。……寝てるときにジャージャー水を流されたら、気になって寝られない」


 違う、そうじゃない。適切な言葉が他にもっとあるんじゃないのか。
 いや、そうだ。辛辣に突き放すべきなんじゃないのか。
 ふたりの自分が思考の内部でせめぎ合う。眉がゆがむ。口元がひきつる。鋭い切っ先となって、低い声がこぼれ落ちた。


……あのさあ。……俺の話、聞いてる?というか耳、ちゃんと機能してる?そもそも付いてんの?ねえ付いてないでしょ。しっかり付いてたら同じこと、何度も言わせないもんねえ。……あー、俺、あんたのそういうトコがマジでウザイしマジで大嫌いだなって再確認した。マジで無理。……むり。……本当、とっとと出て行ってほしいぐらいなんだけど。……この気持ち、あんたに」


 わかる?と言いかけて、その言葉は出てこなかった。そこで、同居人はようやく顔を上げた。とろんと垂れ下った赤い瞳が、泉を射抜く。嫌味の一つでも投げようとして、やはりそれも飛び出すことはなかった。喉がカラカラに渇いて、繰り出される音の一つひとつが徐々に干からびていく。眼孔の裏側が熱くなり、まるで全ての水分がそこに吸収されているかのようだった。

 情けない。全くもって情けない。世間的に見れば、恐らく自分は小さなことで声を荒げているのだろう。

 泉ちゃん、落ち着いて。そんな風にイライラしていたら、せっかくのキレイな顔にシワができちゃうわよぉ。―――嵐の台詞が記憶の扉を突き破り、脳髄のシアターで幾度も繰り返される。価値観の相違を気にも留めない鋼の器を持てたなら、たぶん生きることも楽なのだろうと思う。まさか、己に無いものを求めるようになるなんて。気に食わない相手にはとことん詰め寄って、刃だらけの言葉で制する。そのような瀬名泉という自分の存在に、たいそう自信を持っていたのに。自分以外の他人に合わせるなんて考えたことは、一度たりともなかったのに。瀬名泉という確固たる軸がぶれてしまったのは、きっと。同居人という存在を、朔間凛月という存在を。


………寝る」


 泉はひといき吐いて、踵を返した。七歩ほど進んだところで、背筋に重みが走った。グレーのスウェットに覆われた両腕が、泉の首筋を背後から包み込む。もはや振り返るまでもない。


………なに」
「ごめん」
「聞き飽きた」
「ごめん」
「だから聞き飽きたって何度も」
「ごめんねって言ってるの」


 ごめんねって言ってるの、とは何様だ。それが、ひとに謝る態度か。泉は”同居人”の―――凛月の両腕を引き剥がそうとして、逆に手首を掴まれる。そうして身体をひっくり返されて、改めて向き合う形となった。腰に手を回されて、ぐっと引き寄せられる。泉はたまらず顔を顰めた。


……何様のつもりなわけ」
「あんな顔させるつもりじゃなかった」


 凛月は表情ひとつ変えずに、泉の頬を片手でなぞる。思わず顔を背けると「ちゃんと目を見て話させて」と顎を掴まれた。泉は致し方なく目を細め、凛月と視線を絡ませる。


あのさ。……こういうこと言ったら、更に怒らせるだろうけど。……俺ね、正直、セッちゃんに注意されるたび、『いつものこと』だって、そんな風に、軽く考えてたの。だから、セッちゃんも、俺にああだこうだ注意することが『いつものこと』だって、お互いにおんなじこと思ってるって。要するに大したことないって、そう、考えてたんだけど」


 でも、ちょっと、違った。ちょっとっていうか、だいぶ。テキトーに考えすぎてた。―――凛月の眉間に皺が寄る。


「俺、他人に合わせるのがきらいだった。他人に合わせるのがきらいなヤツをきらいなヤツは、もっときらいだったし、なんなら、そんなヤツはどうでもいいとすら思うこともあった。ぶっちゃけ、他人なんて、どうでもよかった。わかってくれるひとだけ、わかってくれたら、それでいいと思ってた。んだけど」


 凛月の左手が泉の耳たぶをなぞる。泉は視線を床に投げた。凛月は構わず続けた。


「でも、セッちゃんに、『俺あんたのそういうトコがマジで大嫌い』とか、『本当、とっとと出て行ってほしい』とか。……そんなふうに言われたとき、なんか、よくわかんないけど、……ふつうに嫌だなって、思った。じぶんでじぶんにビックリした。他人にどう思われようが平気だったはずなのに」
……
「こういうことを言うの、あんまり得意じゃないんだけど。というか、俺のキャラじゃないし俺自身もドン引きしてるくらいなんだけど。とりあえず言わせて。……俺、自分が思ってる以上にセッちゃんのことが好きみたい」
……くまくん」
「だから、嫌いとか言わないで。俺を、ひとりにしないで」


 凛月の両手が輪郭に触れて、泉は視線を上げた。真っ直ぐな瞳孔に捉えられて、身動きが取れなくなる。いっそ突き放すことができたなら良かったのに、目の前の瞳から逃がれることができなかった。俺だって、自分が思ってる以上に、あんたのこと。認めたくないけれど、でも、やっぱり。


「ひとりにしないで、って。……自分本位すぎるでしょ。……今まで俺がどれだけストレス溜めてきたと思ってるわけ」
「セッちゃんがいやだって思うこと、できるだけ直すから」
”できるだけ”っていう保険を掛けてるところが、チョ~ムカつく」
「直すから」


 低音の声色と共に顔を近付けられる。泉は凛月の鎖骨を押し返して、「勝手にすれば?」とぶっきらぼうに返事した。決して絆されたわけでないけれど、この男に少しでも反省の色があるのなら。一緒に住み始める前の、「これから一緒に住むんだからさ」の意思が、未だに残っているのなら。


その言葉、俺は絶対に忘れないから」
……許してくれる?」
「ほんとに許すわけないでしょ。ただ、執行猶予をあげるだけ」
……うん。ありがと」
「だから、完全に許してるわけじゃないってば」
……ありがと」
……ふん」


 ほら、とっとと歯を磨いてきなよ。泉はいつもの調子で凛月の身体を引き離す。ところが、凛月にまた引き戻された。背に回った腕にしっかりと羽交い絞めにされたまま、泉は声を荒げる。


「ちょっと!まだ何かあるわけ!?」
「セッちゃん、あのね」


 凛月は泉の背中をトントン、と叩く。今度は急に何をしでかすつもりなのだろう。泉が怪訝そうにまぶたを歪めると、凛月はおもむろに笑った。


「俺が椅子の背もたれに掛けっぱなしにしてるジャケット、ハンガーに掛けてくれてありがと。脱ぎっぱなしにしてる靴、箱の中に入れてくれてありがと。洗い物、ぱぱっと片づけてくれてありがと」
それが何」
「当たり前のように思ってたけど。……遅くなっちゃったけど、お礼」
「はあ?今さらでしょ」
「うん。大遅刻」
「ばぁか。前世からやり直して」
「セッちゃんも一緒じゃなきゃ、やだ」
「俺を巻き添えにしないでくれる?」


 手の甲で凛月の額をコツン、と叩く。地味に痛いんですけど、と額を抱える凛月を、泉は鼻で笑った。そんなの俺の痛みに比べれば大したことないでしょ。我慢しなよ。―――うう、あう、と声にならない声で呻き続ける凛月を見て、泉は気が付けば、ふふ、とほくそ笑んでいた。数日ぶりに自然と零れた笑みだった。当たり前は当たり前ではないこと。それに気付かされるのは大抵なにかが起こったあとだ。どす黒い表情はいとも簡単に生み出すことができるのに。ごく普通に笑うことは存外、難しい。これから先、ずっと思い知らされるのだろう。この男と暮らす限りは。それでいて一緒にいようとしているのだから、全くもって可笑しな話だった。愚鈍にも程がありすぎて、失笑を禁じ得ない。

 くまくんのくせに笑わせる。この俺をこんな風にさせたこと、一生、許さないから。
 泉は凛月の胸倉を掴んで、唇を押し付けた。