逢禍学園の中にいつもと違うものがあったら、七億不思議だと思った方がいい。異変が起こったときに、比較的迅速に情報をもたらしてくれるブカツ道の副寮長の姿が今回はなかった。
ブライの中で情報共有などというのはないに等しかったが、あの先輩の言葉は信用できた。いや、いつまでも他のクラスを頼りにしているわけにも行かないだろう。
また何かが起こったというのは、さすがに学園内の雰囲気を見れば想像がついた。
学園の敷地内で七億不思議が多量発生するなんて、前代未聞。それが二度起こったのならば、三度目も当然あるだろう。
廊下に突っ立ってる標識を見つけても、平は今度こそ触れなかった。うっかり触ってみたくなるようなところはない。ただ襲いかかってこないかに注意を払い、足早に距離をとって日月を呼びに行くつもりだった。
踵を返す。
足が攣ったみたいな感覚があった。体が強張る。今まで正座していた人みたいに、よろよろとしながら遠ざかる。
壁に手をついて、なんとか教室に入った。そのはずだった。だが触れているのは壁でもなければ、ドアでもない。
手の中に円柱がある。金属の手触り。それは手汗で湿って、少しベタついて感じられた。
平は標識を支えに息をついている。
何が起こったのか、わからなかった。
気がついたら敵の目の前に。まさにそんな感じだ。流石に危機を感じて、ホイッスルを吹いた。日月が入れば何かあったと気づいてくれる。そうでなくても、近くにいる誰かが気づいてくれますように。あわよくば特待生か非常勤講師。
体に痺れが広がった。間違いない。七億不思議の影響下にいる。なんらかの攻撃を既に受けている。体が動かないのも、元の場所に戻ってきてしまったのも、それが原因に違いない。
思わず顔を上げる。
ただの標識ではない。読みにくいフォントで質問が書いてある。
一般人は七億不思議を知るべきか。
イエスかノーか。
なんでそんな難しいことを聞くんだ。
「俺には、決められないだろ」
視界が狭くなる。
何を求めている七億不思議なんだ。どうするのが、正しいんだ。何もわからない。
「ヘーキン!」
日月の声が、遠ざかりかけた意識を呼び戻した。
「どっちでもいい。とにかく答えろ」
わけがわからないまま、口を動かす。
「い、イエス! 知ってた方が、俺は助かったよ」
風を切る音。
標識の文字が消え、別の何かを形作ろうとしたが、その前にインクで塗りつぶされた。
動かないそれはストラックアウトの的当てと変わりない。
八割を塗りつぶされたあたりで、霧散して消えていった。同時に体の痺れも消える。後ろから駆け寄ってきた日月が、よろめいた平の方の肩を掴んで支える。
「どこも標識になってないよな。動くか?」
「動くけど……あれって、もしかして元人間?」
「いや……。どうだろ。もしかしたらそうなのかも。エリー党の人が情報を集めてる。詳しい話はそっちで聞こう」
二度あることは三度ある。
三度目の嵐の訪れは、不気味で無機的に校舎を覆わんとしていた。
今回の七億不思議の特徴は二者択一の質問を投げかけてくること。それに答えてからでないと祓うことはできない。それは日月もすでにわかっていた。
与えられた名前は心労選択。
ことの次第を説明してくれたのはエリー党の生徒で、品行方 正と名乗った。
肩書は——もしそれに意味があるとするならば——臨時対策本部第四支部長。偉いのか偉くないのかよくわからないが、学園長不在の学園で彼らなりになんとか事態に対処しているところなのだろう。
エリー党らしい冷静さで、彼は七億不思議の正体を説明してくれた。ブカツ道の副寮長 描上 翻。
生活の中で縁遠いはずの名前を知っていたのは、今までの事件で情報共有を担ってくれていたのが他ならぬ彼だったからだ。七億不思議のことを知っている彼もまた、特待生であったはずだ。
楽にしてやれと、つまりはそのなれ果ての七億不思議の息の根を止めろと言っているのだ。そう言い切るだけの冷静な心の強さが、彼には存在しているのだろう。
その姿を前にして、躊躇ってはいけない。躊躇った隙に目の前にした人間を侵蝕してくる性質を持っているから。それが元は人間の姿をしていたということも、今は意識しない方がいいだろう。
犠牲者を出す前に、楽にしてやった方がいい。頭で理解していることを、感情に飲み込ませるには、時間がかかる。だがその覚悟が必要なのは、平ではなく日月の方だ。
己のするべきことが何か、彼の方がずっとよく理解している。相手が人間だったかもしれないなんてことは、ドッ祓いを始めたとき最初に直面する問題だろう。
「行けるか、ヘーキン」
そう声をかけてきた日月は、やはり迷った風はなかった。
「俺は質問に答える」
「その隙に俺が祓う」
たとえ七億不思議が突きつけてこなくとも、決断はいつも目の前にある。相罠になることを決めたときも、そのあとも誰かに強制されたわけではない。
カラーボールは十分に用意してある。
幸いまだ校舎の中に標識化した人間はいない。見つけてしまったときどうしたらいいのかは、わからなかった。治ることを信じて、治療が得意な人に任せるより他ない。
頭の中で何度もシミュレーションを重ねる。自分もそうなるかもしれないと思うと足が竦むかもしれない。
最初の質問は、七億不思議と一般生徒の関係に関するものだった。どんなことを聞かれてきても、悩んだりしないように、正しさを考えないように答えを用意しておかなければならない。大切なのは、回答の正しさや倫理観ではなくて、即座に返事をするという部分だ。
やがて目の前に、標識が現れる。
「来た。迷うなよ」
描かれている文字を見る。
『胸派? 尻派?』
最初の質問と、温度感が違いすぎやしないか。
いや、聞かれていることはそもそも想像している通りの意味でいいのか。そうでなかったら、平はものすごく恥ずかしい人ということになる。その手の精神的ショックは、想像していなかった。
「尻!」
そんなことを大声で叫んでいいのか。だが隣で日月は堂々と声を上げている。迷っては駄目だ。正解なんてない。正直に。
「む、胸!」
どうにでもなれと、平も叫ぶ。
だが、カラーボールが飛んでこない。日月の方を振り向く。
目が会った。なるほどという顔で、平を見ている。
「祓えよ!」
「あ、ごめん」
カラーボールが投げつけられるが、撥水素材に水をぶつけたようにぼたぼたと表面を流れ落ちてしまう。標識に書かれている文字が変わっていた。二つ目の質問だ。インクは効果を発揮していないように見える。
質問に答えたら、祓うことができる。その原則は変わらないらしい。
『セクシー? キュート?』
この標識はこういうことしか聞いてこないんだろうか。個体差というか個人の趣味嗜好だろうか。少しだけ想像してしまった。
「キュート!」
日月は相変わらず澱みない。
「セクシー」
「本当は同い年が一番いい」
「いや、聞いてないって」
今度は間を置かず、カラーボールが飛ぶ。
インクで塗り込められた標識が霧散した。
「よし、次」
さっきのボールを投げる前の間は、一体なんだったのか。
問い詰めたいが、そんなことを話しているような状況でもない。質問内容のせいで、一度決めた覚悟に水を刺された気分にはなったが、温度感が違っても対応で着るということはわかった。
前回の七億不思議と違い、今回は被害者の姿も七億不思議の姿も見つけやすい。日常生活に使う道具の中に紛れているということもない。
それに祓うときも、なんとかしてくれるはずだと信じて、よくわからない場所に送り出さなくてもいい。無事を待っているだけという無力感に苛まれずに済むのは、精神衛生上よかった。
校内を周り、次の標識を見つけ出す。ブライの中で情報共有がされることはないから、七億不思議の捜索は足頼りだ。階段が多い校舎を順番に回っていく。
緊張を、ずっと保ち続けるのは難しい。現状維持が続くとどうしたって気が緩んでくる。
今回は被害が少なかったのかと油断しかけたあたりで、次を見つけた。
「まだ行けるよな?」
相対する前に、日月に声を掛ける。
親指を立てて答えた。
標識に近づき、描かれている文字を読む。
『野球は好き?』
今度はまともな質問だ。
廊下で性癖を叫ばずに済んだことに、胸を撫で下ろす。
「そんなの決まってんだろ」
日月が先に口を開く。
「別に苦手じゃないし、たまに見るから……好きかな」
平もそれに続いた。
カラーボールは飛んでこない。
「日月?」
振り返る。〝決まってんだろ〟のあと、言葉がない。
まだ彼は選択していない。
答えた後ならともかく、迷ったら標識になってしまう。
「祓わないと」
腕を掴む。視線を泳がせ、目を背ける。それでは駄目だ。答えないといけない。
どっちでもいいじゃん、と口に出かけた言葉を飲み込む。どちらでもいいことで人は迷わない。平にとっては、どちらでも胃いい。日月にとってはどうでも良くない。買ったばかりの平のグローブを手入れしていた後ろ姿を、知っている。
なんと言ったら、彼の迷いを祓うことができるのか、平にはわからなかった。
中庸で平均的。何事もほどほどに。そんな平の人生に、返事に迷うくらいに打ち込んだことなどない。
「胸を張れ!」
背筋を伸ばすような、張り詰めた声が背中を押した。
「人の心は二つの心に分けられるようなものではない。答えで汝がどちらかに決められるわけでもない。答えはただの祓いの手段でしかない。臆さず答えよ」
手のひらが力強く背を叩き、日月が一歩前に出た。平は二人の後ろに立つその人を見る。
長い髪に縁取られた高身長。平の方からは二食に塗り分けられた髪の毛の、黒い方だけが見えていた。七億不思議を前にしても怯むことはない。むしろ口元に余裕の笑みさえ浮かべている。
白い服には、戦闘の汚れはまだ一部も付いていなかった。
新屋敷 最高先輩だ。
日月は目を伏せ、拳を握りしめたあと毅然と顔を上げて答えた。
「好きだよ」
新屋敷の持っていた鞭が鋭く空を切る。カラーボールを投げるまでもなく、標識が叩き落とされ、七億不思議は程なく消滅した。
「あ、ありがとうございます」
日月がその存在感に気圧されながら頭を下げる。
初対面のときは平も気圧されたことを思い出した。
「うん? 悩みに足を止める後輩の姿が見えたのでな」
新屋敷は鷹揚に笑う。
「間に合ってよかった。標識化はしていないか?」
体をペタペタと触って確かめてみる。おかしなところはない。日月も大丈夫そうだ。
「大丈夫です」
「とにかく数が多いらしくてな。安全圏の確保が課題となっているらしい。汝らも困っている一般生徒がいたら、手を貸してやってくれ」
「はい」
「わかりました」
新屋敷が立ち去ったあと、日月が気まずそうに目を逸らした。
「ごめん」
「俺は別にいいよ。少し休む?」
「いや、平気。今度は迷わない」
「迷わない、よりは迷うかもって思っといた方が楽だよ。ほら新屋敷先輩も言ってたし、二つには分けられないことって、あるから」
「……そうだな。よし、行こう」
両頬をぱんと手のひらで叩き、顔を上げた日月はいつもの真っ直ぐに前を向く日月だった。
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