パンジー、ビオラ、ネモフィラ、スノーポール
……。
色とりどりの花の上をウィルの指が滑っていく。少年の背後から花壇を覗きこんでいたリューは「へぇー」と感嘆の声をあげた。初めて
ここに来たときウィルならいろいろ教えてくれそうだと思ったのはやっぱり正しかった。
すらすらと淀みなく答えていくウィルに相槌を打ちつつ、チューリップはさすがに知ってるよと気を取られていたリューは次の瞬間エッと聞き返すことになった。
「ちょっと待って。え
……ニチニチ、ニチニチニチ
……?」
「
ツルニチニチソウだよ。リュー、くりかえしすぎ!」
訝しげに唱えた呪文にウィルの笑顔が弾けた。薄紫色の花を眺めながらリューはその早口言葉のような名を口の中で繰り返した。ツルニチニチソウ。つる、にちにちそう
……。ひとまずは覚えたけれど一時間後には忘れてる気がする。
「ウィルは本当によく知ってるね。いや、詳しそうな気がするなぁとは思ってたんだけどさ」
姿勢を正すと花壇をざっと眺めた。明るい陽射しのもと、春の花々はふんわりと甘い香りを漂わせ、競うように咲き乱れている。立ち上がったウィルは膝を軽く払い、照れくさそうな笑みをこぼした。
「ツルニチニチソウは先週のクイズだったからね。その前がビオラ。あっ、ビオラはパンジーの小さいやつだよ」
「クイズ? クイズって、テレビの? どの番組の
……」
「ちがうよ全校集会だよ。校長先生がお話の最後に花のクイズを出すの。『門のそばに植えてある白いお花はなんでしょう?』って」
「全校集会! 懐かしいなぁ、そんなのあったね」
他愛ない会話をしながら歩を進める。エレベーターで三階に上がり、なるべく景色が視界に入らないよう意識しながらリューは〝我が家〟のドアを開けた。
ふわりと届いたのはコーヒーの香り。「ここ!?」と目を輝かせる少年にどうぞと入室を促す。
「こんにちは! おじゃましまーす!」
元気な挨拶の声に、廊下の先からアンがひょっこり顔を出した。
「いらっしゃい。待ってたよウィル」
「アン! 遊びに来たよ!」
脱いだ靴をきちんと並べ、早足でリビングに向かったウィルが早速賑やかな声を上げている。室内をぐるりと見渡し、真正面の掃き出し窓の外を窺い、隣接している和室を通り抜けてリビングに戻ってきた彼は「あっ」とリューに振り向いた。
「これ! リューのお家のコタツだよね!」
白い二人掛けソファの前に『いかにもセットです』というような貫禄
――セットと言い張るにはデザインがだいぶ
ちぐはぐではあるが
――でコタツが鎮座していた。卓上には甥っ子を歓迎するようにお菓子の盛られた皿がある。
アンが三人分の飲み物を運んできた。ウィルは我が物顔で水色のマグカップに手を伸ばす。この半年ですっかり〝ウィル専用〟になったカップだ。リューも愛用のマグカップを手に取った。中身はいつも通りリューとウィルがミルクティーで、アンがブラックコーヒー。三人揃ってひとくち飲むと、揃ってほうっと息をついた。
「
……お部屋はちがうのにコップもコタツもリューのだから、なんかリューのお家にいるみたいだね」
「俺も初めて来たときにおんなじことを思ったよ」
「コタツをあっちのお部屋に置いたら、もっとリューのお家っぽくなるんじゃない?」
「あー、そうかもしれないね」
和室を指さすウィルに同意を送り、長年お世話になったアパートに思いを馳せた。引越してきてそろそろ半月。まだそれだけしか経っていないようで、前の住処はもう遠い過去のことみたいだった。古き良き温かみがあったあの〝我が城〟も、築浅で爽やかなここの和室も、そういえば同じ四畳半か。ただしここは琉球畳とかいう真四角の畳なので雰囲気はちょっと違う。
コタツはともかく、とアンがコーヒーのカップを卓に下ろした。
「ちゃんとしたダイニングテーブルは欲しいわね。そろそろコタツの季節も終わりだし」
「アン、コタツは一年中使えるよ。布団を外せば普通の机になるんだよ」
「
ここはフローリングだもの、椅子に座りたいじゃない」
「それはそうかもしれないけど
……」
そりゃあ置けるものならコタツは和室に置きたいとリューも思う。コタツだってその方が落ち着くだろう。
思案げに息をつき、コタツの下に敷いてある白いラグマットを撫でた。これはアンが実家で使っていたものらしい。双方の家具を持ち寄っているのでひとまずは不都合なく生活できている。けれどアンはこの〝とりあえず感〟が大変不服らしかった。使えればなんでもいいリューとは大違いだ。
「リュー、今度の休みはいつ?」
「え、ええと
……いつだったかな。ちょっと待って
――」
「あっお買い物に行くの!? ぼくもいっしょに行きたい!」
「リューの休みに合わせるから多分平日になるよ。ウィルは学校でしょ?」
「アン、俺に合わせていいの? 俺が土日に休みを取った方が、ウィルも一緒に行けるんじゃないかなぁ」
「有給を消化しろって言われてるのよ。だから」
ああ、とリューは得心する。そういうことならウィルには悪いが今回は合わせてもらうことにしようか。
ごめんねと精一杯申し訳ない顔を作って断ると、ウィルは「わかった!」と聞き分けよく了承した。あまりににこにこと満面の笑みを見せている彼を前に、リューとアンは顔を見合わせた。
「
……ウィル、本当にわかってる? 今度の買い物はあたしたちだけで行くからね」
「わかってるよ。それよりアンとリューに聞きたいことあったんだ。ファル兄さんに聞いてきてってお願いされてたの、聞いてもいい?」
「うん? 何かな」
マグカップに口をつけながら話の続きを促す。
ウィルは背筋を伸ばし、あらたまった雰囲気でリューたちをまっすぐ見つめた。そうしてごく無邪気に時を止める呪文を使った。
「あのね、結婚式はいつやるの?」
盛大にミルクティーを噴き出した。
そして盛大に
噎せた。
一拍遅れてアンの悲鳴が上がり、それを耳にしつつもリューの咳は止められず
……。
汚した箇所を綺麗にしたあと、リューはアンとともに「結婚の予定はないこと」と「結婚しなくても一緒には住めること」を丁寧に説明する羽目になった。
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